入門について 7
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●特別昇級制度 1.入門して白帯のまま一ヶ年を経過し、然も無級者については、総本部道場の厳格な昇級指導を受け、色帯最下位の第四級に進級する事が出来きます。中には昇級しようと思いながらも、何かの都合で昇級のチャンスを失う人がいます。このような人達の為に、再度チャンスを与える制度です。 2.あるいは夏季合宿セミナー(8月11日〜15日)、特別講習会(春季5月、秋季11月)、大寒稽古(2月5日〜14日)の特別稽古に参加し、上位階級に進級する事が出来ます。特別に設けられたセミナーというのは、通常稽古とは異なった儀法を指導しています。この特異な儀法を習得した事に対しては、当然ながら、それ相当の評価がなされます。また飛級制度というものもあります。 3.その際の「飛級」に関する級位取得合計金額は、現在の進級級位に加算して支払うものとします。 ●昇級をして階級が上がると言う意味 昇級について、指導者から「昇級してはどうですか」と声を掛けられ、遠慮のつもりか、あるいは自分など、まだまだと辞退したり、指導者の声を無視してしまう人がいます。指導者は昇級しても良いと判断するのであるからこそ、声を掛けるのであって、その実力に満たない者に無闇に声を掛けるものではないのです。 もし、自分の習得段階が、自分で判断できるのであったら、指導者の指導は必要ではなく、また、指導者そのものも必要ではなく、自分で稽古をすれば勝手に上達して行くものです。ところがやはり、指導者は必要不可欠な存在です。 さて、指導者から「昇級してはどうですか」と声を掛けられた場合、どういうふうに判断したらよいのでしょうか。 声を掛けられて、辞退したり、あるいは無視するのは、卑下傲慢と言われる慢心の一種である事を弁えねばなりません。つまり慢心であり、自惚れた心の持ち主である事を自らが証明した事になり、人間的な未熟がそのような傲慢を、知らず知らずのうちに、無意識のうちに作っている事になります。いわゆる「へりくだったつもり」が、実は武術の礼法上から言うと、非礼であり、「道」に反した行為を無意識のうちに行っているという事になります。 また、入門して一年以上も経ったにもかかわらず、白帯の儘で、以降もその儘で稽古に参加する人がいますが、こうした人も、「武の道」の何たるかを全く解しない人です。自らの進歩を否定し、「自分」という一個の人間性を否定して、自分自身を粗末にしている人です。昨今はこういう手合いの人が増え「白帯の儘でいい、級位などいらぬ」と横柄に振る舞うという傾向があります。 そして更に自己否定の最たるものは、「昇級すれば、幾らかの昇級料金が掛る」という、商行為の経済感覚から、昇級する事は金銭的な無駄遣いと考える人がいます。 しかしこうした人は、無形の文化財的な価値観を持ち合わせない人であり、一方においては、自分の家族の為、自分自身の趣味の為に、大ローンを組んで車を買ったり、高級家電製品を買って、有形なものに浪費しているというのが実情です。 さて、ここでよく考えて見ましょう。 私達が物質的な豊かさを求め、「有形」と信じる価値観は、裏を返せば、他人から奪われる、実は実態のない物なのです。幾ら豪華な高級車を買っても、車輌窃盗団に襲われれば奪い取られますし、高性能の家電製品も空き巣狙いに狙われ取られれば、無慙(むざん)に奪い取られてしまいます。 ところが「無形」の、自分の裡側に備わった「技術」は、他人が奪おうとしても、奪う事ができません。いわゆる「有形」と「無形」の差が、ここにあります。 昇級をして、自らの級位が「上がる」という事は、日頃お世話になった先生や先輩達への謝恩の証です。自分の伎倆(ぎりょう)が、日頃の稽古と精進によって、少しずつ、微々ではありますが、進歩しているという事は、これまでの自分自身が精進した「心の証」となります。これを逆手にとって、「道場」という場を、一種の金儲けの商行為の、そこら辺にある商売に貪欲な商店と同一視する事は、大きな間違いと言えます。 道場という場は、金銭の遣り取りをする商行為の場ではなく、あくまで「儀法を教わり、それに対して謝礼の意味」で、謝恩の意味を込めて、それに「謙虚に応え、礼儀を尽くす」というのが本来の道場の姿であり、また、昇級試験においても、昇級する事によって、某かの金銭を払うという商行為の「儲けのシステム」を指すのではありません。この辺の礼儀に対する考え方が、長い間誤解され、「道場」イコール「商行為」という汚名を被せられてきました。しかしこうした誤解も濡れ衣であり、真剣に武術を志し、「道」を求める人ならば、ご理解頂けるものと信じます。 また、青少年の場合、その保護養育の任にある人(父母)は、お子さんが昇級試験に合格した場合、家庭内で簡単でも結構ですから祝膳を用意して、家族揃って合格祝をやる位の心遣いが欲しいものです。 |