西郷派大東流の儀法 5
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●大東流合気薙刀術
これが遣(つか)い始められたのは天慶の乱(938年)の頃であるといわれ、当初は「長太刀(なぎなた)」の字が用いられていた。しかし南北朝時代に入ると、四尺、五尺、七尺という長い刀が使用され、それらを「なぎなた」と称するようになった。 流派としての薙刀術は徳川時代に入ってからであり、主に以降、武門の婦女子に稽古される風潮が生まれた。しかし一方で、実戦薙刀として神道流、新当流、天道流(天流)、根岸流、武甲流、東軍流、米田流、水鴎流、鈴ヶ流、静流、三和流、富樫流、留多流、穴澤流、常山流、柳剛流、先意流、直心影流、巴流、疋田流、念流などにも剣術を主体とした薙刀術ができ上がっていた。 薙刀と槍を武器の上から比較すると、薙刀は切落しや薙払いを目的とした武器で、また、槍は「しごき」の技術を以て「突く」という事が目的であり、槍の柄の断面は円であるが、薙刀の場合は楕円である。 |
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▲薙刀の刀身(無名)
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▲梨地蒔絵薙刀外装
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これは刀の柄と同じく、刃のある方を手許で察知する為、斬り込んだ際の、手の茶巾絞りを良くする為に工夫された武器である。 さて、薙刀の深遠な技術は、総て半身で構える事が基本になっており、左半身で構えるというのが薙刀術の特徴であるが、西郷派大東流はこれに創意工夫を加え、最初から右半身で構える形もある。 そしてこの薙刀の形を「法形(ほうぎょう)」という。 薙刀術は槍術や棒術と同様、躰は半身に構え、足は鐘木足に開くのを玄理(げんり)とする。 法形は各流派によって異なるが、古流の形は流派の流祖が、その体験と、創意工夫によって構築したものであり、流派ごとに各々特徴を持っている。 形の稽古をすれば、それを反復することによって躰の熟しや動作が機敏になり、正しい姿勢を維持する事が出来、更には「打ち」「突き」の機会・汐時(しおどき)が瞭(あきらか)になり、間合を知り、呼吸を悟る事が出来る。 そして薙刀は振り降ろした際、その斬りつけるエネルギーが最大値を出すように斬りつける事が肝腎であり、柄の握りにどの部分が回転の中心を作るか、それを熟知する必要があのである。 ●秘伝の玄理 したがって秘伝は大衆化される事なく、秘密が秘密として陰に隠され、その全貌は決して明かされる事はなかった。此処に「秘伝」の「秘伝」たる所以(ゆえん)がある。 現在、普及している多くのスポーツ武道を見てみると、大衆化路線をひたすら走り、競技的にスポーツ化し、観戦客を意識して、アメリカナイズする事を普及の第一の目的とし、次に老若男女にも親しめるものというイメージを前面に強く打ち出し、その宣伝に余念がないようである。 ここに古来より秘密情報として伝承された、日本武術の「秘伝」の崩壊の一面がある。 誰にも親しめ、スポーツ的にゲームを楽しんだり、アメリカナイズされて、お揃のユニホームでファッショナブルに統一された運動着や道衣を着る事は、一見スマートであり、最も大衆が好むファッションであるが、その武技一つ一つを見た場合、その技術構成はスピードと筋力に頼り、体力で押し捲って基本のぶつけ合いに終始し、最短距離を通る直線の運動軌跡をとるスポーツ的な武道が殆どとなってしまった。 そして戦前の、あるいは昭和の初期までには恐らく存在していたであろうと思われる、本当の意味での「秘伝」が消え去ってしまった観が否めない。 だが、今日それを振り返ると、「秘伝」はアメリカナイズの変貌の裏側で消滅し、そして名目上「秘伝」と云う言葉は、表向きには使われてはいるが、本当の意味では、最早死語に近い状態になってしまっている。 したがって、「小が大を倒す」という秘法が無くなり、専(もっぱ)ら手の早い者が、遅い者を叩き、力のある者が、力なき者を倒しているだけの事であり、柔道の専売特許のように盛んに使われた「柔能剛を制す」の言葉も、今日では死語同然になっている。 ある意味で一般公開は、多くの研究者から研究され、暴かれる運命を辿るのは必然的である。研究され、詳細な部分まで暴かれてしまえば、それは相手に「封じ手」を研究される事となり、秘密情報として隠されていたものが広く知られてしまうという実情を招いたのである。だがこれで秘密情報が全部出揃った分けではない。 「密」なる秘密情報は、その複雑さから簡化された為、その要締(真諦)を外してしまい、「要」の部分を放棄したという形になった。つまり総てが俗諦(表向きの方便)になってしまい、おその奥儀として存在した呼吸法や、修練に必要な行法を無視したという訳である。この結果、武道は武術に非常によく類似しているが、その根本は全く異質のものである。 |
1. | 武術は、健康法として有効な体躯を造る。即ち、中肉中背の中庸を体躯の基本とする。また武術そのものには、正しい呼吸法が存在する。従って古来より武術家は長寿である。 |
2. | それに反して武道は、運動の術理が直線的な運動軌跡を通り、これを強化する為には、スポーツと同様にスピードと筋力養成が急務であり、力と力のぶつけ合いとなる。また、その運動線が最短距離を通る為、軌跡が迂回を描く螺旋的な動きをする事がなく、更に付け加えるならば呼吸が浅く、心臓に多くの負担を掛け心臓肥大を招き、熱心に遣れば遣る程、健康を害する。 |
3. | この事はスポーツ武道選手が度々故障しているのを見れば一目瞭然である。また、呼吸法に大きな誤りがある為、腰、膝、足首、手首、肘、肩、頸、脳の毛細血管切断等の故障が多く、老化を早め、短命に終わる結果を招く。 |
この両者の違いは、一つは武道が基本技と基本技のぶつけ合いになっているのに対し、武術は基本技の重視より、「秘伝」に則った秘術の技法を使う為、力以外で相手と戦う事になる。武道がスポーツ競技のように大量に汗をかき、その発汗が大量のナトリウム放出となり、躰を弱め、短命で終わる人生を余儀なくするのである。 これに対し、武術は汗をかく事が殆どなく、相手の力を「秘伝」という術と、霊的な一面を含めた、技法で相手を制する事を目的にしている為、此処に両者の次元の違いが生ずる。 また、武道の術理は、一対一の相対的なスポーツ平面の二次元的な、直線の術理の上に成り立ち、年齢別・階級別の西洋スポーツ的な模倣が必要となる。これは若い間(うち)が華(はな)であり、そして「口伝」や「秘伝」というものが存在しない。 だが「武」の原点に振り返れば、「戦い」はそういうものでなかった。 日々の精進が必要であり、武術の日常性は、一日一日を常に実戦の場、あるいは修行の場と考え、武術家としての「勘」を養い、霊的神性を養う事を目的にして来た。そこには霊的な力と、先人の培った「智恵」や「口伝」が存し、素手以外に諸々の武具を使う為に、総合的な武技を会得する事が出来きた。 また立体的、あるいは空間的であり、三次元以上の術理で構築されていた。此処にスポーツとは次元が違う世界が存在していたのである。 さて、「秘伝」とは如何なるものか。 この問に、時代を超えた「強さ」の秘密が隠されている。 欧米流スポーツのトレーニング形式を模倣した武道は、何度も繰り返すが、スピードと筋力の養成が中心であり、これは師から教わるというより、自らの努力と根性で筋肉を鍛え、スピードを養っていく為、持って生まれた天性の反射神経や運動神経が必要であり、修練の中心は反復練習がその大半を占めている。 逆に武術の「秘伝」は、自らの努力と反復練習だけでは、如何ともし難いのである。 詳細な面を「口伝」という形式で、師より一つ一つ具体的に教えて貰わなければならなし、自分一人で難解な技に取組み、それを研究するという訳にはいかないのである。知らなければ、何も解らないとうのが「秘伝」である。 また、「秘伝」と称されるものの中には、先人の「智恵」が凝縮されており、長い年月をかけて完成したものであるから、絶対に「教わらなければ理解出来ない」構造になっている。此処に「秘術の妙」があり、先人の智恵と、武技の合理性が宿っているのである。 また、武術で謂う「秘伝」は、同時に多くの危険な業(=技)があり、これを伝授する場合、師は弟子の人間性を問題にする。これが一子相伝の由来である。 日本人は、常にその歴史の起源から、何事も情緒に動くという民族であり、感傷的になり易く、この事は欧米人に侮られ易い一面を持っている。そして日本人の情緒感は、明治維新以降、外国人に旨く利用され、それによって歴史が作り換えられて来た。 精神的にも、思想的にも欧米の、そのような世相誘導で歴史が築かれたのである。今日でもその延長上にある。何か一つの事がブームになると、誰でも一斉にそれに殺到し、収拾がつかなくなる事態を招いて来たという過去を振り返れば、頷ける話である。 昨今のゴルフブームもそれであるし、また以前にも「ブルース・リーの映画」が巷間で爆発的に大ヒットした時、猫も杓子も、老いも若きも、空手道場や少林寺拳法の道院に詰め掛けた。何処の空手道場も、道院もこの時は、道場創立以来の空前の盛況となった。 過去を振り返れば、ゴルフもボーリングも、総て大衆化し過ぎて駄目になり、本当の愛好者の手から離れて行った観がある。古武道や古武術と謂われたものも然りである。 そして、いつの間にか、本当のものを見落とす現実を招いた。しかし本物は、殊に、日本特有の家元制度、宗家制度は、流行の狂騒状態を鎮め、競技人口、あるいはその修行者の数を適正数に保ち、更にこれ等の情報の反応測定するシステムを有していた。 秀吉が天上人に登り詰め、太閤となって大坂城に君臨した時、大茶会を催し、それが評判となって、武士から乞食まで、一万人もの群衆が詰めかけたという。こうなると茶道を真に愛好する者は茶道から離れ、それらの愛好者を再び呼び戻す為には、家元制度を発足させる以外手はなくなってくる。 江戸期の剣術でも同じ事で、殊に幕末近くになると、百姓や町人が道場通いをはじめ、これが流行して大ブームになった。挙句の果てに、百姓や町人が二本指で武士を気取り、俄侍が誕生した。豪農や豪商の中には、武家の家督を金で買う者すら現われた。俄に、こうなると、柳生流をはじめとする古来より伝承された由緒ある流派は、これらの町道場と対抗する為に、門弟を厳しく制限し、有能な人物のみにしか入門許可を許さなくなった。 今風に謂えば、メンバーズ会員制度であり、差別化した訳である。向こうは大衆向きの同好会クラブだが、こちらは真の愛好者の為の会員制クラブであり、それだけに課される責任も資格も、そして修行の程度も厳格で、更に技術も高度であるという事をはっきり宣言したのである。本来古流武術の良さは、此処にあるといってもよい。 したがって此処にはじめて「奥伝」や「秘伝」の伝承形式が生まれ、秘密情報は「秘密」にするという、情報公開の不可が生まれたのである。 今日は俄侍(にかわざむらい)が横行し、猫も杓子(しゃくし)もそれなりのスポーツ経験、武道経験を持った者が少なくない。しかし概ねは、一般的に大衆化された競技武道に手を染め、その事で総てが理解したように錯覚し、いっぱしの武道家を自称する者が少なくないようだ。その為に大きな誤りを冒している者も少なくない。 |