西郷派大東流の儀法 6



●戈を止める本当の意味

 武術と言えば、何処となく野蛮を感じ、これを「人殺しの術」と称せば眉をしかめ、悍しい泥臭い戦の為の兵法といった表現をする近代武道家達を一概に否定しない。

 だが、「人殺しの術」が何故歴史に登場したか、その人を殺す為のメカニズムはどのように構築されたか、またこの殺す事を前提に置いた死生観は何故、密教や古神道と結びついて、やがてそれが倫理観に発展していったか、これらの論を、そういう近代武道家と称する人達から一度も聞いた事がない。
 歴史は繰り返すという。歴史は繰り返す事実があるからこそ、これを引き継ぐ次世代は古人の武術研究を愚弄(ぐろう)してはならない。

 今日、誤った武道論が展開されている。
 強い者、試合に勝った者だけが英雄として罷(まか)り通るタレントの世界が展開されている。これは非常に残念な事である。また、これらのタレント指向が次世代を自らの生き態(ざま)の感情の発露として利用する悪しき体験主義を裏で操り、スポーツ組織化の坩堝に閉じ込めて、興行的な企てを目論んで利権争いに奔走する輩が存在する事も併せて、残念といわねばならない。これは試合場が、かつては河原乞食(かわらこじき)といわれた芸能人のステージに替わり、試合が興行となり、試合に出場する競技武道選手が芸能人化した為である。

 これは大相撲の世界を見れば一目瞭然であろう。大相撲は観客なしには成立しない。これはどちらかというと芸能の世界のものである。論じられるのは、強弱であり、弱い力士は次々に淘汰され、弱くて客に人気のない力士は、この世界では終始陽の目は見られない。
 したがって人格は問題にされず、強いか、弱いかだけが問題になる。

 また、こうした興行に左右される武技は、喩(たと)え、武道や武術を模倣していても、中味はタレントのそれであり、決して「戈を止める」というものではない。いわば娯楽の一種である。

 勉学するべきに時機に勉学を怠り、無教養の儘、ハードな肉体的な反復トレーニングに明け暮れ、自らの肉体を酷使して「人間を知らない」「世の中を知らない」「歴史を知らない」そして教養が無いという近代スポーツ選手像の危惧は、半世紀程前の日本軍閥がやらかした、あの軍人特有の愚行や人間的な片輪に、何処か類似しているのではなかろうか。

 先の大戦の戦中・戦後を通じて、日本国民の上に降り懸かった悲劇は、実に「軍人の無教養」にあった。
 その結果、政治を誤り、外交を誤り、国を誤る結果を招いた。日本軍人の無教養な政策の選択肢が現実に惨状を招いたのは紛れもない事実であった。そして彼等は軍人でありながら、戦争すらも知らなかったのである。

 武術や武道観を、ただの肉体感覚で語るのではなく、理性や知性を以て「戈を止める」体験を語り継ぐ事は、教訓を学ぶという点で、歴史や伝統、文化や倫理に反映する筈であり、その反映を次世代の者は鏡としながら良質な部分の研究を怠ってはならないと考える。
 つまり貴族的な、上級武士的な立場に立って、真の奉仕精神を発揮し、高い教養の上に立脚しなければならないという事である。これが内外に亘る常識を備える事であり、武士道の持つ潔さを、広い視野と豊かな教養で体得して行かなければならないのである。

 おおよそ武術、あるいは兵法と謂(い)われるものは「人殺しの術」である。
 人を殺すのにはそれなりの道理があり、理屈があり、動機があって可然である。殺伐とした恐持ての輩(やから)の専売特許ではないのである。

 「人殺しの術」の、殺伐とした部分を取り除き、安全面だけをいいとこ取りしてスポーツ化し、ゲーム化して競う事は、人の生命を安易に弄(もてあそ)ぶ事であり、その思い上がりだけが傲慢を究める事になる。
 武術に於ける兵法の謂う、「兵」とは「凶器」であり、それだからこそこれを用いる事は高度な倫理的な判断が必要とされ、出来る事ならば、常に武術は「戈を止める」為にしか用いるべきでないと考えるのである。