次は咀嚼法について述べて見ましょう。
過食は、胃腸に負担を与えるばかりではなく、体型を肥満(陽)に変え、運勢を弱めて悪い事ばかりをたぐり寄せる要因をつくります。
したがって陰陽の拮抗を保つ事が肝腎です。
例えば、陽の極めつけは、肥満症(肉や乳製品の高蛋白高脂肪の取り過ぎから起こる陽体質の脂肪過多病)であり、陰の極めつけは拒食症(思春期の強度な痩せ願望から起こる肥満嫌悪で神経性食思不振)であり、これらは肉体的な悪影響を与えるばかりではなく、精神的にも悪影響を与えます。
両者は陰と陽で相反するように見えますが、両者はその共通性が、陰陽の同一線上にあり、双方を周期的に行き来するという行動を示すのが、その特長です。
作用と反作用は三次元顕界の、人間の肉体の要求に応じて、心もそれに隨って働きます。
陰に偏れば、そのリバウンド現象として陽に傾きます。したがって、こうしたリバウンドの災いに悩まされることなく、これを安定させなければなりません。
つまり、自分を「律する」ということになります。
さて、空腹を感じて過食に走り、一旦肥満に陥れば、一気に食思不振へと走ります。
では何故このような行動をとるかというと、要するに、本来の食事の量と、噛む回数に問題があるのであのです。
両者とも噛む回数が極めて少なく、丸呑み(くん呑み)状態で食事を行っているのが実情です。即ち、噛むことの「食餌法」が根本的に誤っていることをさします。
さて、「噛む」という事について考えてみることにしましょう。
人間をはじめとする他の哺乳動物は、食する時、「噛む」という動作を行います。
噛む事は、歯茎の圧力を強め、丈夫な歯茎を育成するばかりでなく、脳に快い刺激を与えます。
特に、能(よ)く噛めば、それだけ脳に刺激が伝わり、噛む回数を減らせば、脳への刺激は逆に少なくなります。脳への刺激が少なくなれば、当然の如く、脳は退化し、思考能力は低下していきます。
このことを、植物人間になった老人の例で上げれば一目瞭然です。
ある病院の老人病棟に、寝たっきりの生活を、八年間も続けた植物人間になった老人がいました。
来る日も来る日も、一日三回、朝昼晩、口から流動食を流され、僅かに生命を維持していました。
しかしやがてこと切れて、八年後に死亡しました。この老人を解剖してみたところ、噛む事をやめてしまった為、脳の容積は赤ん坊の二分の一になっていたと言います。
この老人の八年間の空白は、かくも人間を、ここまで退化させ続けたのです。この老人の噛まない生きる屍(しかばね)の空白期間は、ただ脳を退化させ続ける繰り返しであったということが分かります。
では食餌(食事の仕方)について述べることにしましよう。
これは口の中に食物を入れる時の作法であることを前提に起きます。
まず第一に、ご飯(この際出来れば玄米か麦飯)を一箸(ひとはし)入れたら、一旦箸を、起き必ず少なくとも、五十回位は噛むようにします。(本来玄米は百回、玄米粥や麦ならば五十回が理想的です。また玄米は白米と違って、いくら噛んでも澱粉状になったりしません)
大切なことは、食べ物が完全にと解けるまで能く噛むということです。噛まずに「くん呑み」は、とにかく食べ物の味を知らずに損をするばかりでなく、内臓を傷めます。
第二に、ご飯と御数(おかず)を口に含む量は「3:1」にし、ご飯3に対し、御数1の割合で交互に食べます。注意すべき事は、ご飯と御数を同時に口の中に入れて、混ぜ合わせないことです。ご飯を呑み込んだ後に、御数を別個に食べるようにします。
これによって消化を助け、同時にそれぞれの自然の本来の持ち味が分かるという両得が得られます。
何故ならば、玄米は玄米の中、豆は豆の中に、その食物本然の真味が存在するからである。
現代人の多くは、ただ舌触りだけを楽しみ、味だけを満喫して、大量に食するという、飽食の時代の余韻を引きずっていますが、これは後で、必ず自分自身の災いになって跳ね返ってきます。成人三大病は、これをよく物語っています。
第三に、食事の量は従来(昨日までの)の半分に減らすこと。食事の量が減った分だけ、噛む回数が多くなり、食事時間を十分に設けるということです。短い時間に大量にかき込むと言うのは、愚かな早食い競争の世界のことです。これによって現代人は、様々な難病・奇病を招きました。食の慎みを忘れた報いです。
この報いが、一億総中流と自称する日本人を襲っているのです。食は、慎みを忘れて、乱してはなりません。
本来ならば二膳食べる食事時間を、一膳の時間で達成出来るのです。これは食糧の節約にもなります。
さて、これらを食するに当たり、調味料には十分に注意を払い、出来れば極力薄味にして、砂糖、油、ソース、マヨネーズ、ケチャップ、ドレッシングなどの合成着色料や化学調味料などは是非避けるようにしたいものです。
今日では化学調味料のことを、「うま味調味料」と称し、昆布・鰹節などの天然の旨み成分を化学的に、または酵素を用いて処理して得た調味料が食品店に出回り、また、それらの2〜3種を混合したものが食生活に欠かせないものになりましたが、この主成分は、グルタミン酸ナトリウム・イノシン酸ナトリウム・グアニル酸ナトリウムの類で、人体には非常に有害です。毎日の使う料は微量でも、これを十年も使用しますと、必ず人体に食傷が現われます。多くはガンとしての食傷です。
化学調味料は、人体の生理機能を狂わせる最たるものです。加工食品やインスタント食品の中には、こうしたものが不自然に使用され、「無添加」と表示していますが、要注意の食品であることは疑う余地もありません。
第四に、「噛めば噛むほど火水(神)になる」理論を考えて見ましょう。
東洋思想の中には、食養道として、「噛めば噛むほど火水(神)になる」という思想があります。上顎を「火」、下顎を「水」として、両方を噛み合わせれば「火水」となり、やがては「神」となる、特異な神霊思想です。この思想は、「よく噛む」ということが中心課題になっており、霊的にも、頭脳に血液を循環させ、宇宙意識を開発させるにも、これが最も良いとした実践法です。そしてこれを玄米菜食に適応させよ、と教えます。
玄米菜食の食餌の特長は、噛んでさえいれば自然に喉元を落ちていくものです。
何故ならば、人間は本来草食動物の食餌様相を呈しているからです。
これは馬や牛、その他の草食動物の中に、噛まずに呑み込むものがいないということからも分かります。
八門遁甲の『八門兵法人相学』に照らし合わせても、水野南北の『南北相法修身録』に照らし合わせても、「人の顔」は、食餌法の極め方如何で、それが変化し、意図も簡単に形態が変わってしまうという事を力説しています。
その人の食事の仕方を読めば、その人の人相までが読め、その人相を読めば、その人の思考まで読み取れてしまうものなのです。
これは三国志で有名な水鏡先生こと・司馬懿(しばき)は、諸葛亮孔明の異能ぶりを即座に見抜く見識を持っていましたが、その人相の見分けに「米噛(こめかみ)の発達」を見抜いたのでした。食べ物を良く噛んで食べる人は、当然の事ながら米噛の筋肉が発達します。米噛の部分には「海綿静脈洞」(かいめんじょうみゃくどう)があり、直ぐその下の顎の噛み合わせ部分には「翼突筋静脈叢」(よくとっきんじょうみゃくそう)があります。ここに流れる血液は噛むことによって、脳を循環し、心臓に戻る静脈があり、「噛む」という食餌の作業においてのみ、脳を働かせる原動力エネルギーを作り出しています。
脳については、第三の心臓といわれる箇所であり、古い血をかき出すことによって、新鮮な血液が流れ込むようになっています。
歯科医師・松平邦夫氏の著書『歯の弱い子は頭も弱い』(祥伝社)には、この実際例として、「偶然に得られたデータがあります。それは植物人間として八年間も眠り続けたあと、死んだ人の話です。解剖の結果、脳の重さは正常の人の半分しかなかったというのです。正常の人の脳は約1400グラムですが、この半分といえば700グラム。これは生後一ヵ月目の赤ちゃんの脳より軽いのです。噛むことなく、脳を動かすこともなく過ぎ去った八年間に、脳細胞はそれほどまでにやせ細ったということです」と、挙げています。
勿論、噛まなかったことだけがその原因ではありませんが、脳に対して何らなの大きな影響を「噛む」という哺乳動物の行為が「刺激を与える」ということは間違いないようです。
したがって早食いや、これに準ずる大食漢は、それほど頭脳明晰という人は殆どいないようです。
八門遁甲で言うところの、「賢者は小食であり、愚者は大食である。
またよく噛む者は法令が発達し、食録と福録に恵まれ、コメカミは程よく隆起して人としての品位を作り上げる」という「相術」の真髄に迫ります。それほど「噛む」という事が、脳とつながり、重要視されているのです。
ですから、食餌(食事)一つで、その人のこれまでの人生までが読み取れてしまうのです。
更に、家庭、境遇、親の躾、環境、親の思考力、教養、、思想までが一目瞭然となります。「お里が知れる」という、この言葉は、実はこうした家庭環境の中に置かれた境遇が、これを形成するのであって、裕福か貧乏かということは別にして、こうした人間の起居振る舞いはこうした環境の中で育まれてきたのです。
裕福な家庭でも、親が成金で一代を作ったような拝金主義家庭では、子供も意外に甘やかされ、「金さえ出せば」という思考が先行しますから、こうした家庭の子弟は思ったほど人間的には優れておらず、また、過保護家庭においても、母親の過保護で育てられて、精神的畸形の面が多く、人間的には我が儘です。
昨今は、驚くことに成人になっても、「箸が使えないという生年男女」がおり、日本人もここまで、日本贔屓(ひいき)の外国人以下の人種に成り下がったのかという、反芻が走ります。
現代のように、金さえ出せば、おいしいものが沢山食べられ、グルメを気取り、珍味に舌打ちをして、飽食に明け暮れる生活を理詰めで言えば、一見幸福のように見えますが、実は不幸な生活を送っていて、哀れな残像をいつまでも追い求めているといった愚かな現実に、再び回帰します。いつまでも、同じところをぐるぐると回り、全く向上並びに、進化していないという状態です。 |
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