●ストレスの元凶を作る明日への不安
地球外の、人工衛星のような目線から地球を眺(なが)めて、そこに起っている地球の現状が、戦争であったり、大気汚染であったり、異常気象であったり、海洋汚染であったりの実情を見た場合、地球を眺めるその距離は遠いものであるにもかかわらず、地球上で繰り広げられる人間の蛮行は、まさに修羅(しゅら)や餓鬼(がき)の世界を視ていることになるであろう。
この人間と言う愚かな生き物は、いま地球破壊に熱中している動物である。この人間の有り様を、未来に向けて遠望すれば、本当にこれから先、どうなっていくのであろうかと疑わしくもなろう。
人間は愚かでないようで、案外愚かな生き物であるかも知れない。
何故ならば、人類は二十世紀に二つもの大戦を体験し、この体験を貴重な教訓として全く生かしていないからである。更にその上に、三次大戦でも、四次大戦でもの世界戦争が何回もできるほど、多くの武器を所有しているからである。
二十世紀は世界を挙げて大戦を体験し、太平洋戦争で敗れた日本は、敗戦の惨禍(さんか)に悩み、ひたすら武器を遠ざけ、黙示的時代を経験した民族は、世界でも日本を除いて他にはあるまい。
また大勢鳰とびとは、これからの世界は、これまでの平和が更に続くと思うほど、楽天家ではあるまい。心中には、世界は一体どうなって行くのだろうかという懸念(けねん)がある筈(はず)である。人各々に未来や明日の事に対し、歴史は如何なる記録を作ろうとしているのか、それを知りたがる人は、決して少なくないであろう。
例えば、株式の投機家や穀物先物の相場師ならば、明日の株式相場はどうなるのか、先物取引はどうした変化を齎(もたら)すのか、また自己責任の時代において、銀行預金は今から先も破綻(はたん)する事なく健在なのか、こうした未来予測の見通しを、何かの手立てで、傾聴すべき黙示を求めているのである。それ故に、現代人は「適応反応」の呪縛(じゅばく)から逃れられない状態にある。
そしてこうした解釈に加え、迷える人々を安心立命に導くのは、これまでは宗教がその役を担って来た。また多くの人々も、宗教こそ、その役を担うに最も相応しい媒体と信じて来た。
ところが、今日では、こうした考え方が廃(すた)れてしまった。現代人ほど無神論者は、歴史のどの時代にも顕れた事がないからである。更に、こうした無神論者の増加により、これまでの既成宗教、伝統的宗教、正統派宗教は、神社仏閣の建物こそ残っているが、その中心は「教義」であり、遂に、現代人に対して、説得力を持たない抽象物に成り下がっている。
これまで生き長らえた既成宗教も、伝統的宗教も、正統派宗教も、安心立命の要素ではなくなり始めている。また庶民の切なる願いを、一向に聞き及ぼうとはしない。応じる気配すらもなく、精神も、情熱も、力量もなさそうである。
こうした間隙(かんげき)を縫って、これまでの知識階級的宗教家の暗黙に乗じ、古代的な、自称霊能者と称する連中が擡頭(たいとう)し、「予言」の言葉をもって神霊宗教なるものを立ち上げ、教祖自らを神の現れとして崇(あが)める新興宗教が出現した。この手の宗教を信仰し、その教祖の入れ上げて聴従する信者も、あながち無知蒙昧(むちもうまい)な無教養人とは限らない。それなりの知識を持ち、唯物論に凝り固まった大勢の無神論者よりも、遥かに高い知識力を持っている人もいる。
フランス系スイス人の哲学者アミエル(Henri Frederic Amiel/深い省察に満ちた、三十余年にわたるその著書『日記』で有名。1821〜1881)は、その著書『日記』の中で、次のように論じている。
「理性と思想も、筋肉や神経と同じように疲労する。これ等も疲労から解かれる為に、睡眠を要する。そして、この睡眠こそ、子供時代の習慣に、人間普通の希望に還る事なのである」と。
現代人こそ、筋肉や神経ばかりでなく、理性も知性も大きく疲弊(ひへい)している。また、現代日本人に、戦後教育の中で押し付けられた平和教育や平等教育は、これほど刺々(とげとげ)しいものはなかった。そして日教組の教師から押し付けられた唯物史観は、科学でない社会科学を科学と信じ込まされる事で、本来の価値観が破壊され、思想が180度変更され、理性の疲弊と共に、老朽化して歪(ゆが)み、頽(くず)れたのである。
こうして時代の波に流された「団塊の世代」は、いま疲れをとる為の温かい睡眠を求めている。
この世代こそ、曾て少年時代には在(あ)った、子供の純粋な魂、また悪を憎む「月光仮面」のような正義の使者の出現、そしてこうした中から、普通一般人の普遍的な希望を回復したいと願っているのである。
ところが、現代社会の時代の流れの、渦の早さは速く、それに加速度がついて、この渦から逃れる事は容易ではない。その上に、この「渦」には、我欲、憎悪、忿怒(ふんぬ)、詐欺、家庭不和、告訴、離婚問題、リストラ、権力闘争、戦争、交通事故、自然災害などの不幸現象が絡み付き、一層呪わしいものに繋(つな)がって、今ではすっかり悪夢化した。
そして、こうした悪夢は、いったい何世紀の凶事が再現されているのだろうかと、歴史を振り返ってみても、「現代」という時代は、歴史の中で、どの時代にも該当するものがない事に気付かされる。
こうした実情を思うにつけ、人々は何故もっと兄弟的な関係を親密にし、諸国民同士は友達になり、人種と云う垣根を越えて、もっと理解し合い、弱き者には救いの手を差し伸べ、自他共栄の愛する想念をもって信じ合えないのだろうかと、此処までの思考に、誰もが帰着しないのだろうか。
また、自国の主張や考え方や文化を、他国に、強制的に押し付けるのではなく、各々の国民が、人格と品格を保ち、精神的に心が豊かになる立命安心の願いを抱かないのだろうか。
あるいは、あらゆる研究や工夫、努力や精進が、我欲や嫉妬から起る競争原理で働くのでなく、愛する想念と、道義的発奮(はっぷん)から、自他共栄が臨めないものだろうか。
現代人は、いつまでも荒(すさ)んだ心を持ち、好戦的に、競争原理の中で墮落生活を繰り返し、有頂天になって、自ら自爆して滅んで行く事もあるまい。
突き詰めれば、結局イデオロギーも、科学も、文明も、何もかも、やがては恐ろしい破滅へと向かうのである。この要因を持つ因子が、つまり「ストレス」を派生させる「OR反応」であり、「適応反応」なのである。
現代人は、加速度を増す渦の流れに流されていて、「ストレス」により、自ら自爆して行く運命にある。
幾ら、自分をエリートと自称していても、高速的に変化する現代社会にあっては、高給を貰っているからといって、他に差をつけた事にはなるまい。年俸が高額の分だけ、代償を払わねばならない。
資本主義社会にあって、労働者階級から労働力を商品として買い、それの価値と、それを使用して生産した商品の価値との差額である「剰余価値」を利潤を、我が物顔に手に入れているのは商魂に燃える資本家だけである。自分がエリートであると自称しても、「働いている」限り、それは労働者に変わりなく、単に中産階級の中流にしか過ぎないのである。
この世は、階級社会である。階級があるから、最上流階級の頂点以下は、そのヒエラルキーの下で労働をしなければならない条件下でしか生きることができない。これこそ、現象人間界の掟(おきて)である。
その証拠に、資本主義の総本山であるアメリカ社会の構造を研究すれば、資本主義における階級は、どういう構造になっているか、直ぐに解ってこよう。
●ストレスの元凶を作る階級社会
アメリカでは、「階級」の話が持ち出されると、これが社会に反映して、「困惑度」や「立腹度」が露(あらわ)になる。
その根底には、「平等神話」に隠された階級が横たわっているからだ。アメリカでは、階級が、明白に社会に反映される、社会構造になっている。
そこに困惑度や立腹度があり、その人の社会階級が明白になるからである。
喩(たと)えば、「階級」の話が出て、極度に落ち着きを失えば、その人は中流階級であり、この階級の人は、自分がヘタをすると、更にそこから、もう一、二ランク落ちるのではないかと言う不安をいつも抱いている。
一方上流階級は、階級の話が持ち出される事は、決して厭(いや)ではない。階級に対し、深い関心を示せば示す程、その人は裕福さが滲(にじ)み出ていて、中産階級とは一線を画し、袂(たもと)をはっきりと分けている。
また、労働階級では、普通、階級については殆ど話をしない。また、気にする事もしない。ただ彼等は、自分がワーキング・プアーに転落する事だけを、非常に恐れている。
そして上流階級でも、最上流になると、単に財産だけが極め手になるのでなく、「金の持ち方」というものが問題となる。これが階級の証(あかし)としての、「財産の量」より、「財源の流れ」が重要視される為である。幾ら財産を持っていても、それは遣えば、やがて消えるものである。
ところが最上流になると、単に大富豪と云うだけではなく、財源が無尽蔵(むじんぞう)に湧き出る、数多くの仕組みを持っている。
上流階級を区別すると、大方三階級に分けられ、富豪の証(あかし)である財源の流れが問題になって来る。主に、現在稼いでいる総額と、相続財産の割合が問題となる。
最上流階級とは、財源の割合が桁(けた)外れであり、成金的に財産を溜め込んだ富豪とは、完全に袂(たもと)を分けている。ロックフェラー、ピュー、デュポン、メロン、フォード、ヴァンダービルト家などである。
彼等は、無尽蔵に湧き出る財源を持ち、遺産だけで暮らしている。最上流では、どれほど収入が大きかろうと、それは全く問題にされないのである。
これは民主主義下の、ハリウッドの映画スターや歌手がそのよき例で、大映画スターや大歌手と雖(いえど)も、その財産は自分で稼いだ金である限り、彼等は上流社会の仲間入りは出来ても、最上流には決して入れない。
また、最上流が暮らす邸宅は、まさに「隠れた階級」と呼ぶに相応しく、決して映画スターや歌手のように、大通りやハイウェーからは決して見えないところに建てられている。人里離れた山の中とか、ギリシアやカリブの島々に棲(す)み、その島全体の所有者である。
それは羨望(せんぼう)や有象無象(うぞうむぞう)の取り巻に傅(かしず)かれる繁雑(はんざつ)さを逃れ、多額の税金押収や財産の強制収用に遭う事もないからである。
一方、上流階級であっても、上の下に最階位に位置する大富豪たちは、多額の収入があり、かつ税金問題で頭を悩ましている。これこそ、最上流から見て、中産階級に毛の生えたようなものだと見下されている。
アメリカの階級社会は、普通、誰の眼からも隠れて、労働収益によらない、遺産だけで生活をしている。そして、その遺産は財源としての無尽蔵性があり、多くの事に煩(わずら)わされずに暮らしている。
日本人が想像する大富豪は、西洋の御伽話(おとぎbなし)に出て来るような、金の懸(かか)る侍女や下男を侍(はべ)らせ、取り巻をずらりと従え、好んで目立ちたがっている大金持ちを富豪と思っているようだが、本当の最上流は、決して人前に顔を顕わすことはない。
この理由は、世間の羨望や報復を恐れているだけではなく、狡猾(こうかつ)な暴力や脅迫や、ジャーナリズムのすっぱ抜きからの諸業を嫌い、身を潜めた暮らし方をしているのである。極めて目立たないのである。ある意味で、その土地の百姓にでも見間違うほどだ。
では、彼等はなぜ身を潜めているのか。
それは、福祉を掲げ、あるいは慈善事業を掲げ、高級な三揃いの背広を着て、絶えず大金持ちの間を渡り歩いて、寄附や物乞いに来る集団から身を隠している為である。
それでいながら、裏の世界の、政財界には強力な影響力を持ち、アメリカ議会や大統領府を陰で操っている。
というのも、最上流は、上流階級の中クラスの大富豪をコントロールしているからである。
上流階級では三つのクラスがあると述べたが、この階級で最上流に居るひと握りと、上流階級でありながら、最下位に位置する階級との違いは、最上流が一切の労働をせずに暮らしている事である。一方上流でも最下位にいる者は、幾ら大金を稼いでも、それは高級労働者の範疇(はんちゅう)を出ない。最上級が「無職」であるのに対し、上流下層は労働により収益を得る。
では、最上流と最下位の中間にある中間上流階層は、何によって生計を立てているのか。
それは上流階級に位置する中間的な階層は、まず、自分でも相当量稼ぐが、その仕事は大して仕事と言うものではなく、単なる名誉職的なものである。
つまり退屈紛れに、彼等は「何か、軽い労働をしていると」いう事である。
喩(たと)えば、由緒ある銀行や企業の名誉会長に収まったり、財団などの名誉理事に収まったり、あるいは暇潰しとして、由緒ある大学の名誉教授や、連邦政府の要職や、上院議員などを引き受けたりする。
かつては、政治経済の素人が海外の大使になったしする場合、多くはこの階級から選ばれた。逆に、最上流からは、選ばれる事は殆どなかった。これは最上流が、桁(けた)外れの大富豪で、見えない処に姿を隠しているのとは対照的に、中間に位置する上流階層は、陽の目に触れる処に出され、その姿を見せつける事で、大きな意味を持っていた。
それは、彼等をコントロールするのが、最上流であり、最上流の息の掛かる好ましい人間だけが選ばれるからである。アメリカのデモクラシー・民主主義の種明かしは、実は此処にある。
最上流は、自分の姿を派手に見せつける社会の構図から逃れ、これを上流の中間階層に譲ったという事になる。それでいて、背後から常に操られる。
普通、日本人の感覚では、大通りやハイウェーから見える大邸宅を、大富豪の大邸宅と思いがちである。ところが最上流の大富豪は、こうした処には棲(す)んでいない。人目を忍ぶ。着ている物や、身に付けている物、それに古びた時代遅れの農業用トラックは、貧農のそれと間違うほどだ。
こうした処に棲(す)み、世間から羨望の眼で見られているのは、総て上流階級の中間階層であり、この階層は、競って大通りやハイウェーから見える場所に邸宅を構える。その意味からすれば、ホワイトハウスは、その最たるものであろう。
かつてホワイトハウスは、上流階級の住まいと考えられていた。このワシントンにある大統領官邸は、1792年に創建され、現在は四階建の白堊(はくあ)の宮廷と思われている。
ここにはフランクリン・D・ルーズヴェルト一家も、ジョン・F・ケネディ一家も、此処に棲(す)んだが、彼等は決して最上流階級ではなく、単に大統領職で大金を稼ぐ、上流階級の労働者としか看做(みな)されなかった。
純白で白堊の、高台を選んで建てられた、慎重なるホワイトハウスは、余りにも目立ちすぎる建造物だった。
しかし、ここに一時的にも入居する者は、ほぼ例外いなく、地位を落す存在だった。素人目からすれば、ホワイトハウスは、何処から見ても、上流階級の佇(たたずま)いである。
ところが、ここの住民になった者は、必ずその地位を落すのである。それは、その背後に最上流の意向が働き、影でコントロールされているからだ。アメリカの民主主義は、紛(まぎ)れもなく、このコントロール下にある。民主主義の正体は、実はこれだったのである。全く、一個人のなど、主権はないのである。主権を持ち得るのは、最上流に位置するひと握りの超上流階級だったのである。
民主主義とは、主権在民で、「デモス」の語源から、民衆によってなされる政治を指すが、この政治システムは、必ず上層階級からの圧力が掛かり、民衆が議会政治に参加することは甚(はなは)だ不可能に近い。
デモクラシー下の議会制民主主義に、その声が反映されるのは国民の声ではない。世界のヒエラルキーの頂点にいて、命令一下を出せるのは、この頂点に君臨する最上流の上流に属する、数人のメンバーだけなのである。多くの日本人は、この部分を大いに見逃している。
ここまで論じれば、勘のいい読者は、もう、お分かりだと思うが、最上流にいる頂点のひと握りには、その生活形態の中で、ストレスが発生する要因が何処にも見当たらないのである。したがって彼等は極めて長生きで、健康なのである。長生きをして、影から出来るだけ長い間、多大な影響力を、自分より以下の下層階級に与え、いつまでも世の中をコントロールしたいからだ。
これは日本の老人に比べると、彼等は桁違いに健康で、日本の老人の薬漬けにされ、生命維持装置に力を借りて、何とか植物状態で生きている老人とは訳が違うのである。彼等は、長寿村の現役で働ける老人を思わせ、百歳を過ぎてもハードな肉体労働が平気で出来るくらいに元気なのである。
「世界の長寿村」と云われるような所では、こうした大富豪が、世の姿を憚り、影から影響力を与える実権を握った地域なのである。
●ガン抑止のイメージ療法
人間に健康上の負荷が掛かるストレスの存在に逸早く気付いたのは、最上流の彼等だった。
彼等は大富豪の生活を送りながら、その一方で、自分が大富豪である事に苦慮し、徒労を続けて奔走する人間の野望が、如何に早く、人間を駄目にしてしまうか、彼等は何代も亘って、先祖の智慧(ちえ)を集積しながら、その長寿の模索を図って来た。そこからでた結論が、労働をしない「無職」に徹する事だった。
これであれば、ストレスなど起りようがなく、いつまでもプレッシャーの掛からない生活を、長期に亘ってエンジョイできるからである。
繰り返し述べるが、「強い抑鬱(よくうつ)ストレス状態」にあると、免疫力は確実に低下する。またこれが、ガン細胞の発症にも繋(つな)がり、一度発症すると、ガン細胞の増殖には抑止力が掛けられない。
今日では盛んに「精神神経免疫学」なる学問の名が、至る所で聞かれるようになった。
ガンになり易い性格や心理状態の特長としては、既に述べたように、外面が良く、云いたい事をひたすら抑え、八方美人を気取るタイプの人である。裡側(うちがわ)に野望を秘めた、仕事の出来る人間ほど、このタイプの典型である。このタイプは、たいそう人目を気にする性格を持ち、自分の姿を人に見せつけるだけで、自分は他の者より卓(すぐ)れたエリートである事を強く自負している。しかし、そうは云っても、所詮、労働者である。
内心では「勝ち組」の長(おさ)になって、野望で、一旗揚げたいと企んでいる為、人付きあいは広く浅くである。その深層心理には、野望の代償として、欝(うつ)状態が潜んでいよう。あるいは、今日の自分のノルマが果たせなかったことに、自責の念を持ち続けているかも知れない。またあるいは、仕事上のライバルが、ガンなどで斃(たお)れ、この事について張り合いを失っているであろうか。
競争原理が働かなくなった時、これまで心の張り合いになっていた、「対象喪失体験」などにより、ストレスが加わって、自分も自ら、同じガン発症を起すことが報告されている。
野望家は、一見、したたかで、強引な「仕事の鬼」を連想させるが、実なその裡側は非常にナイーブで、大胆のように見えて「小心」である。
「細心大胆」と云う言葉があるが、彼等は決して細心大胆などではない。大胆横柄にして、「小心」なのだ。
こうした感情を維持しているものは、ネガティブな否定の一面があり、曾(かつ)て、『白い巨塔』という山崎 豊子 の小説がテレビドラマ化されて放映された事があったが、その主人公である田宮次郎が演じた野心家の財前五郎助教授の如きである。
俳優の田宮は、本人自身もこの時、また、躁鬱病(そううつびょう)と借金苦を心に背負っていた。
この意味で、俳優田宮と、『白い巨塔』の主人公の財前五郎は、相似の関係で二重写しになるのである。演じた役者も、野心家の財前五郎も、何れもストレスで苦悩していたのである。何と皮肉な事であろうか。
ガン発症の一つの要因は、第一に性格の問題点が挙げられ、次にそれに重なるように、不安、恐怖、抑鬱、絶望などのマイナスの心理状態が挙げられる。特に、心中に「死」や「ガン再発」への恐怖や不安を抱いている患者に対して、これらのマイナス材料を消滅させる事が出来なければ、ガン細胞は増殖するばかりであろう。
したがって、心の持ち方を転換させる思考能力も大事であろう。恐怖や絶望感は免疫活動を抑止し、ガン細胞を派生させる。この点、霊障などの「憑衣(ひょうい)」と酷似するではないか。
一方、心のイメージを悪くしている現象から解放される為には、ガン患者自身が、これまでの価値観と人生観を変えなければなるまい。積極的な心構えや、希望や期待に満ち溢れた心の持ち方が大事であろう。
更には、淋巴球(りんぱきゅう)が、ガン細胞をどんどん食べて、治癒して行く様子を自らでイメージする事が大事であろう。
実際に、次のような例が報告されている。
某医科大学の教授が、ガンを恐れる余り、熱い食べ物を避け、肺ガンに罹(かか)らない為に、外出時にはマスクをしてタバコの煙りや大気汚染から、わが身を守ろうと、普段から奮闘していた。ところがこの教授は、皮肉な事にガンで死亡した。果たして、この教授の普段のガン予防の考え方は、正しかったのかどうか。
ガンは単独要因で、ガン発症する事はない。種々の因子が組み合わされて発症するものである。人間の躰(からだ)には生まれながらにして、抗酸化物質を生産する機能が備わっている。先天的には、ガンに対する免疫力を持っているのである。一生の間、誰でもガンを発症し、発病するまでに免疫力がちゃんと働いて、ガンを自らで治療しているのである。
しかし、酷い疲れ長引いたり、常時、適応反応に迫られたり、内外からのストレスが起れば、これが血液を汚染し、正常細胞をガン細胞に変質させ、ガン免疫力が失われたことにより、ガンを発症するのである。
裡側(うちがわ)からのストレスは、「ガン・ノイローゼ」と言うもので、これがガン発症へと繋(つな)がって行く。不安や心配で何かに戦(おのの)いたり、いつもビクビクしたり、ちょっとした事で激怒して、カッとなったり、神経系に刺戟ばかりを与えていると、この衝撃を和らげようと、自動的に副腎のアドレナリンホルモンが不必要に分泌され、これがストレスの元凶になって、堆積していくのである。
一方ガンを患(わずら)っても、明朗で心の持ち方を常に前向きに押し進め、心配症でない人は、「自然退縮」によって、ガンという炎症は自然に治って行くものなのである。
そのよき実例が、次の報告である。
子供の時から病弱だった、ある女性は、四十半ばでガンの手術を受ける事になった。しかし、その前に中学時代の憧れの的であった、自分の心に思った男性に一目だけでも会えないものかと思った。そこで思い切って、この男性に手紙を出す事にした。その内容は、自分が近いうちにガンの手術をし、もしかしたら、手術に失敗して死ぬかも知れないし、助かってもそんなに長く生きれないだろうと云った内容の手紙を、憧れの男性に送ったのである。
この男性は、当時スポーツマンで、勉強も良く出来、美少年でスマートで背が高く、高校・大学と一流校に進み、その後、一流商社に勤める押しも押されもしない、エリートコースを歩く男性だった。この男性は、目前に手術を控えた女性の心を和らげる為にと、自分の家族に了承を得て、この女性の入院する病棟までやって来たのである。
一方、女性は女性で、今まで心の中で思いつめていた憧れの男性がやって来る当日、朝からそわそわして落ち着かず、えらいはしゃぎようで有頂天に舞い上がっていた。そして、愈々(いよいよ)両者は対面となった。
女性の顔は突然豹変(ひょうへん)した。自分の心の中に抱き続けていた中学時代の美少年の、あまりの変わりように唖然(あぜん)としたからである。
曾て美少年であった男性は、腹が出て、下半身に垂れるように紡錐形に肥り、肥満体の上、頭は禿げていた。そして、老醜で顔は大きく膨張し、飲酒の習慣があるせいか、脂ぎって赤ら顔であった。目前に手術を控えた女性は激しいショックを受け、自分がガンの手術をする事なども含めて、これまでの全てが馬鹿馬鹿しくなったのである。
「何だ、自分はこんな人生を歩いて来たのか」と、今までの病弱さまで否定してしまい、居直ってしまったのである。
女性は目前に控えた手術を断り、さっさとガン病棟から退院してしまったのである。そして数カ月が過ぎ、一年が過ぎた。一向に自分がガンで死ぬ前兆が顕われない。気になって再度病院で検査したところ、すっかりガンの影の痕(あと)は消えていた。
これも心の持ち方次第で、「積極的な行い」が、ガン細胞を正常細胞に戻す可逆性現象が起る事を物語っている。
自然食療法で有名な、お茶の水クリニックの森下敬一医学博士は、日本のマスコミが無視した『ライフ』誌で報道された、サティラロ博士の例を挙げ、「アメリカの医師(メソジスト病院長)のサティラロ博士は、玄米・菜食でガン(睾丸ガンと前立腺ガン)を克服したのである。これが世界的な話題となったわけだが、実は、こんな例は少しも珍しいものではない。筆者のお茶の水クリニックのカルテには、こうした例は万単位で存在するからだ。(中略)ガンは治る病気である。それもマグレや奇跡なんかでなく、当たり前の生理の法則性に則って治っていくものである」(森下敬一著『浄血』より)と述べている。
更に、ガン発症はガン体質になった事が原因の病気である。つまり体質の悪さから発症したまでの事であり、その人の躰(からだ)の一番弱い部位にガン腫が発生したのであり、ガン体質の解消を図り、体質を変えて、浄血に努めれば、どの部位に出来たガンでも、自然に消滅して行くものであると述べている。
つまり、日本の医師会やマスコミが大袈裟に報道する「ガンは自然治癒力が働かない死病」とする考え方は誤りであり、「ガンは治る病気」なのである。
しかし問題は、ガンが治る病気にもかかわらず、ガンで大勢が死亡している事実である。この死亡原因は、いったい何処から派生するものなのであろうか。
現代人の心を惑わしているものは、「経済」である。
豊で便利で快適でと言う物質的恩恵を預かるには、「経済」が何よりも優先されていなければならない。今日ほど「経済」と云う問題が、人間を支配した時代はない。曾てのどの時代にもなかった事である。
現代人の大半は、「食う」とか、「食える」とか、「食えぬ」とかの言葉を用いて、自分の生活状態を評価する。
一方、「食う」ことに心配がない人でも、絶えず経済動向を気にして、自分が金持ちなのか、中流なのか、貧乏なのかの測定を常時行っている。つまり、ストレスの元凶は、物質的豊かさのバロメーターである「経済」に巣喰っていたのである。自分が、安全に、将来も安定した生活をするには、常に経済問題が絡み付き、現代人の生活基盤は経済至上主義にとって変わられているのである。ここにガンが身体を蝕む現実がある。 |
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