おわりに
 欧米産の文明と、競争原理が世界の常識としてスタンダードになって来ている現代社会において、金融経済にしろ、実体経済にしろ、あるいは科学や医学にしろ、善悪二元論に基づくキリスト教の異端思想であったグノーシス主義(人間が肉体・物質世界から浄化され自分が神であることを認識することで救われる)で、神対悪魔の構図を作り、悪なるものを排除して、善なるものを残そうとする善悪二元的な考え方が根強く支配している。

 多くが前世紀の「悪夢」から誘引されている事は疑いないようだ。
 二十世紀は、「科学」の名をもって「眼に見えないもの」は切り捨てて行った時代である。唯物史観が横行し、誰もが「科学的」という言葉に魅了された時代であった。

 かつてブルジョア革命によって資本主義が起り、ブルジョアジーはフランス大革命を通じて、封建的諸関係を打破し、資本主義的諸関係を確立した。一方、資本主義に対峙(たいじ)して、資本主義制度を打倒して社会主義制度の樹立を目ざす、プロレタリアを主体として遂行される革命、則ち、社会主義革命が起り、プロレタリア独裁のマルクス‐レーニン主義の立場が打ち出された。そしてこれは、プロレタリア革命後、共産主義への過渡期における国家権力の形態をこう呼び、共産主義者達は「人類の前史」はやがて終焉(しゅうえん)すると高らかに宣言していた。

 そして「人類の前史」が終焉した暁(あかつき)には、人民の各人の自由な発展が、社会全体の自由な発展の必須条件と結合する時、ここに「完全デモクラシー」が実現すると豪語した。
 だからこそブルジョア階級を殲滅(せんめつ)せねばならぬとし、この殲滅作戦が二十世紀には猛威を奮った。この根底にも、善悪二元論が存在していた。

 善と悪との最終決戦が聖書に預言されたハルマゲドンであり、善が勝利を収めた後、世界は神の火で焼かれ、溶かされ、浄化されて、やがては理想社会が出現すると信じられている。
 そして救われる者と、そうでない者、また、永遠の命を与えられる者と、そうでない者の選別が既に行われた、とするのが、キリスト教の「予定説」である。
 神は、「予定説」によって、予(あらかじ)め選別したというのだ。それも、神の意志において、無差別に。

 救われる者は、救われるように予め、選んでいるので病気では死なない。また選ばれなかった者は、選ばれてないので、永遠の命は与えられず、代わりに永遠の死が与えられるというものである。
 選ばれる者は「善」であり、選ばれなかった者は「悪」であるというのである。
 しかしこの「善」と「悪」という定義は、一体どこから起こったものなのであろうか。どういう基準で「善」と「悪」は選別されるのであろうか。

 善悪二元論での捉え方は、ある一方方向から見た考えの現われ方で、別方向から見たり、一等上に上がって高所から見れば、またその二元論的見方は、極めて主観的な見方であったということが分かる。
 則(すなわ)ち、現世の支配の中枢には、一方的な主観思考が流れており、この基準に従い、唯物弁証法が繰り返され、これを基盤に近代科学が成り立っているということである。
 悪は徹底的に叩く、悪いものは淘汰し、排除するという思想が、今日の近代科学を支配している。
 現代医学や現代栄養学は、こうした支配思想によって生まれた学問である。

 ところが、こうした「悪を滅ぼす」という支配思想は、実はその考えそのものが誤りであり、「教導し、善導する」ことによって、悪は消滅するという思想が、東洋には古くからあった。
 「叩く」のではなく、「善導する」のである。良き方向に導けば、やがて悪は消滅し、解消する。

 古神道には「八百万の神」という思想があり、万物は総(すべ)て神の化身であるという考え方である。したがって「悪」もまた神の現われであり、「悪」があるからこそ、「善」がいよいよ栄えるという思想である。
 善と悪とは絶妙なバランスの上に成り立っていて、左右手や腕と同じく、左手があれば、右手と同じくらいに、相等しく存在するのである。これを「善悪の均衡」と言う。
 したがって、現世は善悪のバランスの上に出来上がった、心像化現象の具現物と見ることが出来る。

 善が神の現われだとすると、また悪も一方の神の現われであり、結局、神から離れた悪というものは存在しないということになる。
 これは地獄も同じであり、相対的に見れば、地獄は、まさに地獄の現われであり、しかし実際には地獄はなく、心が作り上げた心像化現象に過ぎない。故に、地獄に行く者にとって、地獄に行くと心で思うから地獄に行くのであって、地獄に行ったはずが、実は天国だったということに置き換える事も出来るのである。

 現世は善悪が同居している。
 しかし善のみでは進展せず、また悪のみでも結果は同じになる。進展が無ければ「無」に帰する。
 したがって神は、悪のみを排除せず、悪を悪として正しく善導する働きを持つ。これは元は同根であり、悪もまた、神の働きの一面なのである。
 欧米産のキリスト教やユダヤ教のように、善は善のみ、悪は悪のみというのではなく、善悪両方が共に栄えるというのが「大宇宙の玄理」であり、大宇宙の仕組なのである。

 これを人体組織を構築する体細胞に当て填めると、善(健康な状態)を正常細胞、悪(病気の状態)をガン細胞と置き換えて考えることも出来る。
 同じ体細胞組織を構築する一方は正常細胞であり、そしてもう一方はガン細胞であり、両者は絶妙なバランスにおいて人体を組織しているということになる。
 したがって、食の誤りから来る、乱れと、慎みを忘れれば、正常細胞はやがてガン細胞に偏移する。しかし偏移したからといって、同じ自分の体細胞であることには変わりない。
 偏移したから攻撃する、ということは、実は自分の対しての攻撃に他ならない。

 大東流霊的食養道研究グループは、淘汰し、排除し、徹底的に攻撃するのではなく、ガン細胞を逆分化し再び血球に戻し、善導することによって自然治癒力に委ねるという方法を指導している。

 現代医学は、病名や病状に眼を奪われ、病的状態にある人間そのものを見落としている。
 病気になるのは、それなりの理由があり、その原因を突き止め、それを究明することこそ、根本治療の原点でなければならない。
 ガンは死病ではない。
 ところがこの病気の死亡率が極めて高いのは、ガンに対する現代医学の間違った考え方と、現代栄養学から見た栄養観や食生活観が、一方的に偏っていて、その歪が致死率を高騰させているのである。

 確かに人間は栄養を摂ならければ生命を維持することは出来ない。
 だからといって、「好き嫌い無く、何でも食べよう主義」では病気になる。ガン発生の原因は、この「好き嫌い無く、何でも食べよう主義」が齎(もたら)した病気とも言えよう。
 そして一方で、生体の組織機能は断食なり、少食の方が、快適に、効率よく働くという現実がある。

 私たち、大東流霊的食養道研究グループは、現代医学の最先端治療を見るにつけ、ガン細胞に対して、助からないことを知っていながら、抗ガン剤を投与したり、放射線照射を繰り返して、かえってガン患者を苦しめるだけの治療法に、どうしても疑問の念がいつまでも憑き纏うのである。

 現代は「飽食に時代」といわれる。これは食の氾濫によるものであろう。
 そして、これまでの一日3食主義は愚か、一日4食や5食になり、まさに世は「食傷の時代」でもある。

 人間が科学する思考は、その副産物として「知識」なるものを齎した。また知識は、「分別知」で考える学術体系を作り上げ、経済も、政治も、教育も、戦争も、何もかも総てを機械化し、一般化した。

 これにより近代学校制度や教育事業は大いに繁昌し、学生の大衆化、講義の商業化、入学試験の競争化などが激化し、教育は知識の詰め込みで、学生はそれに鵜呑みになり、自己の精神とは無縁な混乱や乱入を受け、最も大切な自主性や創造性を傷付かせ、個々の魂までもを喪失するのような現代人を出現させた。

 新奇性により情報は氾濫し、その傾向は以前にも況(ま)して年々激しくなっている。それはちょうど、食養生を誤って、無闇に食べ過ぎた人間が、胃酸過多、高血圧症、高脂血症、糖尿病、胃潰瘍、各部位へのガン発症などを起すように、近代知識階級と云われる進歩的文化人達は、精神不振、脳酸過多、脳潰瘍となり、人格的破滅に陥り、彼等は流行させた社会的激変は、確実に日本人を動物化、家畜化しているのである。

 果たしてこうした状況下、現代人は競争社会や情報化社会の中で、健康に生きる事が日常のものとして、現代病から解放される日がやって来るだろうか。

 病気を治す極め手になるのは、「知識」ではない。
 特にガンなどの生活習慣病を改善して自然治癒力が働くように漕ぎ着けて行くのは「発症患者の心掛け次第」となる。
 「病気になったら病院で医者から治してもらう」「肩凝りや腰痛は柔道整復師か鍼灸師に治してもらう」また「薬品や健康食品に縋る」という、健康に対するこれまでの考え方は、既に古い概念と言えよう。

 喩え、不幸にしてガンが発症し、ガンを患(わずら)おうとも、その患者がこれから先、どんな人生を歩むのか、毎日充実した行動をどう創り出すのか、何に希望を抱いて心の拠(よ)り所を求めて行こうとするのか、ガンとどう闘って行くのか、あるいは闘わないのか、如何に残された日々を真剣に生きるのか、こうした事は、一人一人の心の問題であり、かつ哲学的な命題と言えよう。

 そこで、大東流霊的食養道研究グループは、喩(たと)えガンに罹(かか)っても、最後まで捨鉢にならず、病んでもなお、規則正しい生活を続ける気力や勇気をもって、自然治癒力が高まるような「心と魂の支援」を行っている。
戻る