人類淘汰の時代が始まった
電気の恩恵を享受する現代人
 私達が現代文明の象徴である、便利で、快適で、豊かな生活が送れるのは、総て電気のお陰です。近代生活では、先ず電気が欠かせません。

 鳥が見おろすように、高い所から広範囲に、人間の歴史と生活を鳥瞰(ちょうかん)しますと、1760年代にはじまるイギリスの産業革命は、人類が高度な物質文明に接する最初の出逢いだったといえましょう。
 やがて1870年代になると、アメリカの発明家で企業家でもあるエジソン(Thomas Alva Edison)によって、電信機、電話機、蓄音器、白熱電灯、無線電信、映写機、電気鉄道などが次々に造り出されました。彼は電灯会社及び発電所の経営によって、電気の普及に成功した第一人者でした。
 人類の電気による恩恵は、まさにエジソンから始まったと云っても過言ではありません。

 その後、電気エネルギー産業は、物質文明による高度で、豊饒(ほうじょう)な恩恵を人類に与えつつ、野蛮で土着的な旧体制を改革し、今日の、便利で、快適で、豊かな文化生活を齎しました。この文化生活こそ、まさに文明の象徴でした。

 人類は既に後戻りできない所に来ています。電車がなくなり、電子制御機器がなくなり、あるいは家庭電化製品がなくなった場合、それで果たして、人類は快適で便利な文化生活が営む事が出来るでしょうか。
 少なくとも、生活基盤の基本形の電気エネルギーを得る方法を捨てて、今更、江戸時代に逆戻りする事が可能でしょうか。
 人類が豊かな教養や科学知識の習得を止め、あるいは便利で快適な生活を捨てて、その時間を、過重な労働に奪われるといった事ができるかどうか、甚だ疑問の余地が残ります。
 そして近代文明は電気によって齎されていると言っても過言ではありません

 確かに電気は、人間に便利さと快適さと豊かさを齎しました。
 しかし何故、従来の発電所に加えて、原子力発電所が必要なのか、そして人類は、原子力エネルギーを完全にコントロールするまでの科学的論拠を探り当てたのだろうか、という疑問の余韻も尾を引きます。
 また、仮にそうだとしても、それはあくまで理論原子物理学の範疇(はんちゅう)に留めるものであって、実用化して、それを使い、これが果たして、安全と言い切れるものだろうか、その事にも疑問が残ります。

 テレビ・コマーシャルでは、確かに安全を強調して放映し、火力発電と違って公害を出さないから、未来のクリーン・エネルギーとして注目を集めている事を宣伝しています。しかし果たしてそうでしょうか。
 その上、日本は欧米先進国の領土と異なり、まず第一に、その地盤の弱さにあります。
 第二にその弱さに加えて、世界でも有数な火山国であり、一年に何回かは、大なり小なりの地震や噴火に襲われ、世界一不安定な国土といえます。
 第三に日本は南北に細長い島国であり、一旦原子炉に異常が起こり、放射能漏れを起こすと、民族の大移動が困難な日本列島は、それを黙って甘受しなければならない悲惨な生活が起こります。日本人は逃げ場がないのです。

 放射能漏れの事故が発生した時、仮に、自家用車に家族や、家財道具を載せて、安全な土地に非難可能な場所を見つけたとしても、普段から渋滞の甚だしい高速道路は、大量の車で溢れ返る事になり、細い一本道は大勢が殺到して、パニック状態に陥り、誰一人として逃げ出せない状態となる事は眼に見えています。

 またこうした場合、至る所で警察の検問が行われ、あるいは治安維持が施行され、防毒面をつけ、手に小銃を持った完全武装の陸上自衛隊員が、各々の守備に配置されて、押しかける民衆に対して、「戻れ!危険だから、戻れ!」と、何の説明もなしに命令する事でありましょう。
 もしこれに逆らい、強硬突破でもすれば、逮捕されるか、あるいはその場で射殺されるかも知れません。いつの世も、政治力学とその駆け引きは、大の虫を生かして、小の虫を殺す理論が導入されるからです。
 恐らく、非常手段として後者が使われる事は疑う余地がありません。
 一々逮捕して、手錠を掛けるといった手間の掛かる事はしないのが、非常事態における通例です。

 今日の地球上で、世界でも有数な火山国で、然も地震帯の活断層地帯の真上に、大規模な原子力発電所を構える国は、世界中を探しても、日本以外には何処にも見当たらないのです。

 多くの日本人は、便利で快適で豊かな生活を、「文明」と思って勇往邁進してきました。しかし実は、それが表面上の辻褄合せであり、中味は「文迷」のそれであったのです。それは「科学」という文字からも窺えます。
 科学とは「科」(とが)を「学ぶ」と書きます。この「科」は、「科人」(とがにん)の科です。科人とは犯罪者を指します。西洋の文明は「科人の学問」で、この中味はやはり「文迷」ではないのか、との疑問を抱くのは、果たして少数派の人々でしょうか。

 大自然は、人間が便利で豊かで快適な生活を試みれば、試みる程に、その裏返しの試煉を与えます。大気汚染や海洋汚染などの、公害といわれる現象は、人間のこうした便利で快適で豊かな生活の、反動から来たものではなかったのでしょうか。
 そして「文迷」こそ、人類を滅ぼす最初の引き金になるのではありますまいか。

 極めてコントロールが困難な、プロトニウム239は、その一粒の百万分の一グラムで肺ガンを起こす程の猛毒で、その半減期は二万四千年であると言われています。
 この極めて寿命の長い有害物質を、人類は果たして、今日の未熟な科学力で制御できるものなのでしょうか。そしてその核廃棄器物から出たゴミ処理は、一体どうするのでしょうか!

 これまでの日本百年史を振り返って見ると、開国、幕末動乱、明治維新と進んで行く中で、日本人にとって、欧米は追い付くべき目標であり、また真似るべき典拠でもありました。この欧米へ右へ習えをする、一種独特の欧米観が、福沢諭吉に脱亜入欧政策の思想を齎し、文明開化とともに、実体の見抜けない欧米の植民地主義・帝国主義に日本が真似た、というのが実情ではないでしょうか。
 朝鮮半島並びに台湾や東南アジア諸国、そして満州国は、そうした欧米の模倣ではなかったのでしょうか。
 この欧米の模倣こそ、世界にとっても、日本自身にとっても、多くの不幸を齎した事は、歴史的事実です。

 かつて十九世紀の、欧米の植民地主義が全世界を覆い、その争奪合戦に縺(もつ)れ込んだ時、各国首脳は「鉄は国家なり」と豪語して、その鉄の重要性を説きました。それは日本とて、例外ではありませんでした。
 戦前・戦中において、日本の陸海軍は、その双方で、鉄の奪い合いに奔走劇を繰り返していました。双方の縄張り意識に「陸軍の鉄」、「海軍の鉄」があり、愚かにも、鉄で戦争が継続できるものと考えていました。
 しかし日本の敗北は、意外なところから訪れました。
 戦争を知らない、戦争目的の何たるかを理解できない、愚かな陸海軍の、勲章ばかりを欲しがる軍隊官僚の将軍達の無教養から、それが齎されたのでした。

 かつて石原完爾(退役陸軍中将)が、東条英機(日米開戦当時、総理大臣)に対して「東条上等兵」と云って憚らなかったように、大戦開戦当時の東条も、また東条の腰巾着(こしぎんちゃく)であった冨永恭次(陸軍中将、フィリピン第四航空軍司令官)も、この典型的な無教養の愚将ではなかったのでしょうか。仮に東条が事務屋として暗記力に優れ、真面目で、真摯な国策思いの宰相としても……です。
 また「陸軍の鉄」、「海軍の鉄」と云ったのも東条でした。

 人類は今世紀、鉄なしで、近代国家の基盤が考えられないような妄想を経験しながら、今、電気なしの生活の明け暮れを、改め難いと思い始めています。
 「もし、電気の無い江戸時代以前の生活の戻ったら……」という不安は、一体人間は何の為に生きているのか、という次元に逆も取りさせます。

 だから近代生活を送る上では、絶対に電気が必要なのだ。文明は豊かであるからこそ、その文明は益々発展を続ける。これが人類に文化を齎し、教養を齎す。また娯楽にしても、あるいは芸術にしても、電気があるからそれが叶う。冷蔵庫やテレビ、洗濯機や掃除機の無い生活が、一体現代人にどれほど自覚され、受け入れられるでしょうか。

 仮に電気がなくても、人間は死ぬ訳ではありませんが、しかし、大混乱は避けられますまい。家庭の電気が止まるだけではなく、公共の電気も総て停止されれば、パニックが起こって、日本中は蜂の巣をつついたように大混乱に陥るのは必定です。
 云われてみれば尤だと、多くの人は賛同するでしょう。

 しかし何故、原子力発電まで考えなければならないのか、という事には疑問の余地を残します。
 そして果たして、日本に原子力発電所がなければ、日本国内の電気は賄(まかな)えないのか。水力発電と、火力発電だけでは駄目なのか、と言う所に行く着くのです。
 何故危険な、然もコントロールが極めて困難な、原子力エネルギーを使おうとする目的は一体何か。何かこの裏には、電力供給以外の目論みがあるのでは……と思う人は決して少なくありません。
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