日本が古来より瑞穂の国と称されてきた事は、稲作が縄文時代より伝えられ、今日まで連綿とし手続き、これが日本独特の伝統文化をつくり出しています。
一般に縄文時代といえば、鳥や魚や獣を狩猟して、移動しながら生活をし、更には、木の実や近海の魚貝類を食糧として食べていたと思われていますが、既に縄文期には約7000年以上前に大陸から稲作が伝わり、約3000年前位になると、水田や水路を作り、木鍬や石包丁を使って稲作が行われていました。
この稲作を開始した頃には、集落が存在し、水田造りとタネ蒔き、刈り入れ、脱穀などが行われ、集団生活と古神道(仏教・儒教・道教など外来宗教の強い影響を受ける以前の神道)によって、自然と共に生きる生活が営まれていました。
こうした伝統を連綿として続け、この伝統文化は後に、田楽や狂言として今日に伝えられる事になります。これ等の文化は、もともと田植えや秋祭りの時に、鐘や太鼓に合わせて歌ったり、踊ったりしたものが、芸能として発達したものでした。
また天皇の行事としては「新嘗祭」(にいなめさい)があり、天皇が新穀を天神地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭儀が、これにあたります。古くは陰暦11月の中の「卯の日」に行われました。
近時には11月23日に行われ、祭日の一つとされましたが、現制ではこの日を「勤労感謝の日」として、国民の祝日に加えたものです。
そして天皇の即位後に、初めて行う祭儀を「大嘗祭」(だいじようさい)と言います。
以上の祭儀の目的は、豊かな稔りに感謝して、礼念の豊作をも願う宮中の祭でした。
今日では農業だけでなく、総ての勤労に感謝する日となっています。
こうした伝統は、日本が瑞穂の国である事を象徴しています。
さて、稲が伸びる成長段階を追って見ますと、「分(ぶん)けつ前の苗」を育てる為に苗代に種が蒔かれます。そしてやがて芽が出たら苗床に生えた苗が移し変えられ、田植えとなります。
植え付けられて約20日ほどで、根はしっかりと大地を捉えます。この分けつまえから「分けつ」の状態であり、大地から養分を吸い上げます。これが植え付けてから約60日ほどの段階です。
やがて穂に穎(イネ科植物の花または小穂の基脚外側にある葉状の二つの小片)が出来、それが開いて稲の花が咲きます。穎が開くと「おしべ」から花粉が飛び散り、これは穂の上部から開始され、約一週間がかりで開花を終了させます。
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