娘が縁付かないのは、何が原因でしょうか (56歳 主婦 入会希望)
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縁付かない、娘や息子に対して、《癒しの杜の会》に寄せられる父母からの相談は実に多い。結婚適齢期を過ぎても、また、既に超えて40歳の初老に達しても、結婚しようと思いながらも、これが裏切られて、中々結婚できない男女は多いのである。
では、なぜ縁付かないのか。 これに関して、まず考えられるのは「因縁」である。同時に、「親の子離れ」が出来ていないことである。 「親の子離れ」が出来ていないことで、この犧牲になる子供は多い。何かあると、親の方が直ぐに口を出してくる。これも結婚できない因縁の一つである。 立派な知性と理性を持ち、五体満足(ただし、体形的に問題がある場合は「食」の誤りも否めない)で、天与の娘盛りを過ごしてしまうのは、過去世(かこぜ)からの因縁で、こうしたものを持っている場合、結婚にこぎつけることが、なかなか困難である。娘さん自身には何の落ち度も、責任もないのであるが、結果として結婚には縁遠い、「運の悪い結果」が出てしまうのである。また、親の「習気(じつけ)」は出て来て、これを妨害する。こうした場合、まず子供の結婚は不可能であろう。 結婚する当事者同士が、うまくいきかけると、今度は親の方が口を出してくる。まるで、「子供の喧嘩に親が出る」のような。 子供どうしの喧嘩にその親が干渉する。小事に干渉するといった、こうした現象が起こる場合は、一種の親の嫉妬から起こる習気である。大人気ない親の未熟である。親の、親としての未熟は、総て習気から起こる。過去世からの習慣が、親そのものを作っているのである。 昨今は、子供の親離れより、親の子離れが出来ていない場合は多い。 大学を出ても、これと言った職業を持たず、親の年金のおこぼれに預かって、成人しても何から何まで、親の世話になっている、無職か、フリーター生活をしている成人男女も多いが、逆に親の方が、成人を過ぎた子供に対し、子供の給与を充(あ)てにし、管理し、自由にさせないと言う親もいる。また、子は子で、こうした事を別に不思議に思わない、子供も多い。親子ともども不可解な人種に成り下がっている。そして、その元凶は「親が子離れ出来ていない、親の未熟」であろう。 こうした親の、子離れが出来ていない親は、自分の生きている限り、子供の人生全域にまで関与し、一切について口を挟む。こうした親の出しゃばりがある場合、子供は生涯結婚することができないであろう。放任主義に親も困り者だが、子離れで来ていない親も困り者だ。 仮に、子供の人生半ばに親が死んだとしても、もう、その頃になると、結婚適齢期を逃がし、四十、五十の初老以上の年齢になり、婚期を逃したままの人生で終わる場合が多い。これこそ、家が絶える過去世の因縁である。 そしてこれは、過去世の因縁といっても、これは三代前くらいに変死した人がいることが考えられ、こうした先祖を静かに偲(しの)び、因縁の一切を絶ちきる必要があると思料する次第である。 また、近くの神社仏閣の何(いず)れかで、「良縁成就」をお願いするのも、一つの手かも知れない。これは一種の精神的な儀式であるが、祈祷行為が縁結びを決定すると言うのではなく、縁が伴わない事に対し、「心のリセット」をする為である。更に、親の介入や干渉に対し、親の習気の悪因縁も断ち切る「心のリセット」が必要であろう。 結婚に縁遠いこれまでの固定観念を消去して、娘さん自身が「わたしは輝いている」という意識を作り出す為である。また、親は子供からの訣別を告げることを、此処で新たにすることである。第三者的な人を仲介者として、子供は「良縁成就」を願い、親は子供からの「子離れ宣言」を高らかに行うことである。 普通、結婚適齢期に達しても縁付かないというのは、子供ばかりの責任ではなく、多くの場合、親が良縁に無意識的あるいは意識的に妨害する念での関与があり、この念が大きく働いている場合が多い。子が良縁に恵まれる為には、親が先ず「襟(えり)を正さねばならない」のである。親が子離れ出来ない以上、子は良縁に恵まれないであろう。 良縁と子孫繁栄を願うならば、「心のリセット」が必要である。 その場合、良心的かつ信頼のおける神官あるいは住職であることが大事である。祈祷行為が専門という毒づいた神官や住職は、まず駄目であろう。「心のリセット」をするには、誠実な人柄でなければならない。 良縁に恵まれない因縁は、家運衰退、中途挫折、血縁相克などの過去世と関係があり、家運が代代衰退していく因縁があって、親から子、子から孫というように、孫から曾孫と(実際には曾孫まで続く事は珍しく、長くても孫までが多い)、代を追うごとに家の運気が弱くなり、ついには「根無し草」になる因縁を背負っている場合が少なくない。こうしたものを、古来より「虚花の命」と呼んできた。そして、これに「親が妨害する」と言う形で、これに関与している場合が少なくない。 親子で、家系を「虚花の命」へと作り替えているのである。 これでは花が咲いても、実が実らないという運命である。せっかく花が咲いても、実は他人に持ち去られる暗示がある。 三代前の先祖の因縁に遡(さかのぼ)れば、直系だけでも14人の先祖がいることになり、五代まで遡れば直系で、60人もいることになる。このうち、一人でも横死のような死に方をしている場合は、この因縁により、以上述べたような結果が現れる。 精神科医でもあり、心理学者でもあったオーストリア・ウィーンの精神医学者フロイト(Sigmund Freud/心理解明の手段として精神分析の立場を創始。1856〜1939)は、こうした先祖の因縁に対して、障害が現れるのを、「運命神経症」と、心理学上の学名で呼んでいる。 これは無意識の意識中に、深層心理の中に不可抗力な力が働き、最終的にはいいところまでこぎつけながら、最後に成就しない人の運命を、運命神経症と呼んでいる。潜在意識の領域内に抑圧された性欲衝動(Libido)の働きが無意識化にあるとする。 この症状である場合、願望はどうしても最後は破綻(はたん)してしまうのである。更にこうした深層心理の無意識で繰り広げられる、こうした不可抗力を、「反復強迫」と名づけ、心理学上では、「自己破壊の傾向をもった精神形態」と呼んでいる。 無意識下に、自己破壊の心が現れている場合、こうした症状が浮上してきて、運命神経症の末路を辿(たど)ると言われている。無意識下に「自分には完全な幸福とか、喜びはありえない」などと一瞬でも考えてしまうと、この思考は深層心理に焼きつき、これが起因して、次の意識となり、最初は漠然と、次の段階は、人生とはこうしたものであるというような、「あきらめ」の心が生まれ、この末路をたどることになる。 そして自我(じが)は、その傾向へと引っ張られ、まさに「不幸とはこうしたものであろう」という悪想念が出来あがり、その上を歩くことになる。これが「縁付かないメカニズム」である。 人の心の中には、意識しない意識によって、この運命支配に絡め取られ、雁字搦(がんじがら)めにされて苦慮しているのが現象人間界の人間であり、この支配下で人間は生きている。 ただ、この支配し、操る世界からの霊的なものが、不可視世界のものであり、これを非科学と取るか、未科学と取るか、その人の教養と学識に委ねられよう。 現在、物理学では人間の想念から発する「見えない心」の糸口を量子力学の分野で掴みかけているが、現代医学は「因縁」だとか「深層心理下の心」の問題と提起すると、オカルトなどと蔑視(ぶべつ)して、一蹴(いっしゅう)する傲慢(ごうまん)があるようだ。 しかし、量子力学の世界では、最先端の物理学で、「見えないものを発見した」という結論に至っている。 したがって「因縁」も、人間の肉の眼では見ることが出来ない、不可視世界の意識から現象人間界に影響を与えているということは十分にあることで、まず、因縁を解消し、これを絶ちきることから御薦めする。因縁解消の専門家は、地域の産土(うぶすな)を守る神官や住職たちであり、こうした信頼のおける専門家に「先祖供養」をして頂くことも、一つの方法だと考える。 つまり、先祖を偲び、静かに瞑想して「心のリセット」をする事である。 |
幸福の手紙の送付をどう考えればいいのか (24歳 OL 初回無料メール相談)
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こうしたものは、何年か一度、爆発的に流行し、それは「幸福の手紙」とか、「不幸の手紙」などと銘打たれている。そして、これを受け取った人は、「幸福」とか、「不幸」とかの文字に敏感に反応して、こうしたものを貰えば、次の人に何とかしてリレーしようと考える。
その理由は、「幸福(不幸)の手紙を貰って出さないと、あなたは必ず不幸になる」と一番最後に但書きされていることだ。誰もが、最後の但書きに怯(おび)える。だから、何とかして次の人にリレーしようとする。 また、「葉書一枚の事でもあるし」と簡単に考え、不運がやってくると困るからと言う理由で、取り敢えず誰かに出しておこうなどと考え、これを行動に移す。 旅行に出る前に、占いを立て、方位がどうのこうのと、こだわる人がいる。暦(こよみ)を見て、大安や仏滅などの日にこだわる人がいる。姓名判断にこだわる人がいる。九星気学や四柱推命にこだわる人がいる。これらと同じように、「幸福(不幸)の手紙」にこだわる人がいる。 昨今は、「こだわり」が大流行している時代である。何と頑迷な時代であろうか。 しかし、こうした「こだわりの呪縛(じゅばく)」から解放される為には、何ごとにもこだわらないことである。 「幸福(不幸)の手紙」でも、こだわるから自分自身に呪縛の暗示か掛かるのである。こうした手紙を貰って、幸福である人は「幸福」など信じないであろう。また、いま不幸のドン底にいて、本当に不幸である人は、「不幸」など信じないであろう。信じる人は、全て可もなく不可もなくの、その他大勢の人で、真の意味で、幸福も知らず、不幸も知らずの「お人好し」の人である。「お人好し」であるから、こうした手紙が流行するのだと思われる。 しかし、よく考えて見れば、こんなものには目もくれず、「出さない」という形で毅然とした態度で、細(ささ)やかな抵抗を示し、この姿勢を守り通すことで、また運が開けてくるのではあるまいか。これこそ、自立意識である。 |