ポックリ死ぬにはどうしたら (68歳 無職 男性 無料相談室宛)
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筆者は、貴殿がポックリ死ぬ事を本気で考えているのか、否か、その真意がハッキリ掴めない。一見、死にたいような口ぶりで、実は、死を非常に恐れる現代人は少なくない。言う事と、する事が逆行することの多い現代人にあって、本当に貴殿は、今直ぐにでも、死んでしまっていいなどと本気で考えているのだろうか。
また病気や怪我を治したいけれど、治らない現実に、これから先、一体どう生きたらよいのか迷っているのではないか。坐骨神経痛は老化現象の結果に起った障害であり、人間は老いるものなのである。 筆者は最初に、貴殿に励ましの言葉を掛けて、今後も良き相談相手になり、会員に取り込もうなどという下心は毛頭ない。もし、ポックリ死ぬのがお望みなら、食事を摂るのを止め、水を飲むのを止めて、一週間もすれば、間違いなく一週間で餓死できる。 しかし、この間に少しでも食欲が起り、「腹が減った」などという空腹感を感じれば、貴殿に命の火は尽きていない事になる。軽々と、「死」を人間のレベルで口にしない事だ。「死んだ方がましだ」という、そういう気持ちがあっても、口にしたり、文章に表現しない事だ。 また、人間の死とは、「死ぬ準備」が完了しなければ、死なないものである。したがって、高齢者だから死が近いとか、若者だから死が遠いなどと一概に決める事は出来ない。若くても「生きる因縁」がなければ、直ぐに死んでしまうし、年老いていても、「死ぬ因縁」がなければ、まだまだ長生きさせられ、生きていなければならない。 人間は自分の意志で、死を決定できない生き物であり、その決定は総(すべ)て天が下すものである。したがって、ポックリ死ねたらいいなどの願望は、まさに自殺願望である。 この願望は、生きているのが辛いから、早く死んで楽になりたい。せめて死した後は極楽浄土に至って、阿弥陀如来(あみだにょらい)の膝元で、「楽」を勝ち得たいとする念仏宗の考え方である。こうした、自殺願望的な死に、決して「楽」はあり得ない。 どうして、生きている間に「楽」を得ずして、なぜ死して楽を得る事が出来るのか。 安易に死んで楽になりたいなどと、決して思わない事だ。生きているうちに「楽」を捕まえる事が出来ない者が、どうして死した後に、楽を捕まえる事ができよう。 人間の死は天が決める事であり、人間側にこの権利はない。死ぬまで、生き抜いて、苦楽を共に経験し、その中で喜びを見い出し、その喜びの中に楽しいものを探し出さねばならない。 怪我をしたり、病気をしたりと言うのは、その人自身の行動に問題がある。 怪我や病気は、自分の臆病から招き寄せるものであり、病気する人間、特にガン発症をして死んで行く人間は、自らでガンを引き寄せている無自覚に原因があり、その原因が結果を招き寄せ、そして自分の不摂生の重みで死んで行くもである。これが成人病の実態である。 怪我をする人間は、自分自身が間抜けであり、身も心も腐っているから怪我をするのであり、既に生命力が弱り、自分から墓穴を掘っているということである。これは若者であっても同じだろう。 心身ともに「やわ」な人間は、人に迷惑をかけるばかりでなく、自分からも、死の魅力に惹(ひ)かれて死に急いでいるということになる。燃焼させることに出来ない生命力は、仏教では不成仏になるという。この不成仏を、自分から招き寄せてはならない。 したがって、現代の世は、死ぬことも非常に難しい世の中なのだ。 昨今は、畳の上で死んで行く人は稀(まれ)である。現代人は、病院で生まれ、病院で死んで行く人種なのだ。したがって、自然死で、まるで汐(しお)が引いて行くように死ぬ事は、殆ど無くなり、一端は死に懸(かか)っても、人工生命維持装置のお陰で、長々と寝た切りの植物人間にされて、植物状態で死ねない運命を辿(たど)らされる人も少なくないようだ。 また末期ガン患者らも、そうであろう。ガン発症が告知されたからと言って、その数日後や数週間後に死ぬわけではない。 今日のガン患者は病院にとっては、大切な収入源であり、非常に「良いお客さん」なのである。発見されたガンが、末期の進行ガンであり、かなり進んだ状態にあっても、これから一稼ぎや二稼ぎは勿論の事、三稼ぎ以上もされて、結局、丸裸にされ、死んで行く人生が待っている。もう、医は仁術でなく、「算術」になってしまっているのである。病院は、慈善事業ではないからだ。病人が喰い物にされる場所なのだ。 末期ガン患者を抱える医者は、ガン発症から末期ガンで死ぬまで、簡単に死なせてくれない。ガンを専門に扱う病院は、患者から金を搾(しぼ)り取る様々な仕掛の集金システムと、巧妙な話術で患者を唆(そそのか)す集金テクニックがある。これは医師も担当するし、心理カウンセラーも担当する。彼等は話術に巧妙なテクニックを持っている。どちらが上か、甲乙が付け難い。儲かる病院は必ず、このペアが荒稼ぎのテクニックを持っている。 特に、医者への権威に最高の信頼を寄せ、「病気を治すのは医者であり、病人自身でない」と固定感念を持っている患者は、最高のカモであろう。病院はこのカモの上に君臨し、医療関係者が飯を食っている。これが白衣に騙されるカモたち実像だ。 末期患者は、自分がガンであり、これが末期である事が遂に否定できなくなった時、医者は二度三度と巧妙な話術で、再手術を薦(すす)めたり、入院加療を続けた方がいいなどと、患者の耳元で優しく囁(ささや)きはじめる。患者はこの囁きに、最後の希(のぞ)みを賭(か)けようとする。一瞬、希望の光が見えたような気がする。しかし、これがやがて幻想だった事に気付く。医者の薦める一通りの治療を遣って、「やっぱり」というような失望に陥る。 医者は、「1%の可能性があるならそれに賭け、希望を失うべきでない」などと嘯(うそぶ)いた励ましを巧に使う。しかし、1%の可能性だけで末期患者が助かる可能性は、殆ど皆無であろう。 末期ガン患者の場合、ガン発症に止まらず、合併症も現れていて、他の部位に転移している。しかし、医者は患者のこうした、殆ど社会に二度と復帰できない状態を知りながら、微笑みを讃えて、患者を励ます事を忘れない。 しかし、患者も医者の微笑みで片付けられない状態になっている事などは百も承知でありながら、何故か主治医の微笑みに頼ろうとする。何とも不憫(ふびん)な現実ではないか。 その上、主治医の微笑みに頼るには、集中治療と長引く入院によって、経済的負担の重圧が患者を襲う。 再手術をし、贅沢(ぜいたく)な投薬が与えられるが、もやはそれも効果がない事が薄々分かって来る。ついに集中治療と入院費用は莫大(ばくだい)な数字に上り、やがて家も土地も、その他の不動産や動産も売り払って、治療費を捻出しなければならなくなるであろう。 もし、患者が高齢者ならば、老後の為に建てた家屋は人手に渡る事になろう。多額の治療費で、老後の為に夢見た悠々自適な生活は、一切が無に帰するであろう。 そして、いよいよ臨終を迎える時には、素っ裸にされ、子供や孫に残せる財産は皆無となり、自分一代で在金(ありがね)を叩いて、寂しい死を迎えることになろう。 よく世間では、健康な人は一旦病気になると、呆気(あっけ)無く死んでしまう。しかし、日頃から病気がちな、躰(からだ)の弱い人は、返って長生きをする事が多いと思われているが、こうした考え方も、今日の医療の発達した現代では、全くの幻想であろう。 日頃から病気がちの人は、病院に行けば、「良いお顧客(とくい)さん」にされてしまい、長生きと言っても、「薬漬け」にされた状態か、「人工生命維持装置」の中で飼育される「長生き」である。もう、この状態では殆ど人間のしての機能は果たしていないのである。 まず、貴殿が根本的に認識しなければならない事は、次の通りである。
こうした事を考慮すれば、三次元科学では治らない病気は沢山あり、未(いま)だに難病といわれたものが、難病の領域から脱けきれず、画期的な治療法が見出せない現実がある事を知らなければならない。それは、三次元科学が「病気の謎」を解明するには限界があるという事である。 しかし、三次元科学を主体とする現代医学にも、非常に優れた面はある。特に、救急医療に関しての外科的措置は、非常に目を見張るものがあり、緊急を要する疾患に関しては、東洋医学の根幹を為した鍼灸術や按摩術とは比べ物にならない、特記すべき優れた面がある。交通事故者やその他の外科的緊急手術を要する発症には、到底、旧式な医療では追い付かず、緊急医療現場に限り、最先端技術が大きな効果を上げている。ここには、確かに「医者が治している」という側面がある。 ところが、生活習慣などから来る慢性病に関しては大きな成果が上がっていない。その証拠に、ガン疾患が未だに撲滅できずにいる。それは多くの慢性病が、複合の病因が重なり、異次元での障害も取り込んで発症するからである。ここに眼に見える物だけを相手にする三次元科学の限界と落し穴がある。 安易に現代医学の権威に縋(すが)るのではなく、あらゆる事をやってみて、「打つ手なし」と諦めの境地に入った時、「開き直る心」が生まれ、ここから病気や怪我を克服する人も多い。「開き直り」が、生命力の弾けるような強いエネルギーを全身に漲(みなぎ)らせるのである。 したがって、貴殿の意識が怪我を作り出し、ガン・ノイローゼが存在させるのではないか。 「命とは何か」これはこれまで、世俗的に使い古された言葉である。しかし、三次元科学は「最先端」という自惚れた概念を用いながらも、難病に取り憑(つ)かれた患者を一人も治す事が出来なかった。成人病といわれる病気は、単体的な存在ではなく、複合的な存在であり、それに食の誤りが絡んでいるからである。 末期ガン患者に大量の抗ガン剤治療を施し、患者は副作用によって死んで行くのであるが、死亡する患者を解剖すると、ガン細胞は完全に消滅していたと言う。つまり、化学療法によって、ガンが跡形もなく消えて居る人でも、実は死亡している現実がある。この時、医者が書く死亡診断書には、「ガンによる死亡」と書かれる。他の死因は一切記録されないのだ。 医者の権威に翻弄(ほんろう)されて、従順で温厚な患者たちは、その権威に縋(すが)ったのであるが、その期待は見事に裏切られる現実が、医療現場の裏側で起っている。 現代医学を信仰する医師たちは、問診と検査で、患者にどれだけ多くの「病名をつけるか」が、今日では名医の条件といわれ、これに「医師生命」を賭(か)けている医者も少なくない。そして難しいと認められた病気を、どれだけ治したかが名医の技術の高さとなり、権威のベールで「医は仁術」というポーズをとり、まさにこの裏に「医は算術」の金儲けのシステムが医療現場に横たわっている。したがって、「医は仁術」と盲信して居る人ほど、絶好のカモになりやすい。 かつては確かに、人格的に立派で、患者の痛みをよく理解し、医師と言う職業に誇りをもっていた医者はいた。しかし昨今は、社会の悪しき風潮に流され、医を算術と心得、人間の命を弄(もてあそ)ぶ傲慢(ごうまん)な、拝金主義指向の、医師とは名ばかりの悪徳医者もいる。 医者自身も、「心ある医師」ならば、この現実に眼をつぶって、「医は算術」と簡単に割り切ってしまっていいのだろうかという後ろめたさはあるはずである。 医師とは、患者の上に権威で君臨して、高額所得を得る「偉い職業」ではなく、人間の顔の上に、「医師という仮面」を被り、世間に対し、医者を偉いと思わせるように演じているようなものである。特に、「医学博士」という肩書きに騙されない事だ。 医が仁術ではない事は、大半の医者が年間所得が3000万円を超え、そのうちの何割かは、妾を侍(はべ)らせたり、例外的に男色や同性に励む心無いものも居て、医師の品格を辱めている医者が居る事だ。 今は、歯科技工士(歯科治療に必要な入れ歯・充填物・矯正装置などの製作にあたる者で、都道府県知事による免許)の身分であっても、楽に妾(めかけ)を侍(はべ)らせる事が出来る高給取りの時代である。それだけ無知な病人が、彼等から甘い汁を吸われているという事だ。ここに現代の拝金主義に毒された現代社会の恥部がある。金のある所には、色も蔓延(はび)こるのである。 そして患者は、医者の演じる医学博士の「偉さ」に、見事に騙された時、「病気は病院で、医者から治してもらう」という依頼願望が生まれ、自分の背負った病気や怪我は「治らない」という現実を生みだし、結局、こうした意識が自然治癒力の力を失わさせているのである。 貴殿は坐骨神経痛を患い、こんな辛い病気を抱えて、何処に楽しい事が存在しているのかと思っているかも知れないが、辛いから、ポックリ死んで楽になりたいと言うのがお門違いである。 辛い時には、思いきり苦しんで、その辛さと闘い、それが苦しみであるならば、苦しみのたうち回るだけではないか。これ等に囚われて、何故、悩む必要があろう。 結局行き着くところは、「生も死も執着しない心」ではなかろうか。 貴殿の「気を向ける鉾先(ほこ)」は、病気や怪我の事ばかりではなく、これ等から鉾先を変えてみる事も一つの妙案だろう。そうすれば、自ずから楽しさで溢れる「気」を遣(つか)う事が出来る。 今、楽しい事が考えられないのなら、明日も、明後日も、一週間後も、一ヵ月先も、一年先も、絶対に、永遠に、楽しい事など考えられまい。 そう言う心境に至った場合、ますます死は恐ろしいものになる。そして、死を解決できずに死んで行くことになろう。人間は「生死一如(しょうじいちにょ)」の生き物なのである。 |
交通事故に遭い、遣り込められたが (34歳 会社員 男性 会員)
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相手側の行為は、暴力団を介入させたのであるから、明らかに「恐喝」である。
恐喝罪は、他人を畏怖させて、財物を交付させ、または財産上不法の利益を得もしくは第三者にこれを得させる罪である。即座に最寄の所轄警察署の相談係を訪ね、脅されている交通事故の一切を打ち明ける事だろう。 また、交通事故に限り、日弁連などの弁護士に、無料で相談できる制度があるので、こうしたところで相談するのもいいだろう。但し、予約制で相談時間は、僅かに20分以内と言う制限時間は我慢しなければならない。そして二回目からは有料(20分で5,240円前後)になる。 あるいは自腹を切って、着手料の手付金(一概に言えないが着手料10円前後プラス成功報酬)を払い、交通事故専門の弁護士に任せて、解決してもらう方法もある。 但し、解決までに数回の相手側との折衝がある為、大金が懸(かか)る事は免れないだろう。 あるいは、もっと手っ取り早く、貴殿も何処かの暴力団に依頼して、話を付けてもらい事だろう。しかし、弁護士並みの費用は覚悟しなければならないだろう。 貴殿の相談は、単に交通事故の処理を巡っての相談だけではなく、「この腹立たしさを消滅させる方法はないものかと……云々」の方が、大半を占めているようなので、こちらの方について、重点を置いて回答したいと思う。 恐らく貴殿は、言葉で威圧され、狡猾(こうかつ)な人間に我慢ならない、正直で、真面目で、然(しか)も正義漢で、理不尽を赦(ゆる)さない熱血漢的な御仁(ごじん)なのであろう。 さて、損得勘定の陰陽の支配の中で、人は「遣(や)り込めて得した」という行為の代償を、違った形で払わされている事を、全く知らずに、自覚症状の無い儘(まま)死んで行く物が多い。 事件師と言う類(たぐい)が居て、難癖を付け、無理難題を吹っかけ、訝(おか)しな論理で論じ詰めて、相手を言い込め、言い伏せて、「得した」と一瞬思える駆け引きに打って出る。こうした者が、素人の中にも視(み)られるのが「現代」と言う時代の特長である。 相手の揚げ足をとったり、遣り込めて、自らに利益を齎(もたら)そうとする者は、堅気を装おう人間の中にも多い。こうした者は、確かに遣り込める事によって、利益を誘導し一時的に得をする。しかし、その代償は別の形で払わされ、回収され、しっかりと「人生のバランスシート」の帳尻は合っていることを忘れまい。 貴殿がぶんどられた分だけ、相手は別の形でその代償は払わされ、その帳尻は合っている事だ。 人の運命に、陰陽の支配が働いている事を知らない唯物論者は、「そんなことはあるものか」と言うかも知れないが、こうした事実を証明する材料は、歴史の中を探せば幾らでもある。 例えば、関ヶ原の合戦が起った時、大坂方についた薩摩(さつま)の島津藩、長州の毛利藩、常陸(ひたち)の佐竹藩(後に秋田へ国替えとなる)などは、関ヶ原の戦いが終ると、徳川家康が天下を取った為に、外様大名にされて冷飯を食わされる羽目になった。 爾来(じらい)、これらの大名達の辛酸な思いと遺恨(いこん)は、長きに亙(わた)り、江戸年間、ずっと持ち越される事になる。 ところが、徳川幕府の268年間を通じて、外様大名達が辛酸をなめた事は家訓として代々伝えられ、徳川も幕末を迎えた頃、この三藩は徳川幕府に背を向け、官軍側について倒幕運動に立ち上がった。 これは、関ヶ原当初の主君や家臣が苦渋に耐え忍び、子孫にその唸(ねん)を残し、先祖の思想を受け継いで立ち上がったまでの事である。そして徳川幕府打倒の為の急先鋒になった事は、歴史の示す通りである。 こうした歴史の中で「遣り込められた」という実例を探すと、幾らでも出て来て、本来人間と言うものは、世代が代わって何年経っても、あるいは何十年、何百年経っても、長年の遺恨や苦渋をいつまでも忘れず、必ず怨念(おんねん)を晴らす因子を子孫に含んで、生きて行く「意識体」であると言う事だ。 近代に眼を移せは、例えば三国同盟(第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリアの三カ国間に結ばれた軍事同盟で、1940年成立。日独伊防共協定を発展させたもの)で、米英との対立激化で第二次世界大戦に敗れたドイツは、連合軍(アメリカを中心にしたイギリス・ソ連・フランス・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・中国・フィリピン)の仕掛けた見せしめ的で理不尽な、ニュールンベルグ裁判で、ドイツ人達はこの裁判に徹底的に反抗した。 そして、ゲーリングの如きは、連合国側の判事や検事に向かって、「お前達は、いま俺を裁いた。後になってお前達も、このように裁かれる日がやって来るぞ」と居直って、手厳しく牙(きば)を剥(む)いた。 この裁判を警備していたソ連軍の憲兵は、慌(あわ)ててゲーリングに拳銃を向けたほどの、凄まじい反抗だったと言う。ゲーリングのこうした反抗も、今日の歴史から見れば、アメリカが、かつてベトナム戦争の泥沼の中で足枷(あしかせ)状態になったのも、また、現在のイラク戦争が招き寄せた中東の世情不安で、イラクの治安悪化で、米兵の戦死者数が、4千人の大台に迫ろうとしているのも、あの時、ゲーリングの吐いた言葉が満更(まんざら)嘘でない事を示している。 更には、ソ連が崩壊し、社会主義や共産主義が「科学」の名を借りた虚構理論であったことは、昨今の社会現象が示す通りである。 ニュールンベルグ裁判は東京裁判(極東国際軍事裁判)と抱き合わせにした、見せしめ的な連合国側(アメリカが中心)の仕組んだ裁判であったが、判決理由のない判決は、何とも不可解さを感じさせる後味の悪い裁判であった。それだけに恨みを残す。 東京裁判は、日本が歴史的に中国大陸に侵略行為を行った事を認めさせる為の裁判であり、一方、英米は自分達のアジア大陸の侵略を正当化しようと狙ったものであった。しかし、近代世界史からすれば、侵略の張本人は、むしろ日本よりも英米などの西欧諸国であり、これを本当の歴史的事実として捉えなければならない。しかし、戦勝国の奢(おご)りは、こうした歴史的事実を自分達の都合のいいように捏造(ねつぞう)したことだ。 また、東京裁判は、裁判の公平さは認められるが、判事や検事は戦勝国側から構成しており、敗戦国側から判事や検事を交えぬのは、いかにも不公平であり、片手落ちであった。 東京裁判のアメリカの言い分としての内訳は、「日本が人道に反した行為をした」ということであったが、むしろ人道に反して、東京大空襲などを敢行して無差別的な絨毯(じゅうたん)爆撃をしたり、人類初の原爆投下で広島・長崎の非戦闘員を大量殺戮(さつりく)したのは、アメリカではなかったのか。 こうした人道に反した行為を棚上げにして、この違反が裁かれずに、敗戦国の日本のみを裁き、罰したのは、いかにも不公平な事であった。これにより、日本は軍官のみならず、文官まで極刑に処され(例えば、元首相の広田弘毅)、殆ど無実と思える者まで絞死刑が課せられた。また、その犠牲者の多くは、A級戦犯より、下級将校や下士官・兵だったB・C級戦犯の方だ。 その上、この裁判では虚言で処刑される者もいた。心無い人間の証言により、虚言で死刑にされた軍官がいた。武藤章(むとう‐あきら/陸軍中将)である。 武藤は、田中隆吉(たなか‐りゅうきち/陸軍少将)の虚言で死刑に処された。田中は精神異常者で、虚言性の人間で、『敗因を衝く・軍閥専横の実相』という陸軍の内幕暴(あばき)きをした本を出版し、太平洋戦争の開戦当時の責任は、首相の東条英機と軍務局長であった武藤に責任があるとし、これがG・H・Q(General Headquarters/連合国軍総司令部)の注目を惹(ひ)いた。 そして、武藤は東京裁判で田中の虚言により、不利になって、後に絞首刑になる不遇を招いた。 武藤はこの時、未決囚として巣鴨プリズンに居た笹川良一に、法廷で判決を受けた帰途、このように喋っている。 「笹川さん、私が万一、絞首刑になったら、それは田中隆吉の虚言によるものと思って下さい。その時には、田中の身体に取り憑(つ)いて狂い死にさせてやるんだ。霊魂が不滅であるかどうか、見ていて下さい」(塩田道夫著『天皇と東条英機の苦悩』より) 武藤は絞首刑で処刑されたが、武藤の怨霊(おんりょう)は、その後も生き続けた。 武藤が処刑された後、暫(しばら)くしてから田中は廃人同様になって狂い死にするのである。この現象は、関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、西軍敗戦の敗因を作った小早川秀秋(こばやかわ‐ひであき)が、合戦終了後、狂い死にしたのに酷似するではないか。 ここで、霊魂があるとかないとか、怨霊が存在するか否か、こうしたオカルト主義的なことを論ずる積もりはない。しかし、霊は不可視世界の意識体である為、その人の思いである「唸(ねん)」は、死した後も意識体として残る。こうした意味で、肉体を持たない霊魂は生き続けている。 もし、交通事故の一件が、警察の相談係(此処で相談しても「民事不介入」という言葉が遣われ、相手とよく話し合うか、法律の専門家に相談しては、で終わりだろう)でも解決できず、事故相談でも解決できず、更に貴殿が不等な扱いを受けて、相手の要求通りに、自分の車の保険で相手の車を修理してやり、自分の車は自分で修理すれば、この全費用と、交通事故専門の凄腕(すごうで)弁護士を雇ってこの一件を解決したとしても、その弁護士費用の一切と比較すれば、ほぼ同額の金額になるのではあるまいか。 また、警察署の相談係に行くにしても、日弁連などの弁護士の無料相談に行くにしても、この為に会社を休んだりなどの無駄な動力がいり、それに関する精神的な煩雑(わずらわ)しさも、次から次へと派生して来る事だろう。その点、言い成りになって、屈辱(くつじょく)に準ずる事も、決して悪い事ではあるまい。 金銭的ならびに精神的な苦痛と、理不尽な相手の言い成りになるのとは、その比較は甲乙つけ難いであろう。その比較は、貴殿に委(ゆだ)ねるとして、心の問題で考えて行くのなら、遣(や)り込めて得した人間は、その後、必ず「何かで遣り返される」と言う事だ。 相手に、こうした運命を背負わせる事も、一つの妙案である。遣り込めた者は、いずれ形を変えて、何かで代償が払わされ、必ず自分が遣り込めた分だけ、遣り返されるのである。それは、金額相当分の大損をするかも知れないし、手・足を失う大怪我か、大病であるかも知れない。人間は、運命の陰陽の支配を受けて、人生を体験しているからだ。 また、相手の要求通りに、相手の車を自分の保険で修理してやり、自分の車を自分で修理するのであるから、その金額は決して安くはないし、貴殿のその後の自動車保険の保険料も、年間支払額が一挙に跳ね上がり、来年から高騰(こうとう)するだろう。それだけの金額を投じて、相手の言い分を100%と認めるのであるから、今度は相手側が、貴殿の言い分や説教を聞くだけの義務は生まれて来よう。それだけの金銭的犧牲を払うのであるから、相手も貴殿の言う事は、聴く他あるまい。 自分の思っている事を毅然(きぜん)として、正々堂々と述べ、このように陥れられ、理不尽な解決法が間違っている事ぐらいは徹底的に主張するべきだ。相手を詰(なじ)るのではなく、相手の人間としての良心に訴え、「非は道義的には、あなたにあるではないか」という事を明言すべきである。 思想統一して、今度は貴殿と逆の立場で物を考えさせ、「あなたと私が逆の立場で、あなたが自動車保険に入っていて、私が保険に入っていず、私があなたの車に激突したら、あなたは私の車をあなたの保険で修理して、あなたは自分の車を自分で修理するのか」と、毅然(きぜん)とした態度で問い質(ただ)す必要もあろう。相手の理不尽に大金を投ずるのであるから。 これだけ的を射た詰問に、相手が少しでも顔を背けたり、動揺する目付きをしたり、貴殿の言及に沈黙したりすれば、精神的には貴殿の勝ちである。貴殿の人生の歴史の中に刻まれた、この理不尽な言い掛りは、やがて人伝いに広まり、あなたの受けた行為が、人間として赦(ゆる)されない無理難題な言い掛かりだったと、必ず後に歴史が証明するであろう。 その上、暴力団と言う、虎の威を藉(か)る狐に成り済まして、貴殿を脅したからである。この時点に至っても、恐喝罪は成立する。 この時は、貴殿の車にぶつけた張本人の相手も、警察署の頼りにならない相談係の警察官も、事故解決に頼りにならない交通事故無料相談の弁護士も、社会の白日の下(もと)に曝(さら)され、今日の社会が拝金主義に毒されている現実に、再検討される時機(とき)を与えるだろう。 相手が悪かったとか、不運な事故に遭遇したと諦めるのではなく、きちっと「示談書」を作り、修理の、何に幾ら懸ったかの修理内訳を修理工場から発行してもらい、この事実と、理不尽な行為を明確にすることも必要だろう。 この遣り取りを、後々の為、録音テープにとっておく事もいいだろう。家族からも恐かった事の証言をとって、記録しておくことも大事だろう。心の健康を考えるのなら、口惜しいと思うだけで泣き寝入りするのではなく、証拠を揃えて糾弾(きゅうだん)の機会を待つ事を御薦めする。また、証拠が揃えば、検察庁や警察署への貴殿自身が「告訴状」を作り、告訴する事も可能である。 |