人間はどうして心が病むのでしょうか (34歳 主婦 無料相談室宛)
|
まず単刀直入に云うならば、この病気は神経症または自律神経失調症でなく、明らかに統合失調症(二大精神病の一つの精神分裂病)であろう。早急に、良心的な精神病院(【註】精神病院には上・中・下のランクがあり、これを正しく把握し、充分な説明を受けて納得した後の治療が必要である)を探し、精神科医の治療を受けるべきである。
さて、古来より人間の生命を支えるものは、精神と肉体が生命力の基礎とされて来た。人間の生命維持力はその中心が魂(こん)であり、この働きにより精神が維持され、魂が肉体から離脱する時が、「死」であると考えられた。したがって病気や疲労、怪我や事故の遭遇は、魂の一時的な遊離であり、一時的に遊離した魂が永久に戻って来ない状態に至ると、つまり魂が病へと変貌し、その後、肉体は失わわれると考えられた。 これを更に東洋医学的に考えていくと、その文献『霊枢』邪客篇には、「人は天地と相応ずる」とある。人間は、生れ落ちる過程で、生・老・病・死の四期(しき)が、必然的に人生として割り付けられる。人の死は、「生」の逆のコースを辿って死に向かうという。そして「病」は、この四期の最後から二番目に置かれている。 人間が生命活動をすると云う事は、天地の陰陽が、人間の体内にも顕われ、陰陽の働きを通じて相反する性質をもつ「陰」と「陽」の二種類の気が体内を循環し、気血が運行する事を云う。万物の化成は、この二気の消長による。これを総じて、人体を「小宇宙」と定義しているのである。 これは天体の大宇宙(大太極)に対して、人間はそれに応呼する小宇宙(小太極)であるからだ。 気血の働きを挙げると、人体内の生気と血液が循環している。 手には、太陽小腸経(たいようしょうちょうけい)、少陽三焦経(しょうようさんしょうけい)、陽明大腸経(ようめいだいちょうけい)、太陰肺経(たいいんはいけい)、少陰心経(しょういんしんけい)、厥陰心包経(けついんしんぼうけい)があり、また、足には太陽膀胱経(たいようぼうこうけい)、少陽胆経(しょうようたんけい)、陽明胃経(ようめいいけい)、太陰脾経(たいいんひけい)、少陰腎経(しょういんじんけい)、厥陰肝経(けついんかんけい)の三陰三陽の、合計12経絡を教えている。 人間が生まれながらに持っている成長ならびに発育の根源は、「生命力」である。この生まれながらの気を「先天の気」という。また、生れ落ちた後、飲食や大気などから取り込まれる酸素などの天空の気と、「先天の気」を合わせたものを「後天の気」といい、「先天の気」と「後天の気」を合わせたものを「真気(しんき)」といい、これが気の本質である。 人間は気の運行により、成長と発育の生命活動を営むことが出来る。この真気運行の通路が経絡であり、ここに12経絡と、奇経脈(きけいみゃく)の任脈(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)を合わせて「14経絡」となる。 衆生(しゅじょう/一切の人類や動物で、六道を輪廻する存在)が死んで次の生を受けるまでの間を「中有(ちゅうう)」という。そして、中有は、「三つの経験」をするといわれる。 その三つの経験とは、「死の瞬間の中有」「死した後の表現形態の中有」「再生を求めて父母を探す中有」の三つであり、この三つの経験は、「生」とは、逆のコースを辿って行われるという。 東洋医学ではこの「三つの経験」を、次のように定義している。 「上焦(じょうしょう)」を横隔膜(おうかくまく)より上とし、「中焦(ちゅうしょう)」を横隔膜から脾経の神闕(しんけつ)までとし、「下焦(かしょう)」を臍(へそ)から会陰(えいん)までとしている。 人が誕生する過程を追えば、それは「焦(しょう)」からはじまる。「焦」は火が燃えて、それが焦(こ)がす態(さま)を表す。 人の誕生は、生命力の「火」が焦げ始める事からはじまる。逆に死は、この「火」が消える事をいう。精液という、「水」から生じた生命力は、「焦」の尽きるとき「末期(まつご)の水」を必要とする。 つまり、人間は、中有→水(精液)→焦→末期の水→中有というプロセス通りに再生を繰り返し、生まれ変わりをするのである。これを仏道では「輪廻転生」という。 こうしたプロセスを「死」の方向から見つめると、「病」は死から二番目の段階であり、魂(こん)の一時的な遊離か、永久に戻って来ない方向のどちらかと云う事になる。 生・老・病・死のプロセスから考えると、「病」は老いる事が直接的な原因なので、「老い」という現象を辿ると、この老いは、現代風に云っても、「精神の衰弱」であると考えられる。精神の衰弱は、多くの場合、「疲労」であり、疲労が蓄積されて行くと、まず、錯乱が起り、次に神経的な苛立ちが起る。こうした段階を「長期浸透過労症」という。 つまり精神的ストレスが、肉体内に浸透し、やがて肉体を蝕む症状を示すのである。これが精神医学で云う、外部刺戟(しげき)が負担として働き、心身に生ずる機能変化であり、寒暑・騒音・化学物質など物理化学的なもの、飢餓・感染・過労・睡眠不足など生物学的なもの、精神緊張・不安・恐怖・興奮など社会的なものなど多様がある。そして忘れてならないものが、「文化」や「気候」「風土」の異なる事から起る、「文化的新奇性」である。 この状態に至ると、奇妙な「心因反応」が起って来る。まず、無感覚に近い状態になり、心理的虚脱に襲われ、重度の場合は、複雑な経路を辿って最終段階に辿り着く。この最終段階に辿り着くプロセスには、これまでに種々の刺戟があり、この刺戟状態が、刺戟過剰となって、心因反応に関わっている。 刺戟状態に置かれる人間は、周囲の些細(ささい)な刺戟に対しても過剰反応するようになり、また、如何なる小さな挑発や、注意、指摘などに対しても、此処に至るプロセスにおいてこれまでの重圧が重なっている為、少しの刺戟により、「まるで大槌(おおつち)で、自分が中に居る住まいの外壁を打ち壊されている」ように感じるのである。そして、激しい刺戟により、これ以上中に居る事が出来なくなり、この刺戟により、アワを喰って逃げ出そうとするのである。この状態が東洋医学で云う、「一時的な魂の遊離」である。つまり、脱魂状態と云うわけである。 こうした状態では、まず、「心に戸惑い」が起る。混乱ならびに錯乱の兆候がハッキリと顕われ、人の言葉、物音、外からの物理的な肩を叩かれるとか、撫(な)でられるという小さな刺戟、周りの景色などを、環境変化の「畸形(きけい)」と捉(とら)え、正常に機能している感覚と、異常に大きな雑音や、刺激的に飛び込んで来るサイケな色彩との区別が、認識できない錯乱が起るのである。 この結果、地面の中から声がする、空中に人が浮いているような幻視を見る、平家(ひらや)に棲(す)みながら二階から物音がするなどの奇妙な兆候が見られ、緊張は益々高まり、イライラし、興奮し易い状態となる。こうした異常な感覚を体験している時、この異常者の身体動作は、主に頭を中心にして、前後左右に躰(からだ)を揺すったり、口が開きぱなしになって、締まりのない恍惚(こうこつ)状態になり、涎(ゆだれ)を垂らしていることすらある。 あるいは突如立ち上がったり、腹を立てて荒れ狂ったり、意味不明な暴力で周りの者に危害を加えたり、一人でぶつぶつと何かを呟(つぶや)いたり、同じ言葉を繰り返す独り言が多くなり、更にこうした状態になる時の顔の表情を見ると、顔全体は赤く赤面症のような状態になりながら、額や鼻の部分は、黄ばんだり、青くなっている場合が多い。そして、「鼻が正中線より少しズレている」ことが確認できる。 これは脳に何らかの圧力が掛かり、左右の脳が極端にバランスを失った状態になっていると言える。この段階に入ると、遂に感情疲労の段階がやって来る。感情疲労が起ると、無気力になり、生きる気力が失われて、日常活動の行動すら失われてしまうのである。 例えば、便意を感じても、便所に行くと云う行動が失われ、その場で垂れ流しをする。あるいは衣服の着替えが出来なくなったり、単純な作業を長時間掛けても目的が果たせなかったり、何かにブレーキが掛かったように無気力な症状を示す。また、動きを停止させ、同じ恰好で何時間もその儘(まま)で居る事がある。 無感覚になり、無気力になり、精神的、肉体的に、幼稚な発育不全者のような振る舞いをし、時には言葉すら忘れ、喋れなくなってしまう。そして自分の殻(から)に引き籠(こも)ると言う段階に到達する。 つまり、新奇性に充(み)ちた、異次元に置かれてしまうのである。発育不善者としての感得は、周囲が総て目新しく、普通でない事と映るのであるから、人間が理性を欠いた状態に陥れられると言えよう。「幼児帰り」などがそれである。 人間が突如として、自分の利益を欠いた状態に至ったり、自分の名誉に反した事を行うのは、まさに発育不全者に酷似した行動であり、例えば航空機のパイロットとあれば、飛行中に逆噴射を掛けて、飛行を失速させたり、列車の機関士ならば赤信号に突入したり、車を運転しているドライバーならば子供の列にアクセルを一杯に踏んで突っ込んだりと、危険で異常な行動を平気でやるのである。 こうした行動は、自分の利益や名誉に反しての逆反応行動であり、人間行動の研究では、これが火事、洪水、地震など、その他の危機に直面した場合に、理性を失い、奇抜な行動者が居る事で確認されている。 正常者と異常者を隔てる境目は、理性における精神状態であるが、最も安定したと思える正常者であっても、周囲の急激な環境変化によって、奇抜な行動をとる者が出る。こうした人達は、肉体的な異常は、外側からは何も感知する事ができない。しかし一旦、環境が急変し、適法不能に追い込まれれば、その行動は奇抜な形となって顕われ、周囲を唖然(あぜん)とさせるものである。 この場合の人間は、完全に混乱し、重度の錯乱状態が見られる。錯乱が重度になれば、落ち着きがなくなるか、慌てると言うことがなくなり、ただ、呆然(ぼうぜん)とした放心状態となる。そして正常者でも、一旦このような状態に陥ると、極めて初歩的な理性に基づく行動や決定ですら、大きな間違いを犯したり、生活活動に支障が顕われて来る。 特に、こうした状態を霊的世界から見ると、正常者でありながら、自分の外に向けられた「眼」が、外界ばかりを視(み)ている人は、眼からの刺戟が鮮烈かつ強烈になり、環境の変化やそこから入って来る視界が刺激的であれば、それだけで相当なダメージを受ける。それは強烈な刺戟を、一旦弱めて、物理的、化学的、生物的、社会的、刺戟要素を阻止する「心のフィルター」が貧弱であるからだ。 「心のフィルター」が貧弱な人(【註】霊体質者に多く見られる)は、交通事故やその他の事故の目撃者となっただけで、精神的な異常が派生する。 例えば、遊園地に遊びに行き、そこでゼットコースターが大事故を起し、無惨な死者が何人も出た場合や、あるいは大交通事故に遭遇して、大規模な玉突き状態が起りそこで手・足や胴体に大きな破損が起って無惨な死体が転がっている状態を見た場合や、大地震で人間が圧死する現場に居合わせたとか、焼け死ぬ寸前の人間を目撃したとか、ケロイド状の屍体(したい)を何体も目撃し、これが起因して激しい心因反応が起った場合などは、「心のフィルター」の貧弱さが心因ショックと大きく絡んでいる。 手・足や胴体がちぎれた屍体や、焼け爛れてケロイドになった屍体は誰が見ても気持ちの良い物ではない。また、辺り一面と云うのも凄惨な光景であろう。しかし、同じ物を目撃しながら、これに激しいショックを受けて、重度な心因反応が起る人と、そうでない人がいる。これは慣れも伴うであろうが、例えば凄惨な事件現場を年から年中見ている警察官、火災現場で無惨な焼死体を見る消防士、墜落した航空機の残骸や死体処理にあたる自衛官、海洋事故を処理する海上保安官らは、凄惨な状態を繰り返し見る事で、「慣れ」が生まれる。この点、外科医や看護師も同じであろう。 しかし、「心のフィルター」が貧弱な人は、これだけで精神に異常を来し、大きな心因反応が顕われる。 そしてこの心因反応の背景には、眼からだけ入って来た刺戟にも関わらず、この当時の音を耳で感じ、屍体(したい)の匂いまでを自分の鼻で嗅ぐという幻臭が顕われ、実際には体験しないものまで拾い上げてしまうのである。したがって、視覚から襲う「無惨な屍体」は、それに特殊な匂いがあり、特殊な砕ける時の音があり、幻臭や幻聴となって心の裡側(うちがわ)に転写され、この世の阿鼻叫喚(あびきょうかん)が焼き付いてしまうのである。 日本人は、大陸系の民族や欧米人と異なり、心がナイーブに出来ていて、人間が悲惨になって死んでいると言う状態を冷静に、厳格に、冷徹に捉えることができない。屍体を見ただけで卒倒する人が多い。こうした心のナイーブな一面も、実は、現代人の「心のフィルター」を貧弱にしている元凶を作っているのである。 太平洋戦争末期、日本は連合軍の焼夷弾(しょういだん)攻撃で、日本列島の殆どを焼け野原の焦土に変えられたが、アメリカ軍の用いた焼夷弾には、爆弾の弾尾に「風切り板」(【註】鋼製尾翼部分に取り付けられたもので、六角形の筒状)という羽根が付けられ、この羽根は、何とも奇妙な「ヒューンー」という音を発した。 これは意図的に仕組んだ、焼夷弾などを使って、恐怖を起こす為に、心理作戦に出るアメリカ軍の戦術であった。これは心理作戦の一つとして、これを取り付ける事によって、爆弾投下の際に「風を切る音」を発生させるのである。「風を切る音」は爆弾投下を受ける、地上の避難民には、以上の大きな心理的な破壊を齎(もたら)すのである。 心理学的にも、「風切り板」から発生する「ヒューンー」という、尾を引く、この独特の異様な音は、「精神に異常を来す周波数」にセットされていた。続けてこの音を聴くだけで、戦場に慣れていない現代日本人の10〜15%ほどの人は、完全に発狂すると言われた。近代戦は、心理作戦なども総動員した、巧妙な戦争である事を知らねばならない。 鋼製尾翼に取り付けられた銀色の風切り板は、鋭い高音の笛のような音色を発し、容赦なく、無差別に襲い掛かるのである。 脳の音中枢の恐怖心を取り除く為には、こうした音や、爆発音、砲弾が破裂する音に動揺することなく、精神統一を図ると同時に、慣れておく必要があろう。そして焼夷弾投下の大きな目的は、大火災を発生させて非戦闘員を焼き殺し、一人残らず鏖殺(みなごろ)しにする作戦であると言うことを忘れてはならない。 襲って来る順は、音中枢への破壊心理から始まり、その後、爆弾の雨が降って来る。音中枢が破壊されれば、あえて発狂し、爆弾の雨の中に突き進む避難民が顕われるかも知れない。 こうした実情を改めて再認識すると、現代人に無差別に襲い掛かる心因反応は、大戦当時と同じ物か、それ以上の圧迫が掛かっているものと思われる。これが、最も安定した正常者であっても、感情的疲労により、発狂する側面が横たわっていると言えよう。 発狂予備軍が、発狂に至るプロセスには、例えば環境の急激な変化や、突然のアクシデントにより大災害や大事故が発生すると、まず、最初の反応は「ただ呆然とする」ことで、為(な)す術(すべ)を知らない状態が起る。 これが、人間が常々、「対岸の火事」は自分とは直接関係がないと思っている意識である。また、こうした災難は、自分の上に降り掛からないと、高を括(くく)っている意識である。何処かの国の戦争も、日本人にとっては、「遠い国の花火大会」なのである。 その為に、突然の大きな刺戟は、自分の普段想像をしている許容量をオーバーすると、やわな「心のフィルター」を破壊して、精神異常が顕われるのである。 「心のフィルター」が貧弱な人ほど、日常を「非日常」に切り替える心の準備が疎(うと)い。また、疎いだけに止まらず、いま自分に降り懸(か)かっている実情を正しく把握する事が出来ず、「自分に降り懸かっている事を拒む心境」に至るのである。 したがって、非日常を素直に受け入れることができないのである。これを拒めば拒むほど逆状態になり、遂(つい)に適応しきれなくなるのである。 特に物質文化程度が高度になればなるほど、こうした状況には対応しきれなくなり、「自分とは無関係」と思っていることを最後まで押し通し、それを闘おうとするのである。 この状態が最終段階に入ると、呆然自失(ぼうぜんじしつ)の無気力状態が顕われ、例えば、自分が母親なら、赤ん坊の変わりに人形を抱いて、静かに椅子を揺すりながら、揺り椅子に身を委せているような風情を想像し、その状態に居る事を確信して、この行動を何時間も繰り替えしたりすることがある。 また、あるいは、自分が壮年の働き盛りの中間管理職の立場にあって、激しい競争原理が繰り返えされる職場にいて、心身に何らかのプレッシャーが掛かり、それがストレスとなった場合、この人は会議などに出席した時、その席上で「頭を左右に振る」あるいは「上半身をゆっくりとしたスピードで左右に振る」という症状が顕われる。これは「テクノ・ストレス」と云われるもので、今日は中間管理職層に多いと云われている。 独り言をぶつぶつと呟く。無意識に頭や躰が左右、前後の何(いず)れかに揺れる。頭の中で、自分以外の誰かが喋っている。空間に幻想が顕われる。単純な作業に長時間を要する。電話がうまく掛けられない。その他、知覚・記憶・思考に障害が出るなどである。 この状態が、今日では統合失調症と云われるもので、かつては精神分裂病といわれた病気である。この病気は、多くは思春期頃から青年期にかけて発病し、妄想や幻覚などの症状を呈し、しばしば慢性的に経過して、人格の特有な変化を来す内因的精神病とされていたが、親がこうした病気である場合、その子にも、心因的な因子として陰性的に保菌者として温存され、何らかの急激な刺戟や環境変化によって、これが浮上するものと考えられている。あるい日、突然、環境の急変や非日常が顕われる事により、浮上するのである。 例えば、「心のフィルター」が貧弱な人は、外国旅行をしたり、時差の異常で、ある日突然、浮上して来る事がある。 その場合にまず起る事は、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなることである。 つまり「心のフィルター」の貧弱な人は、感性的には、常人以上に敏感で、敏感過ぎる感性は、時として、大事故や大災害などに遭遇すると、戦時下のあらゆる戦闘状態と同様に、心理的に圧迫された心因反応が起り、その元凶を齎(もたら)すものは、余りにも強過ぎる刺戟あるいは急激な環境の変化と言えるであろう。 「心のフィルター」の貧弱な人は、例えば外国を旅行する場合、その国の文化を十分に研究しないで、長期間旅行したり、留学したりなどの長期滞在を行った場合、これは心理状態に覿面(てきめん)に顕われて来る。こうした場合に即顕われるのは、その国の言語である。言葉の疎通が充分に行われない場合、それは大きなストレスになる。 しかし、こうした実情が囁(ささや)かれながら、これを無視して長期滞在をしたり、国内の各地を旅行したり、溜学すると言う、安易な計画で外国の異文化に接する日本人は少なくない。 まず、最初のプレッシャーは言葉である。昨今は英語圏の国が多くなったが、それでも英語が不充分な日本人が、安易に英語圏の国に行って、その後、大変なストレスを抱え込んで帰国する日本人は多い。 普通、英語圏でも、その国の母国語と文化を十分に研究した上で、気候や風土をも研究する必要がある。その上に、万一の場合の、中級英会話ができると云うことは必須条件だろう。しかし、これを無視して、海外へ出かける日本人は多い。 意思の疎通が、英語では駄目と最初から諦め開き直って居る人はいいが、自分のある程度の英語力があり、そこそこの教養を持っていると自負している中途半端な人は、第一日目のカルチャーショックで、精神異常が起るであろう。「こんな筈ではなかったが」というような、自他の格差である。 外国の文化に充分な準備がなく、こうした国に飛び込んだ旅行者は、余りにも自分の想像した感覚と違う為、最初に経験する困難な異常事態が発生する。 そして、これを背負い込んだまま帰国し、その後、精神に異常を来すのである。 これは心理学上で云う、「適応の失敗」である。 この失敗には、戦争とか、大災害と云う実体験がないにも関わらず、平和の中から派生する危険である。「心のフィルター」の貧弱な人は、往々にしてこうした事態に陥り、新奇性に対応しきれない事態が起るのである。 また、心理学上の学術用語を用いれば、一種の「個性の適応不良」であって、新しい境遇に遭遇した人の中で、適応性がない場合、一時的に「うまくない場合に起る反応」が、文化の違いによる衝撃となって顕われるのである。 これと似た症状は、「混乱」や「まごつき」の中にも見る事が出来る。あるいは現代社会の「ひずみ」の中にも顕われている。こうした条件下に置かれて居る人は、その上に、疲労、心配、緊張、強度の苛立ちが重なれば、それが大きなストレスになり、やがては一種の「恐怖」(【註】にがて意識)が派生して、何かを避けるようになり、やがて無感覚となり、あるいは突如激怒して感情的となって、自らの殻(から)に閉じ籠(こも)ってしまうのである。 したがって、現代社会の過剰刺戟は、異様な反適応性的行動の元凶になっている。 こうした反適応性的元凶は、単に心を病むだけではなく、これが引き金となり、「自殺」に奔(はし)ったり、過労死や突然死で斃(たお)れるというような、ストレスが直接的な過剰刺戟となる場合も少なくないのである。 また、感覚、認識、決定と云う異なった三つのレベルで起る刺戟が重なれば、それが起因して、体質の悪さから、ガン発症を発病させたり、不馴れな環境の変化により、心理的混乱から種々の現代病を発症させると言う現象が起こっているのである。 差し詰め、ガン疾患や高血圧、糖尿病などはその代表例であろう。 こうした元凶の裏には、適応症候群の「初期」の警告反応につづいて、「抵抗期」に入り、副腎皮質機能の亢進による糖質・蛋白質・塩類の代謝の変化が起って、一時的に防衛体制をつくる。 しかし、ストレスがなお継続すると、副腎皮質は疲労に陥り、「疲憊(ひはい)期」に移行する。以上の防衛反応が適度に進行しない場合にリウマチ・胃潰瘍・ショック等が起り、憑衣状態が進行する為、取り憑き状態が起り、現代病へと移行する場合もある。 人間の、「気が病む」と言う状態は、単に心の問題だけではなく、精神状態不安定の心が、肉体に関与して、肉体までもを滅ぼす凶事にまで進展する事もあるのだ。 こうした場合の進展に見られる現象は、例えば、新興宗教などの単調で連発的な、繰り返しの題目や、マントラの詠唱、宗教的熱狂、神秘主義への深入り、麻薬の乱用などの感覚の超刺戟による状態からも発症し、例えば太鼓を打ち鳴らして信者を洗脳する新興宗教や、ビデオ学習などを用いて洗脳を行う新興宗教では、その信者が、往々にして洗脳され、宗教的熱狂から精神障害を来している場合も少なくない。 つまり、こうした現象の一切は、「心のフィルター」が軟弱な人が、一度異文化に接すると、その超刺戟によって、三つのレベルである、感覚、認識、決定が一挙に狂わされてしまうと云う事なのである。 あなたの友人も、こうした状況下に置かれ、精神分裂病状態(何度は不明だが)にあると言える。早急に信用のおける医療機関に出向き、良心的な精神科医の治療が必要であろう。 |
精神病院の上・中・下のランクについて (28歳 OL 無料相談室宛)
|
日本の医療現場の中で、弱者を利潤追求の、喰い物の種にして、内部リンチや、それに近い暴力行為を、医師や看護師、ソーシャルワーカーや心理療法士、作業療法士ぐるみで行っている病院が未だに存在していると云う事だ。特に、精神病院や老後施設ではこうした傾向にあり、弱者が苛められ、喰い物にされている現状は、未だに跡を絶たない。
私たちの記憶の中には、1983年3月に起った、宇都宮病院(精神科)の患者へのリンチ事件は、未だにその記憶が新しい。 今日でも、精神病院において、その病院の院長と云う立場の医師は、絶対な権力を持っている。もし、院長なる人物が、かつて世間を騒がせた宇都宮病院のような利潤追求の院長だったら、患者がこの暴君に対し、奴隸として労働を無償提供させられ、また院長一族に奉仕をさせられる哀れな奴隸と成り下がるだろう。その上、一生涯病院に閉じ込められ、裟婆(しゃば)の世界とは、入院した時点で永久隔絶される事もある。 一方、こうした悪逆非道の精神病院が存在する中で、暴君とは程遠い、良心的な、鉄格子が存在しない解放病棟を持つ病院もある。これを「上のランク」の病院と云うが、ここでは、親身に患者側の立場に立ち、患者の社会復帰を目的にして、院長や看護師、ソーシャルワーカー、心理療法士、作業療法士を含めて献身的に努力する病院も僅かながらにある。 その為に、精神病院は海外の病院も含めて、ピンからキリまであり、そのランクには上・中・下があるということだ。 昨今は、精神病患者は、自分の名前を喋ったり、名前を書いたり、食事が出来ないと云う状態を、「入院三ヵ月以上の重症」と称するようだ。 この三ヵ月間に、医師の診断が正確で、適正な投薬がピタリと一致し、一発でその効果が見れる場合は、入院三ヵ月で、薬の飲用をしながら、ほぼ元の状態に復帰するが、少しでもこれが的中しないと、この入院は半年、一年、二年、更には五年、十年、一生涯と長引く事になる。 ただこうした背景には、患者の心理があり、患者が病院の鉄格子の外に出たい為に、その心中には「外に出る」とか「裟婆で出る」という心が先行する為、自らの本来の問題を解決する能力を失っている場合がある。 つまり、患者と治療者の関係は、本来ならば医療現場で「対等な立場」に立ち、大いにディスカッションして、治癒の為に最も効果的な方法を探るのであるが、精神病院ではこの関係が崩されている事が少なくなく、治療者は患者の意見を否定して押さえる側、そして患者は治療者から総てについて「抑えられる側」になってしまうのである。 こうした状態に患者が置かれると、患者は卑屈となり、自閉となり、夢想などの症状が起り、ますます人格を失った存在へと変貌して行く。また、こうした関係にある精神病院では、その病院の多くの病棟が、喧華やボス支配などの階級の格差が生まれ、看護師などが、こうした患者との暴力沙汰に絡んで、暴力状態が日常茶飯事となる。 昨今は「開かれた精神病院」と云うキャッチフレーズで、多くの患者を限度一杯に収容している精神病院もあるが、病棟内でのいざこざは絶えず、治療者側も、患者側も、疲れている場合が見受けられ、その上に治療者側の熱意が失われていることもある。 精神病院とは、精神科医一人が全指揮権を握り、看護師、ソーシャルワーカー、心理療法士、作業療法士のスタッフを集め、ここに一大医療法人を展開させているのである。この点が、他の医療施設と根本的に異なっている。 そこで情熱を失っている医師は、アルバイトの精神科医を雇い、任せ切りにしたり、看護師長任せにして、患者や患者の家族から逃避している医師もいる。そしてその内部では、少なからず、暴力事件が起っている。こうした暴力は警察が立ち入られない為に、殆ど発覚する事はない。治療への熱意の失った医師と、暴力看護師などがわんさといる病院では、完治は絶望的であろう。 一度病棟内にこうした心理が働くと、その病棟にいる患者は、不安感や絶望感から、益々逃れようとして、入院時より更に悪い状態となって、病的な世界に逃げ込もうとるす。入院時以上に、病状を悪化させる場合もある。 特に、閉鎖病棟に、囚人のようにして投げ込まれた患者は、自分がイメージした病院の、更に下回る環境であった場合、大変なパニックを起し、周囲の患者の様子も、驚きの環境下にあって、その戸惑いと錯乱は驚異に値するものがあろう。 特に、子供の頃、怪我や病気をして入院したり、あるいはその後も入院経験を持つ人は、精神病院の窓が、ずらりと鉄格子に囲まれ、刑務所さながらの状況に置かれているという現実を知った時、同じ入院患者でありながら、その余りにも違う環境は、非常に大きなショックであろう。 特に、寿司詰めの閉鎖病棟に詰め込まれた場合、病棟とは名ばかりの、だたっぴろい広間に畳が敷かれた大部屋では、留置場や拘置所の柔道畳を引き詰めた、トイレ丸出し(精神病院ではトイレは病棟とは別の所にある)の部屋と酷似しているので、患者自身が、罪を犯して、此処に隔離されたと思うような錯覚を抱いてしまうのである。 そして、世間から隔離された狭い空間に詰め込まれれば、例えば、反省房と云われる個室に隔離されれば、そこに入った患者は、何処からか伝わって来る幻聴に聞き惚(ほ)れ、妄想の中に閉じ込められ、此処から生還する気力を失って行く。此処に長く居る状態が続けば、心はこうした状態に固定されてしまい、治癒して、一般社会に復帰する事を目的として入院した人は、更に悪化状態を続け、この間にも、精神安定薬の投薬はされるので、もし、この薬が合っていない場合は、単に薬が効かないと云う状態ばかりでなく、薬の副作用が起り、入院した当時は、軽症であっても、入院後に重症になる事はあり得る。 したがって、よい精神科医とは、患者の症状を的確に見極め、最も有効な投薬を患者に施す、この精神医学的な技術を云うのである。 精神安定薬は、精神病患者の場合、「死ぬまで飲み続ける」日々投薬の状態が、その後の人生に付きまとう為、この薬をのみ始めたら、その生涯は、朝・昼・晩に精神安定剤を飲み続けなければならない。それで平常心と安定が保てるのならば問題がないが、時間と共に重度へと移行し、薬が効かなくなる状態になっていく。年齢と共に重くなり、薬の投薬量も増えて来る。その都度、薬は少しづつ変わり、症状の変化に薬の効果が合わされていく。 したがって、精神病院の医師が所見した最初の診断が如何に大きな、その人の運命を決定するかが分かるであろう。病院の医療体制ありようでは、その人の人生を台無しにしてしまうのである。 また精神病院の、鉄格子は刑務所や拘置所の鉄格子に酷似している為、実に罪作りな存在である。これには精神病患者も、その家族も肝(きも)を潰(つぶ)し、一度その中にぶちこまれたら、突然の身柄の拘束に、犯罪者のような錯覚を抱き、そこで特に、患者が感ずる意識は、「とうとう、オレもキチガイの烙印を押されてしまったか」という悔悟の念であり、ついに絶望的な感覚に陥るのである。 また、一度こうした所に身柄を拘束されると、この患者を抱える家族は、急に親戚付き合いや友人付き合いが絶え、特に、自分の義父や義母、義兄弟や義姉妹が、この手の患者として身柄を拘束された場合、その親戚筋は豹変(ひょうへん)したように、はたとその付き合いが途絶え、年賀状や暑中見舞いまでが屆かなくなるようになる。世間的な信用も、一挙に崩壊するのである。 また、今日では統合失調症と云う、精神分裂病も、家族が精神科の主治医に、患者の病名は何かと訊くと、その医師は、小さな紙に「精神分裂病」と書いて、掌の中で見せたものだった。つまり、精神科の医師が、自分の患者の精神分裂病に偏見を持ち、心の底から馬鹿にしているのである。したがって、精神分裂病への偏見が、一般の中でも奇妙な異常として捉えられるのは当たり前である。 筆者は、伴侶の親戚筋が、精神分裂病と診断され、それだけでリストラされた有能な技術を持った働き盛りの何人かを知っている。また、精神科医で精神分裂病に心から偏見をもっている医師を何人か知っている。 要するに、精神科医の中にも、自分の名刺には「医学博士」の身分を語っていても、人格的には数学的確率が示すように、一定の割合で、クズがいる事だ。 世間には、この病気に対して、相当な偏見がある。治療側に、こうした偏見があるとすれば、治る病気も癒(なお)らないであろう。 また、こうした「対岸の火事」のような偏見で見る一般の人や、親戚筋は、「精神病患者と云うのは、あんな鉄格子のついた刑務所のような檻(おり)の中に入れられるのであるから、よほど恐ろしい連中が隔離されるところに違いない」と、こんな色眼鏡で見るのである。 また、こうした所に身柄を拘束された患者を見舞う場合、偏見に充ちた親戚筋は、相当な抵抗で精神病者を見てしまい、彼等の描く先入観は悪化する一方であろう。 ところが、同じ精神病院でありながら、鉄格子がなく、入院患者や友人や知人などが自由に出入りできる病院だったらどうであろうか。患者本人の気持ちも一変するし、治癒への本人の希望も確実なものになろう。 更には、鉄格子一つないだけで、患者本人は精神病に掛かったと言うショックはあるにしろ、特なくとも刑務所の鉄格子か、動物園の熊のように、色眼鏡で見られる屈辱からは解放されよう。 人権は復活され、人間として扱ってもらえ、病院に出入りする親戚筋も、抵抗なく見舞いに出かける事が出来よう。また、見舞い客が増えれば、病院側も医師を始め看護師やソーシャルワーカー、心理療法士、作業療法士らも、見舞客の面前に自分達の治療ぶりが暗黙のうちに評価される事になり、暴力を奮ったり、ボス支配と云うような悪辣(あくらつ)な関係が消滅し、更に治療が手遅れにならず、医師や看護士たちのと信頼関係も深まって行く事になろう。そして何よりも、治療は継続し易い形で展開され、退院も早まろう。 しかし、今日の実情としては、開放的な病院で、院長自らが高邁(こうまい)な理想を掲げ、勇気をもって、この不言実行の為に邁進している病院は、必ずしもそんなに多くなく、上・中・下のランクの中で、上に値するのは全体の一割程度にも満たず、中から下に下がるに従って、「下」のランクが非常に多い事である。 日本は、医療先進国といわれながら、精神病に対しては、未だに遅れをとっている状態にあり、患者の長引く加療入院、経済的負担、世間の目の蔑視、患者の親戚筋の揶揄、医療側の傲慢(ごうまん)は、理想で云う「開かれた精神病院」の理想から遥(はる)かに遠く、姥捨山(うばすてやま)のような存在で精神治療が施されているのは紛(まぎ)れもない事実であり、こうした現在の精神病院の環境改善がなされるのは、まだ数十年以上待たねばなるまい。また、今直ぐ日本の医療制度や精神医療行政は当分改善される事はないであろう。 ある意味で、こうした状況下で、信頼のおける精神科医に巡り合い、良心的な治療が期待される環境造りは、まだまだ先の事のように思われる。 昨今は電話帳などに、精神病院の広告だ大きく表示して掲載されているが、筆者の知るところ、この手の病院は、多くが中以下のレベルの病院で、「上」にランクされているのは、その内の一割にも満たないであろう。そして精神病院も、気の毒な精神患者を助ける慈善事業ではなく、歴(れつき)とした利潤追求の為の資本主義のルールで運営されいる営利組織である事を忘れてはならない。 |