会員の声と相談者の質問回答集19


末期ガン患者と、どう付き合えばよいか  (34歳 主婦 会員)

 義父が末期ガン(余命6カ月)と診断され、現在入院して療養中です。しかし、この病気は療養といっても、殆ど完治する見込みがなく、あとは死ぬだけといった状態です。義父も、自分では薄々ガンである事を勘付いているらしく、余命幾許(よめいいくばく)もない残された人生に戸惑いを感じているようです。

 そして、家族で病院に見舞いに行くと、「まだ、56歳なのに、どうしてオレだけが」というような愚痴(ぐち)を洩らし、見舞いに行った私たちに八つ当たりしたり、時には憤怒(ふんぬ)にも似た凄い形相になって、子供達が持って行った花束などを引きちぎり、狂ったように当り散らし、憤激します。ときどき、全く手の付けられない状態になります。

 こうしたことがあってから、病院に見舞いに行くのも嫌になり、死を目前に控えた人と、どのように接していけばよいか分からなくなってしまいました。こうした「死病」を背負った人と、どう付き合っていけばよいか、お教え下さい。


回 答

 人は生まれた以上、その後に残るものは、死を待つばかりの人生となる。これはどんなに否定しても、覆(くつがえ)すことの出来ない事実である。したがって、人間は生きている間に、如何に「生死を解決するか」という事が問題になる。

 生まれて死ぬ。これは人間に最初から定められた宿命である。しかし、生まれて、死んで行く迄の間に、人は、自分の全うすべき人生を全うし、「生まれて来た」ことに値する使命を果たすのである。その使命には「生死を如何に解決するか」ということも含まれよう。

 しかし一方で、突然に襲って来た死し、生死を解決できずに、悲愴(ひそう)な気持ちを味わいつつ、死んで行く人は多い。こうした「悲しみ」で、死を迎える人は意外に多いのである。そして、死に行く人にとっては、この悲しみが、やがて「迷い」となって、成仏の妨げとなる妄執(もうしゅう)を招き寄せるのである。これが仏道で云う「迷妄(めいもう)の執念」である。

 さて現代人は、その多くが、病院で生まれ、病院で死んで行く。こうした死んで行く人の多くは、かつての日本人が、月の「満ち欠け」によって、生まれ、死んでいった事と、逆行する運命を辿っている。月は太古より、潮汐(ちょうせき)を通して、人の死に関わっていた。

 しかし、今日では現代人が病院で生まれ、病院で死んで行く現実を見れば、人が自然死で、汐(しお)が引いていくように、死んで行くことは殆ど考えられない時代になった。この意味で、現代人は、古代人より退化した文明の申し児と言えよう。そして「退化」の実情の中で、現代人の生と死が繰り返されているのである。

 その為に、現代人は、「人間が死んで行く」という現実を充分に学習する時間がなくなっている。つまり、「人の死とは何か」ということに、赤の他人の不幸を見るような眼で見ているのである。
 「人の死」というものが、よく分からない為に、「物事に始めがあり、終わりがある」という「けじめ」の大切さを知らないのである。
 「けじめ」を理解しない人は、その生涯において、常に迷いっぱなしで人生を送り、生死を解決できないで死んで行く人である。

 安易に「人の死」と云うが、生死を解決できないで生涯を終える人は、「人間のけじめ」をつけることができないので、再び六道(りくどう)を輪廻(りんね)して、「迷い」を繰り返す事になる。六道を輪廻する事を繰り返せば、これこそ「終りなき生き方」と言えよう。

 死を最後のものとすることが出来ず、再び「生の世界」に生まれて、「迷い」を繰り返すのである。こうした「終りなき生き方」は、その人にとって、むしろ残酷な「生」であろう。

 要するに、「死ねない生き方」を繰り返すのである。これは「永遠の暗い死」に匹敵しよう。
 現代では、こうした「けじめ」の付けられない生き方をする人は多い。特に、現代病の第一位にランクされる末期ガンで死んで行く人などは、「死ねない生き方」を選択する人が多い。死ねないから、次の「生」への新たな循環がなく、永遠に死ねない「生」へと迷いを募らせる。これが不成仏の実体だ。

 末期患者の特長は、最初、自分が「ガンである」ということ否認する。それはガンが完治しない「死病」と思い込んでいるからだ。自分がガンであると云う事は、「もう直(じき)死んで行く人間」ということを認めなければならないからだ。

 しかし、数週間が経ち、落ち着いた頃、遂に否定できなくなり、主治医のすすめで、二度三度と手術を行い、あるいは入院加療を受けて、「生への延命」を試みる。しかし、その後の容態は以前にも増して芳(かんば)しくないことを知る。手術を受けても、あるいは延命効果のあると言われる、ガン疾患に有効な種々の療法を受けても、その後の華々しい決定的な治療の効果の痕跡(こんせき)は殆ど顕われないからだ。

 そればかりか、無理な治療が加わった為に、幾つかの併合した合併症が顕われ、体力は衰弱し、延命に賭(か)けた期待は、一層大きく裏切られる。その時のショックは、計り知れないものであろう。それは多額な治療費を注ぎ込んだ上での「延命効果」を期待しての、裏切りであるからだ。
 しかし、多くはこうした形の治療を受け、ついには集中治療と入院には、莫大(ばくだい)な数字に上り、多くの患者はその人が老後の生活プランとして蓄えた、唯一の持ち物すら手放さなければならなくなる。老後の為に建てた家屋も、もはや維持できなくなるだろう。

 そして若い頃に夢見た、晩年の人生のラスト・スパートの悠々自適(ゆうゆうじてき)の生活の夢は、実現不可能に帰するであろう。そうしたものへの執着と、死んでいかなければならない怒りとが、ごちゃ混ぜになって、末期患者の顔つきには憤怒の表情が顕われるのである。

 さて、死病を抱えた末期患者の多くは、次ぎのような「死に行く過程」を経験して、死に就(つ)く事になる。

致命疾患者の死に行く過程。末期患者の死に対面する行動の中には、「驚き」「否認」「怒り」「憂鬱」「諦め」の順に経験をし、遂には、大きなものを無くしたと言う喪失感に取って替わられる。そこに漂うものは、どうしようもない「絶望感」である。

 末期患者は、自身の抱える病気が、もはや現代医学の治療法で癒(なお)らない事を知る。あるいは手後れであった事を知る。
 そこに漂う心境は、感情の喪失であり、泰然自若(たいぜんじじゃく)であり、あるいは憤怒(ふんぬ)に似た憤(いきどお)りかも知れない。「どうして自分だけが、まだ死ぬには、こんなに若いのに」と思う。そしてこうした事は、程無く、喪失感に替わっていく。

 こうした失意のうちに、更に襲って来るのは、集中治療と長引く入院によって、相当額の経済的な負担の重圧がのしかかって来ることだ。
 医者は、こうした患者にも、安気な気休めで「希望は失うべきでない」とか、「医学は日進月歩で進んでいるのだから」と、無責任な言葉を掛けて、最初はささやかな希望に縋(すが)った安堵(あんど)が訪れるが、次には必要物(金銭の額に応じた物質的な治療材料や投薬などの物品)が事務的に与えられるだけで、殆ど好転する兆(きざ)しはない。そして、死への恐怖と拍車は和らぐどころか、逆に加速度がつき、死への対面が、いよいよ現実的なものになる。

 もし、50歳前後の働き盛りの壮年半ばにして、末期患者となった場合、会社への欠勤が続き、子供を高校や大学などに通わせておく事は出来なくなるだろう。また老後の為に、悠々自適の生活を楽しむ目的で建てた、ささやかなマイホームも維持できなくなり、遂には手放さねばならなくなるだろう。

 乳ガンの女性は、容姿への、喪失の顕著な反応が顕われるかも知れないし、子宮ガンの女性は、もはや自分が女で無い事を感じるかも知れない。
 一方、睾丸ガンや陰茎ガンに罹(かか)った男性は、男のシンボルを摘出され、自分がもはや男で無い事を知り、その後の生き方を変えなければならない局面に迫られるだろう。

 また、自分が映画俳優か、歌手である場合、顔面再手術と全歯抜歯を要すると医師から告げられた時、そのショックと狼狽(ろうばい)と驚きは、如何許(いかばか)りであろうか。
 恐怖から派生する錯乱は、恐らく他人には理解できないであろう。
 そうした混乱と錯綜(さくそう)の中で、深刻な抑鬱(よくうつ)が全身にのしかかり、末期患者は、心の中で悲痛な叫び声を挙げようが、こうした悲痛は、まだ今始まったばかりで、全体のほんの一部に過ぎないであろう。

 末期患者はこうしたプロセスを辿りながら、死に向かうのであるが、やはり末期患者を持つ家族も、この辺のところは理解しておくべきだろう。しかし、そうは云っても、末期患者自身が、生への執着が激しく、自分が、「未(ま)だ死ぬべき存在でない」と否認した時、これを理解させる事は容易ではないだろう。特に、人生の五十路(いそじ)に達していない、若い末期患者の場合、「死」を理解させる事は中々容易でないだろう。
 しかし、患者を労(いたわ)る下手な慰めも無駄に終るだろう。

 特に死病を背負い、再び生還する見込みが不可能に近い病気を背負って居る人は、死刑囚のように、死刑執行の日を覚悟する心構えは必要であろう。そして、生きている人間が、死を意識する時、死を恐怖と執(と)るか、安楽への第一歩と執るかの違いで、その死後の状態も大きく変わって来るであろう。

 ただ死を目前に控えた者が、執(と)るべき態度は、「生」に縋(すが)り付く執着ではなく、生も死も超越して、その両方を捨ててしまう事だろう。生も死もなければ、この世に未練を残す事もなく、安らぎを得られるからである。
 その為には「死」を正しく理解して、死に向かう「謙虚な態度」と言うものを自覚する必要があろう。

 「死」を目前に控えた人は、何よりも、「死」という最終結果を「謙虚に受諾する態度」が必要である。この態度が見苦しければ、あなた(質問者)の義父のように、罪もない周りの人に、怒り狂ったように当り散らし、あるいは愚痴を零(こぼ)したり、憤激して、自らの見苦しさを暴露(ばくろ)しなければならなくなる。

 筆者は、これまで諸々の、人の死というものを百例以上も見て来た。末期患者の、死に行く人の枕許(まくらもと)に立ち会った事があった。そして痛切した事は、末期患者達が死を迎えるにあたり、こうした人の臨終(りんじゅう)が如何に難しいかという事だった。

 人の人生は、死の影に怯(おび)えながら、生きているのだが、普段、こうしたことは忘れ去られ、誰もが思い出さないようにしている。しかし、重病か大怪我で「死」に直面した場合、そこに働く心理は複雑なものである。
 「生」に執着する余り、死から逃げ惑う人は、終焉(しゅうえん)の態度が凄(すさ)まじいばかりでなく、実に見苦しい物である。「死」を否定する余り、死の恐怖を一身に背負って、死と格闘する人が居る。しかし、死病を抱え、実際に死期が迫っている場合、死と格闘しても、それは空しい遠吠(とおぼ)えだろう。

 ある婦人は子宮ガンで、その悪臭を病室中にまき散らし、両手を上に差し挙げ、何かを掴むようにして死んで行った。また、ある男性は抗ガン剤の副作用が齎(もたら)す劇痛に、身体中汗をかき、如何にも死にきれないと言う風にして、恐ろしい形相(ぎょうそう)で死んで行った。臨終間際から、死に至るまでの、この刹那(せつな)は恐らく「不成仏」の典型と言えるもので、悪く言えば一種の「横死」であろう。

 「不成仏」と思われる、こうした死に行く人の例を挙げれば切りがないが、こうした死に方で、今まで一番無態(ぶざま)だと感じた人の死は、金持ちや成功者が、死んでいく時の死であった。

 金持ちや成功者は、自らが持っている意識の中に、下々(しもじも)とは違う優越感を持っている。その優越感が、新幹線で云えば、「普通席」と「グリーン席」の違いであり、航空機で云えば「エコノミー・シート」と「スーパー・シート」くらいの違いであろう。
 彼等は特別待遇を受けて然(しか)るべきと考える「VIP」の意識が強い。したがって、入院治療を要する場合でも、一般病棟とは異なる「個室」に完全看護の形で占拠し、「同じ病気になっても、お前らとは違うんだぞ」という、鼻持ちならないところ優越感で病院と医師を一人占めする。
 何故ならば、彼等のこれ迄の人生での生き方が、一般庶民とは悉(ことごと)く違っていたからである。

 金持ちや権力者などの特権階級の意識は、「この世の中」というものが、いわば彼等の為に在(あ)ったようなものだ。大企業の代表権を持つ、社長や会長クラスは、自分の会社は自分の為に在るようなものだった。
 また、国家にしても、政府要人は、各々の行政機関が自分の意の儘(まま)に操れることに限り無い優越感を抱き、わが「鶴の一声」で、全体を切り盛りする満悦感は最高のものであったはずだ。こうした人にとって、現世と言う世の中は、彼等の「生」を満悦するものであり、楽しみを与える多くの享楽や快楽が限り無く存在していたはずである。

 ところが、彼等は「死」を目近(まじか)に控え、人間の死と言うものが、人各々に「平等」に与えられている事に気付かされる。最後は、「みな同じだ」と気付かされるのである。
 だが、彼等はこの「同じ死」を認めようとしない。自分の死と、下々の死が同じである事を、最後までも拒み、最後の最後まで闘う。

 この闘いには、専門の医師団を編成させて、「金に糸目は付けないから、最高の治療を施して、五年や十年は延命できるように取り計らってもらいたい」などと、傲慢(ごうまん)な話を持ちかけるかも知れないし、あるいはどうしても死ななければならないのなら、最高の臨終を迎える為に、死刑囚さながらに、教誨師(きょうかいし)の連中を呼び、安楽に死んでいけるよう、特別な香油を躰(からだ)に塗るなり、最高のお経をあげるなりの注文を要求し、自分自身の死は、差別化された最高の形を望む事で、庶民とは一線を画した死を求めるかも知れない。

 そして「平等」であるということに、最後の最後まで闘い、これに膨大なエネルギーを注ぎ込む。
 この為に、彼等は最も重要な、死に行く者としての「大事な作法」を学ぶチャンスを見逃してしまうのである。VIPを自称する特権階級は、屡々(しばしば)、死を最終結果として、「謙虚に受諾する」という態度を逸(いつ)してしまうのである。
 これは死を目前に控えた者にとって、最も大事な、「謙虚さ」を学ぶ絶好の機会を見逃し、ただ単に、「死への拒絶」と「死への怒り」を撒(ま)き散らせて、見苦しい態度で死に向かうのである。

 筆者がこれまで立ち会った人の死の中には、こうした、死までをも優越感で乗り切ろうとした、何人かの特権階級に属する人を見た事がある。
 そして不思議な事に、この手の特権階級が、死んで行くその死因となるものは、「ガン疾患」が最も多く、次に脳卒中や心臓病の順だった。あらゆる末期患者の中で、もっとも絶望的に、孤独な死を迎えるのは、こうした彼等だった。それは見苦しい態度を執(と)る為に、家族からの顰蹙(ひんしゅく)を買い、また取り巻から嘲笑(ちょうしょう)を買うような態度で死んで行ったからだ。

 今日は、多くの日本人が、自分なりに「中流意志」を持ち、こうした意識は、VIPの連中と殆ど変わりがないようなところがある。その為に、「死に行く者としての作法」を知らずに死んで行く者が多くなって来ている。臨終を臨むには、「作法」がある。これは死に行く者の礼儀である。

 生前、この作法を学ばず、霊界の事を知らずに死んで行く人の死は、実に哀れであろう。また、死した後の意識は、現在未科学の分野に入る為、これを医学的に証明できないが、死した後の意識としての波動は、確かに現存するにも関わらず、未(いま)だにオカルトの世界に圧(お)しやられ、非科学として一蹴(いっしゅう)される傾向にあるようだ。

 つまり現代人は、「死のレベル」から云えば、絶望的な死を迎えようとしているのである。そして残念な事だが、生前、死に臨む作法の学習をせず、「人間は死ねばそれ迄よ」と豪語して来た人の死は、その人の死後が、実に哀れという事である。

 かつては、60歳を超え、やがて自分が晩年期に達し、この年齢になったら、「還暦(かんれき)の祝い」【註】60年で、再び生れた年の干支に還ることからいい、数え年の61歳をいう。本卦還(ほんけがえり)の宴などとも称す)を家族から祝ってもらい、いよいよ人生に磨きを掛け、最後のラスト・スパートを意識して、「肉体から霊魂への移行」の時期を迎えなければならないことを認識していた。
 ところが現代では、60歳を過ぎても性欲が盛んで、こうした意識の切替が出来ず、単に、肉体に固執する人は多い。自分が本来、「意識体」である事を全く理解していない。こうした事から、今日の高齢者は、自らの「死」を見苦しくさせていると言えよう。

 そこで、死した後の、自分の魂のあり方を末期患者に正しく伝え、死後の生活への理解を求める事も、末期患者との付き合い方の一つであろう。また、末期患者が「霊魂だの」「死後の世界だの」を全く信じぬ唯物論者であれば、臨終間際の態度は、「立派であるほど、その人の人格や品格が高い」ということを、教えてやるべきであろう。

 本来、家族内での「死」というものは、親兄弟・孫までの、少なくとも三親等くらいの人が死者を取り囲み、厳粛な行為として、これを見守って来たわけであるが、今日は家族が核家族化しており、「死に行く人」を見守って送り出すと言う風習が廃(すた)れた。したがって、自分が死ぬ番になると、どういう態度を執(と)っていいか分からなくなって居る人が多いようだ。
 その為に、どうしても最終結果としての死が見苦しくなり、その殆どが「苦しんで死んで行く」のである。あるいは、この苦しみは「未練を引き摺(ず)ったもの」であろう。まさに「横死」である。

 そして、最も恐ろしい事は、「死の見苦しさ」が、実は不成仏を作り出してしまうのである。
 こうした不可視世界の原則も、肉眼で見ることができないから、非科学的と一蹴するのでなく、謙虚に、この世界の事を知る、受諾への態度の在(あ)り方を、生前、充分に把握しておくべきであろう。あなた自身の死を見苦しくしない為に……。





ガン予防の為の断食の効果は (50歳 主婦 会員)

 私の実母は大腸ガンで亡くなっている為、ガン予防の為に、先日、メールとお電話により、一週間の家庭での断食指導を受けた者でございます。
 断食をすると、本断食では、口から食べ物を入れないので、自分の脂肪などを食べるために「肉食になる」と申されておりますが、その時、ガン患者でも進行するガンのスピードが弱まるか、停止されると、何かの本で呼んだ事があります。

 また健康食品で、ガンも治せるようなことを書いた本を、よく最近は目にします。しかし、これにもこうした食品で、治る人と治らない人がいるようなことが書いてありました。治る人と、治らない人の差は、いったい何処に生じるのでしょうか。

 最近は医者任せでなく、自分の健康は自分で守らなければならないと云う自己責任がとわれる時代ですが、同時に今日の医療のあり方や健康食品に対する考え方までを見詰め直す時期が来ているように思います。
 ガンは生活習慣病と申しますが、この疾患は現代医学でも克服できていない慢性病のように思います。
 今の時代、私たちの周りには多くの、私が子供の頃には見たことのない食品が、多く見かけられるようになりました。そして安全性を疑うものがあります。

 生活習慣病の多くは、先生が仰られるように、口から入る物が病気をもたらしていると思われます。そして、生活習慣病の元凶は、身体の細胞を錆び付かせる「活性酸素」といわれておりますが、私たちはこうした元凶から、いかに自分の身体を守り、何に気を付けていけばよいのでしょうか。
 母をガンで亡くしている為に、「もしかしたら自分も」という恐怖が頭から離れません。
 先日の断食指導も、こうした恐怖心が、断食をして、少しでも身体をリフレッシュさせようと考えたことからでした。ガン発症については、様々な憶測が飛び交っています。

 ガンを告知され、主治医の指導にしたがってガン摘出手術をしたら、ガンは退治したが本人が死んでしまったとか、あるいはガン告知により余命一年と申し渡された人が、あらゆるこれまでの治療を断念して、自然食療法を徹底したところ、告知された一年は愚か、二年も三年も、更には五年、十年と、生きる人がいると聞きます。いったいこの違い何処から出て来るのでしょうか。
 先生の御意見をお聞かせ下さい。


回 答

 現在の日本に於いて、ガンを筆頭に、様々な生活習慣病は急増するばかりで、世界の中でも医療の発達したと自負する日本は、いまや何処の病院でも成人病患者で溢れ返っている。そして、現代医学では、完治が難しい疾患も急増している。

 医療現場では、様々な病気が種類別に分けられ、病気のランク付けなどの検査方法は発達しているように思えるが、実のところ、その治療技術は、細分化され、専門化されている。そして民間在野にいい治療法があっても、現代医学の治療法以外の、民間療法などは、一切認めないと言うのが今日の医療のあり方である。

 さて、生活習慣病の元凶は、筆者が繰り替えし述べているように、細胞を錆(さ)び付かせる「活性酸素」が元凶となっている。
 しかし、これを抑制し、除去できる「抗酸化物質」を人間は生まれながらに持っているのだ。
 ところが残念な事は、近年、食生活の欧米化で「雑食」をする人が多くなり、それに加え生活環境が悪化して、体内に大量の活性酸素が発生する環境下での生活を余儀なくされている。その為に、体内で造る抗酸化物質の生産が追い付かなくなり、これが様々な難病・奇病を生み出しているのである。

 活性酸素の元凶の一つは、「ストレス」なのだが、ストレスを容易に作り易い現代の競争社会と、情報化社会に生きる現代人は、こうした元凶から逃げる事は不可能になっている。
 そして更に、こうした事に追い打ちをかけるように、環境ホルモン、酸性雨、ダイオキシンなどの化学物質の発生や、食生活の欧米模倣型の「雑食」は、現代人を更に不健康へと導き、白米、白砂糖、精白精製塩、乳製品、食肉、食品添加物などが、悪化に拍車を掛け、「抗酸化物質」の生産が間に合わないほどの、元凶へと駆り立てているのである。

 つまり私たちは、世界的規模の様々な環境悪化によって、悪化の促進要因が複合的に重なり合い、「活性酸素の害」が蔓延(まんえん)した生活圏で生きている。この環境下では、ますます悪化に拍車が掛かるばかりで、健康的に生きる事が難しくなった時代だと言えよう。
 その上、現代医学界は西洋医学至上主義が蔓延(はびこ)り、この呪縛(じゅばく)から未(いま)だに抜け切れずにいる。ガン患者への投与する薬品は、即効性重視の為、どうしても副作用の激しい抗ガン剤が遣(つか)われる。そして副作用の弊害により、更に患者を苦しめると言う、二重苦の悪循環状態に追い込まれ、末期患者の死に行く姿は、実に哀れなものである。

 では、人間は何故病気になるのか。それは自分自身の躰(かだら)に存在する自然治癒力(ちゆりょく)が失われるからだ。
 この為、ガンになっても治る人と、治らない人が出て来るのである。つまり、体力が無くて病気を克服できないのではなく、問題は「体質」であり、体質の優劣が、病気になっても治る人と治らない人を隔てている。したがって、体質を良くし、自然治癒力の働く状態に、自分の肉体を保っていなければならないのである。
 健康維持の為には、普段からの自然治癒力が働き易いような、体質造りと、玄米穀物菜食の「正食」に心掛けることが大事であろう。

 玄米穀物菜食といえば、よく「菜食主義」【註】野菜と果物だけの食事で、玄米や玄麦などの穀類を摂らないのであるカリ塩を多く含む偏った食事)と誤解されるようだが、玄米穀物菜食と、菜食だけの食餌法(しょくじほう)は根本から異なるのである。菜食主義では、食品の中からタンパク質を補給する事が出来ず、極端化すれば栄養失調になってしまう。したがってベジタリアンと、玄米穀物菜食の「正食」をする人とは、基本的に異なっている。
 この違いは、「夫婦アルカリ論」に詳細を述べているので、これを参照して頂きたい。

 ここでベジタリアンと「正食」の違いの簡単に述べるのなら、前者は「雑食」である。つまり暗黙のうちに「カリ塩」を主体とした偏った食事内容であり、徹底的に肉類などの動蛋白を退ける主義である。
 本来、「夫婦アルカリ論」は、カリ塩とナトロン塩のバランスの採れた状態を言うのであって、夫婦アルカリの差数量に、一定のバランスを見るというのが「正食」であり、則(すなわ)ち、そこには野菜ばかりでなく、玄米を中心とした「穀物」が加わるという事である。穀物を含めない菜食だけの食事は栄養失調になる恐れがあり、拒食症を度々引き起こす人は、穀物菜食の「正食」と、野菜オンリーの菜食主義を誤解して、拒食症に陥るのである。

 したがって、「拒食状態」と「断食」も、根本的には異なるのである。断食をすると、拒食症になるから危険であるという医学者がいるが、これは断食が危険という事ではなく、断食に入る入り方や、遣(や)り方が間違っていて危険であるので、断食そのものとは、全く関係のない見当違いの意見である。したがって、家庭などで断食をやる場合は、しっかりとした断食指導者の指導を受けて行うのがよく、自分勝手な自己流の断食は、断食後にリバウンド(食への妄執などの餓鬼感)が起る為に非常に危険である。

 ちなみに、家庭で行う、仕事をしながら、あるいは家事をしながらという断食は、最高「一週間」程度が限度であろう。これ以上の長い断食は、貧血や胃痛が激しくなり、十日間や二週間程度の断食を考えている人は、医療体制の万全な断食道場で断食するか、断食・絶食専門の内科医を訪ねるといいだろう。

 さて、ガン発症のついて、話を戻す事にするが、現代の医学や科学からすれば、ガンは老化によって起る病気で、避けることができないものらしい。したがってガンと付き合い、共棲(きょうせい)する考え方も必要であろう。まず、ガンが発見されるルートを述べよう。

 一つ目のルートは、一般の健康診断や人間ドックにより発見する方法である。早期発見、早期治療と云われるが、この状態で見つかるのは、ごく軽症に止まっている場合である。この段階では、だいたい1cm(1g)くらいといわれ、ガン細胞の数にすると10億個くらいで、それ以前の段階(ゼロ期)では小さ過ぎて、レントゲン撮影やCTスキャンには映らないとされている。そして自覚症状は殆ど無い。

 二つ目のルートは、何らかの自覚症状が顕れた場合である。自覚症状はガンの部位や進行度によって異なるが、長期に亘って症状が継続する場合は、医療機関での治療が必要であろう。
 現在のガン治療の主体は、外科的療法【註】摘出手術。臓器などの一部を取り除く為、周辺の臓器との連携バランスが崩され、治療後には正常な機能が失われる危険性がある)であり、次に化学療法【註】抗ガン剤投与。ガン細胞の発育増進を押さえる療法で、抗生物質、植物アルカロイド、ホルモン剤を投与。抗ガン剤の多くは骨髓に影響を与え、病原菌と闘う白血球などの細胞を造る働きを低下させ、病気に感染し易くなる。副作用と弊害があり、正常細胞も死滅させ、身体機能に大きな負担を掛ける)や放射線療法【註】X線、γ線などの放射線を直接ガン細胞に照射し、皮膚ガン、咽頭ガン、舌ガン、偏桃ガンなどに用いる。細胞死滅後、その残骸が体内に残り、死滅せずに生き残る細胞もある為、依然として白血球の減少、それに伴う吐き気、貧血などの副作用を齎す。その上に、放射線照射により新たなガンを誘引する危険もある)などである。

 さて、1996年、文藝春秋から一冊のショッキングな本が出版された。『患者よ、がんと闘うな』と言う本であり、著者は慶応大学医学部放射線科の近藤誠医師であった。この内容を吟味すると、手術は殆ど役には立たない。抗ガン剤治療に意味のあるガン発症は全体の一割。ガン検診は百害あって一利なし、という衝撃的な結論で締めくくられている本だ。
 そして、これを更に吟味すると、次のようになる。
ガンは本質的に老化現象なので治療しても治らない。
ガン患者はガンと闘うというが、これはガンと闘うのではなく、抗ガン剤の副作用や手術後の合併症や後遺症と闘っているだけの事である。
専門家からガンと告知されたら、単に専門家の無理な治療に縋(すが)るのではなく、今日の医療現場でのガン治療の現状を正しく把握し、できる事と出来ない事を明確に意思表示することが大事である。

 また、近藤医師のこの本は、「告発書」としての一面も持っている。
 それはガン患者が、外科手術や抗ガン剤などの副作用や合併症で体力が低下して、免疫力が失われた事が直接の死因になった場合でも、その事実は家族には隠され「ガンによる死亡」と、ただそれだけが告げられると、今日の医療現場のあり方を、あからさまに暴(あば)いている。

 これまでの常識と思われていたことは、「早期発見・早期治療」だった。
 しかし同書は、ガン検診が有効なのは、ガン全体の一割程度にしか過ぎない事を強調している。また、残りの九割以上は、ガンには全く無効であり、中でも、肺ガン、乳ガン、大腸ガンは検診そのものの無効性を証明している。

 アメリカでは、ガン検診の科学的な有効性は充分に証明されてしないとし、次のコメントを出している。「本来、眠っていて発病しないガンを、検診によって早期発見・早期治療したとしても、患者の人生の時間をほんの少しばかり延ばしたに過ぎない。したがって、実は外科的療法・化学療法・放射線療法などの治療により、その人の寿命を本当に延ばしたかどうか疑わしい」と疑問点を指摘している。

 また、ガンには「本物のガン」と「ガンもどき」があり、「本物のガン」は検診などで、ガンが発見される以前に他の場所に転移しているので、治療を施しても治らない。
 しかし「ガンもどき」は転移しないガンなので、早期発見して治療をしたとしても、副作用や合併症により、その後の患者の生活には不自由を強いるだけで、これが命を縮める結果になりかねないとしている。
 この結論からすれば、「本物のガン」は老化現象なので治らない。「ガンもどき」は、論理上は転移のない早期ガンであって、しばらくは放置しても転移せず、早期治療は意味がないというを指摘している。

 これまでのガンに対する医療現場の考えは、「危険は、芽のうちに摘み取るのが最良の治療法」とされていた常識的思考が、近藤医師の考え方は、「その摘み取る治療により、副作用や合併症が起り、これにより寿命を縮めてしまう方が問題だ」としていることである。
 つまり結論を要約すると、ガン患者は早期発見・早期治療をしても、それによって副作用や合併症を伴う弊害が起るので、むしろ「ガンと共棲して、少しでも寿命を延ばし、人生を有意義にする事の方が大事だ」ということになろう。

 しかし、どちらを選ぶかは、ガン患者本人が決定する事であるから、第三者には決定権が無い。主治医といえども、その意見はあくまで参考意見にとどめるべきであろう。したがって、安易な医師の口車に乗って、種々の療法に縋(すが)ると、余りいい結果が齎(もたら)されないのも事実であるようだ。
 ガンは五年生存率で考えるので、ガンの治療後、五年程度生きられれば、現代医学では上出来とされている。
 ところが、ガン告知から、殆ど物理的な治療というものは殆ど行わず、ただ自然食療法だけで、十年・二十年と生きる人が居る。一体この違いは何処から出て来るのであろうか。恐らくこれは、体質が好転した為であろう。

 一般的に、免疫機能は20歳前後をピークとして徐々に低下し、40代では約50%、70代では10%程度とされているが、これはあくまで「体力面」で見た場合で、「体質面」から見ればこの数字も変わって来よう。更には「正食」をして居る人と、「雑食」をして居る人とでは体質が異なっているので、同じ病気に罹(かか)ったとしても、ガンと共棲(きょうせい)しながら長生きする人もいるし、普段から動蛋白ばかりを食べていて、体質が悪い人は、ガンの摘出手術をして一週間後に死亡する人もいる。

 そして執刀医から家族に告げられる言葉は、合併症が行ったとしても、それは伏せられ、ただ「ガンによる死亡」と告げられるのである。果たして、こうした実情を、何処か訝(おか)しいと感じるのは筆者だけだろうか。