会員の声と相談者の質問回答集18


人生哲学について (17歳 高校生 男性 会員)

 癒しの杜では人生哲学の研究の質問も受け付けているということな ので、今回は葉隠について質問させて下さい。

 葉隠は武士道の聖書であると言われており、私もこれを信じて疑 いませんでした。しかし、先生の陽明学の記述を読んだ後、葉隠の説く武士像が正しいものか分からなくなりました。その理由は、葉隠は「狂気」を薦め、儒学的武士道 を「上方風の思い上がった武士道」と批判しているからです。

 山本常朝やまもと‐つねとも【註】『葉隠』の武士道を論じた口述者。彼は元佐賀藩士で、田代又左衛門陣基(つらもと)に筆録させる。この書は、1716年(享保1)頃成り、藩内外の武士の言行の批評を通じて武士の道徳を説く)は赤穂浪士の討ち入りを時間が掛かり過ぎていると批判 し、「長崎喧嘩」を無分別な喧嘩として褒め称えています。
 また、武士が仏道や詩歌 を学ぶことを二また掛けた生き方であると否定し、江戸にて無礼な船乗りを「斬り殺 してやる」と脅した鍋島藩士を武士の鏡であるように書いています。そして、釈迦も 孔子も信玄【註】武田信玄)も楠木【註】楠木正成)も鍋島・竜造寺【註】主家竜造寺氏を継いで肥前佐嘉郡を本拠とした鍋島氏)に奉公したことはないのだといい、国学以外何も学 ぶ必要が無いと説いています。

 私は上記の教えが理解できません。狂気・無分別でなければ大事を成せないというのは納得できますが、だからといって仏教や儒教も学ばず武術と出世のみに専念すれば、視野が狭くなり、結果的に大事を成せなくなるのではないかと思います。(中略)

 私の中学時代の歴史学の恩師は、葉隠を否定しました。彼は幕末イギリスの留学した長州藩士の話しをしました。(中略)歴史学の恩師は、井上勝や 伊藤博文はイギリスに密航し近代日本の礎を築いたが、彼らは葉隠の言うような「死を意識する」生き方をしなかったと言い、葉隠が座右の書としてふさわしくないと暗に言っているようでした。

 これからの時代を生きていく上で、葉隠の説く「道一辺倒」の生き方では視野が狭くなり、成功できないのではないでしょうか。先生の葉隠について の意見を聴かせていただけたら幸いです。
                    【註】の箇所は回答者記述)



回 答

 武士道について
 さて、一般的に武士道と云われるものには、徳川時代初期の三河時代、既にあった「士道」と、江戸中期以降に起った、葉隠を代表とする「武士道」とに分けられる。しかしこれを同じように考えている人は以外と多い。したがって今日では混乱し、世間一般では大きく誤解しているようだ。
 しかし、武士道と士道が根本的に異なっている。特に日本人でも外国人でも、武士道と士道をごっちゃに考え、ただ単に封建時代の強要された異質な儒教観で、「死ぬ事を武士の道」と考えているようだ。

 士道と武士道の相違点については、次の通りである。
 士道は「二君に仕えることをよい」としている点である。つまり、自分の仕えた殿様が、無能であったら、さっさと辞めて、もっと優れた脳力の持ち主の君主に仕えるのが正しいとする考え方である。これは日本的と言うより、アメリカ的であり、自分を認める、能力のある社長に仕えて、自分の腕を揮(ふる)うと言う考え方である。要約すれば商人的であり、金額や報酬の大小に応じて、仕える殿様を変えると云うことだ。

 一方、武士道は「二君に仕えることを許さない」としている点である。もし、自分の仕えた殿様が馬鹿殿でも、その馬鹿殿を諭(さと)して、名君にすることが武士の心得としている。そこに義理人情もあるとする考え方である。

 三河時代の士道は「弓矢を執(と)儀」【註】「弓矢執る身」とも称し、弓矢を手にとり用いる身のことで、すなわち武士の三河以来の士道を説いたもの)としての武士のあり方か説かれ、一方、山本常朝の口述書『葉隠』は「弓矢を執る儀」を否定している。
 つまり、「弓矢を執る儀」とは自分の職能的な能力であり、その能力をもつて、君主に奉仕することが士道であるとしているのに対し、武士道は「全人格と命を張って君主に奉仕する」とするのが武士道であると説く。

 「日々吾(わ)が命を死に当てる」というのが武士道的な考え方であり、自分が「もし、明日までの命だったら、残された余暇の時間は何に遣うか」という問いを投げかけているのである。そうした絶体絶命、あるいは「背水の陣」に置かれた人間の行動は素晴らしいものでは無いかというのが武士道なのである。

 したがって常朝は、人間の行動原理として「狂い死」を、最も徳の高い武士の行動原理として挙げているのである。狂い死にする為には、「即決」が必要であり、決断力の高さを武士の行動原理としているのである。
 しかし、人間は時間が経つと、最初に思い立った行動原理に「甘え」が出て来て、「時間」というものが妥協を招き、最後はそれが色褪(いろあ)せたものになり、有耶無耶(うやむや)になると常朝は指摘しているのである。

 これは理論や、論理で考えるのでは無く、思考を離れた、行動をもって起居振る舞うのが武士の行動原理としている。これにおて常朝は、赤穂浪士は時間が経ち過ぎ、一方長崎喧嘩は、即決性があったと高く評価している。この違いは、「即決」か「優柔不断」かの違いほどあり、前者は即決によりその行動は新鮮であるが、後者は時間が経つことにより、最初の決意が鈍り、やがて櫛の歯が抜けるように、一人抜け二人抜け、こうして最初の決意者が減っていく、人間の心変わりを厳しく指摘しているのである。その意味で、だらだらと過ごす時間は、人の心を緩慢にさせ、最初の決意を鈍らせ、優柔不断にさせるものなのである。

 しかし、もし、自分に与えられた時間が僅かなものしかなく、それを有効に遣うとすれば、どういう行動を人間が執るかということを『葉隠』の口述者は、私たちに問いかけているのである。
 「日々吾(わ)が命を死に当てる」という教えこそ、実は本当に輝いているということであり、もし君が、明日までの命としたら、残る命を燃やすのに、君はいったい何に賭(か)けて、有終の美を飾ろうとするのだろうか?

 『葉隠』の表面だけを追うと、本当の武士道は見えなくなる。その奥深いところに記されている真偽を見抜くことが必要だろう。
 その為には、論理に振り回される「頭でっかち」では役に立たないのである。論理より、行動を重んじるのが武士道であり、これに対峙(たいじ)した、「二君に仕えても構わない」とするのが士道なのである。

 「無分別」という考え方は、本来は「無分別智(むふんべつち)」というもので、これは非常に仏教に近い考え方である。一方、現代人や常識者と思われている分別知の思考をする者は、自分の固定観念や先入観で物事を考え、その常識と云う「分別」で人生を生きようとする考え方である。

 例えば、現代物理学者が、星々の運行を考える場合、十七世紀のニュートン物理学のケプラーの法則に合わせて、その速度を計算するが、果たしてニュートンの物理学が正しいかどうかということを、自分で実験してみようとは思わないものである。公式が、そうなっているから、その公式に随い計算をするのが、正しいと、分別知で考えているのである。つまり、「昔の偉人が、そういっているのだから、その公理は覆(くつがえ)されない」と考える科学である。

 しかし分別知こそ、固定観念であり、この考え方に捕われると、その先の新しいものは何も見えないという事である。現代の科学こそ、未来の非科学であり、かつての天動説と地動説の違いくらいの誤差が生ずるのである。

 その意味からすると、山本常朝の『葉隠』は斬新で、革命的な武士の行動原理と言えよう。そして、葉隠武士道は、幕末、陽明学と結びつき、これが尊王攘夷と思想を導くことになるのである。旧態依然の徳川家康の戦国武将の「二君に仕えても構わない」とする考え方では、それこそ「裏切り」であり、裏切りの発想で下剋上が繰り返されることになる。

 『葉隠』を視野の狭い、独断的な思想と捕らえること勿(なか)れ。これこそ、視野の狭い、アメリカ的な、商人根性と言うものである。

 物事を広く見るには、「無分別智」が大事であり、世間の常識の捕われた分別知からは、何も生まれないのである。常識を破ったところに新しさがあり、常識に捕われれば、そこからは安易な妥協が生まれることになり、その先が何も見えなくなる。その意味で、君の視野は非常に狹く、世間の常識や論理のとらわれ、世の中を色眼鏡的に、偏見で捉えているのではないだろうか。

 実に、小さな固執に凝り固まり、殻に凝り固まっているように思える。まずは、自分の殻に閉じ籠(こも)らず、この世の中では、「行動原理の自分の生き態(ざま)を示す気魄(きはく)」が必要なのではないだろうか。




人生をどう生きればよいのか 27歳 男 無料相談室宛 フリーター

 毎日、気ぜわしく生きている現代の世の中で、自分としては、何か戸惑いを感じます。規制緩和の時代といわれながら、その実は、何かと規制が多くなり、あれはしてはダメ、これはしてはダメと、何から何まで体制側に縛られ、縛られる現代人の生き方が、これでよいものか、疑問が起ります。

 また個性の時代といわれながら、よく観察すると、個性など何処にもなく、世の中全体が同じようなファッションと、同じような毎日を繰り返し、こうした日常に、なぜ疑いを持たないのかと、疑問さえおこります。
 また「自由・自由」の連発が、この時代の特長のようですが、よく周りを見回すと、気安く口にする「自由」すらありません。はたして人々が口にする「自由の権利」とは、一体どこにあるのでしょうか。また、本当の自由とは、一体どういうものを云うのでしょうか。それとも、こうしたことに疑問を持つことの方が、どこかおかしいのでしょうか。

 そして、何か、こうした時代に、ついていけない厭世観を感じるのですが、こうした八方塞がりの世の中を、どう生きればいいのでしょうか。
 自分は都心の、ある私立大学(実は二浪して目指す国公立大学の受験に失敗しました)を出ましたが、前にいた会社も辞めてしまい、現在はこれと言った定職がありません。自分のこれから先のことが心配です。

 今は近くのスーパーで、運送手伝いのアルバイトをして生計を立てています。しかしこのバイトも、好きでやっている仕事でないため、張り合いを感じません。嫌々ながらというのが正直な自分の気持ちです。

 どうして人間は生まれて来るのでしょうか。ふと、最近はこうしたことを考えてしまいます。
 最近は、今までに気の止めなかった、何から何まで、分からないことだらけです。未来にも、不安を感じるのです。自分の未来が、暗雲で覆われ、不幸の人生が待っているのかと……。
 もし、こうした沈んでいく厭世観を追い払い、生きる張り合いのような方法があれば、御教示下さい。自分自身の未来に希望を失っている者より。


回 答

 まず端的に、君自身の心の裡(うち)を診(み)る前に、少し回答者の論評を拝聴願いたい。

 現代社会は、現行の日本国憲法にも「自由」の選択が標榜(ひょうぼう)されているが、周りをよく見渡すと、自由など何処にもない。自由の面から考えれば、昔の方が、よほど自由であった。あるいは「古き良き時代の昔」などと評する人が居るかも知れない。
 これは現代人が、単なる記憶装置としての機能しか、果たしていない為であろう。

 人間は「選択する存在」などといわれているが、今日では、人間が「選択する自由」は殆ど無く、誘惑や勧誘で、他から働きかけられる事はあっても、自分から働きかけるということは、あまりないようだ。それは「現代という時代」が、夥(おびただ)しい情報で埋もれているからである。

 こうした現代社会の実情を、単的に云えば、かつての戦時中の全体国家主義的な生活を、誰もが無自覚のまましているという事だ。それは個性的なファッションなどと評される、それぞれの年齢別にみるスタイルも、みんな同じような恰好をしているからである。
 ある意味で、全体主義時代の、一種の画一的な軍服化であろう。若者のジーンズも、サラリーマンの背広も、形こそ違っているが、やはり全体主義時代の名残りを引き摺(ず)った、画一的なスタイルから抜け出していないように思う。

 そして現代社会の縮図の中に、誰もが閉じ込められ、物質的画一化の中で、全体主義的に同じ方向に進み、同じ流行に乗せられて、「選択権を喪失」した時代だと言えよう。

 IT革命によって、昨今は産業化革命などと称されたが、もう既に、こうした意識は古くなり、超産業化革命の真っ只中に、現代人は置かれていると言えよう。
 デモクラシー民主主義の世の中では、各人が最大の選択権をもって、民主主義と云う世の中を生きていく事が、そもそも、本来の民主主義の理想とされたが、大部分の人々は、民主主義の理想とは裏腹な、理想からどんどん遠ざかった生活をしているようだ。

 街に繰り出せば、各々の商店や企業が、色とりどりの個性ある商品を並べて、客へのアピールを行っているが、これ等の商品をよく見ると、全て画一化された商品ばかりであり、現代人は画一化された物財に取り囲まれ、画一化された学校で教育を受け、画一化された大衆文化の中で時を過ごし、画一化された様式にしたがって、レジャーを楽しみ、同じ格安パックの海外旅行をして、同じ白痴番組を視聴することにより、一時の娯楽と慰安を求め、誰もが画一化された日常生活を送っている。

 それは極めて自主性のない、消費するだけが目的の、没個性の中で、ただ画一化の中だけで生かされる、あるいは生きていける、生き物に成り下がっているようだ。

 こうした現代社会の実情を踏まえれば、一部の現代人の中に、「未来憎悪」を抱く者や、「技術恐怖症」に陥る者が、当然ながら出て来るだろう。
 現代社会のサイクルは、日々回転する加速度が早くなっている。日増しに高速化し、私たちの成長より、全てが早く成長して、周囲の成長状態は、自分の成長より数倍も早く成長を遂げている。これは季節の四季が、宇宙の法則に乗っ取った規則的な動きと、逆行した動き方をしているのかも知れない。

 しかし、地球環境の悪化の為、季節ごとの四季の動きも、昔とは異なり、現代人の生活のリズムに合わせたかのような、加速度的な動きが見られる。
 その一方で、現代人は慌ただしい行動に迫られている。その一つ目には「不規則性」が挙げられ、その背後には将来への不安が控えている。
 そして、二つ目には、不安が隠れている為に、「非予見性」というものが、現代人の頭を悩ませている。

 また二つの傾向に対抗して、「新奇性」なるものがあり、現代人を次なる段階に取り込もうとしている気配さえ感じられる。資本主義の商業ペースの最先端にある企業は、既に新奇性なるものに眼を付け、商いの勝負をこれに託している企業も少なくないようだ。

 それは将来の推進力が、画一化から離脱することを目論む、物質的な革命であるらしく、均一的商品や、均質化された同傾向の芸術や、マスプロ化された教育制度や、同じ程度の大衆文化などの「同傾向」から離れた方向に向かう、一種の特異な未来展望である。

 私たち現代人は、あまりにも社会の科学技術発展途上にあり、弁証法的に物事を捉えて来たが、この弁証法では用が為(な)さなくなり、これまでの弁証法は、いま、「曲り角」に来ているという事である。

 今からの科学は、個性の抑制を出来るだけ阻(はば)もうとするかも知れない。しかし逆に、「選択の幅」や「自由」などを数的に増やせば、それで解決するのかと云えば、実はそうでもない。科学万能主義も、人間との融和には限界が来ているからだ。これからも科学万能主義は、大いに研究者の間で持て囃されるだろう。しかし、人間の思考とは逆方向に進むだろう。
 何故ならば、人間は、入手可能になった物質的・文化的品目を前にして、これ等が増加する度に、これらを上手に処理をしていけるかが問題になるからだ。

 やはり、現代人はカオス理論で云う「特異点」に向かって驀進(ばくしん)しているのかも知れない。
 つまり個性の抑制の解放は、同時に「選択の幅」を余りにも拡げ過ぎた為、複雑かつ困難な自体が派生し、それは手に入れたとしても、非常に高価なものになるであろう。また、それは選択が過剰選択になるからだ。
 もう、こうした現象は、今日の「情報過多」で、誰も嫌気が差すほど、お馴染みだろう。

 しかたって、今日の社会的選択過程の中には、何が起っているか、それを見なければならないのである。つまり、拡大し続ける物質的・文化的選択は、単に検討するだけに止まらず、社会全体が、「非大衆化」を目論み、均質から多質へと移行する、その背後には、私たちには知らされない、何があるかということだ。大衆社会が、高度化されて高度大衆社会を招いたからだ。

 こうした現象をマクロ的に見れば、均質から多質への移行も、現代社会の一種の「流行」と言えよう。つまり、世の中が複雑になり、非規則性が露(あらわ)になって、非予見性が人類を混乱に導いたとしても、それは現代を画策する、大衆誘導の為の「流行」だろう。「流行」と云う現象は、常に大衆に向けて仕掛けられるからだ。

 「流行」は、常に画策されるものであるから、大衆は仕掛けられる被支配階級であり、仕掛ける側は支配階級の、ひと握りの集団からなる司令室から、多種多様な仕掛けが飛び出してきて、この仕掛けに、まんまと引っ掛かり、生け捕られるのが、つまり「大衆」と云う事だ。

 この中にいる限り、大衆が、仕掛人の罠から逃れる事はできまい。大衆が煽(あお)られて、「消費の為の食費」を繰り返すのは、この為である。とにかく、この仕掛けから逃げ出すことが大事だろう。
 仏教では、こうした処から逃げ出すのを「輪廻(りんね)からの解脱」といった。私たちも、物や金や色に振り回されない「解脱」が必要だろう。

 要するに分かり易く言えば、「江戸時代の生活」に戻ればいい事である。
 読者諸氏には、「江戸時代なんて?」と疑問の声を挙げる人が居るかも知れないが、江戸時代を研究すれば、その時代が、大衆・庶民にとって、どれくらい生活(くら)し易かったか、よく理解できるはずである。
 つまり、この時代を、そっくりそのまま真似するのではなく、長所だけを集めて、現代の生活の中で応用させる工夫のさせかたを学ぶのである。また、便利で、快適な生活から少し離脱して、「不自由で贅肉(ぜいにく)を削(そ)ぎ落とす訓練」も、今からは必要であろう。

 その為には、ます「快適」という現代社会の贅肉を取り除かなければならない。つぎに「便利さ」と「豊かさ」と「贅沢さ」だろう。
 現代人は、自覚していないが、現代社会は明らかに階級社会であり、私たちは階級社会の中に生きているのである。階級社会はヒエラルキーのピラミッド構造をしており、人間社会はこの中で日常生活を余儀なくされている。現代人の殆どは、この事に気付いていないが、階級のあるのは確かである。

 特に、この階級の中でも、自分自身で「中流」の意識を持つ、中産階級の人は、「みな人間は平等でない」と薄々感じながらも、「階級なんてあるはずがない」と思っている人が、実に多いようである。階級を信じない人が大半である。ところが、階級は日本でも、ちゃんと存在するのだ。

 それは自分が「中産階級」であることを思い出したくないからである。「中産階級」であると自覚した時、自分がこの階級から、一ランクも、二ランクも、滑り落ちてしまうのではないかという不安があるからだ。
 私たちは、「リストラ」という言葉が、まだ耳に新しい。いい年齢の、中間管理職で、中流を自負し、中産階級の上位にいると思い込んで居る人が、或る日突然、肩を叩かれて上役から解雇を宣告されるのである。それはまるで、自分の病気が末期ガン患者であるのと同じ宣告である。

 それと同じ事が、職場でも起っている。これは公務員でも例外ではあるまい。一種のこうした恐怖があり、自分が除外される、「負け組」に入れられるのが、何とも怕(こわ)いのである。サラリーマンは、職能試験が数年に一回、定期的に催される度に震(ふる)え上がらなければならない。

 また、企業の中で、運良く「勝ち組」に居たとしても、いつ自分が「負け組」に落ちるか、こうした事も、大いに気になるところであろう。
 したがって、現代人は、不安や苦悩の種は中々尽きず、また、中産階級にいる人ほど、悩みの種は尽きないようだ。そして、「勝ち組」と「負け組」も、人間の能力的な選別がある限り、これも立派な階級である。

 中産階級が、「階級」を信じろうが、信じまいが、確かに階級のあることは事実である。階級は何も軍隊ばかりの事ではないのである。現代人は階級の中に縛られ、それを出来るだけ意識しないように装っているだけの事である。
 だから、宮仕えのサラリーマンなどは、その日の憂さ晴らしをして、過ぎた「今日一日」のアクシデントを忘れる為に、居酒屋に、律儀に足を運び、忘却の努力をしている御仁(ごじん)も少なくないようだ。

 これは良く言えば「ストレス解消」であろうが、悪く言えば「現実逃避」である。
 君(相談者)がこの手の人間と同類項であれば、こうしたストレス解消法もやって見るがいい。しかし、本当の意味で、解放された自己は見つからないだろう。束縛されない自己は見つからないだろう。何かしら、自分の周りが束縛されているように思うから、人は安易な方法で現実逃避を図るのではないか。

 さて、こうして現代社会を眺(なが)めた場合、この世が「苦」であったことに気付かされよう。しかし、ここで「ああそうなのか」と諦めてはならない。
 「江戸時代の生活の戻ればいい」といったのは、便利さ、快適さ、豊かさなどを「当たり前」と思わず、もう少し自分を掘り下げて、物質文明の恩恵から身を躱(かわ)し、静かに、自己を見つめる事である。また、不便だった時代を回想して、不自由な心の中から解脱して、「自由さ」を取り戻すことも大事だろう。

 こうして自己を掘り下げ、自己を見詰めれば、今まで束縛されていた階級による肩書きや地位も、それに財産や家族などの、いろいろな柵(しがらみ)として重荷になっていた、一切の事柄から解放されよう。総(すべ)て、この世の出来事は「幻(まぼろし)」であるのだ。
 この「幻」を、実体のあるものと捉えれば、柵に再び絡め取られてしまうので、一旦は「無一物になる」ことも必要だろう。

 自己をよく見詰めれば、自分は「何も持っていない」ことに気付く筈(はず)である。
 人間は本来、何も持たずに生まれて来て、何も持たずに去っていく生き物である。それを肩書きや地位、財産や家族に振り回されるから、悩みが起り、迷いが起るのである。不安の種も、こうした所に行き着く。
 人間の本来の姿に気付けば、現代人は「見せ掛けの虚像」に騙(だま)され、虚構の社会構造の中に生きているのである。これを知れば、劣等感も自(おの)ずから消滅しよう。

 君(相談者)は、未来に不安を感じると云うが、「どうして、来ても居ない未来」に不安を感じるのか。君は不安な未来を見たのか。未来が不安で覆われている、君の未来を経験し、体験したのか。なぜ、来てもいない明日のことに思い悩むのか。

 もし、不安と思うような未来が襲って来たら、不安のその時に迎合(げいごう)して、その中の人となり、精一杯、不安と闘えばいいではないか。もし、病に斃(たお)れ、ガンなどの重病が告知されれば、そのガン病の真っ只中で、精一杯、病気と闘えばいいではないか。
 また、金銭的な経済危機が襲えば、その苦しみの中で、苦しみに、のたうち廻り、精一杯、苦しみ抜いて、ただ闘うだけの事ではないか。どうして、それ等の到来に、恐怖して、今から思い悩むことがあろう。

 当たり前の事を、当たり前として受け止め、素直になり、その中で、精一杯、闘えば済む事である。幻想と虚構に騙されず、しっかりとした自己を確立する事が必要であろう。そして、最後に行き着く境地は、生にも死にも執着しない、「安住の地の静けさ」だろう。

安住の静けさの中に、本来の人間の姿がある。

 雨が降れば、降る雨の風情を楽しみ、風は吹けば、風の音を楽しみ、晴れた日は、晴れた日で、太陽の陽差しを精一杯浴びて、これを満喫すれば宜しい。こうすれば「縛られる自我」から解き放たれて、現代の幻想や虚構から解放されよう。こうした「現代のこだわり」から離れてみれば、毎日が可もなく、不可もなくと云った、「やすらぎの日暮し」を満喫する事ができよう。

 そういう意味の、「江戸時代に戻るの生活」であり、少なくとも、この時代は、特殊な時期の天災や飢饉を除けば、「やすらぎの日暮し」があった時代であり、これを現代に再現するのも、また一興であろう。そして、今日の気ぜわしく動き回る、多忙な日々は、実は幻想であり、虚構である事に気付こう。
 幻想や虚構を、実体のあるものとして、目に誑(たぶら)かされることなかれ。
 道は、自分の目の前にある。その道を、真っ直ぐに行けば宜しいのだ。