人生哲学について (17歳 高校生 男性 会員)
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武士道について
さて、一般的に武士道と云われるものには、徳川時代初期の三河時代、既にあった「士道」と、江戸中期以降に起った、葉隠を代表とする「武士道」とに分けられる。しかしこれを同じように考えている人は以外と多い。したがって今日では混乱し、世間一般では大きく誤解しているようだ。 しかし、武士道と士道が根本的に異なっている。特に日本人でも外国人でも、武士道と士道をごっちゃに考え、ただ単に封建時代の強要された異質な儒教観で、「死ぬ事を武士の道」と考えているようだ。 士道と武士道の相違点については、次の通りである。 士道は「二君に仕えることをよい」としている点である。つまり、自分の仕えた殿様が、無能であったら、さっさと辞めて、もっと優れた脳力の持ち主の君主に仕えるのが正しいとする考え方である。これは日本的と言うより、アメリカ的であり、自分を認める、能力のある社長に仕えて、自分の腕を揮(ふる)うと言う考え方である。要約すれば商人的であり、金額や報酬の大小に応じて、仕える殿様を変えると云うことだ。 一方、武士道は「二君に仕えることを許さない」としている点である。もし、自分の仕えた殿様が馬鹿殿でも、その馬鹿殿を諭(さと)して、名君にすることが武士の心得としている。そこに義理人情もあるとする考え方である。 三河時代の士道は「弓矢を執(と)儀」(【註】「弓矢執る身」とも称し、弓矢を手にとり用いる身のことで、すなわち武士の三河以来の士道を説いたもの)としての武士のあり方か説かれ、一方、山本常朝の口述書『葉隠』は「弓矢を執る儀」を否定している。 つまり、「弓矢を執る儀」とは自分の職能的な能力であり、その能力をもつて、君主に奉仕することが士道であるとしているのに対し、武士道は「全人格と命を張って君主に奉仕する」とするのが武士道であると説く。 「日々吾(わ)が命を死に当てる」というのが武士道的な考え方であり、自分が「もし、明日までの命だったら、残された余暇の時間は何に遣うか」という問いを投げかけているのである。そうした絶体絶命、あるいは「背水の陣」に置かれた人間の行動は素晴らしいものでは無いかというのが武士道なのである。 したがって常朝は、人間の行動原理として「狂い死」を、最も徳の高い武士の行動原理として挙げているのである。狂い死にする為には、「即決」が必要であり、決断力の高さを武士の行動原理としているのである。 しかし、人間は時間が経つと、最初に思い立った行動原理に「甘え」が出て来て、「時間」というものが妥協を招き、最後はそれが色褪(いろあ)せたものになり、有耶無耶(うやむや)になると常朝は指摘しているのである。 これは理論や、論理で考えるのでは無く、思考を離れた、行動をもって起居振る舞うのが武士の行動原理としている。これにおて常朝は、赤穂浪士は時間が経ち過ぎ、一方長崎喧嘩は、即決性があったと高く評価している。この違いは、「即決」か「優柔不断」かの違いほどあり、前者は即決によりその行動は新鮮であるが、後者は時間が経つことにより、最初の決意が鈍り、やがて櫛の歯が抜けるように、一人抜け二人抜け、こうして最初の決意者が減っていく、人間の心変わりを厳しく指摘しているのである。その意味で、だらだらと過ごす時間は、人の心を緩慢にさせ、最初の決意を鈍らせ、優柔不断にさせるものなのである。 しかし、もし、自分に与えられた時間が僅かなものしかなく、それを有効に遣うとすれば、どういう行動を人間が執るかということを『葉隠』の口述者は、私たちに問いかけているのである。 「日々吾(わ)が命を死に当てる」という教えこそ、実は本当に輝いているということであり、もし君が、明日までの命としたら、残る命を燃やすのに、君はいったい何に賭(か)けて、有終の美を飾ろうとするのだろうか? 『葉隠』の表面だけを追うと、本当の武士道は見えなくなる。その奥深いところに記されている真偽を見抜くことが必要だろう。 その為には、論理に振り回される「頭でっかち」では役に立たないのである。論理より、行動を重んじるのが武士道であり、これに対峙(たいじ)した、「二君に仕えても構わない」とするのが士道なのである。 「無分別」という考え方は、本来は「無分別智(むふんべつち)」というもので、これは非常に仏教に近い考え方である。一方、現代人や常識者と思われている分別知の思考をする者は、自分の固定観念や先入観で物事を考え、その常識と云う「分別」で人生を生きようとする考え方である。 例えば、現代物理学者が、星々の運行を考える場合、十七世紀のニュートン物理学のケプラーの法則に合わせて、その速度を計算するが、果たしてニュートンの物理学が正しいかどうかということを、自分で実験してみようとは思わないものである。公式が、そうなっているから、その公式に随い計算をするのが、正しいと、分別知で考えているのである。つまり、「昔の偉人が、そういっているのだから、その公理は覆(くつがえ)されない」と考える科学である。 しかし分別知こそ、固定観念であり、この考え方に捕われると、その先の新しいものは何も見えないという事である。現代の科学こそ、未来の非科学であり、かつての天動説と地動説の違いくらいの誤差が生ずるのである。 その意味からすると、山本常朝の『葉隠』は斬新で、革命的な武士の行動原理と言えよう。そして、葉隠武士道は、幕末、陽明学と結びつき、これが尊王攘夷と思想を導くことになるのである。旧態依然の徳川家康の戦国武将の「二君に仕えても構わない」とする考え方では、それこそ「裏切り」であり、裏切りの発想で下剋上が繰り返されることになる。 『葉隠』を視野の狭い、独断的な思想と捕らえること勿(なか)れ。これこそ、視野の狭い、アメリカ的な、商人根性と言うものである。 物事を広く見るには、「無分別智」が大事であり、世間の常識の捕われた分別知からは、何も生まれないのである。常識を破ったところに新しさがあり、常識に捕われれば、そこからは安易な妥協が生まれることになり、その先が何も見えなくなる。その意味で、君の視野は非常に狹く、世間の常識や論理のとらわれ、世の中を色眼鏡的に、偏見で捉えているのではないだろうか。 実に、小さな固執に凝り固まり、殻に凝り固まっているように思える。まずは、自分の殻に閉じ籠(こも)らず、この世の中では、「行動原理の自分の生き態(ざま)を示す気魄(きはく)」が必要なのではないだろうか。 |
人生をどう生きればよいのか (27歳 男 無料相談室宛 フリーター)
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まず端的に、君自身の心の裡(うち)を診(み)る前に、少し回答者の論評を拝聴願いたい。
現代社会は、現行の日本国憲法にも「自由」の選択が標榜(ひょうぼう)されているが、周りをよく見渡すと、自由など何処にもない。自由の面から考えれば、昔の方が、よほど自由であった。あるいは「古き良き時代の昔」などと評する人が居るかも知れない。 これは現代人が、単なる記憶装置としての機能しか、果たしていない為であろう。 人間は「選択する存在」などといわれているが、今日では、人間が「選択する自由」は殆ど無く、誘惑や勧誘で、他から働きかけられる事はあっても、自分から働きかけるということは、あまりないようだ。それは「現代という時代」が、夥(おびただ)しい情報で埋もれているからである。 こうした現代社会の実情を、単的に云えば、かつての戦時中の全体国家主義的な生活を、誰もが無自覚のまましているという事だ。それは個性的なファッションなどと評される、それぞれの年齢別にみるスタイルも、みんな同じような恰好をしているからである。 ある意味で、全体主義時代の、一種の画一的な軍服化であろう。若者のジーンズも、サラリーマンの背広も、形こそ違っているが、やはり全体主義時代の名残りを引き摺(ず)った、画一的なスタイルから抜け出していないように思う。 そして現代社会の縮図の中に、誰もが閉じ込められ、物質的画一化の中で、全体主義的に同じ方向に進み、同じ流行に乗せられて、「選択権を喪失」した時代だと言えよう。 IT革命によって、昨今は産業化革命などと称されたが、もう既に、こうした意識は古くなり、超産業化革命の真っ只中に、現代人は置かれていると言えよう。 デモクラシー民主主義の世の中では、各人が最大の選択権をもって、民主主義と云う世の中を生きていく事が、そもそも、本来の民主主義の理想とされたが、大部分の人々は、民主主義の理想とは裏腹な、理想からどんどん遠ざかった生活をしているようだ。 街に繰り出せば、各々の商店や企業が、色とりどりの個性ある商品を並べて、客へのアピールを行っているが、これ等の商品をよく見ると、全て画一化された商品ばかりであり、現代人は画一化された物財に取り囲まれ、画一化された学校で教育を受け、画一化された大衆文化の中で時を過ごし、画一化された様式にしたがって、レジャーを楽しみ、同じ格安パックの海外旅行をして、同じ白痴番組を視聴することにより、一時の娯楽と慰安を求め、誰もが画一化された日常生活を送っている。 それは極めて自主性のない、消費するだけが目的の、没個性の中で、ただ画一化の中だけで生かされる、あるいは生きていける、生き物に成り下がっているようだ。 こうした現代社会の実情を踏まえれば、一部の現代人の中に、「未来憎悪」を抱く者や、「技術恐怖症」に陥る者が、当然ながら出て来るだろう。 現代社会のサイクルは、日々回転する加速度が早くなっている。日増しに高速化し、私たちの成長より、全てが早く成長して、周囲の成長状態は、自分の成長より数倍も早く成長を遂げている。これは季節の四季が、宇宙の法則に乗っ取った規則的な動きと、逆行した動き方をしているのかも知れない。 しかし、地球環境の悪化の為、季節ごとの四季の動きも、昔とは異なり、現代人の生活のリズムに合わせたかのような、加速度的な動きが見られる。
雨が降れば、降る雨の風情を楽しみ、風は吹けば、風の音を楽しみ、晴れた日は、晴れた日で、太陽の陽差しを精一杯浴びて、これを満喫すれば宜しい。こうすれば「縛られる自我」から解き放たれて、現代の幻想や虚構から解放されよう。こうした「現代のこだわり」から離れてみれば、毎日が可もなく、不可もなくと云った、「やすらぎの日暮し」を満喫する事ができよう。 |