会員の声と相談者の質問回答集17

断食に関しての質問回答集


断食に関しての質問1 (49歳 男 無料相談室宛 会社員)

 断食をすると、酒やタバコが不味く感じるいうことを、何かの本で読んだことがありますが、これは本当なのでしょうか。
 私は酒もタバコもやり、特にタバコは一日40本も吸うヘビー・スモーカーなので、断食をして、少しでもタバコが不味くなり、その本数が減ればと思っているのですが、こうした目的で断食をするのは不心得でしょうか。
 また、喫煙者でありながら、酒も嗜むので、つい酒食の量も多くなり、体型は肥満体型で困っています。何とか、良いお知恵を拝借できないものでしょうか。


回 答

 あなたの場合、断食は不向きであろう。喫煙者で、然(しか)も酒食が過ぎ、肥っているというのであれば、まず胃拡張を疑わねばならないだろう。胃拡張は、異常に胃が拡張して復原しない疾患であり、胃の運動機能が低下し、その症状として嘔吐や胃の膨満感や口渇などを伴う病気であるが、こうしたことを、まず克服されて断食に入るのが宜しかろう。
 そして断食そのものを考えるより、普段から少食の習慣に馴染み、体質を改善することが先決問題であろう。

 酒とタバコを同時にやる人は、美食家が多いので、この習慣を正常に戻すことは容易なことではないが、このまま飽食に至って死に至るか、それとも真底から改心して、生還の道を選ぶか、それはあなたの心掛け次第である。
 そして喫煙者が、ある程度の断食を行い、胃液の中に混じるタールやニコチンを吐き出したとしても、その過程は非常に苦痛なことであり、胃潰瘍(いかいよう)と同じような苦痛な症状に襲われ、相当に意志が強くなければ、その後の喫煙の習慣も癒(なお)ることはあるまい。
 先ず喫煙者が断食した場合、胃液の嘔吐が激しいが、断食明けに、またタバコを以前より多く吸い出し、この事自体が藪蛇(やぶへび)になるであろう。

 旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻るのは必定であり、こうした愚行に陥らない為にも、まず食生活の習慣を規則正しくして、少食に徹する習慣をつけることである。
 次に、少食に徹することが出来たら、粗食を実行し、薄味に慣れることである。そうすれば、食べ物の本当の味も分かって来よう。断食より、粗食・少食に徹することが先決問題であり、これが出来てこそ、断食を行う資格を得るのである。
 人間は、自分が思っている程、決意や意志は強くなく、実に脆(もろ)いということを知るべきである。言うは易し、行うは難し、である。

 そして断食をした結果から言える事は、人間の持つ五官が正常に戻る為、飲酒してもアルコールの味が不自然で異様なものに思われ、また喫煙しても、もともとタバコが異常な状態から作り出された物質である為、こうした嗅覚や味覚が正常に戻るに遵(したが)って、嫌なもの、不味いものになるのは当たり前である。
 喩えば、乳幼児に酒を飲ませても、これをうまいと感じたり、タバコの煙りを近付けても、嫌なものになるのと同様、五官の感覚機能が正常に戻れば、酒もタバコも不味いものになり、不自然なものとなるのである。大人の感覚は、こうした不味い物を不味と思わず、不自然なものを不自然と思わないところに、実は「老化」と言う凶事が忍び寄って来る要因があるのである。




断食に関しての質問2 (27歳 女 無料相談室 専門学校生 )

 わたしは胃下垂傾向にあり、しかもアトニーです。病院で検査を受けたら、胃が腰骨の辺まで下がっていると言われました。よく食べる方ですが、痩せていて、友達からは「痩せの大喰い」などといわれて羨ましがられていますが、実は、胃下垂で悩んでいるのです。
 そこで自宅で、学業を続けながら断食をしたいと考えていますが、これは可能でしょうか。


回 答

 これだけの質問内容を読んだだけで、あなたの体型や姿勢、また体臭や口臭までが手にとるように分かる気がする。
 まず、胃の辺から、前に上体が折れ曲がった猫背であり、口臭は胃が悪い為に、非常に息が臭く、その口臭を消す為に、口臭防止剤かガムを噛み、それで末端的な策で、誤魔化そうとするあなたの魂胆が見えるような気がする。胃下垂でアトニーという最悪な状態は、体組織などの弛緩(しかん)により、無気力症か無力症に陥り易く、胃アトニーの典型と言えよう。そしてケーキなどの甘い菓子類を多く食べているのではないかと思われる。
 以上の事から、躰(からだ)の左右のバランスも畸形(きけい)していると思われ、容姿もそれ程でもなく、痩せていても、大したプロポーションではあるまいと想像がつく。歩き方も、左右が畸形している為に、腰骨の動きが滑らかではなく、その歩き方はぎこちないだろう。

 また胃アトニーに罹(かか)り易い人は、胃を弛(ゆる)める甘い物の他に、麺類が大好きで、特にラーメンのうまい処(ところ)さがしで、これに奔走するような人であり、一日のうちに、二軒も三軒も梯子(はしご)する男女に多く見られる。この大喰いが、知らぬ間に、胃下垂症と胃アトニーに追い込むのである。女性の場合は、これにケーキがつくので、更に始末が悪いようだ。

 さて、自宅で断食が可能かと言う質問であるが、あなたの場合は胃下垂症なので、断食もしくは絶食について、正しく指導出来る内科医を尋ね、そこで入院することをお薦めする。
 胃下垂患者は、断食をすると、三日目頃から胃の復元運動が起り、胃が元の位置に戻ろうとするので、相当な苦痛が伴う筈だ。
 またそれに伴う、事故も発生することが考えられるので、自宅での断食は適当でないと思われる。

 それより、寧(むし)ろ「大喰いの癖」から早く立ち直り、少食の習慣を身に付ける事である。少食を半年も続ければ、断食をしなくても、胃下垂症は徐々に恢復(かいふく)して行くはずである。そうすれば口臭の臭さも、少しずつ小さくなって行くであろう。
 病気治しという目的だけに、断食を安易に使わないことである。仮に病気が治って、白紙状態になれば、またこれ迄の性癖より、大喰いが始まるからである。まず、必要なことは、大喰いの癖を改めることである。




断食に関しての質問3 (42歳 男 無料相談室宛 会社役員)

 私は過去に、断食道場に二回行って、断食をした経験があります。一回目は一週間で、二回目10日間行いました。断食終了後は、頭がスカッとし、とにかく爽快な気分を味わうことができました。

 普段はストレスの多い仕事に追われ、またアルコールとニコチンにどっぷりと浸かり、こうした事に後ろめたい気持ちを抱いていた私は、思い切って数年前、断食道場の門を叩いたのです。お粥から断食の為の補食に入り、次に重湯となり、本断食に入った訳です。そして本断食が終了すると、その逆のコースで普通食に戻して行くのです。

 断食をやった後は、良いことずくめで喜んでいました。ところが断食道場から帰って、一ヵ月目くらいから、飲食に対するリバウンドが始まったのです。少食を実行することが耐え切れなくなりました。最初の一ヵ月くらいは禁酒・禁煙を徹底していたのですが、それを過ぎると無性に酒が飲みたくなって、タバコが吸いたくなったのです。そして二ヵ月目からは遂に飲み始め、この頃から酒の量もしだいに多くなり、ヘビースモーカーになってしまいました。

 それで、また半年程経って、同じ断食道場に入って指導を受け、この時は10日間の断食を行いました。そして味わった気持ちは、初回程の爽快感はありませんでしたが、この時も同じく、一ヵ月目くらいから飲酒と喫煙が始まり、いまでは酒の量が多くなり、タバコも以前より多く吸うようになりました。

 私の心の中には、体調が訝(おか)しくなったら、「また、断食道場に行けばいい」というような安易な考えを持つようになりました。
 酒の量が過ぎ、喫煙の量も多くなっている今日この頃、「また、断食道場へ」という考え方をする自分が、少し異常ではないかと気付き始めたのです。果たして、三度目の正直で、断食道場に駆け込むべきでしょうか。それとも、こうした少し、へんな状態から救われる道があるのでしょうか。


回 答

 あなたが断食道場で行った断食は、間違いなく失敗であったと言う、典型的な失敗例であろう。そもそも、「揺り戻し」に心をぐらつかせ、少食が実行できないのは、断食前の下準備に手抜かりがあったと言えよう。
 もし、7日間の本断食をやるのなら、その準備として少なくとも、一ヵ月前より少食の習慣を着けておく必要があった。そして7日間の断食であるから、補食を摂る副食期間は7日間の三倍の、21日間なければならない。また、本断食が終了して、同日数の補食期間を設けなければならない。これを合計すると、全日程は49日間であり、この期間を飛ばして、本断食に入ったと考えられる。特に、断食明けの補食期間は充分でなく、飛ばしたのではないかと思われる。

 当然これが事実ならば、リバウンドが起る筈であり、断食後の躰の体質に、充分に馴染まないまま、もとに戻ぜば、こうした状態は発生し易いのである。その悪癖が、いまもなお、付き纏っていると思われる。こうした状況下で、三回目の断食を行っても、また同じ事であろう。あるいはもっと悪化するかも知れない。
 今度こそ、本当の大酒呑みになり、ヘビースモーカーになるだけでは済まされないであろう。心の自制が効かなくなり、精神に障害が出るかも知れないし、内臓の大きな病気を抱え込む事になるかも知れない。

 こうした状態から抜け出す為には、再度断食を試みるより、玄米穀物を中心とした少食を徹底することをお薦めする。少食の習慣が身につけば、断食をしたのと同じような、爽快感な気分が味わえ、宿便の排泄が可能であり、これを一年も続ければ、酒やタバコに悩まされない体質が戻って来るであろう。とにかく少食を実行された方がベストである。




断食に関しての質問4 (52歳 主婦 電話相談 会員)

 私の家系はガン家系で、祖父母も父母も、みなカンで亡くなりました。
 ですから私も、やがてガンを発病して死ぬのではないかと言う恐怖を抱いていました。ところが、《癒しの杜の会》のHPを見て、こうした体質の悪さも、断食によって改善できるのではないかと思うようになりました。

 そして一週間の断食の計画を立て、先生の仰る通りに、本断食の三倍の期間を設け、補食期間を充分にとる計画を立てて、今その実行中であり、その間の、ご指導を承りたいと存じます。何卒、断食中のアドバイスをお願い致します。【註】このご婦人は、断食中、その後も一日に一回の割り合いで電話をかけて来た)


回 答

 断食で成功したか、失敗したか、その判定は、断食終了後の補食を摂る副食期間にあり、この戻し方が乱暴であったり、飛び超えて次のステップに進んでしまうと、数カ月経ってから、思いもよらぬリバウンドに悩まされものである。したがって、断食は断食をする本断食そのものよりも、断食終了後の補食を摂る期間が非常に難しいのである。
 普通食への戻しは、滑らかなカーブを描くように、徐々に、慎重に戻して行かなければならない。断食で失敗するのは、終了後の副食期間である。失敗する人の多くは、ここで一度に大喰いをし、食のコントロールを失ってしまうのである。

 また、体質改善を目指して断食するのなら、一度や二度で解決できるとは思わず、定期的に計画を立てて、短い断食を度々繰り返す方がよいであろう。勿論その間は、粗食・少食に徹し、食事の量も腹六分以下に抑える事である。
 こうした習慣が身につけば、体質は徐々に改善され、伝染病発生地帯に居て、仮に伝染病に感染したとしても、直ぐに回復するであろうし、他の病気になっても、直ぐに回復するであろう。こうした決定は、病気に罹らない体力造りより、病気に罹っても直ぐに治る、体質の良さが決定するのである。

 こうした事に普段から心掛け、粗食・少食を実践して行けば、喩えガン家系であろうとも、ガンという病気からは無縁になる筈である。むしろ、自分がガンに罹るのではないかと、恐れを抱く方が、最も危険なのである。ガン・ノイローゼが、ガンに罹るという実例こそ、ガンを招き寄せる元凶となるので、「罹るのではないか」という恐れは、心から駆逐しておくべきである。
 また、病気治しに断食を利用しない事である。

 勤めを持つ就業者が、断食をやるには土曜・日曜を利用した一日断食がよいであろう。金曜日の夜から準備を始め、土曜日の朝から翌日の日曜日の昼まで一日間断食を行い、その日の昼食と夕食を補食期間にし、月曜日に普通食に戻すと言う遣り方である。こうすれば一ヵ月間に約4日、断食を行った事になり、これを一年間続ければ、48日間断食をした事と同じになり、普段は少食の習慣をつけていくのである。




断食についての総合アドバイス

 まず、断食云々を述べる前に、粗食・少食の道理について述べる事にしよう。
 私のこれまでの経験によれば、人間は現代栄養学の定める必要カロリー数以下の粗食・少食でも、健康が保持でき、なおかつ充分に働ける身体が養えると言う事が分かって来た。その結果、人間は必ずしも、動物を殺し、その肉を食べたり、鶏卵や乳製品などの動物性蛋白質を摂取しなくても良いと言う結論に至った。
 また、保健や治病における少食の有効さが、具体的な数値で実証されるようにもなって来た。

 喩えば、成人男子であっても、植物性食品や近海の魚介類や貝類の各栄養素のバランスの取れた完全食であれば、玄米穀物を正食として一日1000Kcal前後でも充分に働けるという事が分かって来た。

 しかし、現代という時代は、北半球では世界的に飽食の時代であり、食を人間が生きる為のそれに求めず、必要とする食事量とは別に、美味しい物や珍味と称される美食を、どれだけ腹一杯食べる事が出来るかと言う欲望の問題が、グルメとしての、人生の側面に絡み付いている。そして多くの人は、この側面に、自らの人生を絡め捕られて生きている。

 現代は、人間が美食によって絡め捕られた姿を、じっくりと凝視すると、そこには動物を殺してまでそれに喰らいつく、人間の貪欲さが浮き彫りになってくる。美味しい物を腹一杯食べた上でも、更に珍しい好物が出て来ると、これに喰らいつこうとする欲望が剥(む)き出しになる。

 それ故に、医学的な必要摂取栄養量が現在の基準より少なくなれば、更にそれだけ食欲を抑制しなければならないと言う破目に陥る分けである。則(すなわ)ち、必要栄養量と美食への欲望との懸隔(けんかく)の大きさに悩まされ、「もしかしたら食べ過ぎているのではないか」「栄養過剰になり肥満になるのではないか」などの精神的な葛藤の問題が発生するのである。

 昨今は、肥満症に悩む人々が増加の一途にある。元凶は美食主義が招いた結果である。肥満症に悩む人々の中には、厳しい節食を始める人がいるが、その節食も長続きせず、あるいは自己流の断食を行う人もいるが、多くは一週間程度の本断食を何とか実行しながらも、断食明けの補食期間に一度の普通食に戻してしまって、その後、更に大喰いの癖(くせ)がつき、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻ってしまったと嘆いておられる方が決して少なくないのである。

 こうした現実を窺(うかが)えば、人間は、その本性として持っている強烈な食欲の前には、実に脆(もろ)いものであるかということが明白になる。本性に振り廻され、食欲に振り回されると言う現実は、実はこれが慢性病と隣り合せであり、如何に「粗食・少食」によって、健康や長寿が科学的に証明されても、人間の持つ本性の貪欲さが食欲を剥き出しにして、抑制が効かなくなり、素直に粗食・少食が受け入れられないのである。

 また、真剣な決意をもって始めた減食や節食でさえ、長続きしないものであれば、生半可な気持ちで始めた粗食・少食や短期間の断食でさえ、失敗に終わる事は眼に見えている。如何に良いと言うものであっても、私たちを取り巻く社会全体が飽食の真っ只中にあり、飽食に押し流されているような現実では、一時的に良い事を実践したとしても、結局は旧の木阿弥に戻るような状態であっては、人類は永遠に健康と長寿を手に入れる事は出来ないであろう。

 さて、私たちは飽食の真っ只中にあり、鶏卵一個が20円で安いとか、牛肉100gで500円で高いとか、これらを「物」として考え、勝手な事を云っているが、これは人間側から検(み)た本位的な考え方であり、まさに自他離別の差別的な思考であると言えよう。
 そして人間はこの差別思想をもって、動物達をほしいままに殺生し、その肉を喰らい、あるいは抗生物質や農薬の乱用などで食を狂わせ、現代人の貪欲な人間像を浮き彫りにし、これを改める事もなく、公然と行っていると言う現代社会の実情は、もはや拭い難いものとなっている。

 これに反して、万物は総て同格であり、同等であるとする思想が「自他同根」である。自他同根の思想には、一粒の米、一枚の菜っ葉と雖(いえど)も、生命が宿り、これらの生命が犧牲となって人間の生命を肩代わりし、その生命が人間を養っていると観(かん)じるのが「自他同根」の思想である。いわば、他の生命は、私たちの分身であると観(み)る分けである。
 そして他の生命から「命」を頂くのであるから、それらを食する前は犧牲になった命に対し、祈りを捧げて「いただきます」というのである。

 地球上の尊い生命を、私たちは止むなく絶って、自らの生命の糧(かて)としている分けである。つまり、これは他の生命が、人間の犠牲になってくれるからこそ、人類は今日の繁栄を見る事ができたのである。しかし、この事を常に考え続けて居る人は少ない。自分が生きていく為に、毎日必ず、何らかの生き物を殺し、その命を喰らっているのだという自覚の乏しいのが、今日の人間の姿なのである。これこそ、まさに人間の業(ごう)と言うべきものであろう。

 現代人が安易に見過ごしている、「食事を摂る前の合掌」は、人間に代わって命の肩代わりをしてくれた生命への感謝の気持ちを顕わしたものであった。生命を犧牲にしてくれた米やその他の穀物、小魚や貝類、野菜や海藻に対するお詫びの気持ちであった。こうした感謝とお詫びは、他の生命の犧牲の数を最小限度にとどめ、それに努力を払うべき務めが、人間の行動原理ではなかったか。あるいは当然の務めではなかったか。
 しかし、現代人はこうした事をすっかり忘れ、浅ましき飽食や、美食や珍味に舌鼓を打ち、生命与奪の傲慢(ごうまん)を、限り無く繰り返していると言うのが、「現代」という時代なのである。

 本来食事と言うのは、飢えや渇きを癒(いや)し、肉体が枯死しないようにする為の良薬であった。だが飽食に時代にあっては、貪りの心や、瞋(いかり)りの心をもって、喰らいつき、その反動が他人と争う瞋恚(しんい)と、他人よりも一歩先に出る競争原理を派生させ、不幸現象の中に多くの人心を誘い込んだ。現代こそ、不幸現象の呪縛に悩まされている時代はないであろう。

 現代人は、わが家の食卓に並ぶ食品が、膳として供(さしだ)されるまでに、どれだけ多くの人々の手を経て来たか、考えた事があるだろうか。その人達の苦労を思った事があるだろうか。そして自分が、こうして生かされている事に、心から感謝した事があるだろうか。
 更に、自分を生かしてくれる、食べ物を育んだ、太陽の光、空気、大地、水の自然の恩恵に対し、感謝した事があるだろうか。
 そして、食べ物を頂く自分は、どれだけ人の為に役に立つ事をして来たか、それを反芻(はんすう)した事があるだろうか。
 果たして自分は、本当に食べ物を頂く資格があるかどうか、それを考えた事があるだろうか。

 人間がこうした心を抱かずに、飽食に明け暮れ、美食や珍味を貪った場合、仏道では、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に墮(お)ちると説いている。
 人間の本性は、自分が思うほど強くない。実に脆いものである。美食に転び易い。したがって美食や珍味を前にしては、つい慎みを忘れてしまう。美味しい物をもっと食べたいと思う貪欲な心が起る。そして美食や珍味を、もっと欲しいと求め、味の薄い粗食には愚痴(ぐち)を零(こぼ)し、腹を立てたりする。
 この貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒で地獄・餓鬼・畜生の三悪道に墮るのだ。

 人間の人生には「生きる」という為の目的が存在しなければならない。したがって私たちが、他の生命に肩代わりしてもらって「食事を頂く」ということには、最終目的が明白になっていなければならない。では、その目的とはなにか。

 それは誰もが習気(じっけ)として背負って来た過去世(かこぜ)からの因縁を一つ一つ解きほぐし、更に、身分の信じる道を成し遂げる為に食事を頂くのであって、決して喰(く)わんが為ではないのである。
 そして、他の生き物の命を大切にするということが、そのまま自分自身の命を最も能(よ)く生かす「健康法」でもあるわけである。

 だからこそ、普段から粗食・少食に徹する事は、他の生き物の命を大切にすることであり、自他同根の中でこそ、健康で長寿が全う出来る身体が養えるのである。したがって現代人が、今日の蔓延(まんえん)する難病・奇病から解放される為には、人間は業によって他の生物を犧牲にし、生きているのだと言う自覚から始まらなければならないのである。この自覚がなければ、殺された生命や、肩代わりした生命は怨(うら)みとなって人間に暗い影を投げかけるのである。その影の実体こそ、現代人を蝕む、完治不可能な慢性病の難病・奇病なのである。

 一方、この自覚に目覚め、犧牲になってくれた生物の命をより善く生かし、信ずる道を成し遂げる為に生きていくのだと言う感謝の心を持ち、前向きに生きていくのでなければ、彼等に対して相済まない分けである。
 また、彼等の命を完全に私たちの血となし、肉となす為には、より高次への命へと私たち自身が同化すべきなのである。美味しい御馳走を前に、口から溢れんばかりに貪り、飽食し、ゲップを吐いてまで喰らいつき、内臓を疲弊(ひへい)させ、食傷すると言うのは実に愚かしい限りである。これでは自分の胃や腸を傷めるばかりでなく、私たちの命を肩代わりしてくれた生物に対し、申し訳ないのである。

 しかし、現代は飽食の真っ只中にある。貪り付き、罪深い事を毎日繰り替えしているというのが、紛れもない現代人の姿なのだ。天は、このような現代人の横暴を許すはずがない。また、飽食が自らの運命を台無しにし、運勢を低下させて行く事実は、既に医学的にも証明されているのである。

 一方、高僧や名僧と自称する仏道界の指導者がいる。彼等が如何に善知識を持っていたとしても、飽食の生活を続け、多数の生命を無駄に犧牲にしている現実を見れば、また彼等も仏罰を受けるのは必定である。
 また、自称霊能者と称し、一度か二度の紛(まぐ)れ予言があたった事で、取り巻に傅(かしず)かれ、妾(めかけ)を侍(はべ)らせ、高級車を乗り回し、豪邸に住み、美酒や美食を喰らい、高級西洋煙草を蒸(ふ)かす輩(やから)がいる。職業祈祷師も、こうした生活を満喫している者が少なくない。

 如何に、熱心に自宗の優れた教義を説き、霊的世界のことを説いても、その罪は、結局自らが刈り取らなければならないのである。つまり、彼等とて、何らかの病を得て、苦しむ事になるのである。行き着く先は断末魔の非業の死である。

 私たちは正しい食事観に遵(したが)って、玄米を正食とし、粗食を御数とし、できる限り少食を守り、犧牲になってくれた他の生命の命を、最小限度に止めるような食生活をすれば、医学的見地から観ても、健康と長寿を約束する食生活であると言う事を悟ることが出来るのである。
 他の生命の事を思い遣(や)ることは、則(すなわ)ち「慈悲の心」である。生命を奪うことは出来るだけ最小限度に止めなければならない。
 それを要約すれば、次の言うになる。

少食によって毎日繰り返す殺生をできるだけ慎み、それを控えることは、自他同根の思想にも繋(つな)がり、生き物に対する愛する想念であり、これこそが「慈悲の心」である。
少食によって内臓の疲弊はなくなり、完全に消化吸収された栄養で、血液は綺麗になり、これを全身の400兆にも及ぶ細胞に供給する事が出来る。
その為に組織は、生命力に満ち溢れ、生命活動を持続する事が出来る。これは則(すなわ)ち、400兆に及ぶ細胞にないする「愛の行為」である。
少食によって腸内の腐敗発酵が止まり、腸内細菌叢に住み良い環境造りを提供する事が出来る。これは腸内細菌叢への「愛の行為」である。
二杯食べる御飯を一杯に減らし、あるいは一杯食べる御飯を半分に減らし、残った半分を飢餓で苦しむ、発展途上国の人民に供養すれば、これこそ人類愛に目覚めた「慈悲の行為」となる。
自他同根の思想に基づけば、自他を愛する「愛の想念」が生まれ、その想念は「善」であるから、善を為(な)す者は、次第に運が良くなっていくものなのである。これは殺生を慎む少食生活によって初めて具現するものである。
殺生を慎む心が自覚出来れば、人間としての罪深い業を意識する事が出来、人間の命の肩代わりをしてくれた生命に対し、彼等に深い感謝の気持ちが湧き起る分けである。それは自分と同じ命を頂いているからである。
自分の命を肩代わりしてもらっているという事が分かれば、腹六分か、腹五分で箸(はし)を置く事が出来る。
食べ物を粗末にしない。節約すると言う気持ちが起れば、飢餓に苦しむ国々の同胞に供養する気持ちが起って来るのである。この気持ちが起れば、いつとはなしに過食や飽食の悪癖が消え去り、他を思い遣る自他同根の「愛する想念」が自覚出来るのである。
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人間は本性として貪欲で、欲深い生き物である。この欲深い生き物は、楽をして目的を達成しようと考える。しかし、本物はやはり厳しいのであり、健康法についても同じ事が言え、情報氾濫の時代は余りにも多くの他力門が口を広げ、大衆を惑わしている。この事が分かれば、美食や飽食は死に急ぐ元凶であると言う事が、明確に自覚出来るであろう。

 私たちは立食パーティーや宴会などで、盛り沢山の御馳走を片っ端から平らげて行く人を見かけることがある。こうした人の多くは、自分が払った会費分を、御馳走を貪ることで、取り返そうとする卑(いや)しき人である。そうした卑しき人に習って、何人かの人が貪りつく姿も、よく眼にすることがある。
 しかし、こうした人は結局、自らの手で自分の寿命を縮め、死に急いでいるのである。

 人間は、誰一人例外いなく、20歳に達した時、それまでの生活環境や体質の関係において、その後の一生涯に食べる「食禄(しょくろく)」というものが決定される。食禄とは、食い縁(ぶち)の事である。
 喩えば、ある人が20歳の年齢に達した時、その後の人生には6000kgの穀物がその人の食糧として与えられていると仮定しよう。

 するとこの人は、6000kgの米を、何年掛かって食べるかと言う計算が割り出せて来る。つまり寿命の決定が、この計算から割りだせると言うことだ。
 もし、この人が一年に150kgずつ、これを食べたとすると、6000kgは40年で消費されるから、この人の寿命は60歳と言うことになる。
 しかし、少食を実行して一年間の消費量を100kgに節約すれば、6000kgを食べるのには60年掛かり、この人の寿命は80歳と言うことになる。つまり、食禄を節約すれば、20年も長生き出来るのである。

 また逆に、一年の消費量を200kgに増やした場合、6000kgの米は30年で消費されるから、この人の寿命は50歳と言う若さでこの世を去らなければならなくなる。こうした食禄を考えれば、他人が立食パーティーや宴会で御馳走に貪りつこうと、自分もこうした真似をすることは愚かであると言う事が分かり、決して羨(うらや)ましく思わないものである。
 そして玄米を中心にした玄米雑穀ご飯に、一汁一菜と言う素朴な食事に、腹六分か腹五分で満足する生き甲斐を覚える事ができれば、本当の人生が如何なるものか、その実体が見えて来て、なお一層精進の心が燃え上がって来る筈である。

 粗食・少食の意義が、こうした根本原理に横たわっていることに、お気付き頂いたであろうか。
 だから、一口に「断食」といっても、断食するよりも、それと同等の効果が、粗食・少食にはあるのである。

 さて、本論の断食について迫ってみよう。
 断食をする場合の準備としては、本断食の入る前の準備と、本断食が終ってからの準備である。つまり副食期間での補食である。補食の基本は、玄米粥に梅干か漬物である。白米は補食として不向きであるので、玄米を食することが好ましい。
 まず、玄米の食し方であるが、玄米は24時間清水につけ、冷蔵庫に保管して、発芽させなければならない。玄米は発芽食品であり、発芽させて食べると言うのが正しいのである。発芽する玄米は生きている米であり、これを畑に蒔(ま)けば、芽を出すのである。これこそが生きている米の証拠である。

生きている米の玄米。
死んでしまった白米。

 しかし、白米は発芽食品ではない。白米を畑に蒔いても決して芽を出す事はない。死んだ米であるからだ。多くの人は、この死んだ米を、「口当たりがいい」という理由で持て囃し、多くの人に食べているのである。しかし死んだ米に、エネルギーなどある訳がない。精白機に掛けられた時点で、ミネラル分なども大きく抜け落ち、栄養価も玄米に比べて非常に低いのである。
 それは玄米に備わっていた栄養部分を総て取り除き、デンプンのみにしたのが白米であるからだ.。つまり白米は、玄米の粕(かす)ということになる。この「粕」の文字は、横にして右から読むと「白米」という字になる。だから白米は、栄養を総て削(そ)ぎ落としたカスと言う事になる。

玄米の構造と栄養分布

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 また玄米は白米に比べて、非常に便通の排泄が良くなる。玄米は腸内に停滞する宿便を大量に引っ張りだして、排泄する機能を持っているのである。しかし、白米にはこの機能がない。白米は、食べれば食べるだけ、腸壁内に粘着し、宿便を発生させる元凶となる。宿便は排泄されない腸壁内に粘着した腐敗物質である。この腐敗物質が種々の現代病を引き起こすのである。

 断食前は、こうした排泄機能を順調にしておかなければならない。玄米・雑穀で少食にしておいて上で、断食を行うのが正しいのである。こうした準備を怠っていきなり断食を行っても、苦しいばかりであり、結局、途中で挫折することになる。 

玄米の発芽のさせ方は24時間清水に浸すのがポイント。
発芽させてHI釜で炊き上げた玄米雑穀ご飯。

 玄米を食する場合は、まず24時間、清水に浸し、発芽させることがポイントである。発芽食品は、少量で充分なエネルギーを補給する事が出来、それだけで栄養価が高くなるのである。またミネラル分も白米に比べて豊富であり、非常に栄養バランスが良いのである。
 この玄米をベースに、ハト麦や丸麦や押麦を加え、黍(きび)、粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦(そば)の実、緑豆、黒米、赤米、小豆、大豆、トウモロコシ、アマランサス、黒胡麻、乾燥した紫蘇(しそ)の葉などを加えて、雑穀ご飯にするのである。雑穀ご飯にすることで、少量で済み、働くエネルギーは充分に充(み)たされるのである。

 またビタミンB群は、白米に比べて豊富であり、蛋白質、ビタミンA・B1・B2・Eを含み、ルチン、カルシウム、鉄分、ナイアシン、マグネシウムなどの栄養素が、玄米雑穀ご飯の中に充分に含まれているのである。こうした雑穀ご飯を主体にして、お粥(かゆ)、重湯の順に断食に入り、また断食終了後はこの逆のコースを辿って、普通食に戻していくのである。
 そして普通食に戻った場合、やはり玄米雑穀ご飯と、以下のような植物性の御数おかず/御菜とも)が好ましいであろう。

副食となる根野菜の筑前煮。
副食となる獅子唐の胡麻油炒め。

 人間は歯の形を見れば、肉食をするのではなく、穀物菜食をするようにつくられている。したがって玄米穀物を中心にした野菜食こそ、御数のは適当なのである。

 さて、断食を行う場合、補食と摂る準備期間として、副食を食する期間を設けなければならない。この期間は、本断食の三倍に期間が必要である。
 喩えば、3日の断食を実行するのであれば、9日間が断食前の副食期間であり、その後、3日の本断食を行い、断食明けには、また9日間の副食期間を設け、重湯から徐々に三分粥、五分粥と、順に戻していくのである。

 多くの断食実行者は、本断食の3日間は耐えることができるが、断食明けから補食を摂る期間に失敗し、この期間に喫煙者は煙草を吸ったり、飲酒家は酒を喰らったり、また大喰いに奔(はし)り、結局、旧の木阿弥どころか、断食以前より、更に体調を崩して、心身ともに不健康な状態にしてしまうのである。この点において、必ず揺り戻しというリバウンドと、美食に対する心の誘惑に敗れる者が非常に多いという事である。

 したがって、断食を行うのであれば、少なくとも1ヵ月間くらいは粗食・少食に徹し、これを実行出来る意志力を養ってから行うのが良いであろう。下準備は慎重に、充分過ぎるくらい心を配り、普段から過食の習慣を駆逐しておくことが大事である。また、幾ら少食を実行しても、食事内容が白米であったり、インスタント食品であったり、動蛋白やジャンクフードであっては栄養失調になって躰を兇(わる)くするばかりで、栄養価の高い玄米を中心とした穀物菜食とは根本的に異なるという、大きな違いを知らなければならない。


断食に ついては、daitouryu.net《癒しの杜の会》のコーナーの“断食行法記”を参照下さい。