精神病院って何ですか (19歳 無料相談室宛 女子短大生)
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今日の世、誰もが精神病、精神科、精神病院などと、殆ど無関係に生きているように見える。しかし、物質文明の真っ只中を驀進(ばくしん)する近代資本主義社会では、文明が高速回転する遠心分離器のような形態をとっている以上、どうしてもこの中から弾き出される人間が出て来る。
それは精神異常者であったり、性格粗暴者であったり、変質者であったりする。また、最近はテクノ・ストレスから、コンピュータスキル等のPC関係者も、神経症ばかりではなく、精神分裂病に罹(っか)る人が多くなっている。 また近代資本主義という世の中が、物質的進化を追い求めるあまり、多くの欧米食常食者に肉体的、精神的、心因的変化が顕われ出したという事である。これは霊的に言うと、精神を司る正守護神を封印して、物質中心主義の副守護神を表面に出して、その御利益(ごりやく)に縋(すが)ろうとする考え方である。その為に、現代社会の高速回転の動きに蹤(つ)いて行けず、種々の精神障害が顕われて来る。 現在アメリカでは、精神病(殊に精神分裂病・躁鬱病を二大精神病をはじめ、誇大妄想、被害妄想、関係妄想などの妄想症や偏執病や、離人症など。その背後には宗教や恋愛、嫉妬や迫害、また裁判での訴訟社会が、こうしたものを招き寄せている)発生率が約1.6%前後だといわれている。日本もこの後を急速に追い駆けているといわれる。こうした状況下、精神病保菌者は、現在は潜在的に隠れているが、これがいつ表面化しても訝(おか)しくないという情況になって来ていると言う。 精神分裂病等は、十代後半前後(思春期妄想症候群に陥り易い年齢で、自己臭や器質障害などの思春期妄想)のこの保菌者は一旦姿を顕わすが、簡単な治療等で一端は良くなり、しかし、また三十代前半にかけて浮上して来る。その後、入退院を繰り返し、投薬治療が続くのであるが、薬にも抗体(antibody/生体が抗原の侵入に反応して体内に形成する物質ができあがり、生体にその抗原に対する免疫性や過敏性を与える)が出来、次第に薬が効かなくなる。 軽い人は、毎日、投薬を続けながら何とか社会生活を送る事が出来るが、重度になると、薬漬けになりながらも、薬の抗体の影響を受けて、次第に効かなくなり、その後に人生において、完治しないと言うのが今日の精神医療の実情である。 では、どうしてこうした由々しき事態を招いたのだろうか。 それは現代の食生活に問題があり、その上、国民の大半は飽食の時代に相応しく、美食主義に奔(はし)り、過食を重ねている傾向にあり、また、過密人口の為に対人関係は、一昔前に比べても、比較にならない程、複雑になり、煩わしくなっている。更に、過食による内臓の疲労に加えて、精神的ストレスが掛かり、近年ではテクノ・ストレスなる新たな精神障害が出始めている。つまり、食の誤りによって、免疫体が破壊され、抗原毒素を強力にしているという事である。 医学的には、抗体として働くのは免疫グロブリンであり、Bリンパ球や形質細胞によって産生され、血清のガンマ・グロブリン分画に含まれるとされ、これが抗原毒素物質であると言われている。 一方、宗教や恋愛に絡む問題からも、精神障害が顕われる。宗教の場合は、新興宗教に入信し、熱心な信者になった場合である。霊的体質でありながら、肉体的な強化術や、日々の修行で強健術を行っていない人は、多重人格者として憑衣されて居る人が少なくない。 また、恋愛問題においても、思い込の想念が激しくなり、恋愛妄想が表面化すると、偏執病になり易く、精神的な心因性が狂わされて、人格が二重、三重となる。付き合っている相手は豹変(ひょうへん)して、冷たくされた場合に多重人格が顕われる。 更には、これに追い打ちを掛けるように、性格自身による病気への悩み事や、不定愁訴(ふていしゅうそ)の禍根(かこん)である自律神経の失調等が、これ等に追い打ちを掛けて異常状態をつくり出す。神経症なども、こうした病因に由来する。また、神経症で多喰い常習者などの大食漢は、既に心因的に狂わされていて、食に対する偏執(へんしつ)が常人に比べて強く、激しいようだ。多喰いで、脂肪肝(肝臓に多量の脂肪が蓄積する状態で、アルコール性・栄養性・糖尿病性・薬剤性などがあり、一部は肝硬変に移行する病気)に陥っている人も、内因性の神経障害を持っている。 こうした病因に酷似する状態は、喩(たと)えば、昔は、子供に限って胃潰瘍や十二指腸潰瘍はごく稀(まれ)な疾患であった。 ところが近年は、小学生でも、胃潰瘍になり、あるいは十二指腸潰瘍になると言う異変が起りはじめている。こうして、現代人は自ら、自分を自滅する方向へと引き摺(ず)っているようにも思える。 精神の崩壊は、家族や親族、その周囲の者をも巻き込んで、共倒れする元凶であると言う事を知らねばならない。これらは総て食の誤りや、乱れや、慎み知らずからくるものである。 そうなってくると、最終的な行き先は精神病院と言う事であろう。 そして医療保護入院には、下記の精神保健条項がある。 |
入院(医療保護入院)に際してのおしらせ ×× ×× 様 平成××年××月××日
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さて、精神を病んでいて、犯罪を犯した場合、その鑑定は、精神鑑定医は診断を行う。
この診断は、犯行当時、犯人が心神喪失(しんしんそうしつ)であったり、心神耗弱(しんしんこうじゃく)であったかを鑑定するのであるが、今日の精神医学のレベルでは、これは非常に難しいとされている。犯行に及んだ犯罪者が、初犯であり、精神異常者を装えば、精神鑑定医など簡単に騙(だま)せるからだ。 こうした診断に対し、白黒が着け難い、灰色の場合、たいていの精神鑑定医は、待っていたように、心神喪失あるいは心神耗弱の鑑定報告をする。 こうした状態に至った場合、「措置入院」の手続きがとられ、これは精神保健法に基づき、都道府県知事の権限で、自傷・他害の恐れのある精神障害者を、複数の精神鑑定の指定医(精神科医)の判定によって強制的に病院に入院させることをいう。 また心神喪失や心神耗弱状態は、精神の障害を指し、生物学的かつ医学的な精神の異常をいい、これを判断するのを生物学的方法という。 また一方、犯行に及んだ過程において、自分の行動の是非を判別する能力、またはそれに隨(したが)って行動する能力かあったか否かを問題にし、いずれかが欠けていれば「心神喪失」、いずれかが著しく減退していれば「心神耗弱」と判断しているようである。この判断過程を心理学的方法という。 そして「措置入院」は、このようにして決定される。 当然、当時、心神喪失や心神耗弱状態であれば、犯行に及んでも、裁判官は心神喪失者や心神耗弱者には弱いから、異色の事件であったりした場合、意図も簡単に無罪を宣告する。つまり、法律の発想は、被害者側が訴えても、「犯人が処罰されても、あなたの被害は回復されないのだから、諦めなさい」という事を簡単に言い渡してしまうのである。換言すれば、被害者の感情より、精神異常者の生命や身体を優先すると言う事が、現行刑法なのである。 そしてもう一つ要約するならば、心身症という極めて難解な、心の病が絡んで来る為に、犯罪者を鑑定する鑑定医も、犯罪者の心の裡(うち)に潜む心身症なるものが浮上すると、弁護側の圧力に屈したら騙されて、被害者感情よりも、精神異常者の生命と身体を優先するという立場から、現在の刑事司法で、精神異常者は無罪になることが多いようだ。 また、今日は人権擁護(じんけんようご)などが声高(こわだか)に叫ばれ時代であるから、一時的には医療観察法により、自由は拘束するようだが、それも長くても、一、二年と言うところであり、その後は「無罪」という語が優先し、放免となり、一定期間を過ぎれば自由に、犯罪者も何処でも闊歩(かっぽ)できるようになる。 あなたの相談の内容に回答出来る事は、まず、あなたの元ボーイフレンドは無罪であること。次に一定期間をの措置入院期間が終了し、正常に近い状態に戻ったと診断されれば、精神病院から退院出来ること。しかし、精神病に完治という状態はないので、偏執的な妄想が強くなれば、ストーカー化される可能性もあること。 したがって、これだけの危険要素が揃っているのであるから、善後策を講じ、最悪の場合を想定して、これに備える防禦策が必要であろう。しかし、こうした危険性は、あなたに限らず、誰にでもあると言う事を強調しておきたい。 「転ばぬ先の杖」として、善後策を講じる事が、これから先のあなたの人生の課題となるであろう。 |
これから老人問題と世情について (75歳 無職 男性 会員)
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現代社会は地球規模で、高齢化に向かう社会であると言ってよいであろう。
特に、日本で深刻になっているのは、高齢者の増加にともなう老人問題で、これが現在、最も危惧される社会問題となりつつある。この状態は、まだ現在進行形に至る序曲に過ぎず、これから先が正念場と言えよう。 そしてこの問題に伴い、危惧されている事は、高齢化と同時進行するボケ老人の増加と、医療費の増加である。更には、ボケ老人と寝た切り老人は、その家庭そのものを崩壊に追い込んでしまう実情がある。 また、医療費の大半は、こうした老人対策で健康保険を食い潰し、日本経済を破綻(はたん)に追い込む元凶と考えられている。医療が徹底され、医療化が進めば、必然的に高齢化が進むのは当然の事である。 この事の始まりは、老人医療を無料化した事であった。この為に、病院と言う病院、あるいは骨格的に不調(特に腰痛や肩凝りや膝関節の痛み)を訴える老人達は、一方、整形外科や柔道整復師の許(もと)に駆け付け、何処の整形外科や柔整院(柔道整復師の場合、「接骨院」しか名のれないのだが、これ等の資格が准医師資格になったため、「整骨院」をなのる柔整院も多くなった。柔整師や鍼灸師の資格でカイロプラクチックを名乗るところも同じ)の待合室も、こうした老人達で溢れ、社交場になっている。 ところが日本を除く、国々を見てみると、こうした元凶に陥っているのは、どうも日本だけらしい。あの、福祉王国と謂(い)われたイギリスでさえ、65歳以上は保険で医療は受けられないし、老人の病気の種類を上げても、保険の効かない病気がある。 しかし、日本は一切の病気を、保険で丸抱えして来た為に、病院が養老院と化したり、精神病院が介護施設と化す現実を招いた。こうした状況下では、当然、健保はパンクせざるを得なくなる。 そして日本の医師は、これまで老人患者を手放さない性癖を身に付けてしまった。 人間は歳を取れば、どうしても躰(からだ)のあちこちに不具合が出て来る。病気を持たない、健康な老人と言うのは極めて少ない。したがって日本の医師は、老人さえ抱えておけば、医商として儲かるという裏の実情を知っている。その上、彼等は、健保が破綻しようが、そんな事には構っていられないのである。 結局、医療の進歩は、何を齎(もたら)したかと言うと、高齢化社会を作り上げ、老人の医療無料化を推進し、最後に健保の破綻を招くと言う現実をつくり出しただけだった。そしてこれが、ボケや寝た切り老人、植物老人らをつくり出し、更にはこうした老人を抱える家庭の崩壊と言う縮図が、世界規模で大問題になり始めたのである。 いまや「揺り籃(かご)から墓場まで」という社会福祉のシステムは、完全に機能を失い、この諌言は最早、死語である。福祉政策を根本から見直さねば、過剰となり過ぎた老人人口の増加は、他の意味で、無限の災いに転ずるかも知れない。 世界でも有数な福祉国家としてのスエーデンでは、日本とは較べものにならないくらい税金が高い。これは日本に比ではない。就労者の給料の60%以上は、税金で持って行かれてしまう。日本はそこまでない。 だが、こうした税金が高額になる現象は、若者達を根本的に「働かない」という思考に煽(あお)り、結局、「稼ぐのが馬鹿らしい」という結果をつくるのである。したがって、給与のベースアップも行わず、労働者の争点であった毎年のベースアップ戦術は無駄なものと帰してしまう。 日本でも労働組合が弱体化する傾向は、こうした事が要因となっている。 そしてである。若い世代の就労者達は、ベースアップしない代わりに、労働時間の短縮を求めるようになる。これは福祉先進国のスエーデンで起っている現象である。 また日本でも、若い世代の多くは、年金や福祉などの政策を、多くの者は憎んでいる。況(ま)して、税金が高い。せっせと働いて、来るべき老後に貰える可能性の少ない年金や、老人の医療費に、自分の税金が湯水の如く遣われている事を快く思っていない。この事は政府も承知しているであろうが、今日の老人問題を如何ともすることができない。その上、「消費税を10%へ」という動きが起り始めている。健保が破産寸前にあるからだ。 この一方、健保が破産寸前になりながら、老人福祉を声高に宣伝し回る野党議員がいる。彼等は老人福祉だけを叫んでいれば、選挙に勝つ事が出来るからだ。これこそ、まさに進退谷(きわ)まった状態ではないか。 かつてある著名な大学教授が、老人問題に対し、特異な解決策を打ち出した事があった。 それは「即、老人医療を廃止すべきだ」という結論であった。その内容によれば、ある一定年齢に達すると、老人は医療を受けられなくなると言うものであった。つまり、病気の治療を、保険で受けられなくと言う政策であった。しかしこれもに例外を設けた。それは「痛み止め治療」という分野においてのみ、医療制度が適応されると言うものであった。 これには勿論、入れ歯をつけるとか、補聴器をつけるとかも含まれていた。 しかし、延命を計る医療は、一切受けられないとしたのである。こうした医療が受けられないから、老人は間違いなく自分の定める寿命の年齢で世を去る事になる。こうなれば、医師はこれまでの老人丸抱えの医療が出来なくなり、物理的な治療によって延命を計る事は出来なくなる。間違いなく、天然の寿命のままで死ぬ事になる。これこそが正しい死であると強調した。 ところが、今日では老人のガン患者でも、切開手術をして切り刻み、あるいは抗ガン剤投与によって、無駄な延命を計ろうとする。天寿を終えようとしている老人に、これだけの事をしてしまう。 こうした医療現場の行為は、何処か間違っているのではないかと思いたくなる程である。むしろこうした患者には、痛み止めだけを施して、後は自然の成り行きに任せるのがよいのではないか。 だがしかし、医師と言うのは頭の固い人種であるらしく、苦痛で呻(うめ)き捲っている老人患者に、痛み止めは打ちたがらない。 本来ならば、痛み止めだけを打ち、その後は自然の任せて放置し、天寿を全うさせれば良いのであるが、これをやりたがらない。その理由は、痛み止めは死を早めるからだと言う。しかしこの理由の裏には、患者を一分でも二分でも、生かしておきたい、生かす事により健保の対象になって、儲かると言う肚(はら)積りがあるらしい。まさに医商である。 老人医療問題を考える時、果たしてこれは本当の医療であるのだろうか。 それよりも、人間は、この世に生まれたと言う権利があるならば、死んで行く時も、安楽に、この世を去る権利があるのではあるまいか。しかし現在のところ、老人医療がそれを阻止し、妨げている。著名な、大学教授の言葉は、それを明白に物語っている。 その上で、私費ならば、一定の年齢を越えても、幾らでも受けられると言う制度を残すべきであろう。こうなれば、今日の破綻寸前の健保は健全となり、就労する若者も納得のいく社会が帰って来るのではないか。 私の思うところだが、高齢者が自然の成り行きに遵(したが)って、月の干満の運行に任せ、そして死んで行くと言うのは、これこそ自然死の秘訣ではあるまいかと思っている。自然の力で、幾らでも長生き出来る老人は長生きすれば良いのである。自分が現役で働ける間は、いつまでも働けば良いのである。これこそが、老人が誇りを持てる唯一の生き方ではあるまいか。 当然そこには、寿命の長短があり、肉体を正しく、大事に扱って来た者は長生きをし、粗末に扱った者は、その報いとして早く死ねば良い事である。こうした事に格差を設けず、味噌も糞も一緒くたに、医療で治してしまうところに問題がある。もっとこの事を重視するべきだ。 そうすれば、平等で、長寿を全うさせられる高齢者がいなくなるので、ボケ老人や寝た切り老人が減少する。こうした家庭の、現役として、今を支える就労層は断然、医療費の経費が軽くなり、崩壊する家庭は減少するはずである。また、何処の病院も柔整院も老人で満杯にはならない。こうなれば健保は健全さを取り戻す。したがって、税金も安くなる。 だが、こんな医療制度は、とうぶんは遣(や)ってくるまい。現代人はそこまで賢くないからだ。 しかし、こうした制度が遣ってこないのならば、いま高齢者と生きている老人自身が、人間としての自覚を感じ、名誉を取り戻す事である。老人と雖(いえど)も、一人間である事には変わりない。この「人間」という自覚が大事であるように思う。 それは今日の福祉政策に、べったりと頼らない事だ。あるいは老齢年金の受給も、当てにしないことだ。そして出来るだけ医療から離れた、健康法を身に付け、自分の肉体は自分で守ると言う、医者任せでない健康管理が必要である。要するに、現代の医療問題とは、高齢化という現象から縁を切りさえすればよいのである。 高齢者であっても元気で働ける間は、現役として、何歳になっても働けば良いのであって、自分が高齢者である事に遠慮する必要はないのである。指導出来る間は、どしどしと若者を指導すれば良いのである。 かつて白髪として尊敬された長老の象徴は、年長者が若者以上に豊富な智慧(ちえ)を持っている事から、老人は、長老として非常に尊敬された。しかし、病院や柔整院の待合室の屯(たむろ)する老人を見ると、尊敬に値する智慧を持った老人は非常に少ないように思える。人を活かすより、自分が死から逃げ回って、死生観すら解決できない老人が多くいるように思える。 だから下手をすれば、ボケたり、寝た切りになる。これは人間として、決して正しい姿ではない。 老人も、今なお現役として社会を担う義務がある。人生のラスト・スパートに、確固たる不動の目的を持たねばならない。したがって、スポーツ的な筋力の外筋ではなく、内筋や内在する力を開発する訓練が必要である、躰(からだ)を鍛えず、頭を遣(つか)わないからボケや寝た切りになるのである。老いてからの過ごし方に、目的のない人間は、必ずボケる。 したがって天寿を全うするまで、現役として一生懸命働き、「ともに社会を担って行く」と言う意識が必要である。そうすれば、若者の若さを羨(うらや)む事もなく、老人特有のストレスも生まれないはずである。こうした意識を持てるか持てないかで、日本の老人の未来像は変わるように思える。 老人としての誇り高き生き方は、まずいつまでも、元気なうちは現役として働き、社会を支える一翼を担う事である。次に、家族の世話になって迷惑がられない事である。更に、孫の子守りで朽ち果てる事がないようにしなければならない。養老院や介護院で朽ち果てる事も厳禁である。 こうした強烈な意識だけ持っていれば、人間はボケることはない。死ぬまで、何かしら働き、社会の一員として、共同の利益に与(くみ)する事だ。 次に、昨今の不穏な、然(しか)も混沌とした世の中の世相不安であるが、人間である以上、いつの時代も、こうした災いから逃れられない事を覚悟するべきであろう。それは老人であっても例外ではなく、婦女子でも同じである。 万一戦闘状態が発生すれば、最初に血祭りに挙げられるのは、弱者である。これは自然淘汰の法則である。また大自然が齎す自然災害から考えても、明白である。要するに、自然淘汰ならびいに適者生存の法則から、弱い者は間引かれるのである。この事を十分に念頭に置いて、最悪の場合を想定しておく事だ。 例えば、ボケ防止のシュミレーションの一つとして、突然、いま自分の棲(す)んでいる街が、外圧によって、侵略され、内乱や市街戦の様相に転じるかも知れないという非日常の現実を常に想定する事である。こうした現実が、近未来に遣って来る事は、有事立法が克明に物語っている。戦争は先の大戦で終結したのではない。 地球上に点在する「非日常空間」は、決して少なくない。様々な地域で、戦争の火種は燻(くすぶ)っているし、非日常空間は、地球上の様々な場所に残されている。そして日本だけが例外ではない。 非日常空間の中には、戦場や核実験施設をはじめとして、軍関係の研究所や軍事基地、原子力発電所、高層ビル、高層マンション、国会議事堂周辺、皇居周辺などに残されている。こうした場所を含み、ある日突然、私たちの棲(す)んでいる街が、非日常空間になりうる可能性は、充分にある。 また、こうした非日常空間になりうる場所に、外国勢力が介入して、戦闘地域になったり、台風直下や、大地震の遭遇、火炎下の高層ビルや高層マンションでの危険な大都市の構造は、一度こうした非日常事態に巻き込まれた場合、あらゆる面で大きな弱点を持っている。ひとたび自分の棲(す)んでいる場所が、非日常空間に変貌すれば、大都会は、現代人が棲む日常空間の、最も危険な空間となりうる。 非日常空間が存在する以上、何人(なんびと)であっても、この事を念頭から離してはならない。 日本人は長い間、戦争や内紛は、遠い国の花火大会でも見るような素(そ)振りで、これに接してきた。これからも日本は永久に、誰もが平和だと信じ切っている。それは日本国憲法第九条に「戦争放棄」が明示されているからだ。しかし、外国人はこの条項こそ、最たる欺瞞(ぎまん)であると知り抜いている。こんな嘘っぱちが、外国人に通用する訳がない。 しかし、日本人はこれにより戦争は放棄したと思っている。また日本は戦争に巻き込まれないと信じ切っている。 しかしである。日本は戦争を放棄したかも知れないが、世界は日本に戦争を放棄させていない。今まで多くの日本人は、人が人を殺す、あるいは人間が人間から殺されるという、極めて現実的な顕在(げんざい)現象を真剣に考え、その危機管理能力すら持たなかった。 だが現実問題として、太平洋戦争終結と言う、「戦後」は、まだ終っていないのである。その事は、朝鮮半島や中国での靖国神社問題が、明白にしている。日本人は先の大戦で戦争は終結したと思っているが、半島や大陸の人民は、まだ日本人に一億総懺悔(ざんげ)させる自虐的逆襲が終了していないと考えている。 現代の日本人の多くは、平和惚けに染まり、退屈で、躰を持て余す気怠(けだる)い毎日を送り、仲間内だけでヘラヘラと面白おかしく、一室に固まって暮らし、核構成を為し、少子化に甘んじ、一応秩序の管理された社会で、これまで温々と育って来た観がある。 そして自分の身を、自分で守るということを長い間忘れていた。そうした忘却の間隙(かんげき)を縫(ぬ)って、不幸現象は忍び寄って来るのである。 「百年兵を練る」とは、一体なんだったか再検討する必要がある。そして、躰を鍛える意義が、まだまだ老人にも残っているように思える。 まだ、来ても居ない明日の事に頭を悩ますより、「今何をしなければならないか」という事を模索し、それを実践する事の方が先決な課題であろう。 |