会員の声と相談者の質問回答集15




憑衣についてお尋ねします (46歳 男性 無料相談室宛 自営業)

 近頃、何をやってもうまくいきません。また、身体が非常に重く感じられます。自分では、不定愁訴と思い、神経科で診察してもらったところ、「器質的疾患が見られない」といわれ、「心因反応によって起る精神の機能障害であるだろう」といわれました。
 自分の自営するコンビニで多忙に追われ、自分では身を粉(こな)にして働いているつもりですが、経営的にも伸び悩み、同時に益々気力が萎えて行くように思われます。

 また知人の紹介により、ある霊能者の所にお窺いしましたところ、「あなたには低級な動物霊がついている」といわれました。そして「除霊」と称して、お祓いを受け(結構なお金をとられました)、それからしばらくは気力が充実したのですが、また、「旧(もと)の木阿弥」のような状態に戻ってしまいました。最近では、その状態が益々ひどくなり、無気力状態に陥ることも、しばしばです。
 はっきりした理由もないのに、女房子供に当り散らして怒ってみたり、不安に襲われたり、心配事が起って朝まで寝られなかったりと、散々な目にあっています。

 恐らく何かから憑衣を受けていると思うのですが、こうした状態から抜け出す改善策はあるのでしょうか。ありましたら、よろしくご指導下さい。



回 答

 憑衣というのは、過去世からの因縁の業の上に、時間的な隙をつくる時間帯に、邪気や外邪が侵入してくることをいう。
 憑衣現象については、《癒しの杜の会》のHPで繰り返し述べているので、同ページを熟読して頂きたい。

 では、まず憑衣が起ると、どういう状態になるかお答えしよう。
 最初に感情が波立ち始め、イライラ、クヨクヨ、ブツブツ、ビクビクと云った状態が起る。これらの状態は、気持ちがゆったりとして、大らかで、表情に笑顔を湛え、ニコニコしている状態とは対照的である。
 つまり、憑衣は感情の上下が激しく、怒ったり、悲しんだり、嘆いたり、悩んだりした人が真っ先に憑衣をされると言う事だ。また、心に心配事があり、不安があり、感情を波立たせ、思考力を正しく発揮できない場合に起る。

 一般的に憑衣される時間は、午後10時から午前2時頃【註】一般には午前2時から2時半を「丑(うし)三つ時」といい、男女を含めて霊体質の人は憑衣の影響を受ける)が最も多く、この時間にまだ起きていて、居酒屋やスナックなどで、ちびりちびりと酒を飲んでいる時に、背中の「風門(ふうもん)」という経穴(ツボ)から外邪が侵入して来るのである。この詳細なメカニズムについては、既に出ているので参照のこと。

 さて、憑衣を受けたと自覚があった場合、次ぎのような表情が起る場合が多い。

 躰や手が左右に揺れ動いたり、状態が前後に揺れる。その時に、沈んだ状態になる。また最近は、PCスキルらを襲うテクノ・ストレスから憑衣される人も多い。憑衣後は大半が精神科で「統合失調症(精神分裂病)」と診断される。食べ物により自覚症状がないまま、酸性体質をつくリあげている場合が少なくなく、食べ物から憑衣体質に病変する。
 (うた)た寝などをしていて上から押さえ付けられるような感覚を受けたり、急にからだが重く感じられたり、あるいは躰が軽くなって飛び跳ねたり(外邪と交信するチャネラーというオカルト・オタクに顕われる霊障)、縛られたような状態になる。あるいは涎(よだれ)を垂らして眠り込んでいる場合など。
 急にゾクゾクとして寒気がしたり、あるいは躰が火照る場合。瞬間的に、身の毛がよだつような気配に襲われた場合は、外邪が侵入した場合である。風邪をひいた場合もこれに入る。動蛋白食中心で、酸性体質の人は風邪をひいても中々治癒しないが、穀物菜食の人は風邪をひいても体質が卓ぐれているので、直ぐに治癒する。
 自称霊能者で、長期に亙り、風邪を引いて居る人は食肉常習者であり、憑衣された状態が続いていることを顕わす。
 不思議な光景が見えたり、頭の上から声がしたり、心が暗さを覚える場合。あるいは物事に対し、「こだわり」を持った場合。執念深い性格や、金・物・色に固執するタイプの人間は既に憑衣された人である。
 肥り過ぎている場合や、痩せ過ぎている場合。肥り過ぎは脂肪肝であり、痩せ過ぎは胃下垂か神経症を煩っている場合が少なくない。
 一時的に善い事が続いたり、極端に嬉しくなって、じっとしていられないような気持ちが襲った場合。あるいは酒を飲んでいないのに、酒に酔った時のような、ひどく楽しい気分になった場合。
 極端に嬉しくなったり、悲しくなったりの感情の移り変わりが激しい場合。それに併せて、悩み、苦しみ、怒り、悲しみ、憎しみ、恐怖、狂気などの感情が起った場合は、動物的な感覚がそうしたことに反応しているからであり、憑衣現象に振り回される人生を送る事になる。
 怨みを抱いたり、差別や偏見の心が起ったり、「自分は奴等より増しだ」と優越感が起った場合。あるいは人を見下した場合に、同じ優越感をもった意識体が憑く。
 過ぎたことをクヨクヨする。些細なことでイライラする。不平や不満が起ってブツブツ独り言をいう。起りもしない明日のことを想像してビクビクする。

 以上の状態が顕れた場合は、まず憑衣されたと自覚するべきであろう。
 一般に憑衣される人は、霊体質者が憑衣されると言われているが、必ずしも霊体質者以外であれば憑衣されないかと言えば、そうでもない。最近は肉常食者が多い為に体質を酸性化させ、病気に罹り易い体質になっている場合、その弱点と隙を突かれて簡単に憑衣されてしまう。

 さて、憑衣をして来る媒体は何かとい事に迫ってみよう。
 人間に悪さをし、取り憑いてくるのは多くが低級霊であり、中には動物に憑衣して合体した人霊が畸形した不成仏霊もある。不成仏霊になるのは、それなりの因縁を抱えているからであり、多くは頼ろうとして、霊体質の感情的で、情緒感に浸り易い人に取り取り憑く場合が多い。
 そして取り憑いた媒体は、多くが動物を模写した低級霊である。

 では、この低級霊は如何なるものか。
 かつて、剣術の極意を教える寓話(ぐうわ)に『さとり』というものがあった。動物的な低級霊は、ちょうどこの寓話に出て来る“さとり”のようなものであろう。

 「ある樵夫(きこり)が深山に入って木を切っていると、そこで“さとり”という化け物が顕れた。
 樵夫はこれを見て『しめた!こいつを生け捕ってくれよう』と、斧
(おの)を動かしながら思うのであった。するとそれを察知した“さとり”は、樵夫の心を見透かして『お前は俺を生け捕りたいのか。きっと、そう思っているのだろう』と図星された。
 樵夫は驚き、『うッ……………』と黙る他なかった。
 すると“さとり”は、また『俺が悟ったので、驚いているのだろう』と言う。
 いよいよ樵夫は驚いた。先を読まれてしまうのである。

 『よし、それならば、いっそのこと、こいつを斧で打ち殺してくれろう』と思うのであった。
 そのように肚の中で思っていると、また“さとり”のやつは、
 『俺を殺すつもりだろう』と訊
(き)く。
 樵夫は“さとり”から、心の裡
(うち)を先へ先へと読まれてしまうので、もう、何も思えなくなった。
 そして『ええい、口惜
(くや)しい』と思うのだった。

 すると“さとり”は、『ほら、また口惜しいと思う』と切り返すのであった。
 樵夫は完全に“さとり”に負けてしまった」


 ここまでが“さとり”という生き物の話である。この化け物は非常に憑衣霊に酷似している。霊格と言うものは全く感じられないが、先へ先へ、人間の心を読み、人間を完全に手玉にとっている事は明白である。狡猾(こうかつ)さが、したたかなのだ。

 しかし、話はこれで終わりでない。先があるのだ。
 「樵夫は仕方ないので、何も思わず、一心に木を切り始めた。“さとり”のことなど、どうでもいいと思い始めたのである。もう、生け捕ろうとも、殺そうとも思わなくなった。そうして、一心に木を切り始めたのである。一切、念中にはなかった。
 ところが、どうしたはずみか、斧
(おの)が勝手に柄から抜け出して、“さとり”の頭に当たったのである。
 『ギャーッ』と“さとり”は奇声を発して、打ち死んでしまったのである」


 これは勿論、寓話の範囲の出来事である。
 人間にとって「悟る」ことがどんなに難しいかを教えた話である。悟ろう、悟とろうと思っても、中々悟れるものでない事を云っているのである。しかし、無念無想の中で、一線を越え、その境地に至れば、悟りは自ずから開けるものであり、それは自分が追い求めるのではなく、向うからやって来るのだと言う事を教えている。

 剣の極意には、次のようにある。

  打とうともわれは思わず打たじとも
     われは思わじ神妙の剣

 憑衣した方も、憑衣された方も因縁である。因縁の業(ごう)がなすものであるから、これを追い払う為に拝み屋に助けを求めても、そう簡単に問屋が降ろしてくれないと言うことを『さとり』という寓話は示している。低級霊の霊格は、皆無に等しいが、小知恵だけは非常によく廻り、小狡く、人間を簡単に弄(もてあそ)んでしまうのである。
 また、このタイプの憑衣霊は物欲に転んだり、損得勘定で私欲を満足させようと思った場合に取り憑く物霊であり、その実態は低級霊である。更にこのタイプの霊は、「こだわる」ことに執念を燃やす人間に取り憑き易く、極度な執着心等が心の蟠(わだかま)りとして残っていれば、こうした隙を窺(うがか)って取り憑いてくる。

 人間の行為は、それを実行する上で、二つの想念が働くものである。例えば、托鉢僧に布施する時に鉄鉢の中に十円玉を投げ込むのは惜しくないが、五百円玉を投げ込めば惜しいと思うだろう。あるいは飢餓で苦しむ恵まれない人に、幾らかのお金を寄附(きふ)する時、千円では「まあいいだろう」と思いながら、一万円となると、「ああもったいない」という気持ちが起る筈である。
 人間の一つの行動には、正反対の想念が起るのである。この事は、一つの魂の中に、二つのものが同居していると言う事を顕わしている。

 それはあたかも、喜びの後に悲しみが、楽しみの後に怒りが控えているように、一つ一つが僅かな時間に差を付けて、顕われて来るのである。こうした矛盾が自己の中に存在していると認識し、中庸を保って、二つのものを同時に持つ事ができれば、己が霊魂(たましい)は完成するのであるが、凡夫(ぼんぷ)には中々これが難しい。中庸を保つ事が出来ず、拮抗(きっこう)を失い何(いず)れかに偏ってしまうのである。凡俗の徒には難しすぎるからこそ、こうした心の隙を狙われて憑衣されるのである。

 憑衣は、物や色や金に対し、執着が起るから憑衣される条件が整っているともいえる。その為に性格は感情的であり、情緒に浸り易く、性格も激し易く、こだわりも強いのである。
 そして憑衣の最も厄介なのは、狐狸の霊と人霊が一つになったものである。その中心は、低級な物解りの悪い人霊であり、人霊が動物の真似をしているだけである。未浄化な人霊は、欲望の塊(かたまり)であり、レベル的には動物霊と変わりがない。人霊が動物霊に寄って行き、自分でも人霊なのか動物霊なのか分からないのである。

 そして、こうした不成仏霊が、波調を同じくする、感情的で、情緒に陥り易い、敏感な人へと取り憑くのである。
 「狐が憑(つ)いた」などの話がこれである。しかし、実際は狐などではない。自分のごく短かな先祖の、物分かりが悪い未浄化霊が、動物の真似をして憑衣しているだけの事である。一種の、悟り切れない、もどかしさが、迷いの念となって、子孫に取り憑いただけである。

 では、いつ何時、何処で取り憑くのか。
 これは心に不安や心配や恐怖があった時に、然(しか)も、体調も思わしくなく、雑踏の中に居た時に起る現象である。こうした場合、ふと、心が無意識のうちに何者かに捕らえられてしまう。また、心境の安定を保つバロメーターが低下している時などに、神社仏閣【註】今日の神社仏閣の観光スポットになっている所は、悪霊や邪気の巣窟になってしまっている)や、墓地(多くは先祖の野墓参り時)の横を通り過ぎや場合に、低級霊との波調に同調してしまうのである。
 不安感があって、心が何かに奪われている時は、必ず同調してしまう。

 霊体質の人もそうであるが、肚に力が入らなくて、体調もよくない場合は、こうした低級霊に憑衣される確率が高く、霊的に敏感で感情に流される人は、この種類の憑衣を受ける。そして厳密に言えば、実際には狐狸の類が憑衣するのではなく、自分の近い先祖に繋(つな)がる父母、兄弟・姉妹、祖父母、曾祖父母までを含めた低級霊と合体した意識体が、憑衣して来るのである。
 その典型的なものが、精神分裂病である。

 三代前の先祖を振り返れば、必ず、非業の死を遂げた不成仏霊がいる。あるいは物欲に憑かれた未浄化霊がいる。非業の死も、もとは物欲が因縁を作り上げている。
 自分より三代までの先祖に遡れば、先祖の数は合計で、14人【註】父母2人+祖父母4人+曾祖父母8人=14人)の先祖が居る事になる。この中の一人でも、直接生活の関係のない贅沢を貪る愚かな心を持っていたり、苦悩や恐怖の心を持っていたり、激し易い性格であったり、不満や不平を強く露にし、イライラ、クヨクヨなどの心があれば、憑衣を受ける生活をして居た事になり、物欲・物霊の仕業によって自分の人生を歪めた人が居た事になる。

 そして特記すべきは、こうした生活を送った人は、非常に物分かりが悪いという事である。
 人間の物欲は、決して足るを知らない。一つのことが叶えられれば、もっと欲しくなるものである。しまいには、手段を選ばず貪りはじめる。欲望が強い人間は、欲望が人間にとって危険なことであると言う学習を生前しなかった人である。
 欲望はまさに毒蛇なのだ。その毒蛇を踏み付けるくらいに危険なことなのである。

 人間の世は、夢の世界である。夢の世界で現象人間界が繰り広げられているので、それは毎晩自分が見る夢の中で、物を拾うようなものである。拾った物を喜んでいても、その喜びは目醒めと共に消えてしまうのである。それであるにもかかわらず、愚かな者は、死ぬまでその物欲に囚われてそれを追いかけ廻す。いや、それどころか、死んでしまった後まで、物欲をたぎらせて、追いかけ廻しているのである。こうした愚行が、後に残った思想に迷惑を掛け、計り知れない苦しみや悩みを沢山遺(の)しているのである。
 この遺産を受け継いだのが、分裂病患者である。一つの相当な業を背負っていると言えよう。

 精神病院を観察すると、例えば、世の中に感冒が流行している時でも、分裂病患者は殆ど風邪を引く事はない。この手の病院の中で、マスクを掛け、風邪を引いて入るのは、殆どが看護師や心理カウンセラーやソーシャルワーカー、それに作業療法士らであり、分裂病患者は症状の症状の軽い人を除き、歴(れっき)とした分裂病患者は風邪を引く事がない。
 これは「風邪を引く」と言うこと事態が憑衣であり、大きな憑衣を受けて居る人は、それだけで巨大な因縁を背負って闘っているのであるから、小さな戦いには参加しないのである。
 こうしたこと事態、大変な修行であり、患者だけではなく、その家族も相当な苦しみを受けつつ、荒行をしなければならなくなる。

 人間の私たちは、四六時中、心の隙(すき)を窺われているのであるから、憑衣される危険は誰にもあり、人間の意識は、一分間に40〜50回も分断される事があり、その隙に外邪や邪気の想念が入り込んでくるのである。
 例えば、肚(はら)の立つ場合に直面すれば、「怒る」という因縁を背負った人霊が憑衣する。しかし、その時に怒りの感情を我慢し、「笑顔が作れる」状態にまで心が進化すれば、憑衣霊は一つの修行を終了して、去って行き、憑衣する事はないのである。それも、ほんの少しの短い時間の出来事である。
 だから、人間修行の目的は、この現象界において、「いつでも、どこでも、笑顔を絶やさないでいれるか」ということに尽きよう。そして出来るだけ、「私心」や「私欲」を捨てる事である。

 法華経の一つに『天台小止観(てんだいしょうしかん)』というものがある。天台止観ともいい、摩訶止観(まかしかん)ともいう。594年、隋の智ギ(ちぎ)の講述を灌頂(かんちょう)が筆録したもので、十巻からなる。天台三大部の一つに数えられている。天台宗の観心(かんじん)を説き修行の根拠となっている。観心とは、自己の心を観察することである。
 『天台小止観』によれば、一般凡夫に向かって「あなただって幸福になれる。きっと、あなたが願う理想的な人間になれる」と呼び掛けから始まっているのである。

 では、総てから解放され、憑衣から抜け出すにはどうしたらよいのか、ということを論じ、苦しみ、恐れ、悩み、憑衣から敗報されるには、自分の肌で会得せよと示唆している。では、「自分の肌で会得する」とはどう云うことか。
 それは感情を波立たせず、思考を正しく働かせる事だとある。感情が波立っていては、何事も色眼鏡で見てしまうからだ。

 感情の激した酸い人間、情緒に浸り切ってその中に情感だけを追い求める人間は、自己判断に狂いが生じ易く、正しい思考力が働かない。その為に、人を誤って観たり、自分自身の心を狂わせて、簡単に外邪に憑衣されてしまう。
 こうした霊体質で、感情的で、情緒的で、感性のみが敏感な者は、大人(おとな)しい人を女々しいと観る。朴訥(ぼくとつ)な人を田舎ッ平と観る。勇敢な人を乱暴者と観る。遠慮し、慎み深い人を決断力がないと観る。仕事に丁寧な人をノロマと観る。こうして何もかもが、自分の先入観という色眼鏡で観てしまうのである。

 その為に、いつも心に乱れが生じ、感情を鎮(しず)める事が出来ず、思考力を正しく働かせることができないのである。
 だから、憑衣と言う現象が起るのであるが、そうした因縁を断ち切るのであれば、『天台小止観』によれば、その第一はいつもニコニコすること。笑顔を絶やさないこととある。
 第二に着る物、食べ物に感謝の心。
 第三に感情を涙だせず、情緒に陥らない生活空間を確保すること。
 第四に今までの考え方や物の見方を白紙に戻すこと。
 第五に純粋な人間関係だけを大事にすることの五つを挙げている。そして、まず、激する事なく、いつもニコニコということに尽きよう。
 呉々も、待の拝み屋などの所に出向き、「除霊」などと称して祈祷を受け、法外な金額を巻き上げられないように、ご注意願いたい。