会員の声と相談者の質問回答集14




夫の乱暴で離婚して一年 (26歳 無料相談室宛 シングルマザー)

 今から3年前に見合結婚(結婚への経緯は、お見合いでの、夫の方からの一目惚れでした)をし、一人の男の子を授かりましたが、夫(当時30歳、商社勤務)の乱暴で1年前に離婚し、子供は私の方が引き取り、実家の雑貨店で家業を手伝いながら、母子ともども、ひっそりと生活しています。

 別れた夫の乱暴と申しますのは、夫婦間の生活の事で、結婚初夜以来、乱暴に扱われ、悲鳴を上げて来たのですが、特にショックだったことは、新婚旅行先の初夜で、乳房を乱暴に扱われたことでした。それ以来、夫婦生活が苦痛になり、拒否したことが何回かあったのですが、今度は他の女性に手を出して、家には寄付かなくなってしまったのです。そして以上のことが原因で、ついに1年前に離婚しました。

 今でも当時のことを思い出すと、恐怖が襲ってきます。前の夫との暮らしは、性格の不一致だったと思っています。
 またそれ以来、男性をすべて怖い目で見てしまう、そういう自分が嫌になってしまうのです。
 全部が全部、男性というものが、前の夫のような人間であるとは思いたくありませんが、今では、すっかり男性恐怖症に陥り、再婚の話があるのですが、前の夫との夜の生活を考えると、二の足を踏んでしまいます。
 現在の私のこうした心を癒し、新たな人生を踏み出すことはできないものかと苦悩しています。どうかよろしく、ご指導下さい。



回 答

 昨今は、離婚ブームである。よく若い夫婦間では、「性格の不一致」を理由に、離婚する者が増えている。
 元々結婚は、霊的世界から夫婦と言う関係を見れば、「陰」と「陽」の結合であり、その異なった性格同士が助け合いなながら人生を修行して行くと言うのが、男と女に課せられた人生の命題である。しかし、離婚は、この命題に向かうことを放棄した行為である。

 霊的に、「夫婦とは何か」ということを考えた場合、「夫婦になると言う行為」は、過去世(かこぜ)から、消滅すべき因縁があり、その因縁消滅に向かって男女の二人が結びつき、因縁消滅が第一となる。その意味で、「離婚する」ことは、因縁消滅を放棄して、新たな因縁を作り出す事になるのである。

 男女の出逢いは、自分と何らかの因縁があるから出逢うのであって、無関係である場合、単なる通り過ぎの人になってしまうのである。
 恋愛結婚であれ、見合結婚であれ、また、今は少なくなってしまった、同志結婚(同じ唯物論的イデオロギーを持った同士が、「同志」として結婚し、かつては革命戦士に見られた)であれ、これは因縁因子のうち、一つでも同じ魂群に所属していれば、因縁が表形として顕(あら)われ、やがてその因縁によって、結婚と言う行為に至るのである。

 陰と陽は、もともと異なった要素の因子が、因縁によって結びつき、したがって、性格は違っていて当然である。性格が似ていれば、己自身を見つめることになり、逆に助け合うことや、欠点を補う事は出来ないであろう。むしろ苛立ちを覚えるはずである。趣味や指向が似ているのと、性格が似ているのとは別問題なのである。
 夫婦は欠点を補いつつ、助け合うと言う構造が基本形である。助け合う為には、適度の要素の異なった男女の組み合わせが理想なのである。だから「性格の不一致」という考え方は正しくない。

 先ず責められるべきは、夜の性生活について無知だった、あなた自身が責められるべきであろう。あなたは現在26歳であるから、23歳の時に結婚したことになり、この年齢にして、夜の生活を充分に心得なかったと言うことも責められるべきであろうし、また、前の亭主は、それに輪を掛けた性生活の無知は、更に責められるべきであろう。
 あるいは男女の仲について、何か間違った偏見を抱いていたのかも知れない。こうした偏見をつくり出しているのが、外国物の、偏見に満ちたポルノ映画や、最近流行の、性の何たるかも知らない製作者が作り出したアダルトビデオなどであろう。こうした流行が、青少年に無知な性行為を植え付けているのである。

 そして、残念なことは、あなたが初夜に悲鳴を上げたと云うのであるから、結婚していた二年間は、一度も性生活の喜びを味わったことがないはずだ。
 これは前の亭主に大いに責任があり、実を言うと、この亭主は、女をよく理解して居なかったことになる。また、二年もの性生活において、前の亭主は、あなたをとうとう最後まで、自分のものに出来ず、愚かにも手を焼き、そして、ついには手放したと言うことだ。愚かと言う外ない。

 前の亭主の方からの一目惚れと言うのであるから、あなたの器量や、容姿がどの程度の人であるか、想像するしかないが、おそらく教養も、外見も、顔立ちも、平均以下とは思われない。それなりの容姿端麗な方とお見受けする。だから結婚に踏み込んだのであろう。
 ところが、あなたの方は結婚すると、「自分の想像したものとは違っていた」と、まあ、こういう具合であろう。特に、性生活に於て、ではである。

 亭主の方は亭主の方で、一度は手に入れ、一子までも設けていながら、自らの無知から、あなたを乱暴に扱い、歪(ゆが)んだショックを与えたようだ。恐らく、これは強姦に近いものではなかっただろうか。
 乱暴に扱えば、どんな女性でも厭(いや)がるのは当たり前であり、責められるべきは、夜の生活の「房中術(ぼうちゅうじゅつ)」を知らなかった夫の無知につきよう。

 もし、前の亭主に「房中術」なるものを知っていたならば、あるいはその後、「術」を知る研究をしたならば、その「術」を用いて、速やかに修正できたはずである。これは男側の責任である。
 結局、最後は、他の女のところに趨(はし)ってしまったのであるが、よその女に趨ったとしても、同じ轍(わだち)を踏むことになるであろう。
 わずか一人の女をリードできない男が、他に女を作ったからと言って、そこで旨くリードして行くとは思われない。人間は前例を度々繰り返すものであり、余程の事がない限り、同じ失敗を繰り返すものなのだ。

 また、あなた自身も、人間観の見方を根本的に変える事だ。無知もいるが、総べて無知ばかりではない。
 特に、男性観に至っては、底が浅いように見受けられる。本物を知らないと言う観が否めない。今まで、偽物に騙されて来たから、男性恐怖症に趨(はし)る要因を作ったのであろう。まず、この点を早急に改めるべきである。また、過去の間違った記憶を消し、先入観や固定観念を消去してしまうことである。それが出来なければ、その後のあなたの人生は、死ぬまで男を色眼鏡で見る生活が続くであろう。

 また、セックスに関し、由々しき問題を発生させているのは、近年の欧米から流行したベット生活であり、洋式化されたベットの上の性生活は、近年のポルノ映画などからも分かるように、やたら、意味のない前戯(ぜんぎ)が長く、本番が非常に短い。多くの日本人のセックスは、これが当たり前と思っている。
 西洋人の多くは、前戯の重点を置き、本番に時間を掛けないのは、彼等に「包茎」が多いからだ。かつて包茎は、日本では「スボケマラ」と呼ばれ、下品(げぼん)にランクされた凶であった。このスボケマラは、本番を長時間続けることができない。

 元々、生活様式の違う日本人と西洋人とでは、食生活のみならず、性生活も根本的に違っているわけだ。多くの日本人は性の無知から、西洋人のように長い前戯を正しいもののように思っているが、スボケマラでは、房中術で言う「接して洩らさず」が不可能なのである。彼等は、亀頭が皮で保護されている為に、少しの刺戟で洩らしてしまい、房中術で言う「九浅一深(きゅうせんいっしん)」の法など到底味わえない人種なのである。
 また、ベットは堅い物がよく、外国物のように、ふかふかでは駄目である。西式(にししき)健康法で薦めているような固い平床で、寢る事が背骨の矯正にもなり、またセックスの時は、蒲団一枚を敷けば済むのである。西洋式のベットで、到底房中術の妙技は会得できないのである。

 川柳に、

  丸の字をしりでかかせる面白さ

 というのがある。これは妙技によって、女性側が髪の毛まで痺(しび)れると言う快感を顕わしている。しかし、最近流行の、無駄なピストン運動だけでは、こうはいかない。こうした運動は、無益なエネルギーの浪費であり、得てして女性側では苦痛であることさえある。まして、毛の先まで痺れると言う境地にまでは至らない。

 だが、房中術の絶倫法をマスターすれば、一の矢だけではなく、三の矢までもが、つがえる事になり、こうなれば、どんな高貴な出の才女でも、一度に頭の毛が痺れるようになり、理性もへったくれもなくなるのである。
 房中術では「最初、腰が痺れて来て、次にその痺れは頭の毛に来る。更に、脳天(泥丸(でいがん)付近)が痺れ、頭の中に穴が空いたようになり、そこから魂が抜けるような気持ちになる」と女性側からの脱魂状態を、こう表現している。そして、こうし味を一度覚えれば、女性は「二男に交えず」というのである。夫婦生活も、かくありたいものである。
 あなたの場合、次の再婚相手が人生のよき伴侶として、以上の智慧を踏まえ、末永く人生を全うすることを期待する次第である。

房中術についてはdaitouryu.net【理趣経的密教房中術】をご参照下さい。




粗食少食についての質問 31歳 無料相談室宛 会社員

 志として大きな望みを掲げ、美食美酒を飲食することを常として、元気盛んにして社会的に躍進するのが大望ある人間の行動率と信じます。しかし、貴会の、健康への論拠とする粗食少食にしたら、かえって体力は衰え、頑張りも効かず、自分の願う大望は成就しないのではないかと思うのですが、この点を如何考えますでしょうか。

 また、食というのは、人生最大の楽しみであり、かつて天下の美食家・北大路魯山人(きたおうじろさんじん)は陶芸家であり、陶器と食へ美を調和させ、また食通で知られ、食の達人であったと聞きます。
 人間は、「食」を五感のすべてで味わうように神から造られています。また、すべての食材には命があります。心から本当に食べたいと思うものを食べずして、何で人生を楽しむことが出来ましょうか。

 貴会のように、「食を慎む」とか、「食を乱さず」等と称し、また腹八分以下にせよとは、いささま無謀過ぎるのではないでしょうか。
 また、厚生労働省の食事指導によれば、健康のためには、一日に30品目を食べるように言われています。更に、肉と野菜をバランスよくというのが、また同省の食事指導です。これについては、現代栄養学も同じような食事指導を行っております。
 この考え方は正しいだけでなく、日本人の平均寿命を延ばすのに大いに役だったはずです。その証拠が、日本人の平均寿命を延ばし、日本人の寿命を世界に冠たるものにしたことは、貴会も既にご承知のことと思います。

 更に加えると、昨今、和食は健康食として、世界から注目をあびています。では、なにゆえ和食が健康によいのでしょうか。
 それは上品に、日本的に料理された食肉と、野菜や魚の調理法が繊細なためであり、こうしたものは、肉と野菜が、非常によくバランスが取れているからです。

 たとえば懐石を一度食べると、この中にはおおかた30品目以上の食材がクリアされています。和食は、肉(魚肉の動物性蛋白質も含む)と野菜が、とてもバランスがとれた健康食なのです。これは「健康は食から」ということを物語っています。
 そして、人間は「食べる」から、生きられるのであって、食を慎めとか、腹八分以下にせよとは、如何ほどの食を以て、腹八分以下にするのか、この辺も大いに疑問に感じるところです。ぜひ以上の事について、ご回答願います。



回 答

 大望を掲げ、それに邁進するのに、何ゆえ、美食美酒が必要なのであろうか。俗に、「元気がいい」「強健な体力」というのは、換言すれば、強気で押し通し、無理非道を敢てする「行為」である。
 美食を暴食し、美酒に溺れ、これが「頑張りのモトだ」と自称しても、もともと天地の理(ことわり)に背いて無理を押し通しているのであるから、大望など望めるはずがなく、また立身出世も無理であり、こうした不摂生では病気になるのがオチで、なかなか長続きしないものである。無理することなく、大袈裟な行動を慎んでこそ、長続きするものである。

 旨い物を食べたい。美味しい物を満喫したい。こうした衝動は、衆人の慎み難いところで、旨い物、美味しい物と聴けば、何処までも出掛けて行くようであっては、食することにエネルギーを使い果たし、また、年から年中、盆と正月が一緒に来たような御馳走三昧(ごちそうざんまい)の食事をしていては、味覚を失うばかりか、栄養過多となり、健康にも凶事であろう。

 まず、立身出世を願い、努力によって、それ相応の地位や財産を得たいとするならば、その地位を獲得して、その後、徐(おもむろ)に楽しんだらよいのである。ところが、努力もせず、地位も得ず、財も得ないうちから、美食に趨(はし)り、美酒に溺れ、こうした食費に当てる理財は、いったい何処から捻り出すのか。
 また、地位も財産もない者は、先ず最初、天より貧賤(ひせん)の苦しみが与えられているのである。下積みの、他人の冷飯を食う苦しみが与えられているのである。この苦しみを体得する事なく、しかも、初めから楽を好んで、美食を堪能(たんのう)する者は、大いに健康を害し、大切な命を早々と失う事になる。

 美食家は往々にして短命が多く、グルメは現代の難病・奇病を抱えている生きる屍(しかばね)である。むしろ、粗食・少食に徹し、長寿を全うして、自らの目的を成就する者が多いのである。果たして、若いうちから美食に趨り、美酒に溺れ、これで自分の目的とする大望を成就した人間が、実際に何人いるだろうか。
 ある事業家は、よく食べる事が働くことの原動力という。しかし、よく食べ、満腹になれば、眠たくなって、仕事など出来たものではない。例えば、昼食でも満腹になるまで食べ過ぎれば、午後からの仕事は眠気(ねむけ)に襲われて、出来たものではなく、昼寝をしないと、夜まで躰が持たないというのが実情である。食べ過ぎれば、働くことは愚か、意識を集中することすら出来ないのである。実際は、食事の量を減らした方が軽快に動けるし、よく働けるのである。

 故事に、「腹が減っては軍(いくさ)が出来ぬ」というものがある。空きっ腹では戦えぬという故事である。あるいは、空腹では活動ができないという意味である。
 しかし、此処で挙げる「空腹」もしくは「活動エネルギーの欠如」は、如何程のものを指しているのか、明確でない。「腹が減る」とは、満腹ではないと言う状態を指すのではあるまい。むしろ、篭城戦(ろうじょうせん)に陥り、三日も四日も、あるいは一週間か、一ヵ月か、そういった長期の単位を指すものである。一日や二日、人間は、何も食べなくても死ぬ事はないのだ。したがって、「腹が減っては軍が出来ぬ」とは、篭城戦に際し、兵糧(ひょうろう)攻めにあい、それで、空腹の為に戦えぬと云っているのである。

 また、少食に徹し、朝飯を抜いたから、今日一日の仕事が出来ないと言う意味ではない。
 むしろ、今日一日のエネルギーは、昨日の昼食と夕食の際に、エネルギーの補給が済まされており、人間は昨日補給したエネルギーで、今日一日の仕事が可能になるのだ。したがって、今日の朝飯が、今日のエネルギーに変換できる分けがないのである。
 目覚めた朝は、食事タイムでなく、排便タイムだ。排便タイムに食事をするという、訝しな理論付けは、現代栄養学から齎された。

 人間の人体の機能には、「異化作用」と「同化作用」がある。内燃機関や車のエンジンと異なり、ガソリンを入れたから、直ぐに動くというわけには行かないのである。
 人間の場合、食べ物がエネルギーに変換される為には、8時間程度の時間が必要とされる。人間の躰は、機械ではないということを理解するべきである。

 また、食事の量と言うものは、年齢や躰の大小によって異なり、働きの運動量によって異なり、これは各々によって定められた量がある。こうした事を無視し、慎むことを知らない者が、一日四食も五食も食べれば、節度を忘れたことになり、食は腹に滞り、腸壁内で腐敗物質となる。この腐敗物質が、種々の慢性病を引き起こすのである。
 食べ過ぎれば、その食は宿食となり、これが便秘を引き起こし、やがて宿便となる。宿便は慢性病の元凶であり、不幸現象を齎(もたら)す根源となる。則(すなわ)ち、慢性病の元凶は不幸現象と繋(つな)がっており、これは非運を齎すのである。

 知性や理性を備えた人であっても、食に慎みがなければ、非運・病身の躰になり、運勢を衰弱させてしまう。腹八分以下というのは、こうした元凶を避ける為であり、食に対し、慎みの悪い人は中年から晩年に欠けて、病魔に苦しめられて、自分の志は成就させることができない。

 そして、日本人の平均寿命を延ばしているのは、健康な老人の寿命を延ばしているのではなく、薬漬けになった老人の寿命を延ばしているだけである。
 薬漬けになった多くの老人は、既に植物人間であり、本来の人間の機能を果たしていない。薬により、延命が図られ、寝た切りで長寿を全うしているだけである。これが果たして、人間として長寿を全うしているか、甚だ疑問の限りである。
 老人が元気で、長寿を全うしていると言う姿は、歳をとっても矍鑠(かくしゃく)とし、自己判断力を持ち、かつ、自分の体力や能力に合わせた「労働をしている」という状態であって、これで、はじめて長寿を全うしていると言えるのであって、病院の介護ベットで寝かされ、自分で歩く事も、喋ることも出来ない老人が、生きていても、これがなにゆえ、健康な老後の姿と言えるのか。

 むしろ、健康な老後を送っているという姿を多く見るのは、日本よりも、ヨーロッパ北部やウクライナ地方などに、長寿の老人は多く居り、日本での病院のベットで植物状態になっている老人より、遥かに高年齢であり、しかも労働に従事し、元気である。本当に長寿を全うしていると言うのは、健康な老後を送っているという事であり、介護ベットに寝かされ、薬漬けにされ、ただ植物状態で生かされているということを、長寿とは言わないのである。

 更に、特記すべきことは、現代栄養学に基づく理論は、今日でも有識者から一般庶民まで広く受け入れられているが、1950年代におけるアメリカの公衆栄養学を基準として定められたものであり、その食事の指針は、マッカーサー訪日と同時に、占領軍の政治政策として、日本人に押し付けられたものである。
 そして日本人の深層心理の中には、白人コンプレックスがあり、日本国憲法でも、栄養学でも、すべて白人から押し付けられたものは、「正しい」という訝(おか)しな思考が残留しており、一旦これを押し付けられれば、その間違いを正そうともせず、これを後生大事にして、守ろうとする思考が働くのである。なんでもかんでも、白人の押し付けたものは正しいと言う、考え方である。
 だから、時代遅れになり、古くなったものでも、正しいと考える思考は、未(いま)だに拭うことができず、頑迷に、頑固に、変えようとしないのである。

 そして、当時の栄養学は、占領軍の政治政策が大きく絡み、その一貫として現代栄養学が推薦され、同時に此処には、日本の食糧市場にアメリカの業界が参入しようとする思惑が見隠れしていた。これを容易にする為に、現代栄養学が利用されたという事である。
 当時の食事指針は、日本古来から連綿と受け継がれた叡智(えいち)に基づく食体系を破壊するばかりでなく、日本の食体系の優秀性に気付かない医学関係者や栄養学関係者が、アメリカの現代栄養学を鵜呑(うの)みにし、日本人の胃袋を、アメリカ企業型の食習慣に作り替えたに過ぎなかったのだ。この辺の事情を飲み込めない、現代栄養学支持の有識者や一般庶民は、今でも実に多い。

 次の表を見れば、アメリカ食品企業が、何を目的に、どういう政治政策で、食思想改革を行い、日本人の胃袋をアメリカ化しようとしているか見えて来る筈である。


太平洋戦争の敗北で、日本人が占領されたのは領土だけではなかった。日本人の胃袋までもがアメリカに占領されたのだった。経済戦略として、日本人の胃袋が占領され、政治政策として日本人はアメリカから、日本国憲法ばかりでなく、現代栄養学まで押し付けられてしまったのである。そしてアメリカから植え付けられた欺瞞(ぎまん)の神話は「牛乳神話」だった。


 日本人が占領されたのは、領土だけではなかった。日本人の食習慣までもを占領されたのだった。そこには日本人への食糧政策と、政治圧力が大きく関与していたのである。
 食肉、鶏卵、牛乳、チーズなどの乳製品の動物性蛋白質の大奨励は、「日本人の健康のため」というスローガンを掲げているが、これは真っ赤なウソで、実はアメリカの飼料穀物会社による周到な利潤追求戦略であった。
 だからこそ、動蛋白は人間にとって絶対に必要であると嘯(うそぶ)くのである。つまりこれは、家畜飼料の市場を一手に握り、経済を独占することが目的であったのである。

 しかし、多くの日本人は、こうしたアメリカの政治政策と、経済戦略の巧妙な計画を知る者は少ない。そればかりか、アメリカの政治と経済が齎した現代栄養学なるものを、金科玉条の如く信じ、既にアメリカでは廃れてしまった現代栄養学を、貴重な宝物でも扱うように後生大事にしている。現代栄養学を日本に持ち込んだアメリカ自身が、現代栄養学を否定し始めているのである。何と訝しな現象であることか。

 いまアメリカでは、現代の死病(killer disease)は、アメリカ国民の食事に由来すると定義している。そして、これこそが食原病であり、現在の食事パターンを急速に変更しなければならないとしている。更に国民の健康を向上させ、医療費増加に歯止めを掛ける為には、医学的治療を施すより、国民の食を正す方が先決としているのである。

 日本に肉食万能主義を押し付けたアメリカでさせ、動蛋白は人間にとって必要がないという考え方を示し始めている。また、アメリカで生産過剰となった食肉の鉾先(ほこさき)は、日本ばかりでなく、中国や韓国を始め、東南アジアにまでその市場開拓が試みられているのである。

 その一方、戦後アメリカによって齎された現代栄養学は、日本では何の疑いもなく取り込まれ、その食事指針に基づく指導がなされているが、本家であったアメリカでは、この論理は既に崩壊してしまっている。
 また、西洋人は、肉類や動蛋白脂肪、乳製品や精製炭水化物を摂り過ぎ、食物繊維を充分に摂っていないと言う事実に、異論を差し挟む栄養学者は殆ど居なくなっている。
 更に、「肉と野菜をバランスよく」などと論ずる、欧米の栄養学者も殆ど居ない。

 しかし、こうした世界的な動きの中で、日本だけが「肉と野菜をバランスよく」などという論理を掲げ、未だにグルメだ、美食だと騒ぎ廻り、食肉料理が持て囃されている。
 今日の日本の政治は、自己の利益と、保身以外に念頭にない政財界や関連企業が官民一体となり、また、それらの仕掛け役となったマスコミが、何も知らない国民をまんまと騙し、踊らせている現実がある。そして国民を踊らせる為に、医学関係者や栄養学関係者が、片棒を担いでいると言う事実だ。

 日本人は、もともと菜食に適応するような体躯(たいく)を、先祖より受け継いで来た。日本人はこうした伝統の中に、日本の食文化があった。日本人は連綿として、穀物菜食を受け継いだ民族であることを再認識する必要がある。そしてこの理解こそ、今日、静かに蔓延(まんえん)しているガン疾患を初めとする現代病を克服するキーワードとなるのである。