そもそも食事とは何なのでしょうか (21歳 無料相談室宛 大学生)
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人間が食事をすると言うのは「祀(まつ)り事」である。つまり食べ物は、同時に感謝する対象物でもある。
現代人が深く認識しなければならない事柄は、「食事は単なる栄養補給」ではないことだ。 霊的食養道から云えば、人が食事をする行為は、「自分と天地を結び付ける行為」であり、古神道(こしんとう)の神事である、神結(かみむす)びの「結びの行為」なのである。 古神道的に云うならば、「祀り事」であり、一粒の米、一片の野菜、一滴の水などは、天と地の恵みが凝縮されたものであり、この恵みによって、人間は「天命によって生かされている」という現実があるのだ。人間は、自分で生きているのではなく、天から生かされていると言うことなのである。 かつて日本人は、食べ物を神棚(かみだな)に供え、あるいは先祖を供養する仏壇にも同じ物を供え、その後に人間が頂くと言う風習があった。また、食事をする前には合掌(がっしょう)をし、手を合わせて食べた。合掌は食べ物を拝む行為である。つまり自分と食べ物の間には、「祀り合わせ」という関係が成り立っていたのである。人間は、食べ物からその命を頂くのである。生命を頂くのである。生命を頂くから「頂きます」というのだ。 これは食べる者と、食べられれる者との関係の「調和」を顕(あら)わしているのである。しかし、こうした日本の良き風習も現代では廃(すた)れてしまい、食べ物は躰(からだ)を造る根本としての媒体よりも、食材を味合い、楽しむ為の、舌三寸の料理になってしまっているのである。 私たち日本人は、戦後の高度経済成長期を境に、豊かになり、こうした豊かさが、余りにも食べ物を粗末にし、あまりにも軽視する実情を作り出して来た。食べ物など、あって「当たり前」という思考を植え付けられ、食べ物自体が天地の恵みによって与えられていると言う事をすっかり忘れてしまう現実を作ったのである。また、食べ物に感謝する心を忘れてしまった。 現代人は、食べ物の尊さを完全に忘れてしまっている。天地の恵みによって、育まれることを忘れてしまっている。 食べ物は大地の恵によって生まれ、大地に蒔(まか)かれた種は、土の気を根から吸収し、太陽の恵みを葉緑素をもつ葉で、これを一杯に受け、光と水と二酸化炭素から有機化合物を合成する「光合成」によって育つのである。 そして、こうして収穫された作物を食べる事により、私たち人間は、肉体を養うようになっているのである。 これは自らが養うと言うことよりも、私たち人間は天地によって養われていると言った方が正しいのである。食事とは即ち、食べるものと、食べられれるものとの関係の「調和」であり、この調和を得る為には、食べられる物への感謝が必要なのである。命を頂くと言う感謝を忘れてはならないのである。こうした事は、動植物においても同じである。 |
▲食事とは、生き物の命を頂く「祀り」である。小さな沢蟹(さわがに)と言えども、一個の生命体であり、この生命体の命を頂く行為が「食事」なのである。食事とは祀り事であり、その根本には、命を頂く「感謝の気持ち」が備わっていなければならない。もし、この感謝の気持ちを忘れると、人間は様々な病気に罹(かか)り、あるいは霊障が顕われて、精神に異常を来すわけである。
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食べると言う行為は「祀り事」であるということを忘れてはならない。したがって、食べ物は食器へ移し変えることが大事である。幾ら一人暮らしで、気侭(きまま)であるからと言って、スーパーから買って来た惣菜を発泡スチロールのパックのまま、それに箸(はし)を付けて食べると言うのは宜(よろ)しくない。必ず、陶器や磁器の器に移し変えることが大事である。何事も、事に当って「面倒臭がらない」というのが、自分の運気を徐々に盛運に育て上げる方法の一つである。それは食事と言う行為が、「祀り事」であるからだ。
一人暮らしの部屋で、スーパーや商店街の総菜屋であった、発泡スチロールの容器で部屋の片隅が散らかってくると言うような状態では、衰退に向かう運勢は、益々衰退するばかりである。清潔にし、誰が観(み)ても、小綺麗であると感じさせることが運気を盛り上げていく方法である。 汚れの中に暮らす生活は、汚れなりの運勢しか備わらないのである。清潔にし、小綺麗にし、面倒臭がらないことである。ここに本来の「祀り事」の意味がある。そして、そこ根本は慎みを忘れないことである。 |
霊障に苦しめられています (27歳 男性 会員 学校職員)
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まず肝臓の障害からお答えしよう。
人間は、生まれて間もなくは、病気も殆ど無く、心も汚染されて居る人は少ない。したがって、体外から体内に取り込まれる、受け入れ態勢も、幼少年期は極めて健全であり、「受け入れに対しては正しく識別」ことができる機能を有している。 例えば、毒が侵入すれば、毒を外へ排除する機能があり、栄養分だけを体内に取り込むメカニズムが出来上がっているのである。 人間は生まれて間もない頃は、腸でも、肝臓でも健全であり、かつ丈夫である。同時に、心においても、健全で丈夫な状態にあると言える。健全で丈夫な心は、経験や体験によって得られた、必要な真理だけを取り込み、間違ったものは捨て去る取捨選択機能が誰しも付いているのである。つまり「正しく認識する」装置が、人体には組み込まれているのである。 ところが年齢を重ね、不摂生に甘んじ、世間の風に当てられ、世間ズレしていくと、人間の穢(きたな)さや汚れたものばかりを見ているうちに、心は徐々に歪(ひず)みを生じてくるのである。歪みとは、一種の劣等感から派生するものである。 この歪んだ状態が、偏った物事の見方や、間違った考えに固執して、非真理を取り込んでしまうのである。やがて、この非真理は、先入観や固定観念を強くして、「こだわり」という、人間で最も悪しき現象を起こし、これが憑衣現象の元凶になるのである。 人体に於ける腸や肝臓が健全で丈夫であるならば、食べ物に紛(まぎ)れて取り込んでしまった毒も、食べ物と一緒に吸収することはなく、毒だけを体外に排除する力を持っている。ところが腸や肝臓が丈夫でない場合、毒も栄養分も一緒に取り込んでしまい、毒だけが蓄積して、腸に於ては、宿便となって停滞し、肝臓に於ては肝炎から肝硬変を起こすような毒の残留を許してしまうのである。 これと同じ現象は、心にも顕われる。鍛えてない心、ひ弱な心は、非真理をそのまま呑み込んでしまう為に、思考の中に毒物的な考え方があっても、それを捨て去る力はない。これが原因で、心は汚染され、そこから外邪(がいじゃ)や邪気(じゃき)の憑衣が始まるのである。外邪や邪気は人の唸が落とした「意識体」であり、これが時空を超えて散乱している。この意識体を排除するフィルターが貧弱であれば、憑衣されて取り憑(つ)かれる事になる。憑衣されるとは、自分の歪んだ心と、外邪である意識体が合体し、これにより様々な精神障害が顕われることを言うのである。 |
▲現世の人間が外邪や邪気の憑衣される場合は、その殆どが午後10時から午前2時半(丑の時を4刻に分ちその第三に当る時で、およそ今の午前2時から2時半を指し、「草木も眠る丑三つ時とも)の間が多く、この時間帯に背中の「風門(ふうもん)」から入り込み、一旦「亜門(あもん)」に登り、自動調節機能(自律神経)を破壊して、そして取り憑く。例えば、以上の時刻に酒保などで、独り、鬱(うつ)に耽っていると、ゾクゾクとした瞬間に背中の「風門」より外邪が忍び込み、憑衣現象を起こすのである。 かつて日本では、婦女子の憑衣現象が多く、「午後10時までに就寝せよ」という諌言があった。これは憑衣を防ぐ、婦女子の為の合い言葉であった。昨今は女性に限らず、男性も憑衣される対象となった。因業を深めている為である。 |
さて、憑衣で最も恐ろしいのは「生霊(いきりょう)」である。生霊はその霊体の、肉体自体が死んでしまって、唸(ねん)だけが残った死霊(しりょう)である地縛霊等と異なり、生きた怨みを発する唸(ねん)を持っていて、「自称霊能者」や「拝み屋」と言われる連中は、この扱い方に苦慮し、何一つ解決できないと言うのが実情である。とにかく生霊は強力なエネルギーを発する媒体である。また、それが強力なだけに、非常に恐ろしいのである。
では何故、生霊が恐ろしいかと言うと、同じ現世に生きている、「生きた人間から発せられている唸(ねん)」であるからだ。 波動するエネルギーは、新しいほどエネルギーが強く、既に古くなった死者の唸とは、この点が異なっているのである。死者は、同じ唸を持っていても、死後数年の時間を経て、そのエネルギーの威力は徐々に減少していくものなのである。頑迷な意識体であっても、その唸は徐々に減少する。そしてやがて、消滅する。しかし生霊は生きた人間から発せられる唸であり、この唸は生きている為に、威力が強く、最も厄介か代物である。 また生霊に匹敵する唸に、臨終直後の意識体がある。 人間は臨終に当たり、臨終を今迎えて、息が絶えんとする時、その瞬間に「走馬灯(そうまとう)の現象(【註】この現象は《癒しの杜の会》では「廻り灯籠現象」といい、過去を回想する現象である。また廻り灯籠のメカニズムは、内枠に貼った切抜き絵の影が、外枠に貼った紙または布に回りながら映るように仕掛けた灯籠であるため、過去から現在と、現在から過去の二重構造の影絵が時間と共に逆交錯し、内枠は、軸の上部に設けた風車が灯火の熱による上昇気流を受けて回転する構造に準えて、各々の交錯が接点をもって影の交錯する特異点が顕われる。この特異点に至った時、その意識体は「はッ」とする刹那(せつな)があり、その刹那に瞬時の回想が趨る。それは反省をする場面かも知れないし、怨みを持った呪いかも知れない)」が起り、今、臨終を迎える瞬間から逆になって、生まれた時までの記憶を遡(さかのぼ)り、回想が始まる。自分の人生の足跡(そくせき)を一巡しながら、過去への回想が始まり、老年期から壮年期、壮年期から青年期、青年期から少年期、少年期から幼年期と逆に記憶を辿(たど)り、そこで生前の反省をしたり、恥に思い当たって赤面するのであるが、その際に受けた虐待(ぎゃくたい)や怨みは、この時点になって更に鮮やかに蘇(ゆみがえ)り、例えば虐待されてこれを怨みに達した場合、この唸は生霊化することがある。つまり、新たなエネルギーによって、派生した意識体である。 《癒しの杜の会》HPでも繰り替えし述べているように、人生には「プラス・マイナス=零」という法則がある。決して一方的に「得」をしたり、一方的に「損」をすると言うことはないのである。この世に作った損得は、臨終間際の清算により、「プラス・マイナス=零」で帳尻が合い、辻褄(つじつま)が合うようになっているのである。 例えば、ある人間が窃盗を働き、被害者の持ち物や金品を奪ったとして、それで一時的に裕福になったり、享楽を楽しんだりしても、その清算は加害者の人生の於て、必ず辻褄が合うようになっている。また、借りをつくった債務者は一時期に、債権者からの借金を踏み倒しても、結果的には、他のもので代償を迫られるという事である。踏み倒しをして、一方的に得をすると言う事は絶対にないのである。これが「プラス・マイナス=零」の法則である。 また、やり込めた者は、その後、やり込めた事で、必ずその清算が課せられ、帳尻合わせを強いられると言うことになる。あるいは人を泣かして、理財を築いた場合も同じである。一躍(いちやく)成金になり、理財を築いた人間の多くは、老後の結末が哀れである。「人生のバランスシート」は、必ず帳尻が合うようになっているのである。不履行をし、不払いをして逃れたとしても、それは一時的なものである。その代償は、必ず求められる。 世の中には、強烈な自己拡大の野心をもって、野望を燃やし、ついに成功を勝ち取る人が居る。厳しく自分自身を律し、事業計画に遵(したが)い、それを遂行し、ついに成功を手にする人が居る。しかしこの成功は、一時的なものでしかない。 一時期成功を収めても、それが達成されるや否や、次の願望が沸き起り、その願望達成の為に、新たな事業計画を展開してしまうことになる。こうして次々に願望を達成していく過程の中で、人を喰い物にしたり、虐待的な仕打ちをすることもあろう。当然こうした行為には、犧牲や代償がつきものであり、その為に、自分の裡側(うちがわ)から貴重な物を失っていく。それは虐待され、喰い物にされた人間からの怨みを貽(のこ)すからである。 結局、今までに自分の行って来た行為を振り返れば、「人生のバランスシート」の《資産の部》と《負債の部》は、きっちりと帳尻が合っていることに気付かされるのである。ここに「プラス・マイナス=零」という法則が、完璧に働いていることに気付かされるのである。喰った者は、喰われた者から、他の代償によって、清算させられるのである。よって、プラス・マイナス=零だ。 人間には、人それぞれに「プラス・マイナス=零」という法則が働く以上、一方的に儲け続け、勝ち続けても、巨大な理財を抱えて死後の世界にまで持って行く事は出来ない。必ず、臨終の時点で帳尻合わせが行われるのである。人間の臨終こそ、現象人間界での大決算の瞬間なのである。 この帳尻合わせにおいて、これまで人に泣かされ、虐待されたり、苦しめられたりする人間も、この時点で帳尻を合わせようとするのである。理財を溜め込んだ人間ばかりでなく、一方的にマイナスを抱えた人間も、帳尻合わせをしようとするのである。こうした帳尻合わせに、虐待などの行為がマイナスの要素として含まれている場合、これをプラスに転じようと、奪った者から取り返しが起るのである。拮抗(きっこう)が起るのである。バランスを保つ為に、逆現象が起るのである。この取り返す為の唸が、また生霊化することである。 また、「プラス・マイナス=零」の法則が働く以上、貸したものを返してくれない怨みも働くのである。借りたら、借りっ放しではよくないのである。借りたものは必ず返すというのが、現象人間界での掟(おきて)であり、これを放置すれば、その代償を怨みとして被ることになり、強い憑衣を受けるのである。「搾取(さくしゅ)」の怨みは、ここから派生するのである。 【註】但し、博奕(ばくち)による貸し借りは、「悪銭身につかず」の喩えから、「プラス・マイナス=零の法則」の中に含まれない。賭け麻雀、賭けゴルフ、賭け将棋、賭け碁、その他の賭け事に債務は含まれない。ギャンブルで稼ぐ不正な所得は、元が実体の無いものであるから、無駄に使ってしまいがちで、結局は何も残らないものであり、貸借の根拠が失われる為、これにはプラス・マイナス=零の法則が働かない。貸した方も、借りた方も根拠となる実体がない。 「人生の法則」の一つに、「他人の世話はしてもよいが、他人の世話になってはならない」と言う法則がある。人は、何人(なんびと)も他人の世話になりながら生きている一面がある。しかし、他人の世話になると言う行為は、出来るだけ小さくしなければならない。世話になりっぱなしでは、「徳」を積むことができないからである。 また、人に恩を与えてもいいが、人から恩を与えられ、これを返さずにそのままにしておくと、そのに怨みが派生するのである。それは恩を与えた方が、過剰意識で恩を与えたことを強調・増幅し、恩を与えた人間を、期待の目で見るからである。その目は、実に期待に満ちたものが強いのである。 したがって恩を与えられたら、それを与えた人間の生前に、恩を返しておかねばならないのである。この事を知らずに、放置すれば、やがて「あいつには、あれだけの恩を与えながらも、なにも返す事をしなかった。なんて恥知らずな人間か!」というような、唸が起り、この唸はやがて生霊化する。期待を裏切られたからである。そしてこうした生霊化された邪気に襲われると、結局、こうした怨みをもろに受けてしまい、一種の呪となって憑衣されてしまうのである。 |