会員の声と相談者の質問回答集12

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 当時の袁了凡(えんりょうぼん)は、何も書いていない功過格(こうかかく)「人生の貸借対照表」を『治心篇(ちしんへん)』と名付けた。
 袁了凡が朝起きて、堂に坐(すわ)ると、家人が玄関番に渡して、彼の机に置いてくれるのである。その『治心篇』に、善悪を細大もらさず書き綴(つづ)るのである。この時、彼は「善事一万条の行」にかかっていた。
 また夜になると、庭に卓を設けて、宋の有名な哲人の書物を読んで勉強し、この事を香(こう)を焚(た)いて天帝に申し告げるのであった。

 その夜、たまたま一神人の夢を見た。
 袁了凡は神人に「善事一万条の行」が、非常に成就し難たき苦しみを訴えた。すると神人の言うには、「ただ糧(りょう)を一単位減ずるがよい。そうすれば一万の善行が即時に成就するであろう」と言うのであった。

 出世して地位が高くなればなるほど、低い地位の時よりも善行が実行でき、貧しい者より富める者の方が善行を積めると思われるが、これは反対である。高位高官に昇れば、職務が多忙になり、それを行う時間が失われる。人付き合いも多くなる。「一万条の善行」を積む事が非常に困難になるのである。
 諺(ことわざ)に「富める者が天国に入るのは、ラクダが針の穴に通る事より難しい」というのは、この為である。

 だから、袁了凡の訴えに応えて、神人は「ただ糧を一単位減ずるがよい。そうすれば一万の善行が即時に成就するであろう」と示唆したのである。この事を袁了凡はよくよく考えた。神人は県知事の権限で、税を減らせと言うのである。宝テイ知県の田は、一畝いちぼ/中国で地積の単位。6尺四方を1歩(ぶ)とし、古くは100歩、後には240歩を1畝とした)につき、二分三厘七毛の税率であった。

 そこで、夢に出た神人の言に従って、自分で区劃(くかく)を作り直し、それに手加減を加えて、一分四厘六毛に下げたのである。しかし考えてみると、これは何ぶんにも夢のお告げであり、果たしてこれで、一万善行の成就が出来るだろうかと疑問に思い始めたのである。

 恰度(ちょうど)その頃、五台山(ごだいさん)から幻餘(げんよ)禅師がやって来られた。五台山は中国山西省の北東部にある山で、中国仏教三大霊場の一つに数えられる名高い霊山である。

 そこで袁了凡は幻餘禅師に、自分が夢で見た事を話した。このお告げを信じてよいか否かである。それに対して、幻餘禅師はこう言われた。
 「人間の、善を行う行為は真実から発したものである。まして県知事として県民の糧を減じて、万民に福を授けているのである。これが万善に当たらなくてどうするか」と喝破(かっぱ)されたのである。

 これを聞いて、袁了凡は大いに感動した。袁了凡の「吾(われ)漸々(やくやく)に円満して……」からも分かるように、次第に涙が溢れ、感動が起り、これを直ちに実行に移した。袁了凡の行った減税は、県民から大いに喜ばれた。彼の県知事としての名声は世に広まったのである。

 それからも陰徳を重ね、更に、自らの俸禄(ほうろく)を割いて、五台山に登った。そこで一万の僧に斎とき/午前中にとる食事)を供養して回向(えこう)して廻った。
 孔老人から、袁了凡は五十三歳の八月十四日の丑(うし)の刻(今日の午前二時頃)、自宅の表座敷で死ぬと算定されていたので、未(いま)だ曾(かつ)て、長生きさせてもらいたいなど、祈った事はなかった。しかし五十三歳の年齢を超え、何の災厄もなく、今は六十九歳になっていた。

 書経には、「天と言うものは充(あ)てに出来ないものだ。天命と言うものは常に変化して、その停まるところを知らぬものだ。天と言うものは、限り無い創造であり、造化である。人間の注文通りにはならないものである。浅はかな人間の知恵や欲望では、どうする事も出来ない。
 したがって人間の側から見れば、天ほど信用できないものはない。一切は命(めい)である。したがって、常と言う事はない。行い如何によって変化するものである。
 この定まりし運命に変化が生じないのは、それは俗人が、運命の支配する陰陽の周期から抜け出せないからであり、徳のない俗人は、定まった儘(まま)の運命の陰陽に支配されて、その儘の運命を全(まっと)うする事になるのである」と記されている。

 したがって、「禍福は、人間の力ではどうする事も出来ない」というのは、この世の俗人の論理であると言う事になる。「天命の命ずるところ」というのは、俗人の世界に当て嵌(は)まる事なのである。

 さて、ここで「人生の貸借対照表」に入る前に、少し《貸借対照表》の勉強をしてみたい。
 もともと金銭にあくせくして、経済的に困窮する人は、最大の欠点が金銭感覚に疎(うと)いばかりでなく、「損益計算書」と「貸借対照表」の関係が全く解っていない事である。
 また、「資産」と「負債」の違いについても、殆ど解っていない。そしてこの混乱は、「資産」が収入の書き込まれ、「負債」は支出に書き込まれる事を全く理解していないことだ。

 したがって金持ちになりたいのなら、「資産」を買えばいい事である。ところが多くの72%に当たる中流階級以下の階層は、「資産」を買わずに、「負債」ばかりを買い続けるのである。つまりクレジットやローンをする事である。また、クレジットやローンで購入したものを、自分の資産と思い込んでいるのである。だから28%の金持ち層に入れないのである。「金持ち」対「貧乏人」の分離比は、ユダヤ黄金率によれば28:72の関係なのだ。

 これからも分かるように、資産と負債の根本的な考えの違いから、「金持ち」と「貧乏人」を二分している事が分かるであろう。貧乏人は、いつまでも貧乏に甘んじて、貧乏から抜け出せないのは、72%の多くの中流階級以下の階層が、資産ではなく、負債ばかりを買い続ける為である。多くは、借金漬けになり、負債を買う為の生涯に、自分の全エネルギーを費やしているのである。

 これは金銭的な流れを見ると、一目瞭然になる。
 中流階級以下の72%の人達は、仕事をし、給料を貰えば、一端は損益計算書の中では、収入の方にその金額が書き込まれる。しかし此処には税金、マイホームのローンの返済、マイカーのローン返済、その他クレジットの返済がある。こうした固定支出がある上に、家族サービスの為の週に一回の外食、家族旅行、食費、衣料費、水道光熱費、娯楽費などの支出があり、それらは住宅ローンの借入であったり、月々の支払をするクレジットカードや、それ等の未払分は「負債の部」に入る。
 つまり、夫婦名義の登記済権利証書のマイホーム(半分以上の頭金を払ったマイホームでも、根抵当が設定されている。根抵当権設定は不特定の債権を、極度額の限度で担保する抵当権のことだ)でも、マイカーでも、一円でも未払分があれば、これは「負債の部」に入る性質のものである。

 一方、28%の金持ちに属する人の金銭の流れは、資産を買う事に当てられ、不動産、手形・小切手・貨物引換証・船荷証券・倉庫証券・株券・債券・商品券・抵当証券などの有価証券、印税、著作権、特許権、その他の知的財産を持っていて、これはら資産から収入へと記されるものである。

 人の運命の流れもこれと同じで、72%の中流階級以下の多くの人は、運命の陰陽に支配されて、予(あらかじ)め予定された通りの人生を履行していく事になる。
 運命と金銭の流れは、ある意味で共通点を持つ。経済的に困窮し、借金を抱えている人は、とにかく、いま金が必要である。ところが、単に金が入れば解決する問題ではない。金は時として、人間の弱さを暴露(ばくろ)するのである。

 例えば宝くじが当たる、死んだ親の遺産が入る、昇給するなどの、思わぬ金に巡り合う事態が発生した場合、その金の流れは、更に加速を増すだけなのである。結局、一時的に、裕福に見えた現象は、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻るのである。それは、「貸借対照表」の読み方を知らず、「損益計算書」の財務処理能力に欠けているからだ。
 これと同じ事が、人間の人生における運命の中にも起っている。 

貸借対照表(バランスシート)の原理。

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 72%の中流階級以下の人達の人生パターンは、ほぼ定まっており、それはまるで予(あらかじ)め、神が予定したように、誰もが同じような行動パターンを示す。
 では、その順を追って見る事にしよう。
 まず、立派な教育を身に付けねばと高度な教育を受ける。目的は、いい成績をとって、一流大学【註】確率的に見ると、実際に一流大学と称される大学に入れるのは全学生の28%以下)に入り、一流企業に入る為である。そして一流企業に入れたら、高度な教育を受けた者同士が結婚し、新たに新居を構えて暮らし始める。次に子どもの出産に備えて貯蓄を始め、それ迄の間は共働きをし、貯蓄に専念する。やがてその努力は実り、貯蓄と共に収入もアップしていく。足には車が必要になり、マイカーを所有する。しかしそれに従って、マイカーローン返済などの支出も増える。その上、所得税(この税金は累進課税である事に注意。特に課税標準の増加に伴って、高い税率を適用する租税である)と言う高額な税金も加わってくる。

 つまり上の表で言うならば、収入が増えると、個人の「貸借対照表」の中にも、負債の額が増えるという事である。しかし「貸借対照表」の読み方を知らない者は、負債が増えたという事に、あまりピーンとくる事はない。
 やがて子どもも出来、家が手狭になる。
 それに併せたかのように収入が上がって、そろそろマイホームでも持とうという考えが頭を持ち上げる。これは住宅ローンで購入するので、更に返済利息と、税金の額は増えるのであるが、疎い者はこの時点でも、ピーンと来ない。しかし、確実に増えていく。それはローン返済の元金と利息以外の、固定資産税(土地・家屋・償却資産の所有者に対し、その価格(評価額)を課税標準として、固定資産所在の市町村が課する税金)と言う地方税が加わるからである。

 また、マイホームを持てば、それに併せて、調度品や家具、電化製品などが必要になる。そして子どもが、更にもう一人生まれる。それに併せて、学校で支払う以外の受験用の教育費が必要になる。子どもが成長するに随(したが)い、更に支出が増える。上級学校に進むに随い、更に資質は増える。
 つまり「損益計算書」と「貸借対照表」は、「損益計算書」に書かれる数字の額は収入に、収入の増えた事が記され、一方「損益計算書」の支出に、それだけ支出が増えた数字も掲載される。支出が増えたと言う事は、「貸借対照表」では負債に支出分の増えた事が掲載され、収入が増えると言う事は、負債も増えたと言う事になるのである。

 これはどういう事なのかというと、ローン返済や、クレジットカードなどで支払を済ませるこの縮図の中に、現代人の消費癖を煽り、必然的に収入を殖(ふ)やす必要性が生じている事に、多くの人は気付かないで生活しているのである。そしてこうした関係になっている事を、多くの人は知らずに人生を送る事になる。つまり貸借対照表の「負債の部」が、徐々に増えている事に、全く気付かないで生活をしているのである。

 ところが、ある日突然、住宅ローンやクレジットカードの支払で、「負債の部」に書き込まれた数字を見て、愕然(がくぜん)とする。金に困る本当の原因は、貸借対照表の「負債の部」に書き込まれた数字の額にあったからだ。こんなに増えていたのかと、驚かされるからである。あまりにも疎い、マイナス思考で人生を送って来た自分に愕然とする。
 自分がこれまで一生懸命働いて来たのは、「ラットレースの罠(わな)」に嵌(はま)っていたのだと気付くのである。しかし、一度「ラットレースの罠」に嵌れば、此処から抜け出すのは容易でない。

 運命と同じように、陰陽の支配を受け、その中に取り込まれて、予定された通りの人生を履行しなければならないのである。つまり運命の陰陽の支配とは、貸借対照表で言えば、「資産の部」と「負債の部」の関係なのである。「負債の部」を抱えている人は、どうしても運命の支配を受けてしまい、この「そもそもの間違いは何処にあったか」と気付かされるのである。

 この場合、金銭的な情報を読み説く力が無かった事であり、これを運命に例えれば、「陰徳を積み上げる能力」に欠けていたと言えるのである。こうした人の多くは、金銭的には資産と負債の意味が分かっておらず、借金で買い込んだ物まで、自分の資産と勘違いしていたのである。
 したがって、これを運命に喩えた場合、いま一時的に順調に見える順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な時期を、自分の生涯の総てと勘違いしてしまう事なのである。「満つれば欠ける」という運命の支配を知らなかったのである。こうした人は、予定された通りの人生を履行する事になる。つまりこれは、「因循いんじゅん/古い習慣に因り循したがっていて改めようとしないこと)」という二字の為である。

 私たち人間は、自分で自分の墓穴を掘っている事に、中々気付かないものである。しかし、この墓穴に落ち込んでいると気付いたら、それ以降、もう墓穴を掘るのは止めなければならない。早く運命転換法を知り、因循から逃れて、運命を転換させるには「陰徳」を積まなければならない。
 しかし、自分で自分の墓穴を掘っている事に気付いたとしても、多くの人は、奮発し、運命を改造しようと努力はするが、それは目先の努力であり、かつ、末端的な努力であり、こうした努力はどんなに一心に励んでも、天命を変える事はできない。

 それは何故か。
 自分の不徳を知り、過ちを改めようとせず、自分の非に気付かないからである。付焼刃(つけやきば)のような末端の努力では意味がないのである。これでは、ついに一生を一定の、予定された通りの天命に任せ、運命の陰陽に支配されて、空しい最期を遂げるのである。
 運命を転換させ、吾(わ)が人生を、より善く生きようとするならば、運命転換法の根本を知って、この実践に努めなければならない。

 雲谷禅師は袁了凡に、運命転換法の秘伝を授けた。そして日時を無駄にする事なく、善悪を基準にした貸借対照表とも言うべき「功過格表」を示し、これに毎日記録する事を促したのである。毎日、一日の終わりに、日記と共に記録を書き、その日一日に為(な)した功過を反省する事を促したのである。そして記録したものを、一ヵ月で纏(まと)め、一年で纏めるのである。たゆまず実行する事が、運命転換法の第一歩なのである。
 『陰隲録』に記された「人生の貸借対照表」によると、功過格(「雲谷禅師伝」改)は次のようになる。
 なお、功過格表を作成するにあたり、現代の時代に相応しくないものは除外した。

人生の貸借対照表・功過格表
功 格(資産の部)
百功に準ず
一人の死を救免す。 一人の人間の生命を救い、死から救う。
一婦女の節操を完うす。 一人の女性の貞節を、結婚前に犯さぬ事。
【註】例え恋人関係にあっても、相思相愛の仲であっても、肉体関係をもっての愛情表現は「過格」となり、逆にこれを厳守すれば「功格」となる)
一子を堕胎せず。 堕胎したり、堕胎する事を思いとどまらせる事。
一身内の不具者を捨てず。 自分の妻子や夫が身体障害者(事故での不具や精神障害での障害者)や、植物人間になっても、これを施設などに捨てず、慈しんで最後まで愛情をもって面倒を見る事。
五十功に準ず
一嗣を延続す。 世継ぎの絶えるのを防ぎ、継続出来るようにしてやる事。
一人の骸を埋(うず)む。 一人の亡骸(なきがら)を手厚く葬る事。
一無縁者を弔(とむら)う。 無縁者の葬儀を行い、弔って埋葬する事。
一流浪者を救免す。 困窮した流れ者やホームレスを生活出来るように助力する事。
吾命を他に賭(と)す。 自分の命を投げ出して、他人の為に尽くしたり、自分の資産一切を投げ出して、社会や他人の為に命賭けで尽くす事。
慈愛忘却せず。 身体障害者や植物人間になった妻子、夫、父母、義父母らを慈愛をもって世話をする事。
【註】昨今は身障者の身内を私設に預けたままにし、また精神病患者や、脳溢血などで半身不随になった夫や妻と離婚し、新たな人生を出直そうとするが、これまでの慈愛で世話をすれば「五十功」、捨てれば「百過」の過格を背負う事になる)
一倚(よ)るなきを収養す。 身寄りのない子どもや老人を引き取って扶養する事。
三十功に準ず
一非為人を勧化し行いを改めさせる。 無法者や不良少年を教化し、間違いに気付かせ、善に導く事。
一冤罪(えんざい)者の潔白を証明する。 無実の罪に苦しむ者を助け、無罪を明らかにして、潔白を証明してやる事。
十功に準ず
一有徳人を推薦する。 有徳の士を推薦し、引き揚げてリーダーにする事。【註】現在では被選挙民と選挙民の関係で、有能な政治家を立て活躍の場を与える)
一民害を防ぐ。 環境保護や公害防止の運動にに無償で参加する。
五功に準ず
一人の訟を勧息す。 訴訟を起こそうとしている者を思いとどまらせ、争う事の愚を諭(さと)す。
一人の生命を保益する方法を伝える。 健康法をはじめとして、食養や養生の正しい食餌法を伝える事。
一家畜の生命を救免する。 牛や馬や豚などの一家畜の生命を救う事。
三功に準ず
一横を受けて嗔(いか)らず。 一無法な仕打ちを受けても、それに対して腹を立てず、仕返ししない事。
一謗を受けても弁ぜず。 誹謗や中傷を受けても、それに対し、言い訳や弁明や弁解をしない。
一耳に抗(さか)らうを受け流す。 自分に対して不愉快になる事を云われても、それを甘んじて聞き流す度量を備える事。
一撲責すべき人を饒免す。 打ち据えてやりたいような者に対して、憤激せず、これを許してやる事。
負を饒(じょう)す。 他人に貸した金品などの債務は、困窮者に限り、免除してやる事。
一無益なる畜命を救免す。 人間の益に直接関係のない鳥獣でも、その命の絶える事を救い、保護する事。
一功に準ず
一人の善を讃える。 一人の善人の、行いなどの善を褒(ほ)め讃える事。
一人の悪を暴かず。 一人の欠点や、悪い所を暴露せず庇(かば)う事。
一人の非為一事を勧止す。 一人の非行に趨(はし)って、悪を犯そうとしている人間に勇気をもって忠告し、それを止めさせる事。
一人の争いを勧息す。 一人の争う事をしようとしている者を諭して、止めさせる事。
一病人を介助し、治する。 一人の病気で蹲(うずくま)る人を助け、手当てし、あるいは病院に連れて行ってやる事。
一人の飢えを済(すく)う。 一人の飢えている人の飢餓状態を救ってやる事。
一微細湿化の属命を救う。 微細な生物まで恩を及ぼす事を指すが、大自然の生態系を守る事にも通じる。
遺を遷(かえ)す。 人の忘れ物を返す。(また忘れ物や落とし物は着服しない事を指す)
人畜役(えき)して憐れむ。 人や家畜を使役した後は、「ご苦労様でした」と労(ねぎら)いの言葉を掛ける事。
道橋を造す。 自分の所有する山林や敷地内に道を造り、橋を架けて、人の往来を助け、便宜(べんぎ)を計る事。
利を還元する。 印税や賞金や賞品などは、自分一人が一人占めせず、公衆の利益と思って、一部を社会に還元する。
倹約節約の行い。 無益に浪費しない事。(世の中は消費時代で、大衆消費社会が出現しているが、こうした流行に流されず、物を大事に使う事)
食を弄(ろう)せず。 食べ物を大事にして、食べ残しをせず、日頃から食べ物を残さないように心掛けるべき事。
【註】これを一日単位に考え、その日のうちの食材などを検討し、穀物菜食に徹し、しかも食べ物を残さずに食べたら、これを「一功」とする)
一約を果たす。 時間の約束、契約履行の約束など、自他の間で結んだ約束は必ず果たす事である。(時間なども厳守し、5分前を徹すべし)
興す所の事、利一人に及ぶ。 事業を起こし、人が働ける職場を起こして、その利益が一人に及ぶ事。
【註】従業員十人の会社であれば「十功」、百人であれば「百功」、千人であれば「千功」である。企業の経営者は、従業員並びに従業員の家族に奉仕している)
過 格(負債の部)
百過に準ず
一人の殺害す。 一人の人間の命を奪う事。(過失や事故であっても、過ちである)
一婦女の節を失わしむ。 一人の女性の節操を暴力などにより強姦する、あるいは婚姻前に寢る事。
【註】後者は合意であれば男女同罪)
一子を溺らせ一胎を堕す。 生まれて来た子どもを邪魔物扱いにして死なせたり、人工流産させて死に至らせる事。
一身内の不具者を捨てる。 自分の妻子や夫が身体障害者や、植物人間になり、これを施設に捨てたり、夫婦の場合は離縁する事。
五十過に準ず
一人の胤(たね)を絶つ。 一人の胤を絶ち、世継ぎを絶えさせる事。
一人の婚を破る。 折角決まった男女の婚姻を、嫉妬や横恋慕で破断にさせる事。(多くは悪口を言ったり、興信所の調査結果で婚姻を反故にさせる)
一人の骸を抛棄す。 一人の亡骸(なきがら)を抛棄して、見て見らぬふりをする。(先の大戦中によくあった)
一人の冤罪者を作る。 一人の無実の罪の者を犯罪者にしてしまう事。
【註】無実の者を意図的犯罪者に仕立て上げ、刑に服役させる事で、冤罪により死刑判決を受けた場合、この証言者は陥れた事により「五十過」と殺害の「百過」を併せた殺害者となる)
一人の離散者を致す。 一人の放浪者をつくりだしてしまう事。またそれが元で、一家離散を導く事。【註】家族が四人いて、四人が散り散りバラバラになれば、「五十過」×4倍の「過格」となる)
三十過に準ず
一人の介行を毀(こぼ)る。 一人の一生懸命に精進努力している者を妨害したり、冷やかして、崩してしまう行為。
一人の行いを謗して穢す 一人の人間を誹謗中傷し、一切合切を暴き立てて、その名誉を穢(けが)す事。
陰私を摘発し、行止(こうじ)の事を犯す。 影に隠れた事を摘発して、これを暴き、マスコミなどを通じて世間に公表し、他人の成就を邪魔する事。
十過に準ず
一有徳人を排擯(はいひん)す。 有徳の士を、自分の利害関係から、悪口を言って排斥(はいせき)する事。
一匪人を薦用(せんよう)す。 自分の利害関係から、悪人と分かっていても、これを用いたり、重要なポストに起用する事。
【註】例えば、貸金業者や不動産業者が暴力団を取り立てに使ったり、立退に使ったりする行為)
一の原節(もとせつ)を喪(うし)った婦を受触(じゅしょく)す。 既に貞操観念(夫婦が互いに負う貞操を守るべき覚悟)を失った一人の女性に触れたり、性交する事。
【註】但し、節操のない尻軽女に近付く事を戒めているのではなく、男女共に不倫を戒めている)
冤白を得るも白せず。 無実の罪である事を証明出来るのに、その儘にしてしまう事。
一病の難者を救わず。 一人の病人が助けを求めているのに、これを無視し放置する事。
【註】交通事故やその他の事故現場に居合わせていて、怪我人が助けを求めているのにも関わらず、これを無視して放置する事)
一人の訟を唆(そそのか)す。 一人の者に裁判をするように唆し、その人を訴訟に巻き込む事。
一人の借返済せず。 一人の個人間で借入した金銭を踏み倒す事。
一の衆生を殺す愚行。 衆生とは人間のみを言うのではない。人間と同じ性(さが)を持つ動物を殺す事。
五過に準ず
道路橋渡を阻截(そせつ)す。 道路の通行を妨害したり、道路脇のガードレールやミラー塔を損傷または壊す事。
一家畜の肉を喰らう。 牛や豚などの家畜の肉を食べる事。
【註】家畜を殺せば「十過」、食べれば「五過」、救えば「五功」である)
無責の行い。 一人の者を保証人に仕立てて、自分は返済を怠る事。
一の化を乱す詞伝を編纂す。 一冊の風俗や猥褻(わいせつ)を煽(あお)る書物を発行し販売する事。
三過に準ず
一耳に抗(さか)らうを噴(いか)り、諂(へつら)い媚(こ)びを売る者に寛容す。 一つの耳に抗らう事を聞いて腹を立てる事。
【註】例えば忠告や諌言に憤激する事である。また逆に、お追従をする者の言を快く思い、この者の失敗に対して寛大に取り計らう事である)
一の尊卑の順を乖(そむ)き、身形で尊卑を計る。 肉の眼で人を観(み)る事を戒め、乖離(かいり)での人の観察を戒めている。
【註】人生には長幼の順が有り、浅はかな判断で、物の秩序を間違う事である)
両舌人を離間す。 二枚舌の者、口先ばかりで、饒舌(じょうぜつ)な者を仲間にする事。
一非法服を服す。 地位や階級に相応しくない制服を着る事であり、身分不相応な事。
一過に準ず
一人の善を潰す。 一人の者が行った善行を無にしてしまう事である。
一人の争いを唆す。 一人の人間の争いやケンカを嗾(けしか)け、面白がって傍観者になる事。
一人の悪を播(はん)す。 井戸端会議などを通じて、一人の過失を言い触れたり、面白半分に悪口を言い触れる事。
一盗を見勸阻(かんそ)せず。 一人の盗みを働いた者を知りながら、これを傍観し、これを諭(さと)したり、咎(とが)めたりしない事。
一無識者を欺誑(ききょう)す。 一人の無垢(むく)な者や、低年齢者の無知に付け込んで、これを騙し、欺(あざむ)き、誑(たぶら)かす事。
一約に負く。 一つの約束を破り、背く事。【註】時間を守れない人間は既に運命の陰陽に引き摺られている)
一礼を失う。 一つの礼儀を失う事。
【註】一回の無礼無作法も、「一過」にあたるので、それが度重ねれば、過格は増えていく)
一人の憂驚を見て慰釈(いせき)せず。 一人の心配事や憂いのある人に対し、慰める事もなく、また相談に乗る事もなく、無関心で居る事。

 以上は、明代の袁了凡(えんりょうぼん)が生きていた時代の運命転換法であるが、当時の「功過格表」の通りに実行すれば良いと言うものではない。まず現代と、中国の明代とでは、第一、時代背景が違うし、環境も異なり、情勢も異なり、一概にそぐわないものを実行せよと言っても、無理があるように思う人も少なくないであろう。あなたも、その一人かも知れない。
 しかし、果たしてそうだろうか。

 現代という時代にも、確かに運命転換法なるものは存在する。ただ、袁了凡の『陰隲録(いんしつろく)』と表現方法が違っているだけの事である。その証拠に、「HOW TOもの」と謂(い)われる「成功もの」や「人生成就もの」また「自己改革もの」と言った類のものが多く出回り、これが今でも読まれている事である。

 ただ、「HOW TOもの」は残念ながら、「自己」という領域から一歩も出る事なく、自分の欲望や願望のみを相手にして、根本から運命を転換させると言うものではない。この点が「HOW TOもの」と、運命転換法の根本的な違いである。
 「HOW TOもの」は、自分の人生に目標を掲げ、その目標の向かって、自己の願望の成就を目指して努力するものである。したがって自己の範疇(はんちゅう)から一歩も出る事なく、どこまでも自分中心になって、願望に向かって奔走する事が中心になっている。そして願望を掲げた場合、一つの願望が叶えられた時に、その人の運命は、再び元の運命路線に引き戻されてしまうのである。運命の陰陽に、再び支配されてしまう事だ。

 したがってこれでは、これ迄の運命支配から抜け出して、離脱し、新たな自己を形成したとは言えないのである。また、これ迄の自己の運命を、総(すべ)て消去する事は出来ないのである。これから離脱する為には、まず徹底した自己否定が必要である。自己否定とは、これ迄の自分と言うものが一度死に、再び蘇(よみがえ)らなければ、自己否定は出来ない。そして自己否定とは、自分の欲望の抹殺でもある。

 そして一旦抹殺してしまった後に、新たなる自己が誕生し、新たなる創造と展開を為(な)さねばならないのである。
 その意味で袁了凡は、「積善」と言う「功格」方法を用いて、これを日々の行動様式にしたのである。袁了凡の善事の足跡(そくせき)を見ると、それは人間としての道を踏み行う、純粋な行動に他ならない。最初、運命論者であった袁了凡が、雲谷禅師に遭ってから後し、運命転換論者に変わってしまったのは、それが欲望を基に思い立った行動であるとしても、彼の行動そのものは、欲望や願望とは一切関係のない、純然たる善行だったのである。

 袁了凡は雲谷禅師より、「人生の貸借対照表」である「功過格表」一巻を受け取った時、彼の心の中には、「過格(悪事)を犯すまい」と言う決意が湧き起った筈である。この時、彼の心の中に、これまで存在していた欲望は、一切抹殺された筈である。そしてこれにより、彼はこれ迄の運命路線をも消滅させてしまった事になる。但しこれだけで、これ迄の彼の人生が、その時点で総て消滅したわけではない。しかし少なくとも、古いこれ迄の行動様式だけは一変し、そこには「刷新された自己」が蘇(よみがえ)った筈である。

 さて、もう一度、《予定説》に予定された救われる者28%救われない者72%の二分する分離比を思い返して頂きたい。救われる者が、全体の30%以下である事に注目して頂きたい。此処が最も重要なところである。
 新しい行動パターンを展開する上では、あらゆる点で抵抗が起き、摩擦が派生する。殆どの人はこれに耐えられず、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻る。したがって救われるのは、全体の28%であり、その確率は三人に一人以下と言う事になる。つまり陰徳を積もうと心掛けた三人のうち、二人が途中で挫折するという事である。

 私たちは、ある時を転機として、自分の生活や行動様式を一新し、「日々新たに」と、思い立つ事がある。しかしこうした、「思い立ったが吉日」は、その日限りか、あるいは三日坊主で終ってしまう事が多い。

 では、何故こうした状態に逆戻りするのか。
 それは過去世から引き摺(ず)る「業報ごうほう/影響あるいは因業。または善悪の業因によって受ける苦楽の果報)」であろう。つまり、これに押し返されてしまうのである。運命の軋轢(あつれき)に負けると言ってもよいであろう。

 もし、これに抵抗し、如何なる圧力も跳ね返していくのであれば、やはり袁了凡が用いたような、刷新する新しい行動パターンが必要であり、「功過格表」に則(のっと)った生活と、行動様式が必要になってくるのである。

 最初のうちは、暫(しばら)くの間、過去世からの業(ごう)が顕われるけれども、時間の経過と共に、業の影響は次第に薄れ、やがては命(めい)を動かす運命が展開されていくわけである。しかし、これには非常な忍耐を努力が必要であり、この意味に於て、困難を極めるが、これ迄の古い自己から解脱する唯一の方法は、これしかないのである。
 だから、《予定説》に予定された救われる者28%と、救われない者72%の歴然とした差が、そこに生じるのである。その差は、三人のうち、一人以下であると肝に命じる必要がある。

 また、明代に生きた袁了凡の時代は、今日に比べて、あらゆる面に於いて救われた時代であったと言える。彼のような暗記型の能力と素質を持った人間は、科挙(明代は進士だけの試験になり、易経・書経・詩経・春秋・礼記の五経)の試験も、易々とやってのける事が出来たであろうし、家は貧しかったと言うが、豪族の出と言うことで、環境も恵まれていたといえる。

 しかし現代は、時代も異なり、資本主義の競争原理が働き、「勝ち組」と「負け組」に色分けされた組織内で、熾烈(しれつ)な弱肉強食の過当競争にも挑まなければならない。その点を考えれば、袁了凡が行った行動様式は、現代人には到底真似できないように思えてくる。あるいは、泰平の世のお伽話(とぎばなし)と映るかも知れない。

 だが安易に、こう考えてしまうのは短見と言えよう。
 何故ならば、やはり現代にも、救われる者救われない者は、現実に存在していて、はっきりと「28:72」と言うシビアな数字で二分されているからだ。
 さて、あなたは、この二分する数字を、一体どのようにお考えだろうか。