統合失調症で死んだ義父の霊への接し方 (44歳 無料相談室宛 主婦)
|
あなたは精神病で死んだ人間の霊に対して、何か偏見をもっているように思われる。それも大変間違った偏見であると思われる。
人間の死は様々で、特に現代人は昔と異なり、病院で生まれ、病院で死んで行くと言う「病院人生」を繰り返しているように思える。 また現代人は、潮の満ち引きで息を引きとるというような、自然死の死に方が、殆ど皆無と言う状態になり始めた。 現象人間界の過去を振り返れば、月は、潮汐(ちょうせき)を通して、古来より人間の生死に関わって来た。 潮汐の意味は、「潮」を「あさしお」、「汐」を「ゆうしお」という事からである。則(すなわ)ち、海水の満ち引きは、月および太陽の引力によって起る海面の周期的昇降、則ち、「しおの干満」を言うのである。そしてこの干満は、人間の死に関わっている可能性が非常に大きいと考えられる。 古来より、「潮が引くとき、人が死ぬ」と謂(い)い伝えられて来た。 しかしこの真偽を確かめた科学者は医学者は殆どいない。何故ならば、現代人の特長としてその多くが、「病院で生まれ、病院で死ぬ」という人生経験しか知らないからである。 これは別の角度から見れば、現代という時代を生きる人間にとって、人間の死の多くは、「自然死」とは程遠い、「一等も、二等も退化した死に方をしている」と言うのが、現代人の偽わざる姿であるという事だ。 単刀直入に云えば、現代人は古代人より退化した、生と死を繰り返していると言う事が言えるのである。 更に厳しくこの現実を見据えれば、現代人の多くに、その死が、殆ど自然死ではなく、事故死であり、その殆どは「横死」に近い死に方といえるのではないかという事である。 自然死は、普通、一日二回の潮の干満に合わせて死んで行く人の死であり、月と太陽の働きと無縁ではない。特に月は、死と不死を司る神として観念され、満潮から次の満潮までに要する時間(周期)は約半日で、これに関わっているのは、紛れもなく月である。したがって古人は、「人間は潮が引くとき、死ぬのだ」と云う概念を発見した。 一日の干満の差(潮差)は、月齢によってほぼ半月周期で変化し、朔望(さくぼう)の頃最大(大潮)、上下弦の頃最小(小潮)とで潮差が起り、月のサイクルと人の生死が順応しているのである。 この事実から考えれば、私たち現代人は、太古の人類や、「人の死」と「潮汐」を関連づけて来た古代人より、大きく退化した人類(人類擬きの亜人類かも知れない)であるという事が言えよう。 さて、本題に迫って行く事にしよう。 人の死は大きく分けて二つある。一つは自然死であり、既に述べた、潮汐によって死んで行く人の死である。そしてもう一つは、事故死と云われるもので、現代人はこの死に方をする人が、おおよそ90%以上と言われている。つまり、「病院で生まれて、病院で死ぬ」と言う人生パターンである。 そしてあなたの養父も、最後は「病院で息を引き取った」と言う、事故死者の一人である。 だがしかし、あなたは大変な誤解をしている。 心不全で死亡した者に、その前歴を上乗せして、「統合失調症による心不全」などと書く医者は居ないと思うが、あなたは、単なる心不全だけならば、養父に対して恐怖を抱かなかったのか。 心不全であっても、自然死ではない以上、霊的には事故死として扱われるのだ。せめてもの慰めは、同じ事故死と言っても、交通事故や建設現場事故で、無惨にぐちゃぐちゃになって死ぬよりも、断末魔の雄叫びは、ほんの少しだけ軽かったと言う程度であろう。 さて、私が問題にしたいのは、あなたの養父が死亡した後の、死体の「死後処理」である。 あなたは「精神分裂病で死んだ人間」に対し、「気持ちが悪い」とか「怖い」という大きな誤解と、愚かな恐怖を抱いているようであるが、こうした状態から推測すると、恐らく死体処置には「手抜きがあった」と思われる。 御通夜(おつや)から、納棺までの作法は、恐らく葬式屋任せではなかったのであるまいか。 しかし、あなた自身に「死後処理」に手抜きがあったのならば、それは現世での一つの汚点であり、未来に悪因縁を刻んだ事になる。 日本人は、死者の霊を、古来より「ねんごろに弔った」歴史を持つ民族である。そこには正しい作法と、「礼儀」をもって、死者と接した足跡があり、これを果たせて、人間は、他の動物とは違う、より崇高な精神を有していると言えるのである。 昔から、御通夜の事を「守尸(しゅし)」といった。「尸(し)」は、職責を果さない事の意味であるが、これに「守」がつけば、最後まで職務を果たすと言う語になり、死者を「ねんごろに弔(とむら)った」という、自らの職務が「守尸」なのだ。だからこそ、「御通夜」であり、死者を葬る前に、家族・縁者・知人などが遺体の側で、終夜守っている事を指すのである。これを「夜伽(よとぎ)」ともいう。死者を葬る前に、夜を徹して、死者と共に、夜、寝ずに付き添う事なのだ。 こうした作法に則った、守尸を「喪祖(もそ)の儀式」という。 喪祖の「喪」は喪主の事であり、「祖」とは「はだぬぎ」の意味である。 「はだぬぎ」は「肌脱ぎ」の事であり、帯から上の衣服をぬいで、肌をあらわす事であり、「肉袒(にくたん)」とも呼ばれる。この肉袒は、古代中国での謝罪の法として、相手に鞭(むち)打たれる覚悟を示す為に行なった「肉袒負荊(ふけい)」がこの始まりと言うが、この肉袒は、「はだぬぎ」という儀式の中で、今日では葬儀の時のみに、形骸化して使われているようである。 「はだぬぎ」には、「深衣(しんい)」という長い白衣を着て、髪を麻で縛り、深衣の左袖を袒(はだぬ)ぎ添え寝をする。左袖を通さないので、亡くなった親の事を「先祖」というのである。先祖には、「先に袒(はだぬ)いだ人」の意味を持っているのである。それが後に、「袒(たん)」の字が「祖」に変わったのである。 しかしこうした古来より伝わった「喪祖(もそ)の儀式」を無視し、死者に対して、とんでもない間違いを強制する新興宗教の教祖や、職業祈祷師らの愚行は目に余るものがある。 例えば、金集めで有名な某新興宗教教団(この教団は金持相手のハイクラスな教義で宗教を展開しているが、礼法や儀式の多くは間違いだらけ)では、その教祖の言に従って、愚かにも、右肩に袈裟を掛けさせて「偏袒右肩(へんだんうけん/この教団では「右肩を露にする」という意味だそうだが)」と自称して、これこそが死者に対して、最高の礼儀であると教えているが、これは大きな間違いであり、右肩に袈裟をかけるのは、人を呪い殺す場合に用いられる呪法で、正しくは「偏袒左肩」こそが、「守尸の儀式」で行われねばならないのである。霊的世界の現実を知らない、無知から起る素人考えからの発想であろうが、死んだ者こそいい迷惑で、こうした葬儀をされれば、不成仏に導かれても仕方あるまい。したがって人間は、生きているうちに「死後の勉強」をするべきなのである。 「守尸の儀式」は、日本だけに見られるものではなく、中国やインドにもあり、また古代ギリシアの詩人ホメロスが生きた、紀元前9世紀頃の小アジアにもこの儀式が見られ、古代ローマ人にも、これらの儀式の作法は見られた。 さて、「守尸の儀式」が済むと、喪主は翌日に「襲斂(しゅうけん)の儀式」を行う。これこそが「死者をねんごろに弔った証(あかし)」であり、死者を決して軽視していないと言う喪主の真心(まごころ/「まこと」)を示すものなのである。 ちなみに「襲」とは、「かさねる」という意味であり、「斂」とは、「衣服を着替えさせる」という意味なのである。 「守尸の儀式」に立ち会う遺族は、香木(こうぼく)を煎じ、その香水の中に手拭いを入れて絞り、死者を裸にしない状態で、身体中を拭き、死者の爪を反り、男ならば髯(ひげ)を剃り、頭髪は洗い束ねるのである。また、死者が女ならば、年齢に関係なく、死化粧を施して、口には鮮やかな朱の口紅を塗るのである。爪や脱け歯は巾着(きんちゃく)に入れて死者の腰に付け、地褥(じしとね/畳または筵の上に敷いた綿入の敷物。方3尺余、表は唐綾もしくは固織物などに広さ4〜5寸の四方にさし回しで、裏は濃打絹などを用いたもの)を敷き、その上に遺体を載せ、寿衣(じゅい/経帷子(きようかたびら)のことで、仏式で葬る時、死者に着せる着物。白麻などでつくり、真言・名号・題目などを書く)とよぶ、死者に晴れ着を着せ、衿(えり)を左前にして、襪(しとうず/沓(くつ)または靴かのくつの下にはく一種の足袋。白の平絹で製し、親指の間を割らずに仕立て、紐で結ぶ)を履(は)かせ、最後に天衾(てんきん/夜着よぎ)を遺体に被せる。 次に、「充耳(じゅうじ)」といって、耳に新しい綿を詰め、「冒(ぼう/帽子の意味をもつ)」という三角の布を頭に巻き付け、掩面(えんめん)を頸(くび)に巻き、幎目(べきもく)という黒い布で目を隠し、手には「握手(あくしゅ/布製の手の甲を覆うもの)」とよぶ手甲を巻き、足には「行纏(ぎょうてん/遠出などの折、脛に巻きつけるもので、布や藁わらで作り、上下に紐を付けて縛る)」とよぶ脚絆(きゃはん)を巻き、「雲鞋(ぎょうけい)」という草蛙(わらじ)を履かせる。 こうして正装した遺体は「七星板」といわれる、北斗七星を彫刻したものか、筆で描いた五分板の上に寝かせる。 以上述べた、正装までの死者への弔いを「襲斂(しゅうけん)の儀式」と言うのである。 そしてこれが済むと、いよいよ「納棺」と言う事になる。 納棺には、死者の血縁の男四人が、七星板ごと納棺する事になる。天衾と地褥を省略した時は、「雪綿子(せつめんし)」という、繭(まゆ)で作った綿入れを代用する。本来は、棺の隙間(すきま)には「蜃灰(かきばい)」といって、石灰を詰めて湿気を防止したが、昨今ではドライアイスで代用しているようである。また、「紙銭(しせん)」といって、白い紙で銭を作って入れたが、今では葬式屋が、あらかじめ用意した模造品の六道銭(りくどうせん)があるようだ。 棺の中には、故人が生前好んでいた衣類や本などを納め、これを「贈」という。ちなみに、品物などの物を贈くったり、そのお返しをしたりする事を「贈答品」というが、この贈答の言語は、棺に收める「贈」から始まっている。 棺の蓋(ふた)には金属の釘は用いず、木の釘を用いて打ち込み、棺を布で覆う事を「棺衣(かんい)」という。棺には必ず上下があり、上の方を頭にする。納棺の姿勢は、北向きに頭を置き、これは釈迦入滅の「頭北西向」に因(ちな)んだもので、北向きにするのが正しいが、部屋の都合などで北向きに出来ない場合は、「東向き」にする。この東向きは、イラン南西部のペルシャなどから伝わった風習だと言われている。 また日本では、逆さ屏風(びょうぶ)の風習がある。 本来喪主は一人ではなく、血縁者の最も濃い血の者が、男女二人で一対となって執(と)り行うもので、「告げ」という隣近所や知人宅に告げて廻る役目も男女一対なのである。 以上を考えて来ると、臨終と言う作法は、死者を成仏させる為に執り行うもので、死後処置などを含めて、これ等の作法は古来より伝わった形式的作法ではなく、死者を寂光土(じゃっこうど/常寂光土の事で、法身仏のいる浄土を指し、生滅変化を超えた永遠の浄土こと)に送り届ける為の作法であると言う事が分かる。此処(ここ)に送り届ける為には、質素であっても構わないが、作法の一切に手抜きがあってはならないと言う事が分かろう。問題は臨終の作法などに、手抜きがあったのか、否かと言う事だ。 祭壇の豪華さや、花環(はなわ)の数を競ってきらびやかにしても、成仏や不成仏には一切関係ないが、臨終の作法や死後処理については過不足なく正確で、崩れや乱れがなく、整然としていなければならない。この一点のみが、死者の葬儀には問われるのである。 儒教の祖・孔子は「喪は立派であるよりも、哀(かな)しめ」と言っている。 「喪」とは、死亡した人を追悼する「礼」である。この礼が、不充分であったり、手抜きがあると「礼儀知らず」となるのだ。 そして、「喪」で大事なことは、特に、人の死後、その親族が一定期間、世を避けて、家に籠(こも)り、身を慎むことである。「親戚(しんせき)」という語源も、喪に因(ちな)んだ言葉から始まり、「親(した)しく戚(かな)しみを分け合う」と言う故事から由来しているのだ。 臨終と言うのは、葬儀と違って、「作法の形」が大事になるが、心の籠(こも)らない、上辺だけの、きらびやかな葬儀になってしまっては、死者に対して非礼にあたるのである。 また、葬儀屋任せの豪華一点張りの過ぎたる葬儀も、死者に対しては無礼であろう。つまり、非礼とか、無礼と言うのは、親族の「心の籠り方の有無」で決定され、それによって死者は成仏するか、不成仏に終るかが決定されてしまうのである。 こうして順を追って、臨終から死後処理の作法まで追おうと、親族の中に、精神分裂病で死んだ者は、「怖い」とか「気持ちが悪い」という唸(ねん)が派生すれば、その作法事態に手抜きがあった事になり、形式的な、葬儀屋任せの死後処理しか出来なかったと思われる。 則ち、一個の不成仏霊がこれにより派生し、その唸が電離層に浮遊したと言う事になる。こうなれば、自他離別の悪想念が、また再び、生前以上の怕(こわ)さとなって増幅され、あなたや、あなたの周囲の者を襲うのは避けられないであろう。此処に精神異常者が出る暗示がある。 そして、あなたの錯誤は、精神分裂病で死んだ人間を「気持ちが悪い」とか「怖い」というが、では、心臓病や脳塞栓、ガン疾患などで死んだ人なら、「気持ちが悪い」「怖い」という感情は起らないのか。 《癒しの杜の会》では、死者の身内がこうした錯覚に囚われる事を、「臨終の過失(しくじり)」といい、死後の世界に対しての無知を戒めているが、無知から起った、結果の発生を予見できなかった事は、単に「注意を欠いていた」だけでは済まされないのだ。 過失者の無知は、次の悪想念と悪因縁を背負ってしまった事になるのである。 つまり、あなたは死後の世界、霊的世界を無視したばかりでなく、儀式に疎(うと)い「礼儀知らず」で、かつ「恥知らず」でもあったわけだ。この責めは、どういう形で現象界に表面化するかは知らないが、間違いなく責任をとらされるのは間違いなかろう。 礼儀の「礼」は、「禮」という文字が用いられ、禮は「示」偏からなっている。この「示」は「神」の略である。また「禮」とは、「たくさんの作法」の意味を持っている。 生命と言うのは、単なる物品ではない。生体及び命体には「信」があり、「心」があり、「気」があるのである。如何なる死者も、信・心・気をもって、この世を生き、死んだのである。 したがって臨終とは、「尸(し)」の儀式からなる「礼儀を尽くす」ものだったのである。 過去世(かこぜ)の「尸」、則ち、今世の「尸」と業(ごう)によって転生し、そしてまた「屍(しかばね)」となろうとする死者を、この「尸」が善神として、昇天して再びこの世に転生するか、あるいは未来永劫において、「屍」として、悪鬼として、意識体として電離層に浮遊するか、まさに正念場であり、これを「臨終正念(死に臨んで心乱れず往生を信じて疑わないこと。【註】しかし、親族に無知がいたり、不心得者がいると、死者は臨終を失敗する)」というのである。 つまり、あなたの義父は「臨終をしくじった」のである。そして「精神分裂病で死んだ霊に対して、どう向き合えば良いのか」という事を訊いているが、その前に、あなたの義父は「臨終をしくじった」ことを重くとめるべきであろう。また、無知から脱する為に、もっと「霊的世界の構造」と、「礼儀をしる」ことを、もっと勉強するべきであろう。 |
欝状態で困っている (25歳 会員 会社員)
|
体調すぐれず、精神活動が抑制され状態を欝状態と言い、これは鬱病に起因している。この症状は、抑鬱気分・悲哀・絶望感・不安・焦燥・苦悶感などを招くもので、現代の精神医学では原因不明とされている。
しかし、あなたは確かに陰体質であり、陰体質の人が、単一の玄米食のと言う食事は考えものである。玄米がいくら栄養豊富で、身体に良いからと言って、100%玄米では、陰体質の人は消化不良になり、食物繊維のフィチン酸がカルシウムの吸収を妨げる為、どうしても疲れ易い身体になってしまう。 問題は水分を控えると言うより、100%玄米に問題があり、これが疲労回復や老化防止を妨げていると思われる。したがって、玄米100%の御飯にするのではなく、あなたの場合は、玄米50%に、小豆や大豆、丸麦やハト麦、粟(あわ)や黍(きび)、稗(ひえ)や赤米などといった雑穀類を50%加え、「50:50の玄米・雑穀ご飯」にすることが大事である。 食養道では、玄米以外を総称して「雑穀」とよぶのであるが、雑穀類には玄米以上に野性のエネルギーが含まれていて、特に粗蛋白やミネラルが豊富に含まれてるのである。その雑穀の中でも、ハト麦はガン予防に役立つ食品であり、丸麦は高血圧の予防になる。
陰体質の人は、玄米の量を減らし、60:40の比率にするのではなく、玄米50に対し、雑穀類を50にした方がよい。 |