会員の声と相談者の質問回答集6




頭痛に襲われるのは、子の祟りでは? (21歳 会員 家事手伝)

 実は、わたしの事なのですが、一年程前、大阪のあるお屋敷で住み込みのお手伝いとして働いていました。
 そこは病院を経営している医療法人の院長のお宅で、そこで住み込みのお手伝いとして働いていました。この、お手伝いの仕事を紹介してくれたのは、大阪に住む親戚の叔母で、わたしはその叔母の口利きで、大分県より出て来て、お手伝いとして働くようになりました。叔母の言葉によりますと、そこの院長宅の家族の方々は、みな親切で、地元でも大変な有志で、人格者としても知られているとのことでした。

 ところが、人格者とは、見かけ倒しでした。そのお屋敷には、国立大の医学部に通う一人息子が居て、ある日、部屋に呼びつけられて、そこで押さえ付けられ、強姦されました。大変ショックでした。
 内気なわたしは、この事は誰にも言えず、一人胸に仕舞っていたのですが、その息子から、以降も度々部屋に呼び出され、ズルズルと引きずられて、毎日のように身体を交えるようになってしまいました。

 妊娠したと分かった時、お暇を貰って大分に帰りました。
 どうしようかと思案しながら、ずるずると迷いの日々を送り続けていたのですが、気付いた時には、妊娠八カ月で、胎児がお腹の中でずいぶんと大きくなっていました。

 結局、両親に薦められて、堕胎を決意しました。しかし堕胎は遅過ぎた為に、実際の出産と同じような手術を受けました。妊娠中、悪阻(つわり)も経験しました。
 出産後も、普通の妊婦が出産した時と同じように、二週間程入院しました。今思えば、自分の運命を呪いたくなります。

 ただ、堕胎した子どもが、男か女か知りたくて、入院中に、後で看護師の方に、そっと教えてもらったのですが、堕胎手術で摘出した子どもは、男の子だったそうです。何か、自分が大変の罪深い事をしてしまったと、今でも悔やんでいます。
 それ以来、私の心は一時も休まる事がありません。

 最近では、その男の子の夢を度々見るようになり、頭痛にも襲われ、これも「水子のたたり」でないかと自責の念にかられる毎日です。堕胎した男の子に、本当に悪い事をしたと、心から悔やんでいます。

 まことにお忙しいところを、こうした図々しいお願いで恐縮なのですが、どうか、わたしのとるべき道をお示し下さい。 



回 答

 ズバリ言えば、「水子の祟(たた)り」と言うものは断じてない。
 昨今では商魂逞しい、水子地蔵屋が新聞や雑誌などの誇大な広告を掲載し、中絶手術をした女性の悔悟(かいご)の念に乗じて、尤(もっと)もらしく、水子供養を薦める商売で、あなたのような女性を喰い物にしているが、こうした迷信や恐怖伝説に騙されない事だ。

 日本人は「魔性の祟り」に騙され易い民族である。それと言うのも、多くの日本人は、中途半端な無神論者であるからだ。この事は《癒しの杜の会》HPにも述べているが、とにかく日本人は、本来、欧米人よりも、どちらかというと無神論者に近い。神を冒涜(ぼうとく)する民族であるとも言えるのだ。

 多くの日本人は、地獄とか、極楽とか、生まれ変わりとか、死後の生活や霊的世界の事は殆ど信じてないと言ってもよい。したがって自分が死ぬ、臨終に際しても、千仏来迎せんぶつらいごう/指導霊の出迎え)などは端(はな)から信じていないのである。

 ところが、口では神仏を認めないくせに、盆や彼岸には先祖の墓参りをする。命日には線香や花を上げて供養をする。結婚式は神前で、葬儀が仏式で、正月には神社に初詣、入試祈願には天満宮に詣で、とにかく中途半端な無神論者が日本人の実体なのである。そのくせ「祟り」という現象を、一生懸命に信じようとする。衰運に傾けば、これを「祟り」のせいにする。事故や怪我が起れば、これも「祟り」のせいにする。

 それでいて無神論者ときている。
 しかし中途半端な無神論者である為、病気や災厄は何かの因縁、何かの祟りと、魔性(ましょう)を外から持ち込んで、門口には「魔除け」、鬼の通る「鬼門」にはお供えをして、屋根には「鬼瓦」を据えて、家の守りを固めると言う念の入れようである。

 御守りを肌身放さず着けて、車には交通安全祈願の御札で完全武装し、厄年になれば、「厄払い」をして厄逃れを企て、節分には「豆まき」をし、福を求めて彷徨(さまよ)うのである。しかし、こうした努力にも関わらず、人間現象界が、「他力一乗(たりきいちじょう)」で動いていると言う事を理解していなければ、決して「生かされる」ことはないのである。人間は自分で生きているのではなく、因縁によって生かされているのである。

 一寸先は闇(やみ)である。自分の一時間後、否、一分後、一秒後も、自分では予測する事が出来ない。
 事実、肌身放さず着けた御守りと、交通安全祈願の御札を車に着けて完全武装し、会社に向けてマイカーで出勤したサラリーマンが、その数時間後、高速道路で事故に遭い、還(かえ)らぬ人になる事も珍しくない。マイカーで会社に出勤したこのサラリーマンも、朝、家を出る時は、家族の者に夕餉(ゆうげ)の支度をするように命じて家を出た筈である。これが、自分の数時間後を予測できなかった証拠である。

 さて、日本人は「魔性」と深く関わりながら生きて来た民族である。それでいて、甚(はなは)だ中途半端な無神論者である。
 その根拠は、一方では、当時日本では新興宗教であった仏教(538年、仏教伝来)にも帰依し、現代に至っては、キリスト教を始めとして多くの新興宗教が住み着いて、世界第一の他宗教国家を形成している。

 したがって師走を迎え、年末ともなると、街角には一斉にジングルベルの音楽が流れ、クリスマスの為の一時クリスチャンの準備が始まる。クリスマスが終れば、大晦日は仏教で除夜の鐘を聞き、一夜明けた元旦には途端に神道へと早変わりする。そして節分(立春の前夜または当日、社寺で行われる祭儀であるが、実際は陰陽道(おんみょうどう)に由来する)は「鬼道(きどう)」と、各々の貌(かお)を並べ立て、ここに日本人の多宗教で、中途半端な無神論者が出現するのである。

 こうした背景の由来は、日本人の「魔性」と共に、国民気質を形成した農耕文化の風土が、これと密接に関わっている。この風土は、また、「みこ」「いたこ」「ゆた」などの霊媒(れいばい)を出現させ、先祖崇拝が深く関わっていて、様々な迷信と恐怖伝説を作り上げた。

 「先祖の祟り」「水子の祟り」「蛇の祟り」などの数々の恐怖伝説は、それが原始的な深層意識と結びつき、「何々をしなければ、バチが当たる」という素朴な脅迫観念を植え付けた。そして魔性から身を護る必要上、様々な宗教が生まれ、それが大衆の間を流布して信仰され、迷信と恐怖伝説が作り出され、実際の霊界で行われているかような錯覚が生まれた。

 ところが、「何々をしなければ、バチが当たる」という、神や仏は居る筈がなく、また呪が懸(か)かる分けがなく、どうして先祖が、自分の血を分けた子孫に祟るというのであろうか。
 これこそ、馬鹿気た迷信である。【註】但し、非業の死を遂げた場合、子孫に「頼る」という現象はある。自分の死に納得がいかない場合、こうした憑衣が起る。しかし「祟る」のではなく、あくまでも「頼る」のである)

 深く根ざした恐怖観念は、それ自体が恐怖を栄養源にして成長する媒体であるから、幻影や幻覚で捉えられた人間の心は、深層心理の中に一層深く刻み込まれていくのである。ここに心の影が、「地獄」を作り出す幻影が存在する。

 多くの場合、この幻影に、外気(外から襲う低級霊の意識唸)や外邪(がいじゃ)が取り憑き、現象人間界の生身の人間に取り憑いて、憑衣現象を起こすのである。したがって「水子は祟るもの」ではなく、血縁からすれば、最もあたなち近い血縁者である。しかし、あなたが心に、水子の祟る影を宿せば、自責の念や呵責(かしゃく)、心の負い目が憑衣現象を起こし、体調を崩したり、実際に病気になると言うケースが起って来る。病気になったのは水子の祟りではなく、あなたの心の影が、水子の祟りを演出したに過ぎない。

中有の世界からみた胎児の羊水の眠り。

 子どもが生まれると言う現象は、中有ちゅうう/バルド)の世界からやって来る。中有とは、簡単に説明すれば、衆生が死んで、次の生を受けるまでの間に生きる四有しう/衆生が生れ、生き、死に、次に再び生れるまでの間の四時期である生有・本有・死有・中有を指す)の一つなのである。期間は、一念(心に深く思うことで、一刹那を指す)の間から七日、あるいは不定ともいうが、日本では49日(人の死後49日目に当る日、すなわち中陰の満ちる日)とされるのが一般的である。

 人間にとって、「生まれること」「歳をとること」「病気になること」「死ぬこと」の四つは、必ず直面しなければならない大きな苦悩である。
 中有は、男女が性交をしているところにその意識を急行させる。そして意識が、女性の胎内で結合した、精液の中の一匹の精虫に成り済まし、経血に入り込む事が誕生の出発点となる。つまり経血の中に入り込む、中有の意識が再生の行為を決定するのである。
 一週間目から意識体は、自分が窮屈(きゅうくつ)で真っ暗な部屋の中に閉じ込められて居る事に気付く。ここから意識体の苦しみが始まるのである。

 第二週目にはヌルヌル状態から塊(かたまり)が働きはじめる。第三週目には肉らしき塊(かたまり)となる。第四週目には目がしっかりとした形になる。第五週目には既に人間としての形をなす。胎児が初めて目を開く時、何も見えない。暗い子宮の中にいる。母体の延び切った皮膚が薄くなった隙間から浸透する僅かばかりに光は、動くだけで忽(たちま)ち、羊水に掻き消されてしまう。

 そして悪阻(つわり)は、妊娠六週間目(42日)頃から始まり、約四ヵ月末で治まることからして、生体(肉体)の胎児の重さは命体の重さを少し上回る程度になる。これが命体と生体の一致時期ではないかと思われる。命体と生体が一致して重なりあえば、皺(しわ)だらけの胎児は、羊水の中で半分目を閉じた状態で、その環境に甘んじる。本来は、何も見えず、何も聞こえないのだが、その小さな両手で闇の世界を探りはじめる。指一本一本は完全な人間のそれをしていて、指には各々に爪もある。何かを握ろうとして、握りしめた手は、時々子宮の壁を捕まろうとする。この小さな手が、最初に触れるものは毛である。絹のように柔らかく、長く伸びた毛は、胎児の腕や脚に生えている。

 胎児は、この胎児特有の長い羽毛を指に絡ませ、あるいは掌(てのひら)で撫(な)でて、遊びながら、しがみつく練習を此処で行うのである。
 では、何故こうした行動をとるのか。
 それは原始時代において、母親が恐怖を観(かん)じ、何ものかに追い掛けられている危機に瀕(ひん)した時、母親は木々の梢(こずえ)に捕まりながら逃げ回って危険を回避しようとする。その時、子どもは、母親の毛むくじゃらの胸に、しっかりとしがみつかなければならなかった。こうした原始時代の意識が記憶され、その記憶が、胎児が自分の細くて柔らかい産毛(うぶげ)を掴もうとする行動に駆り立てると言われている。

 そして妊娠八ヵ月頃になると、この産毛は跡形もなく消え、妊娠九ヵ月に至っては、この産毛に変わり、人間の赤ん坊に生えている短く、柔らかい金毛にとって変わり、子宮で過ごす時間が悉々(ことごと)く成長の為の時間に割り当てられる。胚の細胞は分裂して成長する。そしてこれは群を成し、何等かの意図を持った配列へと変化する。
 しかし、そのうちのあるものは、一時的なもので、最適化する方向に向かいつつ、進化の記憶を辿る過程で、顕われては消える器官に過ぎない。鰓(えら)や尻尾や柔らかい体毛などである。しかし、最早こうした物は役には立たない。組織化される必要もない。たた、こうした一部は、退化と言う形で、その部位に名残りをとどめる。

 細胞や組織は、持続させる過程の中で、躍動的で力強さを感じさせ、生まれたり、死んだりして新旧の交代を巧みにする。互いに入れ代わり、生と死は深く関わり合う相互関係を持つ。こうした胎児の生命の火が燃えている間にも、常に死と隣り合せで、死は常にその側面に存在している。そして死の側壁から旨く逃れられた者だけが、胎児は誕生に備えて逆さまになる。窮屈で牢獄のような部屋から、外に出る日をひたすら待つのである。

 以上が人の誕生までの経緯である。

 さて、あなたが妊娠したのは、たまたま水子が子宮を借りたと言えるであろうが、その裏に働いているものは、《予定説》の結果から原因に至る、無意識の念があるように思われる。あるいはこうした結果が予定されていて、大分から大阪に出向くと言う原因が派生したのかも知れない。そこに至る経緯は詳細な説明がないので、過去世の因縁を推測するしかないが、何かに動かされて、行動した事は確かである。

 ただ、水子について言うならば、自責の念や呵責に付け込んで「祟り」を模して、憑衣現象が起る場合が少なくない。やむにやまれずの状態で、堕胎する女性は決して少なくないであろう。どうしても、それに絡んで罪の意識は起るものである。
 一方、強姦に走った院長の一人息子も、近未来に悪因縁を残しただけでなく、過去からのカルマの風に吹かれた因縁を背負って居る筈である。この因縁が、近未来に結果として新たな因縁を作り上げたと言えるであろう。またそれが、次の時代の罪業となる。

 あるいは、あなたの負い目に隙を生じさせ、憑衣霊を放つ罪業まで、その一人息子を、無自覚のまま放ったのかも知れない。この息子は「業の火」で煽られていると言えよう。
 あなたへの水子の祟りはあり得ない。だが自責の念に苦悩するのではなく、この世に生を享(う)けながらも、生きてこの世に生まれる事が出来なかった我が子に、供養の慈愛の念は欠かすべきでないと思う。流行りの水子供養などと言うものではなく、あなた自身の、心からの慈愛の念を水子に注ぐ事だ。

 これこそが最高の供養であり、むしろ職業的供養屋の言に乗って、水子地蔵を建立する事こそ、憑衣される悪因縁を深めてしまうと思われる。

 話の内容から察すると、此処で問題になるのは、国立大医学部に通う院長の一人息子だ。国立大医学部に通う人間だからといって、モラルと人格は、知的能力とイコールではない。どんな優秀な群れにも、ある一定量のクズは居る。この一人息子も、一定量のクズであろう。そして責任の大半は、この息子にあるといってもよい。これは時が罰しよう。
 しかし然るべき、信用のおける弁護士を立て、民事告訴する事も一つの手段であろう。

 水子は祟るべき性質のものではない。「水子供養」などの“新興宗教崩れ”や“拝み屋崩れ”の商売人に騙されない事だ。
 但し、堕胎した我が子の為に、あなたは線香の一本でも上げて、その行為を心より懺悔(ざんげ)する必要がるし、また堕胎を促した両親も同罪であり、水子を作らせた医学部生(あなたを強姦したことから見て、既に悪霊に操られた憑衣者である)も同等の罪を負う。あなたも含めて、両親や医学部生も未来に大きな借金を作り、その返済にやがて迫られるだろう。霊的世界の掟(おきて)は厳格であり、「貸し借りなし」ということを忘れてはならない。
 そして、過去の忌わしい出来事の一切を忘れて、自他の垣根を取り払い、慈愛の気持ちをもって、人の為に役立つ仕事に打ち込む事も、あなたの堕胎した子どもへの、何よりの供養になると考える次第である。





断食での注意点をお教え下さい (43歳 無料相談室宛 中堅管理職)

 厄年に入っている為か、何かこの頃は、明白な器質的疾患が見られないのに、さまざまな不調を訴える自覚症状が現われてきました。まさに厄年だと、痛感致しております。

 身体がだるくなったり、一時的に無気力になったり、肩が凝ったり、イライラが募ったり、階段の上り降りは動悸や息切れを覚え、また家庭でも、不和の状態には至らないまでも、何か夫婦間でしっくり行かず、子どもの問題にも意見の喰い違いが起り、食生活でもつい暴飲暴食に走りがちで、これが心身相関病ではないかと思ったりします。

 付き合いの関係で最近は酒の量も過ぎ、仕事の関係で不摂生をしている自分に、反省の念を覚えるしだいです。
 体型も若い時に比べ、少し肥満気味で、非常に疲れ易くなり、多汗の状態で、少しの動きにも汗をかくようになりました。

 そこで二週間程の断食をしたいと考えているのですが、家庭で、しかも会社に勤めながらの断食は可能でしょうか。
 そして、この際、断食を機会に喫煙も止めてしまおうと思っていますが、これを行うに当たり、何か、注意点をお教え下さい。



回 答

 明白な器質的疾患が見られないのに、さまざまな自覚症状が顕われる現象を、不定愁訴(ふていしゅうそ)と言う事は、お分かりだと思う。
 この原因は、不定愁訴症候群という自律神経の失調なども考えられる。

 さて、あなたは「二週間程度の断食」と簡単に言って退(の)けているが、実は、断食が難しいのは、「二週間何も食べない」という事ではない。むしろ「二週間何も食べない」と事だけであれば、誰にでもできる。貧血を我慢し、立ち眩(くら)みを我慢し、水だけで空腹を我慢する事ができれば、少し堅固な意志を持った人ならば、簡単にやってのけよう。

 だが、断食で難しいのは、断食する「本断食」を挟んだ前後に、補食(断食を挟んで徐々に食事の量を減らしたり、増やしたりする副食)期間を設け、これを徹底しなければならない事である。
 この補食期間は、本断食を挟んで前後に設け、その各期間の長さは、本断食の2倍から3倍と考えれば良いであろう。

 例えば一週間の断食ならば、断食を開始する前の、2〜3週間が補食期間であり、また、断食終了後は同じように、2〜3週間の補食期間が必要になる。そして非常に難しいのは意志のコントロールであり、特に断食終了後の補食期間の心の動揺には要注意である。

 断食が成功したか失敗したかは、本断食終了後の食事の摂り方によって決まると言っても過言ではない。何故ならば、断食を無事終了し、いざ補食を摂る段になると、大喰いに趨(はし)る傾向が派生するからである。

 断食は一種の餓鬼状態であり、六道輪廻(りくどうりんね)で言えば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道の中の、下から二番目の「餓鬼界」に落ちる事であり、此処には、悪業(あくごう)の報いとして、餓鬼道に落ちた亡者が、うようよいることだ。
 断食は、こした餓鬼界の妄想が顕われるので、これには充分に注意が必要である。この餓鬼道には、悪業の報いとして、餓鬼道に落ちた亡者が所狭しと蠢(うごめ)いている阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界だ。
 則(すなわ)ち、「断食をする」と言う行為は、「餓鬼の断食」と同義語であり、この世界に、言霊ごと、身を委ねる事である。

 本来、餓鬼は、断食をしようがしまいが、その態勢に大きな影響は顕(あら)われないが、これが「行為」となると、当然の事を、如何にも尤もらしく、あらためて吹聴する行為に等しく、一般的には偽善的行為などを言う場合に、この言葉が用いられるが、断食は、一種の亡者化した生身の人間が、この世界に、吾(わ)が肉体を落とす事を言うのである。

 したがって、妄想に取り憑かれる必然からは逃れようもなく、餓鬼道から帰還した者の最初の危険性は、「頓死(とんし)」である。初めて断食を行うものは、この急死を最も警戒しなければならず、頓死に至るような長き断食ではなくとも、必ず「食べ物への揺り戻し」が襲って来るので、これを警戒するべきである。
 こうした「リバウンド現象」が旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に、心身ともに陥れるばかりでなく、断食をする以前より、更に体調を悪化させ、体質の中庸(ちゅうよう)と、陰陽のバランスを狂わせてしまうので要注意が必要である。

 よく、断食道場や、断食を目的とした健康クラブあるいは内科医院の絶食に参加・入院する多くは、断食前に買い込んだ料理などの本を持ち込んで入院する者が多いが、彼等の会話は、自然と「断食明けには何を食べるか」が話題の中心であり、断食期間中はこの手の本を見ながら過ごす者が少なくない。そして、僅かな3日程の副食期間をクリアーして、いざ退院と、解き放たれれば、彼等がまっ先に直行するところは、入院中に念入りに下調べしたレストランであるという。ここで餓鬼が企てるリバウンドに襲われるのである。
 そして旧の木阿弥に戻り、以降、大喰いの習慣がついてしまって転落するのである。

 これは餓鬼界から、自分の潜在意識の中に潜む、封じられた餓鬼の影が表面化する為である。この餓鬼が暴れ回ると、断食は失敗した事になる。
 しかし、餓鬼の表面化の事実を知らない断食実行者の多くは、断食後、激しい餓鬼の猛威に悩まされ、断食期間中には身を潜めていた病気を、断食終了と同時に封印を解き、これが表面化するのである。多く医学者や心理学者が、断食や絶食を危険視するのは、実はこの点において、である。

 したがって《癒しの杜の会》では、断食する会員の皆さんに対し、本断食の期間を計画したら、それを前後して、体重と身長の測定をしてもらい、健康の有無を確かめ、補食期間を充分に設け、特に、本断食終了後の補食については、必ず、短かな断食日数でも、その2〜3倍の補食期間を設けるように指導している。また、家庭で断食をする人に対しては、入念な「断食計画書」を提出してもらい、計画に無理がないか点検し、無理な場合は訂正を促し、断食中には毎日体重と身長を計り、健康状態などの報告の義務を課せ、それを許(もと)にアドバイスするようにしている。

 断食は、断食そのものよりも、断食終了後の補食期間での食事の摂り方が非常に難しく、餓鬼道に一旦自分の身を落すのであるから、一緒に餓鬼を引き摺(ず)って来ないように注意を呼び掛け、メールや電話の遣り取りを行いつつ、断食を指導すると言う形をとっている。そして少しでも違反があったり、考え方に間違いがあったりすれば、中止を促し、警告を与えるようにしている。会員に限り、補食期間に於てのメールや電話での相談も受け付けている。
 そして、家庭に居て、しかも働きながら断食が可能な長さは、意志の強い人で10日以内、普通の人で3〜7日間である。

 断食終了後、2〜3倍の補食期間を設け、これを最後まで厳守出来れば、断食は成功した事になり、霊的食養道で言う、「半身半霊体(はんしんはんりょうたい)」の体躯に、一歩近付いたと言えるであろう。

 そして、断食終了後は、一切の動蛋白摂取を止め、玄米穀物の「雑穀ご飯(玄米60%、雑穀類40%)」を中心に、野菜と近海魚介類を中心にした粗食小食に徹するべきであろう。
 こうした食餌法に徹すると、先ず躰が軽くなり、長時間働いても疲れないタフな躰(からだ)になる。また短時間の睡眠で熟睡でき、人の二倍も三倍も有意義な時間を過ごす事ができる。当然、頭脳明晰(めいせき)になり、記憶力や思考力が良くなる。

 一方、大食漢は疲れ易い身体になり、朝昼晩の一日三食以上(人によっては夜食を含めて一日四食)の大食いに趨(はし)れば、内臓が消化の為に疲れれしまい、一日のうち、8時間睡眠として、残りの活動時間の中に、どうしても昼寝の時間を1〜2時間設けなければならなくなってしまう。ここに、時間の無駄遣いと、「時は金なり」の現実を度外視して、浪費する愚かさがある。また、こうした愚かさが、必然的に自分の運を閉ざす結果となる。
 したがって、断食終了後に、美食に未練を引き摺る、心の揺らぎ易い人は、「心が揺らぐ」というのが「本性」(自己の性格の正体)であるので、断食と言う、「餓鬼道に墜(お)ちる行(ぎょう)」はするべきでない。

 人間の意志、あるいは性格と言うものは、繰り返して言うように、過去世(かこぜ)からの習気(じっけ)と言う因縁を引き摺(ず)って、それが「個人特有の性格」となって顕われたものだ。したがって思考的にも先見の明(めい)がなく、行き当たりばったりで、目先の妥協に趨(はし)ったり、誘惑され易い人は、断食は不向きである。
 こうした人は、自分のできうる範囲内で、「粗食小食」に徹した日常生活をする方が好ましい。一度に、これが出来ない人は、まず今の食事の量を減らし、目標を「腹八分」からはじめ、半年程これが実行できたら、次に「腹六分」へと、徐々に減らして行く事だ。自分でも気付かぬうちに身軽になって、躰も脂肪や贅肉が墜ち、引き締まって頑強となる。そして、少しは、思考力や記憶力も改善はしよう。

 さて、あなたは相談内容によれば、「喫煙の習慣」があるようだが、もともと喫煙は、意志薄弱な人間が、無意識のうちに行う習慣であり、こうした意志の弱い人は、はっきりいって「断食には不向きである」と断言できるし、仮に万一、本断食の期間をクリアーしたとしても、人間の性格までは改造できない。

 たかが、タバコすら止められない意志の弱い者が、どうして断食と言う、「餓鬼道に落ちる修行」が勤まろう。百害あって一利なしだ。危険である。
 この危険は、リバウンドと言う、美食に憑かれる現象に回帰される。グルメを気取り、食通を気取っている多くの人間は、要するに餓鬼に憑衣されている場合が多い。

 《癒しの杜の会》では、タバコの害を警告している。
 しかし、タバコが肺ガンになるから警告しているのではない。また、実際問題として、タバコを吸えば、自分自身も含めて、その周りを巻き込みは肺ガンの恐れがあると言う、現代医学の仮説を楯に取って云っているのではない。むしろ肺ガンと、タバコの因果関係は薄いと考えられる。

 ガンと言う病気は、タバコを吸うから肺ガンになる。酒を飲むから肝臓ガンになる。セックスを遣り過ぎるから、男の場合は睾丸ガンや陰茎ガン、女の場合は子宮ガンや子宮筋腫になるのではない。躰の細胞の一番弱った部位の細胞が、病変してガン化するのである。その元凶は動蛋白摂取による血液の汚染だ。そこに炎症が起る。そして、これは一種の憑衣の形で取り付くのである。

 問題なのは、死後の世界で、狭い部屋に閉じ込められる幻覚を見て、此処で数十年から数百年単位で沈む、死後の生活に問題があるという事を指摘しているのである。それはアルカロイドを含む、ニコチンnicotine/神経・小脳・延髄・脊髄などを刺激・麻痺する薬理作用がある)と言う麻薬物質が、中毒症状を起こし、急性では悪心(おしん)・嘔吐・頭痛・顔面蒼白・冷汗・虚脱などを誘発するからだ。この誘発は、幻覚として死後も残り、意識体(一般には成仏できない地縛霊や浮遊霊を指すようだ)を形成するのである。

 また喫煙による麻薬症状が慢性化すると、心悸亢進(こうしん)・動脈硬化・記憶減退・消化不良・手指振顫(しんせん)・精神興奮・不眠・視覚障害などの症状を誘発し、この意識は、死後の意識体となった後も続き、この症状によって意識体は、「狭い部屋に閉じ込められる幻覚」を呈し、そこに閉じ込められる事である。こちらの方が、肺ガンで死ぬよりも、もっと恐ろしいのである。
 しかし、多くの喫煙者は、「自分は意志が強く、止めようと思えば、タバコなどいつでも止められる」と高を括(くく)っている。そのくせ、止める事ができないと言うのが喫煙者の実情であり、「いつでも止められる」は、「生涯止められない」と、同義語になる。

 タバコは、自分一人がその霊的障害を被るばかりでなく、周りの非喫煙者をも巻き込み、将来、自分が悪因縁の罪業(ざいごう)を重ねていると言う元凶を齎す。
 諺(ことわざ)には、「類は友を呼ぶ」というものがあり、これは似た者同士が自然と寄り集まる態(さま)を指したものであるが、まさに同類項が集まる現象の仲を取り持つのがタバコである。

 この現象が、差し当たり適中しているところは、パチンコ屋を始めとして、競馬や競輪など、その他の公営ギャンブル場であろう。
 ここに出入りする多くは、喫煙者であり、彼等の狙うもお宝は、「自分一人の小欲」である。

 要するに「パチンコで五万円儲けた」とか、「競馬で十万円儲けた」とかの、自分一人のお宝争奪を満足させる為に、目尻を下げて、日々の喜怒哀楽に流されている現実があり、まさに「凡夫の小さな奔走」という現象である。そしてタバコは、これを取り持つ仲介者である。何処のパチンコ屋でも、ギャンブラー達の吐き出すタバコの煙りで、スモック現象を起こしている。

 現代社会は、私たちの身辺の周囲に、「小欲満足産業」が蔓延(はびこ)り、これが大衆を煽(あお)り、踊らせ、誘惑の魔の手を拡げて忍び寄り、隙(すき)あらば、無垢(むく)で無知な大衆を包み込もうとしている。また、そういうものに取り込まれながら、一時の慰安や、一時の憂(う)さ晴らしをして、自分を誤魔化そうとしている人間が非常に多いのである。
 自分を誤魔化していては、吾が人生の「男の道」に、何一つ誇れるものを生涯手に入れる事が出来ないではないか。

 とにかくパチンコ屋を始めとした、ギャンブル場には近づかない事だ。人の落した生霊が渦巻いている。結局、欲にほだされて、身包み剥(は)がれるのがオチだ。ギャンブルで財を残した者は、一人も居ないと心得るべし。
 そしてタバコの魔性に当てられて、ニコチン同様、自制が出来なくなった病的現象が、「パチンコ依存症」(パチンコの音と光と、ラッキーナンバーに興奮を覚える精神障害で、アルコール依存症と同じ障害が出て自制を失う)という精神障害である。

 あなたが心の底から断食を決意して、一週間程の断食を遣ってみようと思うのなら、一番先にその準備として行う行動は、「一年間以上の禁煙(ニコチンと言うアルカロイドの毒と、黒色の粘着性のタール(tar)という微弱発ガン性物質の毒が躰から完全に抜けるには約一年以上掛かる)」であり、一年間しっかりと、躰の中からニコチンの毒を抜く事である。タバコに誘惑される、意志薄弱な性根を叩き直し、誘惑に負けない体質を作る事である。そしてタバコは、「死に態(ざま)を悪くする」と心得るべし。

 喫煙者が断食をすると、身体の細胞がニコチンに冒されているため、喫煙の習慣がない人に比べて、三倍以上の苦しみを味あう事になる。喫煙者が断食を始めると、三日目頃から激しい嘔吐(おうと)に襲われる。ニコチンとタールの混じる黒黄色の胃液を吐くからである。激しい胃痛に襲われ、毛穴からもニコチンが混じる液体が吹き出して来る。多くはこうした激しい苦痛現象に襲われて、途中で中断し、その後、二度と断食は出来なくなってしまう。
 喫煙者が断食をすると言う事は、まさに命賭けであり、この命賭けの行為は、「一年間以上の禁煙」の方が遥かに楽で、軽いものである。
 人生に於て、簡単な事から始めるのが「順序」というものであり、一難最初に難問に取り組むのは無謀と言うものだ。

 もし、開運を願い、健康を願い、霊的に少しでも向上させ、魂を洗い、死後の生活をよくしようと思うのなら、まず霊的な元凶を齎すタバコを、あなたの周りから追放し、タバコを見ても、これに誘惑されない意志力が高まってからであろう。不摂生の限りを尽くした人間が、「二週間程」と、断食を甘く見ない事だ。あなたなら、僅か一日の断食で餓鬼のリバウンドが顕われよう。
 少なくとも、あなたに断食は、まだ十年早いと申し添えておこう。