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●霊魂側の迷いや悩みや苦しみの実態

 霊魂が悩み、苦しむ原因は、生前の悩みであり、苦しみが未(いま)だに尾を引いているからです。
 特に、非業の死を遂げた人の場合、この意識は非常に強いようです。強ければ強いほど、派生した迷いも大きくなります。こうした迷いが、宇宙空間に当て所(ど)も無く彷徨(さまよ)う結果を齎(もたら)します。

 もし、今あなたに、何か目に見えないものが降り懸(か)かり、不吉に思える気配を観(かん)じたならば、あなたの先祖に、非業の死を遂げた人がいるのではないかと疑うべきです。
 こうした人を放置していますと、まず、先祖の御加護など全く有り得ません。自分自身が苦しんでいるのですから、子孫を加護する力など、全くあるはずがないのです。
 したがって、思い付いたように先祖の墓参り等をしても、効果は殆ど無く、先祖や祖霊に対し、くれぐれも願い事をしないことです。

 むしろ、墓参りという行動は、自分が先祖に対して、「これからも頑張ります」という意志表示を表す行為であって、単に、そこは先祖とのコンタクトをする場所に過ぎないのです。先祖の墓というものは、願(がん)をかけて頼ったり、縋(すが)ったりするものではないのです。
 神頼みは、ロクなことがないと心得ることです。

 また、成仏できない先祖が、仏(ほとけ)になりうる分けもないのです。ゆめゆめ、神仏には願を掛けたりしないことです。神仏は尊ぶべきものであって、願うべきものでなく、したがって、先祖も同じく、尊ぶものであって、これに願いをかけてはならないのです。

 そして、今日の神社仏閣は、悍(おぞま)しい恨みを持つ怨霊(おんりょう)や悪霊の棲家(すみか)になっているので、無闇(むやみ)にこうした所に出かけ、あるいは九星気学等の方位を信じて、日の善し悪しを選び、こうした所に出かけて行くと、思わぬ災いを背追い込んで帰る羽目になりますので、充分に注意すべきです。

 本来の方位から起こる「方徳」と「方災」は、良い方位に行っても良くならず、また、兇(わる)い方位に行っても、兇くならないとういうのが正しいのであって、九星気学の言うように、悪を善に変えることではないのです。方位に左右されない、霊体質を養う事が大事です。

 世の中には、「大霊界」等と、尤(もっと)もらしい本を書き、「我こそ史上最高の霊能者」あるいは「神の啓示を受けた唯一人の聖人」「釈迦の生まれ変わり」「イエス・キリストの生まれ変わり」等という人がいます。あるいは自称カリスマ霊能者と称する人がいます。

 しかし、その人達の私生活を観察しますと、高級外車を乗り回し、肉や乳製品(牛乳、バター、チーズ、ヨーグルト)を喰らい、マグロやハマチ、鯛(たい)や鮃(ひらめ)の懐石料理に舌鼓を打ち、高級酒を呷(あお)り、舶来タバコをふかし、不倫に身を窶(やつ)し、妾(めかけ)を何人も侍(はべ)らせて、どうして方位に左右されない霊体質が得れるのでしょうか。
 こうした彼等もまた、臨終に失敗して、恐ろしい断末魔を免れない人達なのです。

 さて、霊体質とは、半身半霊体はんしんはんりょうたい/肉体体霊体の分離比が5:5)の事であり、この体質は、穀物菜食主義を徹底した実践者でないと得れないのです。そこには清い、爽やかな「愛の想念」があり、自他一体認識がない限り、そうした体躯(たいく)は得られないのです。
 自分が釈迦やキリストの生まれ廻り等と、大それた事を自称する人が、果たして吾(わが)が身を捨て、無私に徹し、「愛いする想念」で、自他一体を図っている日々の修行を実践しているでしょうか。

 現世に起こる諸現象の善と悪は、絶妙なバランスの上に成り立っています。
 人体で言う、左右の長さがほぼ同じように、善悪もこれに相当するものがあり、これが「善悪の均衡」と言われるものです。
 しかし、人間が言う善・悪と、神の目から見た善・悪は、全く別のものであり、本来は、善・悪は存在しないものなのであって、そこには地獄もなければ天国もなく、私たちが幻覚として見ているこの非実在界は、相対観から見た地獄が出現し、天国が出現しているだけのことなのです。
 天国や地獄と言われるものの総ては、人間の想念がつくり出したものであると、お解り頂けるはずです。

 だから、善も悪も存在しないところに、病気等が起こり、不幸現象が出現するはずがありません。
 これは人間の持つ、不安や迷いの悪想念が作り出した、非実在界の「幻夢の現象」なのです。

 病気というものは、長い間の「悪想念」から齎(もたら)された「心の歪み」や、「神経の疲労」が積み重なって起こるものです。本来ならば、心の安らぎが、躰(からだ)を安らぎに導き、癒(なお)す力を持っていました。
 ところが現代のように、時代の流れが目紛(めまぐる)しくなり、これについて行けない心は、幾ら科学が発達しても、そこに安らぎを感じることが出来なくなってしまっているのです。
 そして種々の病気の多くは、心の在(あ)り方が正しいか、間違っているか、あるいは精神力が強いか、弱いかによって、小さな差が生じ、やがては長年の繰り返しで、「病む」という現象が起こります。

 人間の貌(かお)が各々に異なるように、心の現れにも、千差万別の異なりが生じ、生き方、考え方、物事に対する態度、体調の違い等も、また、心の現象として非実在界に現れ、様々な違いが生じます。そして、個々の心が、個々の人生を作り出し、運命の別れ道を、ある人は健康に、またある人は不健康にと、別かれ道を作くっているのです。



●精神病の正体は「己に迷う」ということが発端

 「人間には、本来精神病は存在しない」と断言したのは、木村裕昭医学博士です。
 しかし実際問題として、精神病を患い人は後を絶ちません。その発生率は1%と言われますが、確かに1%の確率で、精神病患者が増え続ける傾向にあることも、また事実なのです。

 時代の流れが急テンポになり、毎日が目紛しく変化する今日、この流れについて行けなくなったり、競争原理の中で、戦いに敗れて無気力になったりして、負け組の烙印(らくいん)を押された人の中には、「潰された自我」の持ち主になって没落していきます。

 また、受験シーズンになると、今でこそ、テレビや新聞では騒がれないようになりましたが、受験に苦しんでの自殺や家庭内暴力や非行へと走る青少年は、未(いま)だに後を絶ちません。また、借金を苦にしての、一家心中も同じであり、資本主義の競争原理は、益々、持つ者と持たさざる者の格差を広げ、深刻な社会現象を作り上げています。

 さて、こうした実情下、病気と言う現象は、恢復(かいふく)すると、「治る」といいう言葉を使いますが、病気が治る現象は、すなわち、その人が所有する悪想念が改まって、「愛の想念」に変わるから、「治る」のであって、自分の考え方の間違いを「直す」から「治る」という現象が起こるのです。実は「治る」は、今までの間違っていた考え方が「直る」のであって、考え方を「愛の想念」によって一新すれば、「治る」という現象が起こるのです。

 「治る」は「直る」であり、その発端(ほったん)は「迷える自我」でした。迷える自我が「世間様の目」を気にして、曲がった考えと先入観が先行し、この結果、「自我が潰される」と言う現象が起こったのです。

 こうした「潰された自我」を恢復(かいふく)させる為には、薬や特別な方法をとって、心の深層部に潜む憑衣や憑霊のカタマリを根こそぎ抉(えぐ)り取る事はできません。どうして現在の結果が出ているかという、現実を見詰めることが大事であり、心に歪みを与えてしまった「己に迷う自我」の救済をする事が先決問題であり、これなくして、薬や特別な方法を用いて、これを完治させる事は出来ません。

 精神障害者と言われる人の多くは、今日で言う「統合失調症」と言う名前を、誰もが等しく名付けられ、その中には鬱病であったり、自閉症であったり、家庭内暴力であったり、登校拒否であったり、あるいはアル中や薬物障害であったりと、様々な人がいます。

 また、こうした人の多くは、医師の投薬によって、植物人間にされたり、言語障害や神経麻痺に陥っている人の居る事も、また事実なのです。そして、更には、強度の人間不信に陥って、強迫神経症に陥っている人も少なくありません。

 この人たちの多くは、潰れされた自我に加えて、「ある事が心の深層部に、こびりついて離れない」という、脅迫観念があり、それは極端な高所恐怖症や、狭い空間での閉所恐怖症、赤面恐怖症、動物恐怖症、疾病恐怖症(最近ではガン恐怖症が目立つ)など種々あり、こうした分野の障害が精神科医や心理学者らに委ねられています。

 時代が、高度な物質文明化する一方、そのハイテク化の恩恵の裏に、こうした無数の犠牲者が、心を徘破壊して精神障害を起こしています。
 この病気の発生率は、1%から、2%へと迫る勢いで、日本も、アメリカ並の精神病大国へと突き進んでいます。

 そして一度、統合失調症等という病名を頂戴すると、長期に亙(わた)り、様々な抗うつ剤をはじめとする薬物を投与され、また患者自身も、やがては自分が精神病であると言う事を自覚してしまうことになり、憑衣・憑霊現象からの解放は期待できなくなります。

 しかし、非実在世界における現象において、木村裕昭医学博士が言うように「精神病は本体存在しない」と言うのが本当なのです。
 ただ環境や境遇における、自分を取り囲む人間関係の中で、偏見があり、自分自身にそうした「世間様の目」に対する、偏見に打ち勝つ強さと、自由・自在な心の鍛練をしていないと、やがてはそれに敗れ、その隙(すき)に憑衣・憑霊現象が起こります。

 現在、こうした精神障害は増加の一途にあり、増加したまま定着に向かう傾向が顕(あら)われ、精神分裂病や、現代型ノイローゼは、巨大な培地になることが予想されます。

精神分裂病や現代型ノイローゼは近年増加する傾向にある。

 一つの、人間不信から起こった「潰れた自我」は、今日のように社会が複雑化し、多様化する現実の中で、その精神状態は、不安定化すればするほど、激化状態の方向に向かいます。そして懸念されるのが、分裂病の神経症化であり、神経症の分裂病化です。

 いま精神医学上で、分裂病とも神経症とも決めかねる病者が殖(ふ)え始めています。
 こうした病者の環境や境遇を見てみますと、彼等と、周囲との疎通性(そつうせい)は悪くないのにも関わらず、更には言動も、外面的には、何ら問題がないように見えながら、実は激しい劣等感や不安感や孤独感、あるいは離人症(りじんしょう)に陥っている人がいます。

 この中でも、特に目立つのが離人症です。
 離人症とは、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的な繋(つな)がりを実感しえない精神状態の病者を指し、人格感喪失という心因性が見られ、その心因反応(psychogene Reaktion)として、 欲求不満や葛藤(かつとう)等の心理的・精神的病因によって起こる精神障害あるいは神経症および心因性精神病を含む、こうした病因を持つ人が増加していると言う事です。

 この離人症は、アメリカでは1930年代の世界大恐慌を前後として発生し、アメリカの中産階級だった経営者の殆どは、1929年の10月24日(俗に言う暗黒の木曜日)の経営的破綻(はたん)状態から、この病因とともに、人間嫌いの精神障害を同時に背負い込んでしまったのです。

 また、バブル崩壊以降の日本でも、依然として長引く不況の最中(さなか)、経営不振や倒産に追い込まれる中小企業の経営者の中にも、こうした病気が徐々に現れるようになりました。



●今すぐ改めないと、近い将来、災いが転がり込む

 人間には他の動物にはない「自己修正機能」があります。しかし、こうした機能を使わず仕舞いに、人生を終わる人も少なくありません。ここで精神障害に至る、幾つかの例を上げてみましょう。

タイプ
心が混乱する異常な状態の例 
マイホーム型(家長制度の崩壊型)
マイホーム主義者は、家庭不和に陥り易い家族構造を形成している為、晩年は悲惨である。新婚時代の相思相愛の情熱が冷め、子供が成長するにつけ、特に夫は、家庭に帰っても自分に与えられた「座」のない事に気付き始める。
 一方、妻の座は次第に大きくなり、家庭の経済ならびに子供の教育が妻に委ねれ、現代栄養学の最新知識から家庭医学の知識まで、更には、余生の設計に向けての計算がなされる。こうして家長不在のマイホーム型家庭は、「妻主夫従」で家庭崩壊へと向かう。
 この結果、離婚現象が起こるが、その影響は、即座に子供に顕われる。子供は、非行に走るか、病理的な心因性を内在する事になる。
自閉症や登校拒否型
こうした子供を持つ親の意見は、共通して「かつてはこういう子供ではなかった」と嘆くようだ。その直接的・間接的原因は、家長不在のマイホーム型家庭構造が作り出している。そしてこうした家庭は、蓄財方法や余生の設計計算が、金銭と言う数字で現されている為、融通の効かない家庭内の「しきたり」ができていて、臨機応変な動きがとれない状況にある。
 その為、推理力や想像力を失い、子供の前頭葉の活動の停止と、工夫力が衰退する事が上げられる。
 母親の無知と、見識との錯覚が、我が子を「暗記型人間」(学問を一種の「暗記」と考える思考)に改造しようとする時に、この病気は起こる。日本では、未だに暗記に強い人間を、秀才視する考え方が根強い。
自律神経失調症型
病気ではない病気であり、最初は、安易に医者から貰(もら)った精神安定剤から出発する。自分自身で病気だと決め込んで、神経科や精神科のカウンセリングを受け、精神安定剤や興奮剤を安易に飲む事から、その反作用として、精神活動が低下する。そして本当の精神異常者がつくり出されてしまう。
被害妄想型
他人から害を加えられる、苦しめられる等、被害をこうむると信じる妄想で、精神分裂病のほか、多くの精神病に見られる。一旦これに取り憑(つ)かれると、総ての危害が、自分や自分の家族で及んでいるように錯覚を抱き始める。
劣等感と欲求不満型
自分が他人より劣っているという感情と、自分の需(もと)める欲求の自己満足が阻止され、それによって情動的緊張が高まり、やがて憎悪に変換される。これがフラストレーションfrustration/欲求満足の阻止)である。
 一度こうしたタイプの憎悪が発生すると、連鎖反応を起こして心の破壊が始まる。ここから分裂病へと入って行く人もいる。
厭世観と離人症型
悪が善よりも、苦が快(かい)よりも、支配的であると考え、物事の悪い面ばかりを見て、悲観的に考える精神の傾向で、やがては離人症となる。「人」と言う、人間社会が嫌になり、有情感喪失へと発展する。
人間不信型
繰り返し騙(だま)される事によって、人間不信に陥った人で、心に強い暗示を持っている為、その解除に困難を要する。夫婦間でも、こうした人は以外と多い。倦怠期に於いて発生し易い。
 こう言う人の特徴は、人間以外のペット等を飼って、自己逃避するが、動物恐怖症の人には、こうした事が出来ず、心は永久に癒されないと思い込む。
占い師・祈祷師依頼型
他力本願的に物事を考える人で、何か事があれば、こういう類の職業の人の所に駆け付け、助言を請うという考え方を持っている人。このタイプの人は、占い師や職業祈祷師のカモにされ、「自分に都合のよい」言葉を添えを期待する。
 一種の他力本願依存症で、自分の運命を自分で創造できず、見通しの想像すらなく、「運命・宿命論」を信じ、やがては憑衣・憑霊の餌食となる。こうした思考は、男性よりも女性に多く、これを「占い依存症」とも言う。

 確かに現代医学は、この一世紀の間に、医療機器、麻酔技術、手術方法やそのテクニック等は目覚ましい効果をおさめました。日本は医療制度に於いても、世界に類のない国民皆保険国家となり、誰でもいつでも、医師の治療が受けられるようになりました。病院内の医療設備も薬店も製薬会社も世界第一位の数を誇っています。ところが、こうした好条件にもかかわらず、患者の数は減るどころか、益々増加の一途を辿っています。どうしてこんな奇妙な事が起こるのでしょうか。

 現代医学は、一個の人格を有する人間を、患者として見立てる時、人間としてではなく、「故障した部品」として扱おうとします。その象徴的な医療技術が臓器移植です。口では「人命の大切さ」を豪語しながら、そのくせ、人間が持つ人格を尊厳したり、その魂に対し、畏敬(いけい)の念を以って、これに接している医学者は少ないようです。

 そして寄寓にも、霊障と言われるガン疾患や精神分裂病等の病気を扱っている医学者が、他の医科の群を抜いて、非常に大きく売上を伸していると言う現実は、何とも皮肉なものです。

 本来、生きとし生けるものは総て、自分とは、自他同一であり、集合した一つの命の内側にあり、これにお互いが触れあって結びつき、あるいは命が尽きれば離れ、消えて行く存在です。本当の命とは、こうした畏敬の念で各々が触れあっている時に、命の限りない美しさを知り、生きていると言う事が尊いと感じるのです。