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●粗食・少食をして頭脳と躰の働きを円滑にする 頭脳と躰(からだ)の働きは常に相関関係にあります。知能指数の高さは、敏捷性や運動神経と比例し、躰の固さは頭の固さと比例します。 躰造りをする為に、幾ら栄養価の高い食物を食べても、腸の吸収力が劣っている時は、体内に取り込むことが出来ない為に、大部分は消化不良のまま排泄されるか、腐敗物質となって腸内に宿便として停滞して身に着きません。これと同じように、脳が衰えると、人生経験や歴史上の教訓を分析して、これを栄養素にすると言う智慧(ちえ)への変換は出来ず、ただの過ぎし日の経験として、教訓を安易に流してしまいます。 そしてこうした人は、何か困ったことが起こると、何か良い方法はないかと占い師や祈祷師を尋ね歩いたりします。あるいは安易に、「開運」等と書かれた神社仏閣の御符(ごふ)を手に入れ、こうしたものを祀り、神頼みを始めます。 こうしてせっかくの、自分の脳の働きを、ただの記憶や暗記のファイルに作り替えて、情報の蓄積のみに浪費してしまいます。人生を記憶の貯蔵庫に作り替えて、浪費をしている人は少なくありません。その結果、頭は益々先入観と固定観念に覆(おお)われて、益々固くなり老朽化します。 健康と長寿の秘訣は、躰が柔らかいと言うことも大切ですが、同時の脳の働きも柔軟でなければなりません。柔軟で、しかも新しい事柄を受け入れる同化力(【註】外から取りこんで自分のものにすることで、事物を十分理解して自分の知識とする力)も必要ですし、環境に即応する反射運動が発達していなければなりません。また、取り込んだ知識を知識として保存するのではなく、複雑な構造の思考を単純な思考に変換・分解するという、異化作用的な反応に対する能力も必要です。ここに智慧の働きがあります。 こうした適性力に欠けると、嘆きや悲しみや愚痴ばかりを、くどくどと繰り返し、いつまでも一つの事にこだわって、そこで物事の進展は滞ってしまいます。柔軟な若さを失い、躰も固くなって、運動能力も低下していきます。老化の正体はこれであり、また、痴呆の正体も、ここに存在します。 そして最悪なケースは、居心地の良い環境に甘え、熟(こな)れのよい安楽な習慣を繰り返して、変化がなく、また、苦労のない生活に安住した時、脳は退化して、惚(ぼ)けが始まります。 ちなみに、御玉杓子(おたまじゃくし/カエルの幼生。卵から孵化して間のないもので、鰓(えら)を持ち、水中で生活する、変態する両生類の後生動物)は、人口飼育をしている時、飼い主が充分に栄養価の高い餌をしょっちゅう与え続けますと、あまりの居心地の良さに、殆ど動かなくなり、巨大に肥ってしまって、カエルになるのを忘れ、肥ったまま死んでしまうそうです。こうした幼態期に成熟して、変態できないことを「幼態成熟」と言います。 本来、カエルや昆虫等の動物は、卵から孵化(うか)した後、成体になるまでに、時期により、異なる形態をとることで、変態を繰り返します。 これは爬虫類も同じで、脱皮したり、変態するのは、大昔に地球規模で襲った異常気象や大激変や地磁気の変化に対応する為に、身に付けた生命維持対策でした。また飢餓等も襲って来て、今迄の生活様式では対応できず、新しい環境に適応しなければならなくなった必要性に迫られて、自然環境に躰を適応させたものでした。 生物は周囲の変化に適応させることで、生き延びて来たのです。ところが、人間の躰にはこのような能力は備わっていません。その変わりに「智慧」という「脳の力」をもって、自然の変化に適応して来ました。 現代とうい時代を、戦中と終戦直後に振り返って当て嵌(は)めてみますと、戦中や終戦直後は、イモや豆粕(【註】大豆から油をしぼり取った残りの粕で、本来ならば肥料や飼料に使う)で生き抜いた時代であり、かえって病気も少なく、何処の病院も閑散(かんさん)としていたものでした。それだけに、明日の命をも知れぬ身の不安よりも、食べる事だけを考えるのに精一杯であり、不安や恐怖は二次的なものでした。決して、この時代の戦争を肯定するつもりはありませんが、当時は国民が一丸となって、国家的目的を以って、戦中は戦った時代であり、また終戦直後も、悲惨な戦争が終了した後で、国民の多くは、飢えを満たすだけで精一杯であり、余り余計な事を考えることはありませんでした。 こうした心理状態は、個人の環境や関心事が世間一般とあまり格差がなく、したがって、共通した意識で暮らしていた為であると思われます。生きる事で精一杯であったからです。 ところが現代は、多くの食べ物で飽食の時代を満喫(まんきつ)し、各々に生活のレベルが異なり、一人一人が異なった考え方を有し、個人主義を謳歌(おうか)すると言う世の中では、不安や緊張感が、かえって束縛(そくばく)や制限を加え、これによって、心の病気が発生すると言う現実が生まれました。 環境だけを豊かに、便利に、快適にしても、あるいは生活水準を高め、物質的な恩恵だけを預かったとしても、智慧のない居心地の良さだけに溺れてしまう享楽主義の実情を招き、結局は「幼態成熟」をしただけの御玉杓子に過ぎなかったです。 結局、環境に適応すると言うことは、不自由を改善して、これを工夫するということであり、この改善と工夫が大脳を遣(つか)う働きと、遣う事によって派生する「柔軟さ」が得れるのです。 ところが現代は、こうした「遣う」という意識は薄れ、その意識の希薄が種々の病変を齎していると言えます。 ●意識の希薄が齎す現世の様々な災い 食が乱れ、色が乱れ、人倫が乱れて、金銭至上主義を優先させる現代社会は、資本主義の輪廻の循環の輪の中にあって、様々な消費と浪費が繰り返されています。国民の多くは、この輪の中から一歩も外に出られず、精神的かつ肉体的なストレスが蓄積し、こうしたものが病変と複雑に絡み合っています。 そして、こうしたストレスが、精神的肉体的な面に「破綻(はたん)」と言う名の追い打ちをかけます。 時代が高度化され、大衆社会も高度大衆社会に突入すると、時代の移り変わりの変化が激しくなるばかりでなく、「淀(よど)む」という現象が顕(あら)われ、この淀みが巨大な渦となって、更に、時の流れを加速させます。 この時の流れは、時代に加速度をつけて早くなり、早くなった関係で、到達距離も短くなりました。 地球上で起こる様々なことが、一瞬のうちに全世界に伝えられるようになり、現代社会は情報化の真っ只中にあると言えます。 同時に現代人類の意識の拡大が始まり、隣近所の事よりは、アメリカで起こっている事や、ヨーロッパで起こっていることの方が、より詳しく、より知っていると言う、訝(おか)しな現象が生まれました。それに準じて、日常の話題も飛躍して、家庭内のことが、総て二の次になり、話題の中心は、スポーツや芸能情報であり、また、宇宙にまで目が向けられ、時間と空間を超えて広がり始めました。 個人の生活においても、時代の急変の煽(あお)りを受けて、今日は昨日と同じものでなくなり、また、昨年の今日だった日は、今年の今日と、全く違ったものになってしまいました。日々新しくなり、真事実が発見され、過去の記憶の活用は、殆ど役に立たないものになってしまいました。そしてこれこそが、諺(ことわざ)で言う「一寸先は闇」という時代を象徴しているとも言えます。 このように目紛(めまぐる)しく、激変する時代を、かつて人類は経験したことがあったでしょうか。 人によっては、波乱万丈(はらん‐ばんじょう)に富んだ人生を送ったと言う人がいますが、その人を取り巻いていた時代の時の流れは、極めてゆっくりした時間が流れていて、それだけに波乱の生涯は、実に変化に富んでいたものと思われますが、現代はあまりにも時間の流れが早い為に、大きな世代格差の亀裂が生じて、こうした亀裂から、様々な病変が発生するようになりました。 親と子の世代格差は、母子の断絶をつくり出すばかりでなく、啀(いが)み合う亀裂すら生じさせ、家庭崩壊が始まる要因をつくり出しました。こうした亀裂現象は、自閉症や登校拒否を生み出し、非行や少年犯罪の起因になったり、人間関係の不和までに及んで、離人症(りじんしょう/自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない精神状態)なる病因までもを派生させてしまったのです。 その為、人格感喪失や有情(うじょう)感喪失が起こり、心の働きや感情までが失われ、心が破壊された状態がつくり出されたのです。 また、こうした現象は、人間のみに留まらず、政治や経済の範囲にまで及び、現代の社会構造が、長い時間を掛けて醸成(じょうせい)すると言う事が無くなり、ただただ時間の短縮が行なわれている為、人為的な操作がこれに加えられて、こうした影響で、巨大かつ鈍重化した組織体が出現してしまいました。こうした現象は国家群や大企業に見る事が出来ます。 また宗教でさえ、マンモス化され、自らの重さに耐えかねて、内部から崩れると言う現象を起こしています。昨今に見られる世界三大宗教の対立は、これを如実に現しています。 時間や空間は、意識が生み出した概念ですから、「時間の早さ」や「空間の広がり」は、個人差によって様々です。意識活動の広範囲に及ぶ人は、時間の経つのが早く感じられ、逆に、鬱病(うつびょう)のような狭い空間に閉じ込められて、沈んだ意識を持っている人は、時間の経つのが非常に遲く感じられるのです。 したがって、鬱病の人が、「急いで行なっている行動」も、実は非常にのろまであり、暗い固定観念の記憶から、薄れてしまった意識を、細々と、糸車まで、糸を紡ぎ出しているようなものに過ぎないのです。 そして、壊れた自我、潰された自我の裏には、こうした暗い固定観念と言う、古い記憶が残っていて、それが心に現代に反映を齎(もたら)し、鈍重化をつくり出しているのです。 ●病質に繋がる暗い固定観念 私たちの心は、常に古い記憶に汚染されていて、一定の形と、一定のリズムを以て、それが時間と共に古くなっている現実があります。 一定の形とリズムがある場合、その体験や経験は、瞬時に心に反映して、その心証が映像として、大脳の記憶巣(下側頭回)に特定の電圧を与え、「記憶」という印象付けの働きを齎します。 私たちは幾重にも積み重ねられた過去の記憶を頼りながら、新しい物事に立ち向かいます。古い記憶を引っ張り出し、それに照合させて反応し、更に整理して、結局は古い記憶の一部分として、再記憶して、「納得する」ということで結末を見ます。しかしこれは、古い記憶の上に認識を重ねるのですから、新しい事象や物象の持つ、新鮮な価値を理解しないばかりか、その存在まで無視して、一蹴(いっしゅう)する愚行を冒していることになります。 この為、古い記憶を訂正する機会が失われ、誤りは修正されることなく、再記憶されることになります。限られた容量の記憶巣に、長い時間を掛けて定着し、焼き付けられてしまった強い印象の固定観念は、特定の考え方と、その様式だけがいつも最優先され、人間はこうした状態に陥ると、これを捨て去って新しい概念を作り替えることが、中々容易に行えません。そして古い概念思考は、記憶のフィルターとなって、いつまでも取り払うことが出来ず、心の深層心理に沈澱して、特有の固定観念を育(はぐく)んでしまいます。これが「病質」と言われるものです。 これは、ある種の精神病に、ごく近い気質を指し、分裂病質や躁鬱病質等が、この「病質」の要素に含まれます。 心に受け取った、日々の印象は、大脳の記憶巣に蓄積され続け、その記憶を基盤に、人間は日常生活を営みます。当然そこには、個人特有の先入観が作用し、それが固定観念を作り上げます。 そしてこの固定観念こそが、実は「わたし」だったのです。 「わたし」は、既に特有の固定観念を作り上げていますから、「特定の想念」が形作られ、これが言葉として表現されているのです。即ち、「ロゴス」と言う概念であり、意味・論理・説明・理由・理論・思想等を理法として支配します。 時の流れに沿って、時間と空間を経験し、人生を歩み続けているのですから、今までに見聞した事柄は心証として積み重ねられて、「わたし」という「固定観念」を構築します。したがって、他人の考え方や、他の学説を仮説の位置に位置付けて、これをすんなりと受け入れる為には、「わたし」という固定観念は、非常に邪魔な存在になってしまいます。 そしてこの「わたし」というものは、「わたしの物」という所有感覚を派生させますから、人生の経験を重ねるに隨(したが)って、所有感覚が次第に強くなっていきます。 幼児の場合は、無心に近い状態にありますから、「自他の区別」がはっきりしませんので、所有感覚も稀薄ですが、年齢を重ねて成長するにつれ、自我の意識は明確となり、同時に固定観念を次第に濃厚にさせていきます。 例えば、昨日絶賛した風景は、今日同じものを見ても、そこには昨日感動し、絶賛した風景はありません。絶賛した風景は、記憶された固定観念として記憶巣に残るだけで、もう、瑞々(みずみず)しい感動や絶賛は存在せず、「わたしの物」という所有感覚に於てのみ、残されるに過ぎません。 「わたし」と「わたしの物」を基盤とした固定観念は、長い年月を掛けて積み上げられた、誤った記憶の集合体と考えれば、「他人」及び「他人の物」と対峙(たいじ)する相対関係が生まれるのは必至であり、「自分」と「他人」は全く異なる存在となり、「わたし」という存在は無数の他人から分離され、隔離された「特異な空間」に閉じ込められてしまうのです。この閉塞された「特異な空間」が、精神障害を齎す病巣の病質だったのです。 ●自他の境目をなくし、自我を捨てる 「わたし」という存在は、本来「無い」ものであると考えたら、あなたは一体どう思うでしょうか。あるいは「無私」など、とんでもないと反発されるでしょうか。 しかし、特別に「わたし」と思い込んでいる「私の肉体」は、また、その構造において、あるいは働きにおいて、総ての人類と同じであり、同格的に、同等的に、同一の共通性を持っています。 総ての人類が、全く同一の共通の構造から創造されていると言うことは、「私の心」は、単に記憶巣に取り残された「記憶の集積」に過ぎず、他人と自分を区別出来る特異性は、何処にも存在していないという事が分かります。 にもかかわらず、個々人は、各々に特異な存在であり、心と肉体の構造や働きにも、もう一つ別の貴重な存在があるのです。実は、私の中には、自我を所有する「わたし」と、一切そうした自我には、こだわらない自由な「わたし」が存在するのです。 「わたし」という中には、二人の「わたし」が棲(す)んでいて、これが「同行二人」を司っているのです。 同行二人のうち、一人の「わたし」は日常生活を通じて、種々の記憶を集積している時間と空間に束縛されている「わした」であり、もう一人の「わたし」は過去の暗い固定観念の束縛されず、時間と空間の制限に縛(しば)られない「わたし」です。 時間と空間に束縛される「わたし」は、頭脳の記憶巣の記憶集積回路のような役割を果たし、自分の取り巻に対して、防衛本能を剥(む)き出しにする「わたし」であって、常に爬虫類脳のR領域の範疇(はんちゅう)で物事を考えます。 一方、時間と空間の制限に縛られない「わたし」は、かつての記憶にこだわることなく、常に新鮮な感動と絶賛を取り込んで、日々新たに躍進(やくしん)しますから、優越感や劣等感に囚(とら)われることなく、また競争意識や、恐怖心等にも囚(とら)われることがありません。暗い固定観念から解放され、感覚的記憶からも解放されて、自由闊達(じゆう‐かったつ)に動き回ることができ、然(しか)も創造性が富んでいます。したがって、過去の記憶に残る忌わしい幻夢や、今ある心の残留に色づけして、本来の意識体を歪(ひず)ませることがありません。 現代人の記憶巣は、多くの場合、適応性と優劣を決定する競争原理が基本の中枢に置かれていますから、いつまでも過去の忌わしい記憶に縛られて、身動きが取れないようになっているのが実情であり、こうした実情が、時間の流れに逆行させたり、そのまま停滞したり、人間関係で摩擦(まさつ)を生じたり、ある何者かに抵抗すると言う、空しい徒労努力を繰り返しているのです。 現代社会は時間と空間の中で、縛られ、埋もれる記憶の中の「わたし」があり、この「わたし」が様々な病質を招き寄せ、その中に埋もれて、精神病と言う、ありもしない幻覚を、実は、そこにあるかのように体験し、感得しているのです。これはありもしない地獄を作り出す、同じ想念現象です。 時間と空間の中に閉じ込められて、「記憶の中のわたし」を選択するのか、時間や空間に左右されず、「自由闊達に動けるわたし」を選択するかは、あなた次第であり、本来どちらの「わたし」が真物(ほんもの)であるか否かは、一々申し上げるまでもありません。そして誰よりも、一番よく知っているのはあなた自身なのです。 ●現代人の実体は中途半端な無神論者 酒に溺(おぼ)れて人生からの逃避を企てたり、睡眠薬やシンナー、あるいは麻薬に浸る快楽も、実は過去の記憶が齎す、固定観念が形成した「わたし」でしかありません。過去の記憶が、実はこうした「わたし」をつくり出しているのです。 しかし一方で、過去の記憶に存在する「わたし」から脱出して、自由闊達(かったつ)に動ける「わたし」を目指して、ここから少しでも抜け出したいと言う願望が働きます。 ところが、こうした願望はやがて「過去のわたし」に引きずり込み、脱出口を塞いでしまいます。 精神病院で行なわれている抗うつ剤投与も、電気ショック療法も、あるいは作業療法と言われる、精神病患者に行なわれる治療は、一時的なものであり、一時的に過去の忌わしい記憶を消去して、「過去に縛り付けられているわたし」を解放させてくれるものには間違いありませんが、一時的な措置であることを忘れてはなりません。 如何に高等な最先端医学療法と雖(いえど)も、薬物や科学的な力を借りるものは、それが根本療法で無い限り、一時的に良くなったとしても、再び悪化して、以前以上の変質した病質が浮上して来ることを忘れてはなりません。 また何等かの特殊な努力を要する、祈祷やお払い、神仏への信心、水垢離(みずごり)、断ち物(【註】お茶断ち、酒断ち、タバコ断ち、あるいは自分の好物を断ってしまう行為並びに、祈願を目的にした絶食)、荒行、あるいは精神的な修養修行は総べて根本的な療法ではありません。これらは総べて対症的であり、不自然は徒労努力と言わねばなりません。 それは何故ならば、どれも一時的な対症療法であり、永遠にこれを続けられる分けがないからです。束(つか)の間の、はかない夢を追うのは、麻薬に溺れて自由を得る行為に酷似していますし、薬物やショックによってこれから解放される「わたし」への願望は、一時的な措置であることは何等、徒労努力と変わり無く、自由な「わたし」は、単に記憶の中の「わたし」に逆戻りしてしまいます。 では何故、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻ってしまうのでしょうか。 理由は簡単です。「わたし」が与(くみ)する霊魂について理解し、悟ろうとしないからです。しかし現実には、頑迷、頑固、唯物主義、こだわり等の蒙昧(もうまい)が、如何にも常識のように評価されて漂っている為、こうした理解に疎(うと)いと言うのが、現代人の特徴です。 そして非常に残念な事は、現代人は、一様に中途半端な無神論者であり、こうした風潮が精神病を治りにくくしている現実があります。 ●予定説は、単に偶然の繰り替えしから起こるものではない 競争社会は、副守護神が活発に活動する為、中途半端な無神論者を大量につくり出してしまいました。その為に、日々の小さな集積が、絶対が効果を持つと言う事が忘れ去られた時代とも言えます。とにかく、思いつきだけで、コツコツと小さな積み重ねをしなかったり、これを嫌う人が非常に多いようです。 また、こうした状況下にある時、多くの人が唯物主義に趨(はし)って、物質の恩恵に預かり、一時的な苦境を、こうしたもので解決しようと図ります。しかしこうした解決は、根本的な解消法でない為、再び旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻ります。 まず、万物の霊長である人間と言うその実体を見詰め、肉体のメカニズムだけに目を向けるだけではなく、「人間」そのものに目を向けなければなりません。 そして「人間」というものを注視した場合、そこに存在しているものは、単に肉体だけでは無いことが分かります。また、同じ人間でありながら、好みや食習慣によって、各々の体質が異なり、病質にある人や、そうしたものに無関係な人がおります。そして、この違いをじっくりと見据えなければならないのです。 こうしたものを凝視し、洞察を重ねて研究していきますと、人各々に「違い」というものがあることに気付きます。 考え方にしても、競争原理の働く資本主義社会では、あくまでも自分が何処までも正しいという事を押し通す社会であり、「悪いのは自分以外のもの」という思考が最優先する為、病気に罹(かか)った場合も、その病気の病因は、病原体を「悪者」の槍玉に挙げて、一件落着とします。伝染病の場合は、細菌が悪者になり、慢性病に於てはウイルスが悪者になります。 確かに、微生物と言われるウイルスは、強い感染力がありますが、発病の真因を探っていくと、単にウイルスばかりが悪いのでは無く、問題は、そのウイルスに感染した自分の体質の悪さは、どうなのかという事が問題にされなければなりません。 歴史を見てみると、その大半は戦争の歴史ですが、それを前後して、疫病が発生していることが分かります。そして疫病が発生すると、人口の一割から大方半数までが死に絶えてしまうこともありました。また、大飢饉も発生していますが、全体が死に絶えると言うことはありませんでした。 どんな時代であれ、疫病が発生し、大飢饉が発生し、同じような状況下に身を置きながら、以上のような作用を受けても、死なずに残る人と、死んでしまう人に別けられます。 したがって疫病は、伝染性の細菌や、ウイルス等の微生物が犯人であったとしても、それは発病させる絶対的な決定権は持っていない事が分かります。疫病において、細菌やウイルスは真の病因でない事は明白な事実ですし、大飢饉が発生しても、飢えだけがその犠牲者の真因でない事は明らかです。 要するに発病するかしないか、あるいは餓死するかしないかの決定権は、各々個人の体質に委ねられ、結局、回帰する処は、「体質の悪さ」だということになります。また、これこそが、大自然の「自然淘汰」の根本原理です。 そして根本原理を考えると、ここには、単に繰り替えし偶然が発生して、ある者は生き残り、ある者は死に絶えたと言う偶然性の一言で、一蹴できない事実が残ります。 つまり、生き残るように選ばれし者は、単に創造主の繰り返しの偶然によって、気紛れに実行されているのではなく、「なるべくしてなる」あるいは「起こるべきして起こっている」という、偶然の繰り返しではない、《予定説》の存在が浮かび上がって来ます。 この《予定説》は、現代人が最も新しい磁気に身に付けた前頭葉と、何か大きな関わり合いがあるようです。 |