24



●人類に齎される病気は前葉頭と密接な関係がある

 私たち人類は、自分自身の内部にもこれと同じ事が始まっています。その兆候の一つとして、一部の先覚者らによって、物質や制度に依存することの愚かさが徐々に理解されはじめ、大衆を惑わす権威の持つ力が失われはじめたことです。

 これまで知識と言う者は権威筋に独占され、大衆のものでは有りませんでしたが、大衆が正しい認識を以て、目覚めればこの世の中の構造が大きな矛盾によって創り出され、矛盾が相乗効果を果たして、副守護神的に資本主義が発展して来たと言う事が解ります。矛盾があるからこそ資本主義が物を豊かにし、物質文明はこれによって発展して来たと言えます。

 しかしここにきて、物質文明の発展も資本主義と共に翳(かげ)りが見え始めました。そして知識は、大衆に恩恵を与える事は殆どありませんでした。私たちが知識の恩恵と勘違いしているのは、単に権威筋が最初に咀嚼(そしゃく)し、食べ残した、使い捨てにされた残りカスだったのです。

 そこで、これに対し復活し始めたのが、古来より連綿と続いて来た智慧(ちえ)であり、この智慧こそが「歓喜」の道だったのです。
 副守護神が主体となった物質文明は、これまで余りにも外流的な刺戟に流されてその虜(とりこ)になり、「自分」と言うものを見失って来ました。霊的神性は曇らされ、霊的波調は低下して、低級な外流ばかりに接し、ひたすら金銭至上主義に奔(はし)り、豊かで、便利で、快適であると言う事が、人生の最大の喜びであると思い込んで来ました。

 ところがこうした喜びは、実は壊れ易い、砂上の楼閣(ろうかく)でしか過ぎなかったのです。ここに「自分」を見失った元凶があります。
 その為に「自己変革」することよりも、自分以外の金や物や色を追い掛けてしまったのです。そして自分と自分以外のものを色分けして垣根を作り、自他離別に意識を作り上げてしまったのです。

 これによって、お互いが人間であると言う一体感を持つ事が出来なくなり、お互いが共存協栄によって智慧を学び取り、智慧によって進化すると言う基本原理を軽視したのです。しかし人類はここにきて、自他同一意識を持たない限り「第二の知性」である前頭葉の発達を見る事が出来ず、最終進化に取り残されてしまいます。

 まず、「自分とは何か」という事を探究し、自分の為に他人が居るのではなく、他人の為に自分が居ると言う彼我(ひが)一体の心境が必要です。
 この自他一体に関する言葉は、古来より「入我我入」(汝が我か、我が汝かの意味で、密教では、如来の身口意(しんくい)の三密が我に入り、我の身口意の三業が如来に入り、一切諸仏の功徳をわが身に具足すること指す)とか「衆生病むが故に我病む」等の言葉で表現されて来ました。
 この言葉からすれば、自分と他人は一体であり、「自分にして欲しいように他人に尽くす」と言うことであり、ここに至って人類は亜人類から脱皮して、知性体として新しい進化を遂げるのです。

 日本ではこうした知性体の究極を指して「武士道」と表現しました。
 「武士道」とは殺伐(さつばつ)とした殺し合いを意味するものではなく、「人の為に我が身を犧牲にして、それに誠(まごころ)を以て尽くす」ことであり、テレビや映画の時代劇で見るような、夜郎自大(じだいやろう)になって威張り腐す事ではなかったのです。

 真の武士道とは、生涯を通じて我が身の欲望を捨て、世の為、人の為に、心に燈火(あかり)を灯す働きを通じて、最後はこの成就の為に、命をも捨ててしまうというのが真の武士道であり、その根底には自他同根の思想が流れているのです。
 人間は、人類としてこの最高レベルの境地に至った時、本当の第二の知性体として脱皮出来たと言えます。その第一歩が自分をじっくりと見詰め直す、「自己変革」なのです。

 《癒しの杜の会》も前頭葉トレーニングのその一つであり、「自己変革」することを、機会ある事に訴えて来ました。
 自己の大脳は、前頭葉を意識的に進化させるべき、努力を重ねるべきです。そして最早、爬虫類領域や哺乳類領域の支配を受ける事なく、自己変革するべきところまで発達しようとしているのです。

人体情報伝達システム。
人間の病気は、前頭葉の発達度で決定され、病気とは、知性未熟な各々の段階で種々の病気として顕われる。

 いま、現代人には二つの選択が迫られています。それは都会と言う「分岐点」において、「世の中の正念場」を迎える時期に突入してしまったということです。
 今日の現代人を見てみますと、古来から伝わる精神性や民族性の敗退ぶりには、目を覆(おお)うばかりのものがあります。

 特に、日本の未来を担うべき青少年層には、これが顕著に現れています。
 日本人は、敗戦後の経済復興の代償として、欧米主導型の民主主義と言う、一種の基本的人権を柱とするエゴイズムの形式を形作る民主主義を、何の疑いもなく採用してしまいました。自由と平等意識の中で、飽くなき個人主義を満喫し、それと引き換えに、遠い過去からの連綿として受け継いで来た伝統的価値観や、「心」の面の自他同根意識を失ってしまいました。

 こうした現状は、悪神や悪霊側からすれば、願ってもない好機であり、日本人を骨抜きにする絶好のチャンスに遭遇したと言えます。そして現状の環境と境遇が、若者層を中心として、墜落させることに見事に成功したのです。
 若者達の無気力を始めとする刹那主義は、日本中を覆わんばかりに勢いとなっています。日本中、どこへ行っても、食の乱れによる現象が見られ、都会での霊的翳(かげ)りは頂点に達しようとしています。これはいつ、天変地異等をもって、霊的浄化現象を起こしても、訝(おか)しくないという事を顕著に現した前兆と言えます。
 
 現代人が二つに別れるとは、「影を好む」人達は、各自の持つ悪想念と悪因縁によって「兇(わる)いメグリ」に見舞われ、淘汰されると言う暗示を持ち、もう一つは、華やかで喧騒(けんそう)たる都会に厭気(いやけ)がさして、必然的にここから離れ、自発的に自己非難する人達の、二つの層が見られると言うことです。

 現に、大都会である東京の霊的波動は、日増しに粗くなり、波調的には「粗なる部分」が目立ってきています。
 こうした自己の大脳の前頭葉に影響を与える、どす黒い翳(かげ)りは、個々の各々のレベルで伝わっていますが、これを即座に感じて嫌う人と、こうしたどす黒い翳りを好み、あるいは華やかな夜の大都会の喧騒を好み、これに浮かれ騒ぐことに喜びを感じる人に分かれ始めたと言うことです。一方は、霊的波調の違いを感じてここから去る人と、もう一方は、こうした都会の影の部分に心惹(ひ)かれ、やがては爬虫類脳のR領域のまま刹那的に突っ走って、淘汰される側に廻る人達です。

 次の時代を担うのは、その時代を次ぐに相応しい新しい人類であり、成熟した霊長類として、人類初の、爬虫類的哺乳類的性質を制御した超次元の人類でなければなりません。
 その一方、人類淘汰は大脳に反応を与えて、いろいろな形で試みられます。その形を検証してみますと、次のようになります。

大脳の領域
現 象 人 間 層
因縁と悪想念
R領域
天変地異や大事故等によって淘汰される人。 かつての想念が現場に起因する。爬虫類脳の派生で、攻撃や縄張り意識を持った想念。
辺縁系
霊的波調が低級なものと交信し、憑衣や憑霊現象を招き寄せて、このままでは霊的昇華が困難と思える人。 人間不信で人を信じることが出来ず、自我が世間によって潰された愛のない想念の発生。
R領域
高血圧や高脂血症、動脈硬化や肝臓病などに襲われ、怒りっぽい性格を持った人。 腹立たしいことを、腹立たしく捕らえ、それに振り回されて爬虫類脳を正しく制御できない未熟な因縁を持つ。
辺縁系
胃潰瘍や膵臓炎などの消化器疾患を持つ人。 哺乳類脳の辺縁系活動が未発達で、この部分が野放しになっている為に、愛の想念に欠ける。
辺縁系と
R領域
現代病と言われるストレス病や心身症の人で、一般には自律神経失調症といわれ、進度が進むとノイローゼや神経症、鬱病等を発病する人。また、精神分裂病を招き寄せる人。 まず、前頭葉の未熟が上げられ、側頭葉やR領域の聖女を十分に行う事が出来ず、哺乳類脳や爬虫類脳に支配されやすい。幼児期の躾(しつけ)や学習力に問題がある。
R領域
肝臓病を患い、肝臓から肝臓毒を分泌する人。激怒症は一種の肝臓病であり、肝臓より劇毒を発散させている。こうした激怒する人の、吐息をガラス管に吹き込ませ、これを冷却すると、薄茶色の水滴が発生する。これをモルモットに注射すると、直ぐ死んでしまう。 常に何事につけても激怒し易い性格の人で、肝臓毒を吐息の中に発し、周囲の空気を悪想念で汚染させている。爬虫類脳は、数億年前、私たちが進化の途上で手に入れた脳で、爬虫類時代を過ごした時につくられた。
R領域
好戦的で弱肉強食の考え方を持ち、力は正義と信する人。傲慢さが強く、態度が横柄で、暴力を好む人。 縄張り意識から発する闘争本能であり、攻撃を繰り返してないと、逆に襲うわれるのではないかと言う不安と妄想が駆け巡る。
脳幹
高度な文明に順化した為に、間隔も神経も文明社会に慣らされてしまい、「勘」という機能がマヒした人。本来、人間は「勘」という危険に対応する能力を持つ。しかし異常情報や病気警報に対して、適切な機能が錆び付き、眠らされてしまう。予知能力の退化。 運動神経や変化に対応する適応能力が失われ、人類と言う種族の内部からの変質および知性の欠如。生命維持の機能の崩壊。
脳幹
食べ物に関して、味覚が狂い、食物の適・不適を判断する味覚の働きを失った人。原人脳の退化・欠落であり、美食を繰り返すと、「美味しい」ものを求めて非実在界の夢幻を彷徨うことになる。 欧米食の誤りをまともに被ったことに原因があり、味覚麻痺から、動蛋白を好む傾向に趨る悪循環を繰り返す。
辺縁系
世間並みの規格化した常識を身に付け、夜の華やかな喧騒に浮かれて、ここに夜毎繰り出し、こうした見せ掛けの歓喜に喜びを感じる人。 管理社会への反撥と、一時的な現実逃避をこよなく愛し、ここに一時の慰安を求める。
外表系
社会的脱落者あるいは精神病者と言われる人で、「廃人」の烙印が押され、その予備軍として自閉症、登校拒否、自律神経失調症、神経症(病感が強く、不安神経症・心気神経症・強迫神経症・離人神経症・抑鬱神経症・神経衰弱・ヒステリーなど種々の病型)、心因症(psychogene Reaktion/欲求不満や葛藤かつとうなどの心理的・精神的原因によっておこる精神障害)、鬱病などの社会不適合症状を持つ人。 社会不適合症状は、本来もつ野性の箇所と、世間並みの規格化された規格箇所の板挟みになって起こるもので、これに理性が支配した場合、暴力として現れる。原人脳の退化。
脊髄
自律神経の制御が自由に出来ず、伝達情報や反射機能が麻痺して痴呆の状態にある人。自己破壊的な猿であり、異常性格を持つ猿である。 未熟な霊長類として、自己の身体が支えられず、その機能をコントロールすることが出来ない。
辺縁系とR領域と脊髄
仕事マニアやモーレツ社員タイプの人。このタイプは自信過剰であり、順調にことが運ぶ時は得意満面であるが、一旦躓くと劣等感に陥り、後は尻窄みになる。また固定観念が強い為に、人間の知識と言うものが、永久不変であると信じ込み、その中で変化すると言う「無常」の実体を知らない。 不安定神経症ならびに偏執狂(パラノイア)の一種。妄想の主体は血統・発明・宗教・訴え・恋愛・嫉妬・心気・迫害などで40歳以上の男性に多いとされる。

 人間社会には、いろいろな過去からの因縁を引きずって、それが大脳に反映されています。
 そして私たち人間は、幼い頃から経験を通して「喜怒哀楽」を学び取り、「一喜一憂」に関する感情の高低を経験して来ました。
 教育と言う外皮を身に付けることにより、知識というものを身に纏(まと)い、こうした環境の中で種々の刺戟(しげき)と影響を受けながら、自我の心を厚い殻(から)で幾重にも塗固めて来ました。

 その為に、何事に対しても分析したり、比較検討する世俗の習慣が身に付いてしまい、真実をあるが儘(まま)に受け入れることが出来なくなって、事物や事象を色眼鏡で見る屈折した虚像を作り上げてしまったのです。
 それが今、大脳に偏見と異常を齎(もたら)す、疑いや恐れや孤独と言う落とし穴に落ち込んで、これから逃れる術(すべ)を知らないと言う混乱と、精神的な貧困の真っ只中に置かれてしまったのです。

 こうした現実が、私たちを種々の精神病の危機に曝(さら)しているのです。
 そうした根源は、実は欲求不満が作り出した逃避と、自惚れとによる欺瞞(ぎまん)の産物が、己の無知と我の強さによって、日々人格を崩壊させる現状をつくり出しているのです。

 こうした次元から逃れる術(すべ)は、混乱と破壊の深淵(しんえん)から脱出する方法として、まず、長い間持ち続けて来た固定観念と先入観を捨てる以外に方法はないようです。故人は、「捨てること」を「悟り」と名付け、ただ捨てることにより、混乱と破壊の深淵から生還出来るとしたのです。



●意識体としての生霊と死霊

 霊魂に関し、「霊」あるいは「魂」という文字からイメージして、一般には「幽霊」という言葉が用いられ、これが、特殊な感受性の強い霊能力を持っている人に、見えたり、聞こえたり、臭ったり(最近の自称霊能者は「はなつんぼ」の為、不成仏霊の臭いが嗅げない)、感じたりすると言われます。
 つまり幽霊が見えるような場合、これは、幻(まぼろし)を見ているのではなく、確かに見え、脳の反応としても、それ相応の事が起こっているということが言えます。しかし、本来あるべきはずの所に、何ら実体がないといった事が、一般に言われている幽霊現象ではないかと思います。

 そして、幽霊が見える、あるいは感じると言う現象は、人間には、直接的に影響を及ぼさないものであろうと思われがちですが、こうした観念は明らかに間違いです。

 幽霊が見えると言う現象、あるいはそれを感じると言う現象は、眼や肌(同じ部屋に居ながら温度差を感じる)等の知覚を通して、実際に見て、感じているのですから、脳の中では同じ反応が起こっているという事が言えます。音が聞こえると言う場合も同じです。脳内で意識として感知しているから、「見えたり」、「聞こえたり」するのです。精神医学用語では幻覚と言い、幻聴と言いますが、霊魂学者達の間では霊視と言い、霊聴と言います。【註】ところが霊魂学者は「霊臭」を挙げないのはどうしたことか。霊視や霊聴より、臭いを嗅ぐ方が遥かに現実的だが)

 では、何故、こうした実体の無いものに対して、人間は感知する事が出来るのでしょうか。
 この「感知」においては実体相当に値する、こうしたものが実在(但し、三次元顕界内だけで感じ取る非実在界現象)していなければなりません。その「実在する」という、正体こそが、脳内で再生されている「記憶」と言われるものなのです。記憶の貯蔵庫にある意識です。

 一般に言われている幽霊現象の殆どは、「記憶」が大きく関わり、記憶の許(もと)を辿れば、時空間に残された、磁性を帯びている人間の発した「唸」という事が分かります。

 この磁性を帯びた記憶は、一種の磁気テープのようなもので、二次元的に言えば、アナログ的な磁気テープに保存された過去の記憶に過ぎないものでしょうが、こうした記憶が時として、非実在界に出現すると言うことは、この記憶自体が「生きていて、何らかの影響を人間に与えている」と言うことになります。

 したがって、死者の不成仏霊から発せられる「唸」も、生きている人間から発せられる、恨みやつらみ等の「唸」も、やはり生きていて、ともに「現世」という実在界に、何らかの影響を与えていると言う事が、明確になって来ます。

 亡者の唸が、記憶保存の中に残っていたものが再生されて、具現化されれば死霊(しりょう)であると言えますし、生者の唸が時空間に留まり、それが再生かされて、誰か同じ周波数の人がキャッチし、再生化すれば、それは生霊(いきりょう)として出現することになります。
 精神病には、こうした二種類の霊魂が、往々にして関与していると思われます。

 さて、意識体が齎(もたら)す「意識」は普段、脳の中に宿っていると思われがちです。しかし脳と意識は各々が個別化された存在であり、脳の場合は緻密に出来たスーパー・コンピュータですが、意識はある程度、我が儘(まま)な想念の存在で構成されています。

 その為に、ありもしないことを思い悩んだり、一局面の苦しみを永遠の苦しみと思い違いしたり、また、神(しん)を乗っ取られて、自殺のような自己放棄までやらかします。つまり、脳の反応と、意識体そのものは、全く別個の存在なのです。
 この認識に疎(うと)いと、「否定の否定」がブレーキとして掛かります。

 川柳に、

  頼りない身に頼りができて、できた頼りが頼りない

 というのがあります。

 夜、就寝前に「頼り」をちゃんと確信し、そして寝るのですが、やはり朝起きると、昨夜の「頼り」は何処か不安を感じるもので、「今日はどうしようか」という気持ちを抱いたとします。
 もうこれだけで、心はシクシクと痛み始めます。頭の芯(しん)が疼(うず)きます。そして自分自身が信じられなくなって、「どうせダメな人間だ」等と思い始めます。だから「人に頼る」ことばかりを考えます。

 そのくせに、人からアドバイスを受けると「よく分かっているのですが……、そうおっしゃいますけどネ」と、否定の否定が掛かり、もうこれだけでノイローゼか鬱(うつ)病の始まりとなります。
 今迄の経験した記憶の中で、理性ではよく分かっているのですが、それを知性に置き換えて「知行合一」の意識が図れないのです。

 つまり知識の集積と言うのは、例えば学校教育ならば、成績のよい子は単に暗記力だけがよいのであって、応用力や推理力、想像力や直感力と、その知識を結び付ける事ができません。何ページの何処に、何が書かれているかと言う正確な記憶はあっても、こうしたものは、前頭葉の発達にさほど役立つものはありません。この程度なら、単に「部品」に過ぎないのです。

 何故ならば、ここには智慧と言うのが全く存在せず、コツの呑み込み方や、自他同根意識で他人との付き合い方、人情の機微(きび)や機転の効かせ方が全く欠けているのです。本来人間の智慧と言うものは高度に練り上げられたもので、不変に見えるものの中に、「変化」を検(み)ると言うものであり、刻々と変化して止まりがない「無常」を知るところまで極め尽くさねばならないのです。

 一方知識は、固定されたものであり、不動・不変あるいは間違った先入観として、大脳に記憶されてしまいます。これは「固定観念」と言われるもので、悩みや迷いや苦しみの源泉となります。
 それは、例え正しくても正しくなくても、これが固定観念である限り、昨日は新鮮であったものが、今日には古ぼけたものになってしまうのです。そして明日には、自由の効かない錆(さび)ついた骨董品に成り下がってしまうのです。知識とは、結局このようなものであり、しかしそれでいながら、この事に中々気付かないのが人間の悲しいところです。

 こうして自分の心の裡側(うちがわ)に固定観念から生じた不安定要素が、やがてありもしない地獄を作り出し、その想念世界の中に自らが取り込まれ、そこで恨みつらみを残して藻掻く事になるのです。人間の自意識の生霊化や、意識体の死霊化は、こうして派生しているのです。