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●魔が差す時間

 さて、24時間のうち、午後4時頃が「魔の差す時間」と言われ、この時間帯は、太陽が沈む際の紫外線量が最とも多い時間帯とされています。「悪魔の囁(ささや)き」という時間帯で、この時間に、繰り返し同じ事を喋ると無意識で潜在意識の中に「囁き」が埋め込まれることになり、かつてヒトラーは、ナチス党麾下(きか)の宣伝大臣ゲッペルスに命じて、ナチズムの政治思想を流言し、ドイツ国民の潜在意識に深く焼きつけていったのでした。

 賢明なドイツ国民が、意図も簡単にナチス党を支持した裏には、こうした特異な宣伝方法があったからです。要するに、憑衣・憑霊する時間帯を上手に使い、右回りの拡散・膨張するハーケンクロイツ(Hakenkreuz/鉤かぎ十字で、卍(まんじ)と同起源で右鉤)の魔術を使って、賢明なドイツ国民を洗脳していったのです。洗脳は一種の憑衣・憑霊現象ですから、潜在意識の中にある「唸」の呪縛(じゅばく)が解かれるまで、効力を継続します。

 また憑霊の場合は、便所が一番多く、洋式・和式問わず排尿排便しますから、臭い便所では憑霊され易くなります。
 憑霊される場合は、やはり憑衣と同じように、頸(くび)付近の「風門」から侵入して来て、「気門」を閉じ、頸椎を伝わって亜門宮へと昇り、体温調節機能を破壊します。破壊が行なわれた事の確認は、何か分けの分からない悪寒を感じ、背中がゾクゾクとする事です。
 ゾクゾクとした場合は、どのような場所であっても、憑衣や憑霊された確率が高いと見なければなりません。

 昔は、家の中の便所の位置は重要でした。現在と違って水洗ではなく、肥溜(こえだめ)式だったので、大小便の臭いが充満し、ここに悪霊が寄り集まっていたからです。成仏できない霊魂や、動物達の低級霊は、人霊と合体しつつ、死臭(ししゅう)やゴミ、便所の臭い所といった箇所に集まり、こうした臭い匂いを食料としています。その為、便所の位置は重要であり、また、便所は常に清潔であらねばならなかったのです。その為に、便所への通路には香(こう)を炊き、不浄なものを清めることをしていたのです。

 もともと霊魂は、中有(ちゅうう/四有の一つで、衆生が死んで次の生を受けるまでの間の意識体)のように「尋香」(じんこう)と言って、香りを食料としています。香りを尋(たず)ねるから尋香と言うのです。
 神経質で、ノイローゼや神経症や鬱(うつ)病タイプの人には、「業」(ごう/行動や行為の事で、身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行いで、その行為が未来の苦楽の結果を導く働きを持つ)によって霊に左右され易く、線香等の香りを嫌がります。

 また、成仏できずに苦しんでいる霊は、動物霊等と同じく、死臭やゴミ等の腐った匂いを食料としていますので、こうした神経質ぎみで、憑衣・憑霊体質の人は、直ぐに取り憑かれてしまいます。憑霊の場合、便所で用を足している間に取り憑かれる事も少なくありません。

 また、憑霊の場合は血族に憑霊するのですが、憑衣の場合は死霊ばかりでなく、「生霊」(いきりょう)も憑衣しますので、生霊については最も警戒しなければなりません。
 生霊とは、生きている人間の落とした怨霊(おんりょう)であり、「いきすだま」とも言われ、最も質(たち)の兇(わる)い悪想念です。生きている人の、恨みつらみが、霊的波調を為(な)した唸(ねん)であり、この中には様々な憎悪や嫉妬(しっと)や羨望(せんぼう)が充満しています。
 これは最も恐ろしい邪霊の一つとされています。



●生霊と死霊について

 生霊に対して、死霊(しりょう)と言うのが有りますが、これは二つとも「怨霊」の一種で、怨みを抱いて祟(たた)りをする霊魂の事です。
 人間には、いろいろな匂いを持った人が居ますが、その中でも独特のものが、生きながらにして死臭(ししゅう)を漂わせている人です。死臭を漂わせている人は、悪霊や低級霊が群(むら)がり易く、よってたかって断末魔の苦しみを与えます。こう言う人は、生前は生霊となり、死して後は死霊となります。成仏が極めて難しいタイプの人です。物わかりが悪く、頑固で頑迷と言っても過言ではありません。

 要するに、先入観が強く、暗い固定観念が支配しているタイプの人がこれであり、繰り返し説明しても、全く理解しない人です。こうしたタイプの人は、本能が先立って、爬虫類脳のR領域を主体にして物事を考えますから、攻撃性と縄張り意識が強く、生きながらに死臭を漂わせています。

 死臭を漂わせている人は、男性よりも女性に多く、妊娠中絶を二回以上繰り返した人や、肉食や乳製品好きの人に多く、「肉(じし)喰った報い」は、死臭と言う体臭になって現れます。
 この死臭と言うものは、大小便の糞尿臭とは異なるもので、独特の生臭い特有の匂いがします。この死臭は、一旦つくと、風呂に入って手足や身体を洗っても、中々消えるものではなく、一週間以上残る事があります。

 ノイローゼの人や神経症の人は「鼻つんぼ」と言って、匂いには鈍感ですが、死臭については非常に敏感であり、こうした神経系に異常のある人は、線香の匂いも嫌がりますし、沈静効果のあるニコチンのタバコの匂いも嫌がります。
 乾いた香り、脂汗っぽい香り、甘ったるい香り、焦げたような香り、すえたような臭い等、人間にはいろいろな体臭が有りますが、その中でも、死臭は最悪の匂いであり、死臭を放つ人は、生霊として、生前は生きながらも、死に際で断末魔の想いを経験し、また死して後は、死霊となって、断末魔の唸(ねん)を永久に繰り返しているのです。
 こうした不成仏霊は、時間の観念がありませんから、発する断末魔の唸は、数十年から百年単位で続きます。

 公衆便所やデパートの便所、飲み屋の便所やゴミ捨て場、夜の盛り場街の裏道りの、ジメジメした不浄な所、あるいは清掃処理場等(こうした所で働く人は、防禦の為に「香道」を極める必要がある)には、こうした邪霊や悪霊の巣窟(そうくつ)となっていますので、出来るだけ近づかない事です。

 ちなみに死臭を漂わせている人は、男性より女性の方が多く、これは不倫を重ねて、繰り替えし堕胎手術をやった事があると言うことを、物語っています。水商売経験者の女性も、夜の盛り場での不浄な場所で働きますから、憑衣・憑霊される確率が高くなり、複数の男性と性交渉も重ねますから、邪霊や悪霊の餌食(えじき)になるのは、逃れられぬ必然です。

 また「言語」で毒舌を吐いたり、意念で「死ね!」等の悪態をついた人も、死臭を発生させ易く、多くは男性より圧倒的に女性が多いようです。これは「業の果報」からくるもので、「業病」ともいうべき、前世の悪業(あくごう)によって、この世で恥を曝(さら)した人に能(よ)く見受けられます。悪業の為に、輪廻して浮ばれない宿業を抱え、沈んでいます。しかし一度荒れ狂うような事態が起こると、腹立たしさに心を苛つかせ、業を煮やします。この煮えつく焦げの中から、死臭が派生して来るのです。

 こうした場合の霊魂の善悪を判別する為には、「香(こう)を炊く」のが一番であり、昔の人は「雷鳴りがなったら蚊帳(かや)を吊れ」とか、「雷鳴りがなったら香を炊け」等と言いましたが、これも頷(うなず)ける話です。蚊帳の中は絶電帯域ですので、電気を通しませんし、香を炊きますと、周りの空気を乾燥させますので、乾燥した空間には電気が流れません。
 したがって霊体も、一種の電磁波のようなものからなる波動ですので、ある周波数を持つ振動体ですから、尋香(じんこう)が香りに寄って来るのに対し、生霊や死霊を始めとする低級霊は、こうした香りのする所に寄り付く事が出来ないのです。

 また死臭の次に臭いのが、肉食家の大便と放屁(ほうひ)です。特に、匂いの酷いのは、肉食を好み、乳製品を喰らう人の大便と放屁です。これは内臓ごとが腐敗物質の「糞袋」(武士道精神を加味した、一流の禅をとなえた江戸初期の禅僧・鈴木正三は人間の躰を「くそぶくろ」と称した)になっていて、玄米穀物菜食をやっている人と比べれば、十倍以上の臭さを持っています。
 それは肉成分や乳製品の成分の中に含まれる、動物性蛋白質の中にある腐敗物質が、腸内で有害な強酸類に変質しているからです。
 また便秘も起こし易く、便秘は男性より女性の方が圧倒的に多いのも、女性はやはり、死臭を発散させる宿命を背負っていると言えます。

 動蛋白の摂り過ぎは、便秘や腸内での腐敗を招き、尿酸、硫酸、リン酸、硝酸、塩酸といった有害物質を作り出します。当然、血液は酸毒症(アシドーシス)となり、その酸毒類を中和させる為に、体内のアルカリ物質を消耗させて行く、こうしたミネラル等のアルカリ物質の欠乏が、死臭へと変化するのです。

 死臭は死人の匂いです。
 特に、生前肉好きだった人は、この死臭が普通の人に比べて、非常に強いのです。死人は死して後、酸毒類を中和するミネラルすら体内に遺(のこ)していません。こうした欠乏が死臭となり、また便秘症の人や肉好きの人が、老廃物を体内に溜め込み、同時にミネラル分の欠乏から、死人と同じような匂いを発散させているのです。

 ここで死臭の発生するメカニズムと、それを漂わせる人の因果関係を解き明かしてみましょう。
 まず、これは女性から始まります。

 一人の、肉食好きで、焼き肉やステーキ等をよく食し、たまには寿司屋で、寿司(寿司は古くからの日本食あるいは和食と思われていますが、これはとんでもない間違い。日本人が好んで寿司を食べ始めたのは幕末の事であり、マグロの《トロ》と言われる腹側の脂肪分に富む場所を食べ始めたのは、明治になってからのこと。江戸期にはマグロは食べられていたがトロ身は脂汗臭くて捨てていた)を食べる女性が居たとします。そして、魚肉も動物性蛋白質ですから、牛肉や豚肉と同じものと考えます。人間が本来動蛋白を食べる事が許されているのは、背中の青い小魚や、近海の貝類のみで、これ以外の物は神から許された食べ物ではありません。

 この女性は、動蛋白を摂取する事で、肉や乳製品の蛋白が分解されて、腸内は酸毒物質で充満し始めます。その為、頭重感が起こります。これは腸内で毒素が発生した事を顕わします。
 しかし、こればかりではありません。特に問題なのは、牛肉や豚肉、マグロやブリ等の大型高級魚の肉に含まれる成分の中には、異常興奮を起こさせる物質「プリン塩基」が吸収される為、有害な強酸類を作り出し、血液中に取り込まれた過剰な酸類は、性腺(卵巣の生殖腺)を刺戟します。そして生殖腺刺戟ホルモンが分泌されます。

 このホルモンは、脳下垂体から分泌されるホルモンで、生殖腺に作用する黄体形成ホルモンと濾胞(卵胞)刺激ホルモンで、これが異常性的な興奮状態を起こします。
 一方、血液中に停滞する異常老廃物質は、粘膜を刺激して異常な粘液分泌(例えば痰や性器に於ては愛液と言われる膣内の分泌液)を引き起こし、血液性状を異常を起こします。

 こうした性腺刺戟と異常粘液分泌によって、次に血液が酸性化し始め、これによって著しい機能失墜が起こり、肉の分解によって起こった強酸類は、血液までも酸毒化し、代謝機能を狂わせ、この結果、性的な病的興奮が起こります。

 一方、肉や乳製品を好む男性の場合は、性腺が刺戟されて精巣で精子が作られ、同時に性ホルモン(生殖腺刺激ホルモン)を分泌して、やがては異常性的興奮と深刻な排泄障害を起こします。

 そして女性も男性も、排泄機能(この機能を司るのは、腎臓であり、体液がアルカリ性の条件に於てのみ活動を活発にする)及び性腺に異常がある為、心身ともにバテ易くなり、酸毒思考特有の、考え方が単純になったり、皮相的な物の見方しか出来なくなります。これは老廃物質の充満で内臓全体が疲れてしまい、肉体的にも精神的にも疲弊(ひへい)した状態になってしまうからです。

 もし、こうした状態の時、両者の男と女が接近して、恋愛状態に陥った場合、一体どうなるでしょうか。恋愛感情は、お互いのセックスアピールから始まります。見た目が第一印象を決定するのです。見識眼の鈍い人は表皮で、その決定を下しますから、恰好(かっこう)さえ良ければ、即座に恋愛が成立します。

 結末は想像に難しくありません。出会ったその日から、ラブホテルへと走り込み、お互いの性器目当ての愛欲の限りを尽くして、これを貪り、こうした事が何回か繰り替えされれば、未婚である場合は、婚前交渉における妊娠、既婚者であれば不倫での妊娠となります。未婚の女性の場合は、会社の、妻ある上司と、あるいは逆に、良人(おっと)や子供のいる家庭の主婦が、アバンチュールを楽しむ為に、ならぬ肉欲の不倫に奔(はし)ることもあります。

 「不倫の愛」と言えば、どこか美しく聞こえます。しかし現実は、そんなに甘いものではないのです。不倫の愛には必ずと言っていい程、「妊娠」が絡み、必ずと言っていい程、「堕胎手術」が絡みます。こういう状態を、未婚者や既婚者が繰り返して行けば、当然悪想念を呼び込む事になり、酸毒腐敗物質は血液に停滞して、それは死臭を撒(ま)き散らすと言うこの事実も、食肉食品や乳製品の摂取と深い因果関係を持っているようです。
 すなわち、これが「肉(じし)喰った報い」なのです。そして、この裏には《類は類を呼ぶ法則》が働きます。

 こうした結末には《予定説》が絡んでいます。
 《予定説》は繰り返しますが、原因があって結果が起こるのではありません。始めに結果が定められていて、それが原因となって現象化し、「肉喰った報い」が堕胎手術と言う結果を招いたのです。こうした、ならぬ恋仲で派生した堕胎手術の現実は、予(あらかじ)め予定されていたと言う悪想念の結末を、自らが招き寄せ、現象化したと言う、紛(まぎ)れもない《予定説》であり、これが最初から働いている事がお解り頂けると思います。



●霊障とは

 人への憑衣や憑霊は、その原因が上げられますが、結果から考えた場合、原因など何処にも存在しません。何故なら、結果が原因を作っているからです。

 結果に則した原因が派生し、その結果に至る道筋を、原因は、ただ必然現象として単に辿るだけなのです。だから、結果が先で、原因は、後からそれに相応しい形で派生するのです。
 憑衣・憑霊現象も、結果が先で、原因はただ結果に至る為の付属品に過ぎないのです。

 自殺することに憧(あこが)れる人は、死して後、そこには念仏宗のような西方の阿弥陀仏に縋(すが)ろうとして、こうした行動に及びます。死ねば、総てが消え、総てが無くなって、その意識すら絶対に回復する事がないと信じている人です。したがって、死が楽に転じるという妄想を抱いています。

 自殺者の多くは、「生きている間は、何も良いことがなかったが、死んだらこれで楽になるのでは……?」という妄想を抱いた人達です。これは念仏宗の「南無阿弥陀仏」によく似ています。世に生きている間は、いつも苦しいことばかりだったが、一度死ねば、極楽浄土へと、こうした事を夢見る人です。しかしよく考えれば分かることなのですが、生に於てでさえ、楽を得ることが出来なかった人が、どうして死した後に、楽を得る事が出来るのでしょうか。

 これこそが、まさに自殺者の錯綜(さくそう)する心理の、錯覚状態と酷似するではありませんか。
 生きている間には、何も善いことはなかったが、死ぬ時は「せめて大往生を」と願う気持ちは、自殺者の願望描写と酷似し、したがって最期(さいご)だけが荘厳(そうごん)でありたいと願うようなもので、こうした願いは成就するはずがありません。

憑衣・憑霊の霊障の各段階。激し易い人やイライラを募らせている人は憑衣され易く、こうした初期の状態が自律神経失調症である。やがて神経症となり、鬱(うつ)病や精神分裂病へと進行する。この進行のし方は、ガン疾患のゼロ期・初期・中期・末期と酷似する。

 霊障は、様々な悲劇の結末へと人間を追い立てます。そして行き着く先は、非業(ひごう)の死と言う「横死」の状態です。私たちは、様々な場所で霊障に触れる因縁をつくり上げているのです。
 そして霊障によって、我が身を滅ぼすか、そこから生還出来るかは、その自分の魂の健全性が決定するものであり、この為にも身魂(みたま)を常日頃から磨いておかなければならないのです。



●先祖供養では精神分裂病は癒らない

 唸(ねん/断末魔の叫び波動)を残して非業の死を遂げた先祖は、僧侶の読経(どきょう、)や、墓参りをしただけでは乱れた波動の「戈」(ほこ)を簡単に納めてくれません。それほど頑迷であり、頑固で、ものわかりが悪いものです。
 特に、非業の死を遂げた人は、自分では全く予期しなかった、思い掛けない「不慮の災難」で死ぬのですから、まさに断末魔で、この苦しみは、人生の最期を飾るものとしては余りにも悲惨な出来事です。これは横死以外の何ものでもありません。

 《予定説》から考えれば、頑迷で頑固で物わかりが悪いから、横死の兆候を抱えていると言えます。横死を遂げるような人は、固定観念が強く、近未来の見通しの利かない人です。何故なら不慮の事故で死ぬのですから、物わかりも悪いはずです。
 これを先祖供養と言う仏道から見ると、そんな人が有髪(うはつ)の出家者として、仏道に帰依するような、聡(さと)い人であったでしょうか。

 まして何を言っているか分からない、僧侶の読経など、理解する余地もありません。人間の心は、一種の意識体ですから、意識で認識するには「理解力」というものが必要になって来ます。
 非業の死を遂げた人が、生前や、それ以前の前生において、例えば『般若心経』の意味を理解していなければ、死後の読経において、幾ら僧侶がこうしたお経を唱えても、無駄である事は明白です。

 生前、物わかりの悪かった人は、死して後も、長時間、その意識のままで彷徨(さまよ)っているのですから、理解力が悪かった人には、その効果が殆どありません。単に、誰かが朗読しているという程度にしか解らないのです。悩める霊魂と言うものは、もともと理解力がない為に、「悩み、苦しむ」のであって、般若心経を理解で来るだけの頭があれば、最初から悩んだり苦しんだりはしないものなのです。

 心と言う意識体は、過去から未来に、永遠に繋(つな)がって行くものなのです。始めのない始めから、終わりのない終わりまで、永遠と繋がっているのです。

 意識体としての霊魂は、宇宙の存在する限り不滅です。不滅であるから、霊体より発した唸は、永久に残り、波調として宇宙空間を浮遊します。無念であれば無念のまま、波調として残り、周りの時空を穢しながら、いつまでも漂います。

 死の瞬間は、いずれにしても、二つの波動の分離が行われます。それは肉体の波動と、霊体の波動の分離です。
 この時に、事故死は急激に分離が行われる為、激痛にも等しいショックと恐怖が趨(はし)ります。こうした唸を残して死んだ人に対し、「色即是空、空即是色」と唱えてみても、何のことやら解るはずがありません。

 特に生きているとき、仏道に帰依したり、この種の修行をしなかった人は、死して後も、これが理解できるほど「空の世界」には通じていないからです。人間は、人各々に死ぬ時の年齢が違います。ある人は幼くして事故死するであろうし、また、ある人は高齢に至っても字学の無いまま事故死することもあります。こうした人に「空の世界」の理解が、果たして、死した後、可能でしょうか。死した後、突然、理解度が上昇するでしょうか。否、意識はそのままなのです。

 般若心経愛好家の中には、意味が分からなくても、『般若心経』に書かれた文字が大事であり、その波動は愚者にも通じるとしていますが、ここには大きな矛盾があります。霊体は、すなわち意識体ですから、前頭葉を発達させないで亜人類的な非知性体では、波動の善し悪しは識別できても、そこに書かれた内容までは理解出来ません。この事が多くの不成仏霊をつくり出しているのです。これは、死して後の意識は、「遺(のこ)る」という事を明白にしていると言えます。

 人間の死は、生前の状態や意識を引き摺って死んで行くのですから、死の現象は、「肉体は失われるが霊体はそのまま遺る」という現象なのです。この霊体が「遺る」という現象は、それが自然死なのか、事故死なのかで、大きな違いが生ずるのです。

 自然死は遊離が緩やかに行われる為、こうしたショックや恐怖は起こりません。
 喩え、「空の世界」に通じていなくても、その為に波動も乱れる事はありません。ここに、選ばれし者と、そうでない者の格差が起こります。非実在界は、人間の想念が作り上げた世界なのです。

 故に、事故死は大きく波動が乱れるのです。それは恐怖心が想念から作られたものであるからです。それと同様、世間様から押し潰された自我を持つ分裂病患者も、潰れる瞬間(発病と同時)、その衝撃から大きく波動が乱れます。
 この波動の乱れが、患者自身の霊魂を司る霊体と一致した時、その共振・共鳴によって、その時点で分裂病を発病するのです。
 これを癒(なお)すに当たり、僧侶の読経(どきょう)はナンセンスであり、単に花と水を捧げる墓参りでは、何の用も為さないことは一目瞭然です。

 先祖を大事にせよと言います。したがって、人は不幸が訪れた際、普段放置していた墓に思い当たって墓参りをし、仏壇や神棚を祀(まつ)ります。しかしこれは、枝葉末節的な付焼刃(つけやきば)に過ぎません。表皮的な対策であり、実際に効果があるとは思えません。こうした事は、ごく、表皮的な気休めに過ぎないのです。

 幸福な家は、普段からこうした事を欠かさず行い、墓参りや仏事は当り前と思っています。
 ところが斜陽を経験し、不幸の暗示が表面化した時、こうした事を放置してきた家は、墓や、仏壇や、神棚に思い当たります。しかし、これに気付いた時には、既に手遅れなのです。手遅れを、取って付けたような付焼刃的な対策では、何の意味もないことは当たり前です。



●呪いと言う再憑衣

 理解力がなく、頑固で頑迷な人は、死して後、新たに「呪いの霊」に、再憑衣され易いようです。霊魂の影響のうちで、「呪い」ほど恐ろしいものはありません。

 元来の憑衣・憑霊現象は、悩める霊、迷う霊、苦しむ霊と同じ波動を持ち、同じ霊的波調を持っていたから影響を受けるのですが、呪の場合は、波動が似ているとか似ていないとかに関わらず、積極的に取り憑(つ)こうとする相手の波動を乱し、霊的波調を狂わせて、強引に憑衣する恐ろしいものです。

 そして、その憑衣を許すか許さないかは、その人の食性が決定します。つまり、その人が何を食べているかという事で、簡単に憑衣されて了(しま)うか、そうでないかが決まってしまうのです。
 全般的に言って、動物性蛋白質を多く摂取している人の方が簡単に憑衣され易く、これは動蛋白を摂取する事により、血液を汚染させ、霊的波調を狂わせているからだと考えられます。

 血液には、「血の保菌者」という過去の業(ごう)を抱える者が存在していて、先祖の血が、様々な憑衣・憑霊現象を起こすものだと考えられています。したがって肉食をすれば、当然のように血液を汚し、血液が汚れた状態に於ては、憑衣・憑霊が意図も簡単に行なわれてしまいます。

 また、呪の多くは「筋違いの呪」というものであり、この筋違いの霊側の意識が、全く無関係な第三者へと飛び火する事もあります。これを解消する為には、呪う事の筋違いを諭(さと)すことが大事なのですが、呪う霊の理解力が欠けている場合、かなりの時間がかかり、その間、なおも呪う事によって永久に救われない苦海に沈みます。そしてその意識の唸は、積極的な悪意が存在している事も否定出来ません。

 呪は、様々な波調に変化して、誰でも構わず取り憑こうとするのですが、「人を呪えば穴二つ」という諺(ことわざ)を理解できなかった人は、呪った後も、永遠に救われない苦しみの底に沈んでいます。そして、こうした霊は理解力の薄い、頑固で頑迷な霊魂である事は言うまでもありません。

 呪った側も、呪われた側も、お互に不幸になると言う事なのです。不成仏霊の多くは、こうした呪が起因になって、生きている人間には原因不明の病気(決定的な効果方法を持たないガン疾患末期や精神分裂病等)に至らしめたり、不成仏の亡者の霊に再憑衣して、更に苦しめよう(本来は縋(すが)ると言われるが)とするのです。

 したがって、不成仏霊にも「自己学習」が必要であり、また、生きている人間の義務としては、まず自身が、食を慎んで血液を汚さない事であり、次に、少しでも布施(ふせ/人に物を施しめぐむことで、慈しみの心)の気持ちがあるのなら、食べ物を食べられなくて、餓死で死んだ不成仏霊に対して、その気持ちを察し、月に一度くらいの「断食」をして、こうした不成仏霊の気持ちを察する事が大事です。

 この気持ちに至って初めて、自他同根の意識が芽生えるのであって、ただ憑衣・憑霊されない為に、動蛋白摂取を拒み続け、逃げ回るだけでは、総べての不幸現象は解消しないのです。
 自他同根とは、自分の為にではなく、他人の為に祈りを捧げる気持ちなのです。