19



●悩み苦しむ霊魂を癒すことこそ、分裂病完治の近道

 『般若心経』は「色即是空、空即是色」を説きます。その中心課題は「空」です。実際には、色も形もなく、その実体は「空」である、と説きます。また、このお経に入れ揚げる文化人や学識経験者、ならびに行法者は少なくありません。

 ところが残念な事に、空海が持ち帰って来た『般若心経』は、肝腎なものを抜いてしまった「簡易形式」のもので、重要な処は総て抜け落ちています。空海自身もこれに気付き、自分でも知っていて、重要な処は秘伝として隠し、人畜無害な「簡易形式」のみを公開したという節があります。多くの仏教家は、この現実を知りません。

 したがって苦しみも悩みも迷いも、そうしたものは総て幻覚幻聴であり、一切の柵(しがらみ)を捨て去る事が、「智慧(ちえ)の完成」に至る近道だと説くこのお経は、重要課題であった霊魂の存在を、総べて隠してしまっているのです。
 「般若波羅蜜多」(はんにゃはらみた)とは、「さとりへの智慧」を指し、この般若経は「般若波羅蜜多心経」あるいは「摩訶般若波羅蜜多心経」と言われます。

 『般若心経』は、唐の玄奘(げんじょう/唐代の僧で、法相宗・倶舎宗の開祖。一般には三蔵法師の名で知られる)の訳に、二文字が付け加えられ、二百六十二文字からなる漢訳(日本式漢訳)のものであり、般若経の真髄(しんずい)を簡潔に説く「心経」です。そして日本では最も流布されている、お経として知られます。
 しかしこの「般若心経」を日本に持ち帰ったのは空海であり、空海はサンスクリット語の原文を持ち帰りましたが、これを密教に封じ込め、一般には公開しませんでした。密教に封じ込めたのは、霊魂の実体であり、この実体は波動もしくは霊的波調であるという事を公開しなかったのです。

 したがって大事な処は総て脱け落ち、隠されています。空海は公開しなかったのです。ここが霊魂を理解する上で大事なところなのです。したがって、在来の般若心経は本物とは違います。あくまで「簡易形式」の霊力の伴わない人畜無害なものです。

 こうした実情を踏まえて、果たして「般若心経」の読経は、その効力を持ちえるのでしょうか。
 また、日本式の漢訳「般若心経」は、空海の持ち帰ったものとは違いますが、それは同時に「真髄」を忠実に写取ったものとは異なります。
 ただでさえ、難しい漢字が並び、それすら理解できない人が多い中、正式な原文はサンスクリット語とすると、これは更に常人には難解であるはずです。果たして幼児や字学のない人が、簡単に受け入れられるほど、その心経は、死した後、何人にも理解しやすいものなのでしょうか。

 こうして考えていくと、理解できない者にとっては、難解な代物であるばかりでなく、これを語られても困惑するばかりでないでしょうか。そして益々悩み、苦しむ現象が起こります。理解できない者には、無用の長物となります。更に、人畜無害となれば、要するに「害」がないということであり、「効果」もないということを指します。

 さて、非業の死を遂げた霊魂は、何故悩み、苦しむのでしょうか。
 既に、繰り返し述べてきましたが、繰り替えし述べても述べたりない思いがあります。したがって幾ら強調しても強調し過ぎることはないので、更に念を押します。このポイントを徹底的に理解する事が大事なのです。

 肉体に従う心は、物質(物欲)という強いエネルギーによって構成されています。これが「唸」(言葉や言霊を伴う意識あるいは今の心の姿)または「想念」(非実在世界に描き出す完成図)です。それに引き換え、霊体に従う心は、肉体の十分の一に過ぎません。これが「肉体:霊体」の「9:1」の関係です。したがって常に肉体の心に振り回されます。この心は、低空飛行が好きで、怠け者で、不勉強で、苦を嫌い、楽を好み、自分以外(自他同一の認識がない)を憎み、妬み、恨み、羨望を持ち、欲望を露(あらわ)にした心です。

 生きている時は、この二つの波動エネルギーが一致しているので、霊体の心と肉体の心は、一体となって重なり合わさっていて、区別することができません。肉体だけの心で動いているように感じます。
 霊体の心は「善」であり、欲望がありません。逆に、肉体に心は「悪」であり、欲望が伴います。パウロが強調した「善人なし、一人だになし、善をなす者なし、一人だになし」の所感は、人間構造を形成する「肉体の心」のみを見て発した言葉だったのです。

 肉体の心と、霊体の心は、各々別々の働きをします。肉体の波動は、霊体の波動に比べて十倍ですから、常人・凡夫の類は、霊体の心が肉体の心に従属する形で行動します。その結果、人間本来の自主性を無くし、自らが「主人公」という主体を見失ってしまいます。そして肉体の心の、苦しみや悩みや迷いは、結局、霊体の心の苦しみや悩み迷いと重なって、比重の小さな霊体までもを覆い尽くしてしまうのです。

 これは肉体を持って居る間は、肉体の心のそれですが、死した後は、霊魂に委ねられます。これが悩み迷いや苦しみとなって、宇宙空間を漂うのです。
 したがって問題は、死に際しての考え方となります。

 常人・凡夫は、簡単に死生観を解決することができません。死の超剋(ちょうこく)が出来ないから、死にたくないと思います。まして、死の準備ができていなければ、尚更の事です。
 死に際して、人間の多くは宗教にその拠(よ)り所を求めます。これは死刑囚を見れば、一目瞭然でしょう。
 彼等は、教誨師(きょうかいし)の前に頭を垂れ、教誨師の言葉にできるだけ多く耳を傾け、自分が死して後、救済される方法を何とかして模索しようとします。死刑囚は、懸命に救われることだけを考えます。罪の償いは、二の次です。

 しかし、真摯に教誨師の言葉に耳を傾け従順な姿は、端目(はため)には聖人のように映ります。だがこの聖人の姿は、改心した姿ではなく、ただ救われたい一心で、聖人のような行動をとるに過ぎません。やはり何処かで、死生観が解決できない苦悩があのです。
 したがって彼等は、死生観を超越するどころか、殺人罪の何たるかを反省しないばかりか、自己中心的な救済だけを求めて、死の恐怖から逃れようとします。

 ここに彼等は、彼等なりの言い分(唸)を残して死んで行きます。殺した者への謝罪も反省もなく、自分一人が救われたい一心で……。
 この構図は、まさに自他離別の認識であり、悪想念に他なりません。
 したがって、殺された者はいつまでも恨みを抱きます。「前生ではお前が、俺を殺したのではないか」と。
 こうした唸は「目には目を、歯に歯を」のハムラビ法典的な同害報復なっている為、一種の仇討ちであり、彼等の多くは、霊魂を理解しえないのです。この理解力欠如の為に、「兇(わる)いメグリ」を来世に輪廻します。

 霊魂という存在が、どういうものであり、それが理解できれば、死というものは、どういう事であるかを理解でき、それを心得ている人は死に対する、一切の迷い悩みや苦しみは解放されます。安らかに、もと来たところへ還って行けるのです。

 しかし霊魂を信じず、肉体に心を奪われた人(可視現象のみを科学という名で盲信する人)は、自分が死んで行く時、戸惑いを感じます。あるいは死んでも(肉体が)、死んだということが自覚できません。
 この自覚に欠けるところに、肉体の心から発した唸は、霊体を媒介として、宇宙空間を彷徨うことになり、同じ波調を持った人にチャンネルを併(あわ)せ、それを求めて永遠と彷徨い、宇宙空間を低い次元の波調(唸)として漂流します。そして彷徨った先が、血縁の遺伝子構造を同じくする、子孫であったということが、そもそもの分裂病病因のメカニズムです。

 苦しみを残し、悩みを残し、迷いを残したまま、生に対して執着し、死に対して恐怖を抱く肉体の心は、死した後も、同じ周波数を求めて何時(いつ)までも彷徨い、漂流します。
 そして見つけた先が、自我を潰された、同じ周波数の精神分裂病寸前の子孫だったというのが、先祖の憑霊現象です。

 僧侶の読経は意味がありません。墓参りをして花や水を捧げ、供養しても、それは世事的なことです。やるべきことは、こうした付焼刃的な事ではありません。読経と墓参りと供養で分裂病が癒(なお)るのなら、百人に一人の分裂病患者は、世の中から居なくなるはずです。しかし一向に減らないのは、未(いま)だに浮遊する霊魂が解決を見ず、迷い悩み苦しんでいるということになります。分裂病は、現代の恥部として、増える傾向にあるとも言われています。



●霊導法と兇いメグリの解消

 さてここで、もう一度、「兇いメグリ」の解消法について復習し、整理しましょう。解消法を実践する場合、その認識と整理したいことは次の通りです。

1. 人間は肉体(生体)だけでなく霊体(命体)を持っていること。これを総して生命体という。
2. 肉体には心があり、また霊体にも心があり、肉体の心は性悪説からなり、霊体の心は性善説からなる。パウロの「ローマ人への手紙」は、これを克明に表わしている。そしてパウロは肉体の心を見て、「善人は一人もなし」と言った。
3. 常人の肉体と霊体の分離比は「」である。その為に霊体の心は引きずられ、隷属を余儀なくされる。人間が良心を捨てて悪事を働くのは、この為である。肉体は、元々自己主張が強く、「低空飛行」が好きなのである。
4. 霊体を構成する霊魂は、永遠不滅であり、輪廻転生(生まれ変わり)を企てること。しかし時には、転生が失敗して、人間以外のものに生まれ、仏性を失う者もいる。動物的な低級霊(人霊の変質)は、これに由来する。例えば、中有(ちゅうう)となって宇宙空間を彷徨っている時、近くで犬や猫が交尾しているのを見ると、そこに留まってしまい、雄が射精すると同時に、その精虫の一匹に成り済まし、雌の子宮に潜り込んで、かつて自分が人間だった事を忘れてしまう。
 動物にはそうした者が多いが、本来は人間以外の物に生まれ変わる事がなかった。欧米風の食生活の元凶になっている、食肉主義がこうした想念を非実在界に作り出した。
5. 肉体的苦しみは、生きている時だけのことであり、死した後は、肉体の波動と霊体の波動が遊離して悩みや苦しみや迷いは一切消え去ること。般若心経を模して言えば、「色即是空、空即是色」は、これを如実に物語る。
 しかし、霊魂や想念のメカニズムを明確にしていない為に、人畜無害ではあるが、効果を得る事が少ない。
6. 事故死で非業の死を遂げた人と、自然死をした人の遊離状態において格差があり、事故死する場合は肉体と霊体の波動は急激に分離する為その衝撃が大きく、また、自然死をする人は、肉体と霊体の波動の遊離が緩やかなため殆どその苦痛が感じないこと。
7. 人間の死は肉体の死であって霊魂の死ではないこと。したがって、肉体の死は死んだその人が居なくなったように見える可視現象である。
 しかし死した後、霊魂は肉体を持たないので、物理的にはそれ自身で作用は及ぼさない。ところが肉体を持たない、霊魂は生きた人間の魂(泥丸から発する脳波「θ波」)と結んで肉体をコントロールしようるする。
8. 霊魂は超時空の存在であり、本質は「意志」であって、肉体を持たないこと。
9. 超時空の存在である霊魂は、本来ならば、見えたり感じたりすることはない。これが正常であって、正常者は、これらを感じないようにフィルタという防禦網を持っている。
 ところが血縁上、遺伝子構造が同じで、非業の死を遂げた先祖が三代前までに遡(さかおぼ)って、こうした先祖が居る人は、その先祖の唸(ねん)が自分の霊魂と共振・共鳴したとき、受信チャンネルが同じならば精神分裂病を発病することがある。
10. 精神分裂病の犯人の正体は「世間様」及び世間様の「目」であり、これを過剰意識したため、二者選択において、フィルタ構造が貧弱な感受性の強い人は、強い衝撃によって自我が潰される。この瞬間、非業の最期を遂げた先祖の唸と重なって分裂病を発病する。これが憑霊現象である。
11. 分裂病は血統から起こる病気ではないが、遺伝子構造が先祖と似ている為、共振共鳴しやすい遺伝子構造を持つ。したがって浮遊する先祖の唸は三代末までの子孫に取り憑く。取り憑(つ)こうとする霊体(霊魂)は、父母であるかも知れないし、祖父母であるかもしれないし、また曾祖父母であるかもしれない。
12. 憤懣(ふんまん)やる方ない非業の死を遂げた先祖は、無念の唸と、現世に生への執着の唸を残しているので、それは恨みであり、未練であり、心配である。従って後に残った者はこれを片付けてやるという「約束」を語ると、納得することがある。
 この際、できるだけ理解しやすい、簡単な言葉で話しかけ、間違っても「般若心経」や、その他の宗教的教義を持ち出して、語り掛けないこと。また、呪術師や祈祷師を呼んで語りの代行をさせないこと。あくまでも主体は、分裂病を治そうとする愛情と根気と努力を覚悟した、あなた自身である。
13. 分裂病患者に語り掛けるとき、患者には知らせない方が良い。知らせると患者自身が勝手に盲念を抱き、誤った霊魂観(霊魂を信じない、あるいは妄想的な霊認識)があれば逆効果となる。自分で勝手なイメージを作るからだ。
14. 分裂病患者や、酒乱といわれるアルコール依存症を癒す場合、精神科の医学的療法と両立させながら「語り掛け」を行うことが必要であり、これには「癒そうとする」愛情と努力と根気が必要である。
15. 非業の死と遂げる場合、多くの人は死んだと気付かない人が多い。例えば、自殺した人は列車等に飛び込んで死んだとしても、同じ形をした霊体が残っているので、死んだと思わず、再度死ぬ為に列車に飛び込む。こうしたことを何度も繰り返し、霊体だけで実行しているのである。無間地獄はここに由来する。
 また、溺死等でもがきき苦しんで死んだ人はその苦痛が霊体の心に残留する。あるいは子宮ガン末期で病因の固いベットの上で死んで行った人は、子宮から強い悪臭を放つ為、その悪臭と死の恐怖が残留する。
 これは死を悟るか、否かにある。生前その人が頑迷であれば、この唸(ねん)はしぶとく残るが、悟り得る人(理解力の早い人)は、死の自覚を早くする。したがって悟るか否かに、個人差がある。悟りの遅い人は分裂病患者に何時までも取り憑いて離れようとしないが、悟りの早い人は、自分の死を自覚して早々に離れる。

 以上列記したことが理解できれば、その「語りかけ」という方法においてのみ、精神科の医学的治療と平行させて分裂病(酒乱を含めて)患者を癒(なお)す事が出来ます。

 しかし精神科だけの治療法では、どうしても治療が難しく、また肉体的な病気と異なり、「こうすれば治る」という確固たる治療法が確立されていません。それでも現在に於ては、急性の場合、早期に発見して早期治療を行なえば、三分の一ぐらいは治るとされていますが、絶対に完治するものではありません。

 精神科での治療方法は、抗うつ剤等を投与する精神安定剤や精神賦活剤をはじめとして、電気ショック療法、インシュリン衝撃療法、作業療法そのたの精神療法等が考案され、それなりの成果を収めていますが、発病原因が不明の為に、発病後、数年を経過すると、中々治らないのが現実であり、実際には数カ月あるいは数年単位で、入退院を繰り返していると言うのが実情です。

 電気ショック療法等を用いますと、はじめは非常に良い効果が現われますが、これは一時的なものであり、良くなったように見えても、再び旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻り、前より非常に悪くなることがあります。これは電気ショックによってびっくりし、一時的に憑霊が退去するだけのことであり、また、再び憑霊するからです。つまり精神科の医学的な治療は、あくまでも霊導法の補助的なものでしか過ぎません。霊導法は、霊導法自体を「主」に考え、精神科の医学的治療は「従」として行なう必要があります。

 憑霊現象を齎す最大の病因は、発病の原因が分からないのではなく、先祖に恨み等を抱いて死んだ人や、非業の死を遂げた人がいる場合、その精神構造並びに霊的波調が同じ場合、「必ず、憑霊される」ということです。必ず憑霊されると言う事が、予め予定されていますので、この予定に沿って、原因が派生し、後は結果に向かって、それが実行されるだけなのです。
 予定は、必ず実行されると言うことを忘れないで下さい。

 そしてもし、この予定が実行されてしまった場合は、分裂病完治に向かって「解決する」と言う方法ではなく、総てを昇華させて「解消する」という方向に向かって努力しなければなりません。解決では、完治になりません。根が残っていますから、再び浮上することは免れません。だからこそ、「解消」が必要なのです。
 霊導法は解消させる為の、唯一の方法なのです。そして被術者には、霊的構造を理解させ、以後の食事法を改め、また、不成仏霊にも徹底した理解を諭さなければなりません。



●酒乱について

 憑霊者への霊導法と同じ方法で、酒乱を癒すことも出来ます。酒乱とは、アルコールが入ると人が変わってしまう人のことを言います。アルコールの入らない時は非常に大人しいのですが、これが一旦入ると、形相が変わり、人格が豹変して、乱暴したり、大喧嘩をやらかしたりします。

生涯、酒乱に悩まさ続けた黒田清隆。

 ちなみに、幕末・明治期の政治家・黒田清隆(元老、伯爵。1840〜1900)は酒乱でした。酒乱による奇行で、三条実美に禁酒を命ぜられますが、一向に改まらず、優れた資質を持ちながらも、酒乱の為にトラブルを続出させました。そして妻が、お抱えの車夫と姦通したとして、その妻まで、酒乱で斬り殺ろしてしまうのです。判決は無罪となりましたが、何とも後味の悪いものでした。

 黒田は薩摩藩士で、戊辰・西南戦争の官軍参謀して活躍し、また、開拓長官として、北海道開拓に尽力した彼は、大久保利通死後、薩摩の中心者となり、農相・逓相・首相・枢密院議長を歴任しましたが、晩年は悲惨でした。有能な資質に恵まれながらも、こうして不幸現象を目のあたりに見る人もいます。彼には、先祖に遺恨の残して死んだ人か、あるいは非業の死を遂げた人が居た為でしょう。酒乱は、先祖の因縁が絡む為、武家や、名字帯刀を許された豪農を先祖に持つ人に多いようです。

 家柄等の、生まれが良い、才能や素質に恵まれている、富豪の家に生まれた、親の七光りが存在する等の家庭の子弟に属したとしても、これは必ずしも幸福とは言えないのです。

 さて、アルコールが入ると、中毒症状にある場合は手が慄える等の現象が起こりますが、こうした状態が進行しますと、幻聴や幻覚が顕(あら)われるようになります。ここに至って「酒乱」と断定されます。こうした酒乱になると、朝から酒浸りになり、仕事にも手がつかなくなります。こうした人は、紛れもなく、人霊が動物等の低級霊について変異した動物霊か、因縁絡みの先祖の不成仏霊が、憑衣・憑霊したものであると考えられます。

 また、酒乱に酷似した現象に、パチンコや、競輪・競馬・競艇等のギャンブルに凝り、これに現を抜かしたり、仕事そっちのけ、育児そっちのけで、家庭も顧みない場合も、まず、憑衣・憑霊であると考えられます。要するにアルコール依存症と同じ精神病であり、昨今は、乳幼児を持つ若い母親が、我が子を車の中に放置して、パチンコに熱狂し、我が子が車の中に居ることを忘れてしまって、死亡させると言う事件が起こっていますが、これなども明らかに、憑衣・憑霊現象の最たるものと言えましょう。

 最近のパチンコ熱は、女性のパチンカーも多くなっている為、こうした女性が増えていると言う社会現象を考えた場合、現代は明らかに多くの人が憑衣・憑霊される時代であると言えます。

 夢遊病者等の行動も、明らかに不成仏霊に操られた行動であり、こうした現代科学では解明できない不可視世界の現象が、今日の社会では多く顕われるようになりました。不定愁訴等もその一つであり、躰の変調を訴えて、病院に行ったところ、肉体的には何処も異常がないと言われた場合等は、まず霊障が起こり始めていると考えるべきでしょう。



●酒乱とアルコール中毒の違い

 現代精神医学では、酒乱もアルコール中毒(alcoholism)も同じテーブルの上に乗せられて、同じような診断が下されているようです。しかし、この両者は厳密に言えば、本質的に異なります。
 アルコール中毒は肉体的な現象であり、酒乱は紛(まぎ)れもなく霊魂が関わる現象です。

 人体における肉体は、肉体を正常に保つ為に、その自衛手段として自然治癒力が働きます。肉体そのものが自律神経を通じて、肉体の波動を正常に保とうとするからです。したがってアルコール等の、肉体波動に異常を与えようとする異物が入り込んで来ると、これを排除しようとして、反対側の物質を体内で作り出し、中和しようとします。

 少量のアルコールでも、朝昼晩と切れ目なくこれを飲用すると、体内には微量のアルコール分が残留します。《類は類を呼ぶ法則》から、残留したアルコールは、その量自体が希薄になって切れかかると、脳を媒介して、アルコールを再び呼び込む作用を促します。これがアルコール中毒に至るメカニズムであり、次第にその量は多くなっていきます。多量の飲酒によって、やがて制御中枢が破壊され、中毒を起こします。

 アルコール中毒は、急性中毒の軽いものは酩酊(めいてい)ですが、重いものは、人事不省や血管拡張や呼吸および心不全を来します。
 更に、慢性中毒では人格の退行、肝障害、神経炎、精神の異常等を招きます。こうした状態に至るプロセスは、肉体と言うものは、毒素が入って来た時だけに、毒素を分解する抗毒素を生産して、これを中和しようとするのですが、こうした状態が長期間続くと、抗毒素を作り出す臟噐も肥大化し、常に大量に生産される事になります。

 アルコール中毒の病因はここにあり、アルコールと言う毒素が体内に流し込まれた時、抗毒素を作り出す機能を持つのは当然ですが、アルコールがない時も、抗毒素を生産する為に、肉体的な症状として、手が震(ふる)える等の肉体的な拮抗(きっこう)が失われた現象が現らわれるのです。
 しかしこれはあくまで、遺伝に纏(まつわ)る体質的なものであり、同じ量を飲んでもアル中になる人と、そうでない人に分かれます。

 さて、酒乱は、その人と霊魂が相似形の波動を持ち、霊的波調の周波数が、ほぼ同じである人に起こります。霊魂が生前、酒乱かアル中で、酒が飲みたいと言う願望を死した後にも持っている場合は、その憑衣・憑霊した人の意思に関わりなく、酒を飲まずにいられなくなるような状態を作り出し、無理矢理飲ませてしまうのです。

 酒乱の人は、アル中患者と異なり、酒を飲まない時は非常に大人しく、その性格は温厚で内気な人が多いようです。それだけに、逆にストレスが溜まると言う欠点を持っています。
 酒乱は、この欠点が、逆手に取られて利用され、憂(う)さ晴らし的に、アルコール類の飛びつくのです。
 脳の記憶中枢には、酒が一定量をこえると、ある種の酩酊(めいてい)に陥り、肉体的なこれまでの緊張が解けると言う事を記憶していますから、こうした酩酊が続くと、関与した霊魂によって、その人の思考が大きく乱されます。それに加えて、酩酊が更に進むと、これまでのプレッシャーになっていたストレスから解放され、本能に任せて、異常行為に及んだり、乱暴を働く事になります。

 酒乱は、そのもの自体では遺伝しませんが、体質に関係があるので、死んだ祖父や父親に、こうした人が居て、酒で人生を失敗した人がいるような場合、その子孫には、やはり酒乱になる事例が多いようです。そして酒乱は、アルコール中毒等の精神病と同じように、本人の波調と、憑衣・憑霊の憑衣物(つきもの)の波調が相似形である場合、肉親の血族でなくても影響を受けていることが多いようです。

 また、酒乱とアルコール中毒の合併症があり、アルコール中毒でありながら、憑衣・憑霊の憑衣物に苦しめられている人もいます。
 こうした人の多くは家族構造に問題があり、親子断絶で崩壊している家族や、夫婦不和で家長不在の家族では、やはりこうした霊的病魔に襲われ易く、また自分自身の意志力も希薄ですから、一度飲み始めると、もう止まる事がありません。これはまさに、酒乱が不成仏霊の仕業(しわざ)であると言う事を如実に物語った現象です。