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●断末魔の叫びの瞬間

 人は想念の遣(つ)い方の誤りによって、非業(ひごう)の死を遂げることがあります。無理に「方位」にこだわったり、占いの暗示にこだわりますと、それが起因して、逆の悪想念が侵入し、非実在界の現象バランスが拮抗を失います。その拮抗構造は、一度機能を失いますと、悪想念に満たされて、運気の流れは、方向を変える事が出来なくなります。
 既に運気とは、自分の外にあるのではなく、裡側(うちがわ)に内蔵されていて、それが自分の運命として現象化されているのに過ぎません。

 運とは、「軍」が「走る」、まさにその事を現しているのです。軍が走る流れを変える為には、沈着冷静でならなければならず、また真摯(しんし)で、真剣勝負的な発想が必要です。こうした事を軽視し、単に方位や、呪術師や占い師の言に随(したが)いますと、後で取り返しのつかない事が起こります。

 暦(こよみ)を繰って、吉日を探したり、吉方等にこだわりますと、「今日一日」の、本当に良き日を取り逃がしてしまいます。
 多くの人は昨日の悔(く)い、あるいは明日を憂(うれ)うることが多いようです。これは「今」という時点を、昨日の影法師にびくついている構造の心があるからです。そしてこれこそが、悪想念の最たるものになります。

 今日一日は、巧妙に輝いた、希望に満ちた今日一日であり、この今日一日の中で人は人生の修行を重ねて行きます。今日一日の中には、今日一日の中でしなければならない「修行課題」が提起されていて、それを人は履行(りこう)するのです。今日一日にしなければならい事は、今日一日の中にあり、今日を取り逃がす人は、「一生」を取り逃がす人です。

 日の善し悪しと言うような、占い師の言に惑わされて、悪想念を呼び込む暗示に掛かる人は、非常に気の毒です。眼の前に宝の山が転がっていて、暦を捲(めく)り、今日は日取りが兇(わる)いからと言って、これを見捨ててしまうのでしょうか。
 また、今日の方位の吉凶を探し、今日一日の修行の行動を方位に委ねてしまうのでしょうか。

 さて、あなたは「今日一日」という、この日をどのように捉えているのでしょうか。
 今日一日は、一生に二日とない倖(しあわせ)を齎(もた)す吉日であり、また悪想念で心に隙(すき)を作れば、どんな恐ろしい危険が襲うかも知れない、最悪の厄日となるのです。これを吉日にするか、厄日にするか、それはあなた自身の心の中にあります。九星気学の早見表や、暦や、吉凶方位盤の中にあるのではありません。
 こうした非実在世界の現象を見逃して、自ら墓穴を掘って、自らの命を失う人は後を絶ちません。
 心の隙(すき)が、厄日を齎(もたら)し、事故死や横死を招き寄せるのです。

 さて、ここで事故死・横死の例を幾つか挙げてみましょう。

 
事故死・横死の第一例
悪想念の発露
 著者が大学三年の頃、学友に列車飛び込み自殺を遂げた人がいました。たまたま学友が棲む学生寮に遊びに来ていた為、警察への協力という名目で、寮生全員が彼の死体捜索の為に駆り出され、著者もこの捜索に付き合わされる羽目になった事がりました。
 あれから35年以上経った今でも、バラバラ死体を鹿児島本線沿線沿いに、寮から借りた石炭箱(この時、どういうわけか他に容れ物がなかった)を持って、数人のグループで探しに行ったことを、何ともやり切れない出来事として、当時のことを覚えています。
 死体は沿線に2キロ前後に散らばり、手足等を拾って石炭箱に入れていった覚えがあり、無慙(むざん)なものでした。中々最後まで見つからなかった馘(くび)も線路下の草叢(くさむら)の中から発見されました。裸にされたようになり、死体と衣服が別々に発見されたのも、印象的でした。衣服は、列車に引きずられて、ズタズタに切り裂かれたものと思われます。
 見ると胸を袈裟斬りにするような形で、上半身の一部に、馘がついているという感じで、貌(かお)が異様に曲がり、左右が捻れ生前の面影が感じられない、下手な粘土細工のような物体となっていました。それは苦悩を称え、無慙に歪んでいました。どす黒い貌に、衝撃の趨(はし)った死にざまは、何とも言いようのないものでした。こういうのを「無念馘」と言うのでしょうか。
 そして、よく貌(かお)を見ると、目は三白眼(さんぱくがん)で白眼を剥(む)き、何とも痛々しいしい限りでした。自殺とは、このような穢(きたな)い躰(からだ)になるのかと、著者自身が虞(おそ)れを為(な)したくらいです。
結果
 横死の典型的な死相が、苦痛をたたえた貌の捻れです。フランス革命当時のギロチンで処刑された馘、あるいはかつての日本軍が、中国大陸でやらかした時の、中国人斬首の馘等の報道写真を見てみますと、どれも左右が歪になり、殆どが「無念馘」と言われるものです。
 恐怖と口惜しいあまりに、憤懣(ふんまん)やるかたなく泣いた貌です。こうした死に顔から窺(うかが)える死相を見ても、横死であることは間違いありません。
 こうした人が、また地縛霊となって、自殺願望者を引き込んで行くのです。自殺のあった所では、そこが不浄空間(炭素の還元・保存作用が無くなり、浄化エネルギーが失われた空間)となって、1キロメール以内に必ず、次の自殺者が出るのは、この為なのです。

 
事故死・横死の第二例
悪想念の発露
 昭和四十年当時の、ハイキングで山歩きをした時のことでした。
 山中の松の木に、何や人間らしいものがぶら下がっているのを発見した時でした。それは女の自殺死体であるということが、遠方からも確認できました。第一発見者として近くの民家に走り、電話を借り、警察に電話して、現場検証に立ち合わされたことがあります。
 死者の年齢は、その服装から若いと思われたが、臨終が悲惨で年齢が推測できず、年齢は五十前後にも見える老けた貌でした。貌からが眼球と舌が飛び出し、青洟(あおばな)を垂れ、スカートの下から二本の脚がぶら下がっていましたが、苦し紛れに漏らしたと思われる、汚物とドス黒い血がへばりついていて、全身が黒褐色に近い色に変色していました。そして辺りは死臭で充満していました。【註】これが男の場合は大小便の汚物とともに精液を垂れ流す)
 その形相は大変なもので、後で分かったことですが、自殺した女性は近所の人で、18歳ということでした。分裂病特有の、口から白い泡のようなものを舌と一緒に吐き出していました。傷(いた)ましく、無慙というより、穢いと思いました。自殺者は共通して「穢(きたな)い」と印象を受けるものです。
 この女性は死ぬ際に、自分の死んだ後がどうなるか、予想できなかった為に、最も穢い「首吊り」という死を選択をしたのでした。
 そして極めて見苦しいことは、首吊りをした後に藻掻いた痕(あと)があり、自分の頸(くび)を絞めた縄を何とか外そうとしたのではないかという、断末魔の痕が感じられました。
 つまり、一旦死のうと思い、頸(くび)に縄を掛け、踏台から離れて死のうとするのですが、そのあまりの苦痛に死ぬのを取り止め、心変わりを起こして、中断しようと思われます。しかしグイグイと締まる縄が外せず、一人で悪戦苦闘した末、力尽きて本当に死んでしまった、という推測が成り立ちます。
 したがって垂れ流し等の汚物や流血(生理日の為か?)があり、極めて穢い死にざまを曝(さら)したという結論に至ります。全く愚かな行動であったのではないでしょうか。
 この年齢の自殺原因は分裂病によるものか、あるいは失恋によるものであるのか、生前の身辺調査を待たねば分からないものでしたが、後で分かった事は、やはり前者だったのです。
 著者は、映画やテレビ等の事件物で首吊りシーンがよく出てきますが、あれは大きな間違いであると言う事を指摘しておきます。あんなに原形を残すほど奇麗なものではないからです。汚くて、臭くて、貌は断末魔の叫びで醜く歪んでいるのです。
結果
 分裂病的な動機があるにしろ、あるいは失恋的な病気があるにしろ、自殺する人の心理は、自分自身の霊的神性が動蛋白摂取過剰で曇らされ、霊的波調が低下して、これが粗(あら)くなり、その粗くなった隙間に低級霊等が取り憑(つ)き、その人と共に、もう一度死のうとする事です。分裂病は身体が占領されて、二重人格の妄想が起こるのですが、これに似た状態が失恋であり、この部分は非常に共通しています。
 恋が盲目と言われるのは、異性間に心が動いた場合、そこに隙間が出来て、霊的神性が曇り、霊的波調が下がり、その間に低級霊が「風門」(ふうもん/背骨上部の頸椎辺りの箇所)から潜り込むと言う、霊的メカニズムです。

 
事故死・横死の第三例
悪想念の発露
 横転した大型トレーラーの荷台から、滑り落ちたブルドーザーの下敷きになった、軽乗用車の中で圧死した若い女性ドライバーの死にざまでした。
 この時、著者は自転車に乗っていて、信号待ちで自転車を止めました。季節は五月中旬の初夏であり、クーラーを入れる程ではありませんが、そうかと言って窓を閉め切る程の季節でもない頃でした。概ねのドライバーは窓を開けて、新緑の季節を楽しむ気候であった事を覚えています。そして毎年この頃になると、その女性の躰から発したのと同じ様な死臭(この臭いは圧倒的に女性が多い。生理不順で「おりもの」が多い女性は、生理機能を狂わせて死臭を漂わす)が何処からともなく漂って来て、圧死したこの女性の事を思い出します。
 緑の季節の爽(さわ)やかな風が吹くと思い出してしまうのです。それは極めて長閑(のどか)な季節の午後、一台の女性が好む某社ご自慢の、今売り出し中といったファッション軽乗用車が信号待ちで止まりました。
 著者は、その運転している女性の貌を一瞬の興味本位で覗きましたが、別に意図あってのことではありませんでした。また、その若い女性も、著者にキッとした表情で一瞥(いちべつ/流し目のような鋭い、バカにした目付きをキッーと返す。既にこの女性は、この時点で悪想念を呼び込んだものと思われる)をくれました。
 そして信号が青に変わるか変わらない瞬間、一台の大型トレーラーが猛スピードで突入してきたのです。恐らくトレーラーの運転手は、反対側の信号が赤になったから進めると踏んだのでしょう。
 しかし信号は青にならず、三叉路(さんさろ)の信号の斜め側の信号が青になり、こちら側は赤のまま暫(しばら)く停車しなければならなかったのです。そして悲劇は、この時に起こりました。
 トレーラーの運転手が急激にブレーキを踏んだ為に、ジャック・ナイフ現象を起こし、荷台に積んであったブルドーザーが、その横転によって軽乗用車の上に転がり落ち、女性ドライバーを、車ごと潰してしまったのです。その凄まじい出来事は、今でもはっきりと覚えています。
 鉄の塊(かたまり)のブルドーザーは、軽乗用車の軟弱なボンネット付近から運転席に目掛けて直撃したらしく、潰された女性は、それでも生きていました。この世のものとも思えぬ断末魔の大声を張り上げて助けを求めました。まるで地獄の底から地響きを立てるような、恐ろしげな怒声(どせい)に似た声でした。この声には著者自身も圧倒されました。はっきり言って、今、何が起こったのか把握できない程、著者自身も混乱していたのです。
 恐らく腰から下はスルメ烏賊のように伸(の)しを掛けられたような、ペチャンコであろうと想像出来ました。道行く人も何事かと振り向き、何人かは掛けより、じっと、凄まじい光景を唖然(あぜん)と見つめていましたが、誰もどうする事も出来ません。
 著者も自転車をその場に乗り捨て、半分潰れてしまった運転席から何とか助け出せないものかと、女性の手を引っ張ったが、腰から下のが挟まっているらしく、動きが取れませんでした。恐らく、下半身は潰れていて、更に骨肉ごと完全に潰れていて、それと上半身が連結されていると言うような、状態であろうと想像しました。その女性の両手を捕まえて引っ張り出そうとした時、フロントガラスの端に吸盤で張り付けられていて、そこから下がっている交通安全の御守りが、何とも印象的でした。この女性に、交通安全の御利益はなかったようです。
 また、助手席に投げ出されていた、某社の週刊誌大の占い雑誌と、当時流行した某占い作家の「天中殺」と題した書籍が、何か非常に訝(おか)しな印象を与えました。この女性には、御守りの御利益も、天中殺の方位も、全く効かなかったようです。「占い好き」の女性に多い、結末にこうした事はよくあるようです。この女性は、宗教に入れ揚げる程の信心は持ち合わせていなかったかも知れませんが、そうかと言いって、徹底的な無神論者でもなく、交通安全の御守りや、占い好きを思わせる書籍等を見れば、この女性は中途半端な無神論者であった事を窺(うかが)わせます。
 暫(しばら)くすると、誰かが電話したのでしょうか、救急車がやって来ました。これを見た救急隊員も唖然(あぜん)となり、お手挙げという感じでした。消防庁のレスキュー特殊部隊に連絡を取っていましたが、その女性はこの間、断末魔の声を発し、藻掻き苦しんで意識を失ったようでした。それとも断末魔の叫びとともに臨終してしまったのでしょうか。
 こうした交通事故死は、被害者も加害者も地獄に落ちること請け合いです。その想念が、いずれも地獄を作り出すからです。一種の非業の死は、被害者も加害者も同じ霊障に立たされるようです。さぞ、激痛に苦しめられた事でしょう。
結果
 結果が原因を作り出すと言うのが非実在界の現象です。この女性は、最初からこうした結果に遭遇する因縁を持っていた事になります。過去に起こった事は、現在にも繰り返されるという言葉通り、非業の死と遂げる人は後を絶ちません。占い師や祈祷師がこうした断末魔の非業の死を遂げる事は、よく知られており、この女性もかつての前生では、こうした職業の人のようであったと思われます。

 
事故死・横死の第四例
悪想念の発露
 当時近くに棲(す)む、顔見知りの中年の子宮癌の女性です。この女性は、近所の噂では十代後半の頃から男遍歴が激しかったといいます。当時、水商売の風俗キャバレーに勤めていて、半年ごとに男を取り替え、水子も二体以上はあるという噂でした。
 【註】水子霊は祟ると言うが、水子供養屋や水子寺屋や占い屋の作り話。多くは祟る前の前生に問題があるので、今生ではその力が弱い。水子供養屋や水子寺屋や占い屋こそ、祟られるべき存在だが、悪徳商法に入れ上げているにも関わらず罪の意識が薄いようだ)
 子宮癌は、なるようにしてなった宿命を持ち、自業自得といえました。そして体調を崩し、婦人科に行ったところ、悪性の子宮筋腫だと言われました。

 しかし実際は子宮癌であり、それも末期(ガンにはゼロ期、初期、中期、末期があるが医療検査上に定められた用語で、実際には余命を現すものではない)で、他にも転移して処置無しということでした。この結果は、この女性には告げられず、某大学病院に移り、精密検査の再確認ということになりました。女性は何故、再度検査を受けるのかということに疑問を持ち、検査終了後、担当医に詰め寄りました。
 担当医は一瞬困惑したが、女性は何があっても驚かないからということで、担当医は子宮癌の末期であることを告げた。
 すると女性の貌(かお)は見る見る中に蒼白(そうはく)になり、ヘタヘタとその場にへたり込んでしまいました。この日より入院することになり、以降別人のように変わり、食事の咽喉(のど)に通らないという有様でした。急に弱気になり、二ヵ月ほどして、断末魔の叫び声を挙げ、突然空を掴むようにして悶(もだ)え始めました。
 既に、臨終の兆候(ちょうこう)が見え始め、それでも生に固執する癌患者独特の悶絶(もんぜつ)です。目はバセドー病のように眼球突出し、青黒い痩せた形相の貌を天井に向け、藻掻くこと数十分、この女性は子宮から異様な悪臭(この悪習こそ、まさに死臭。子宮癌になる女性は、子宮癌ゼロ期で、既に死臭を漂わせている)を放ちつつ、往生際悪く、苦しみ抜いての死にざまでした。
結果
 死ぬ場合に、恐怖から空中を掻きむしり、藻掻くようにして死んで行く死にざまは、憑衣独特の死相が現れます。末期癌の患者はこうした死に方が多いようです。
 痛みの伴わない「沈黙型」(サイレント・フェイス)のガン以外、その死は苦痛に満たされ、多くは海老(えび)のように背中を曲げ、両手を突き出すと言う形が多いようです。
 これは死の苦しみと戦って死ぬと、こういう姿勢になると言われています。特に、コバルト照射等で放射線を浴びて、髪の毛が抜け落ちた人の多くは、海老のように躰を曲げて、手を前に突き出し、最期をこの姿勢で死んで行くケースが多いと言われます。

 以上紹介した横死の例は、ほんの一例でですが、人間は死に際に臨み、中々、見事な死にざまが出来ないようです。また、こうした悪戦苦闘が幻覚の地獄を作り出すのです。
 人間界から霊界に至る間に「幽界」という場所があると言います。しかしこれは、人間の歪んだ想念が作り出したもので、本来は存在しないのなのです。幽界は、人間の心の影が生み出した世界であり、一般には地獄と言われるところです。しかし、こうした地獄は本来存在しません。あくまで人間の想念が作り出した幻影に過ぎないのです。

 人間の想念は《心像化現象》を齎します。これが様々な幻影を作り出すのです。
 この世は、マフィーの法則や心像化現象からも分かるように、一旦想念を描いたが最後、その残像は現実のものとして具現される構造を持っています。
 したがって横死した場合も、こうした幻影が付き纏い、臨終の際、断末魔のもがきを繰り返しながら、霊界に到達することが出来ず、地獄へと迷い込むのです。これが非業の死を遂げた人の死にざまの特徴です。
 本人が感じる霊体意識は、「痛い!、肉が骨から離れる。離れる、急激に物凄い痛さで離れる」と、声にならない絶叫を上げているのです。これが断末魔の苦しみです。事故死の場合は、こうした衝撃が走るもので、本来存在しない地獄までもの幻覚を見るのです。



●臨終に失敗するとどうなるか

 臨終に失敗し、成仏できなかった霊魂は、浮遊霊となって現世を彷徨(さまよ)います。そして臨終は誕生とは別のプロセスで、それが進行していきます。

 人間は他の哺乳動物と違って誕生すると、直ぐに歩けない状態にあります。同時に、母体も出産で躰が弱り切っているので、母子共々に静かな安静期間が必要です。

 さて、出産後の新生児には新生児黄疸(おうだん)という変換期があり、その間においては臍動静脈の閉鎖(臍の緒の切断)、心房中隔の完成、肺動脈と上行大動脈の分離等の大事業があります。
 この大事業に匹敵するものが、臨終であり、《臨終の大事業》は、次のようにして進行されます。

 《臨終の大事業》とは、次の通りです。

 
臨 終 の 大 事 業
1. 遺体を動かさず、「五時」(ごとき)が必要である。
 五時とは「10時間」(「一時」(いっとき)は今の2時間を指し、その五倍であるから10時間となる)を指し、この間遺体を動かしてはならない。動かすと、泥丸の開き口から、霊体(霊魂)が外に出ようとする運動を妨げることになるからである。したがって病院の固いベットで死んでいき、その後、死亡して家族に遺体が引き取られ動かされると言う状態は、総じて成仏できない結末を招くといえよう。
2. 臨終の時機(とき)の死を迎えるものが感じる痛覚は非情なものである。こうした際、事切れた後も遺体に触れてはならない。触れると、生体と命体の遊離に安静が保たれないからである。生まれた直後の赤子に、やたら触れてはならないのと同じである。
3. 死者の貌(かお)に荒々しく白布を被せてはならない。被せるときは静かにそっと被せるべきである。霊魂が泥丸から抜け出す五時(ごとき)に、こうした荒々しさが加わると、抜け出す作業を辞めてしまうからだ。人間は死ぬと、まず「会陰」が閉じる。次に、肉体と霊体が分離する時「泥丸」の部分の宮が開いて、ここから霊体(霊魂本体を含む)が外に抜け出る幽体離脱の準備が開始される。しかし死んでない時は、仮にここが開いても、肉体と霊体を繋ぐ心臓との繋がりがあれば、俗に言う霊線(シルバーコード)は繋がったままなので、幽体離脱した後でも、生きている状態である。また、仮に霊体が抜け出したとしても、まだ霊体と肉体が繋がった状態であり、臨終状態に入ってない事を意味する。
 ところが脳死等のように、脳は死んだ状態だが、心臓が動いている場合は、生きている状態であり、これは完全な死ではなく、肉体と霊体は繋がっているのである。
 昨今脳死が話題になっているが、これは法律が認めた合法的な殺人である。もし、脳死で肉体の臟噐等を摘出されれば、この感覚は相当なもので、まさに麻酔なしの神経系を刺激しつつの摘出と言わねばならない。そして実は、脳死も断末魔の雄叫びをあげる「横死」と考える事が出来る。
4. 酒の臭い、焼き肉臭い、焼き魚の臭い、その他現世での名残を残す、こうした臭いを死者の前では慎まなければならない。それを怠ると、死者は再び現世への未練が付き纏い、臨終に失敗するのである。また韮(にら)、大蒜(にんにく)、餃子等の臭いの強い物も厳禁。
5. 香炉の香を絶やさず、燈明(蝋燭の灯り)を絶やさぬこと。家族揃って普段から香道(こうどう/香をたいて楽しむ芸道で、室町末期から茶道の創成と重なりながら、文学と結びついた)の嗜(たしな)みがあれば理想的。金銅香炉(【註】写真は密教で用いられるもの)
6. 死者の枕許で、世間話しや雑談を慎むこと。特に食べ物の話や酒の話は厳禁。
7. 魔避けの短刀(一家に一振りは普段から用意しておくべきもの。但し人を殺したような物は所持しない事)を枕許(まくらもと)に用意すること。
8. 澄んだ高音の鈴(りん)の音を絶やさないこと。(死者は臨終直後、鈴の音に導かれ、邪霊を払う時は鈴の音を響かせることが効果的)金銅五鈷鈴(【註】写真は密教で用いられるもの)

金銅香炉
金銅五鈷鈴

 以上が肉体と霊体の遊離の為の儀式です。この儀式は、死者が生前属していた現世での組織や集団や家族から分離して、霊界での生活が始まったことを告げる告知宣言です。そして10時間は決して動かしてはならないということです。さもなければ、死者は臨終に失態するのです。
 では、何故失敗するのでしょうか。

 それは、日本人の概ねが、欧米の科学者のように徹底した無神論者であればいいのですが、中途半端な無神論者であり、年末のクリスマ・スイブを祝ったり、正月の三箇日に神社仏閣に詣でたりと、日常生活の中に、おかしな宗教儀式が入り込み、先祖の墓参りはするし、盆や彼岸、命日等の供養、高校入試や大学入試の際の合格祈願、そのお礼参り、更には結婚式は神前か教会に行って儀式を行う等といった、こうした宗教儀式が、日本人を中途半端な無神論者に仕立て上げているのです。

 極悪非道な犯罪者でも、刑務所に入れば泣いて懺悔(ざんげ)をし、剃髪(ていはつ)を行って反省の色を克明にして、教誨師(きょうかいし)に縋(すが)って仏門やクリスチャンに帰依(きえ)しますが、刑期が満了して裟婆に出てしまいますと旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻って、帰依した事などコロリと忘れ、再び悪事を働きます。

 そして死刑判決が下ると、今度はまた教誨師に縋って臨終の際の苦痛をできるだけ小さくしようとして奔走し、結局こうした事は、日本人の御都合主義で、善は一般小市民から、悪は複数殺害の極悪人までこうした日常の中で、何らかの形で宗教に絡み、階級の上下を問わず、中途半端な無神論者で生活を送っているのです。

 もし臨終に当たり、これに失敗すると言う現実があるならば、結局、日本人のこうした中途半端な無神論主義が、悪想念を呼び寄せ、想念の誤りから臨終に失敗する現実があると言えましょう。