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●事故死と自然死の霊魂の違い

 分裂病は潰れた自我が実態です。したがって分裂病患者は、霊魂の扉を固く閉じてしまっており、最初は中々、語りかけを受け付けようとしません。その為に語りかけを行う人は、根気と愛情と情熱と心から発する想念が必要になり、癒(なお)すという「愛に満ちた想念」が必要になってきます。
 そして霊魂が苦しんでいる、悩んでいる、迷っている、焦っているという現実があるのですから、それを救わねばならない使命感を背負っている事を自負します。

 また、語りを行う上で大事なことは、「誰に」ついて語るのかということです。
 繰り返しますが、分裂病患者は潰れた自我によって、生きる目的も、その努力も放棄してしまった人です。では何故そうなったのでしょうか。

 これも繰り返しますが、「世間様」であり、世間様から見られた「目」です。患者本人が主観で観じた「目」なのです。こうしたものと戦い、結局疲れ果てて、自我が潰れてしまったのが分裂病患者の実態です。

 その潰れる状態が起こるとき、肉体構造と、遺伝子構造を同じくする三代前くらいの先祖から患者に、深く関わりあっている場合が少なくありません。潰れた自我状態が起こると、患者の霊的波調は低下しますから、この低下時に憑霊されてしまうのです。これは血統的な肉親だからというのではなく、霊的波調が同じという点で関わりあっているのです。非常の波動が似ている為にそうなります。

 分裂病患者の家庭を調査すると、その死因から、三代前の先祖に非業の死を遂げた者が必ずいるはずです。悲惨な交通事故死をした、放浪癖があって何処かで野垂れ死にした、ビル火災等の業火に焼かれて焼死した、トラやライオンや鮫等の動物に喰い殺された、船の沈没で沈没死した、末期ガンで苦しんで死んで行った等の、三代前の非業の死を遂げた人を探し出して下さい。

三代前の先祖に非業の死を遂げた者がいる。この三代前の不成仏の先祖霊は精神分裂病患者と同調・共鳴しているのである。

 さて、人間の死には二つあります。一つは事故死で、もう一つは自然死です。
 事故死には次のものがあります。

 末期癌等の病気による死亡、殺人による死亡、交通事故による死亡(水難船舶・自動車・飛行機・列車など)、生き埋め事故による死亡、天災による死亡、放射線事故による死亡、過労による突然死、その他、自殺(首吊り、入水、飛び降り、飛び込み、睡眠薬、ガスなど)、水死(溺死)、落盤事故死、火事等での焼死、野山での遭難死、船舶沈没の沈没死、船舶転覆後の漂流死、機械等に挟まれての圧死、特攻隊による突撃死、暗殺による狙撃死、崖淵や岸壁からの転落死、爆死、凍死、窒息死、輪姦・強姦死、行き倒れによる死亡、餓死、感電死、落雷死、生体実験死、薬害死、服毒死(河豚毒や野草毒の摂取)、刑死(銃殺刑・絞首刑・斬首刑など)、拷問(ごうもん)による死亡、冤罪(えんざい)による死刑、獄中死、抑留死(強制収容所での死)、堕胎死(水子・間引き因縁)等が上げられます。

 これ等の事故死によるこうした死に方をした人は、生に対して執着し、未練を引き摺(ず)り、死に対して非常な恐怖を抱いて死んだ人である事が分かります。

 したがって現世への執着の余り、生への未練が強く、また、死ぬ瞬間の「霊肉分離」のショックの大きさから、極度に波動が乱れ、落ち着くことのできない苦悩を、今も味わっています。
 霊魂は肉体を持たず、物質的な存在でないというのはこの為なのです。だから強い、乱れた、粗い波動(θ波)だけが歪みとなって現世に残こります。

 事故死は、肉体の波動の強烈な荒々しい「β波」と、強烈な霊体波動の「θ波」が急激な分離変化によって生じ、また、自然死は穏やかな霊体波動(θ波)と、穏やかな肉体波動(β波)の緩やかな変化でやさしいやわらなか脳波(α波)によって、徐々に死に向かう形をとるものなのです。

 つまり事故死は、強烈な肉体波動と強烈な霊体波動が霊体波動に移行して、肉体的な苦しみを総て霊体波動が担ってしまうと言うことであり、そこには強烈な歪んだ「θ波」が空中に浮遊します。あるいは磁場と同調して、そこに留まり、地縛状態となります。

 一方自然死は、穏やかな「β波」が、穏やかな「θ波」に包まれて、心地よい安らぎの「α波」に移行して空中や磁場に唸(ねん)を残さないという最期(さいご)を向かえます。

 いわゆる事故死は、まさいに「横死」であり、断末魔の最期を迎えるのです。その感覚としては、まるで骨と肉が無理に引き離されると言う感覚を覚えるのです。つまり最期は、本人が想い描いている以上に、想像に絶する痛みと恐怖を覚えると言う事なのです。要するに悪想念のθ波が、こうした想像を神経系に疾(はし)らすのです。

 換言すれば《予定説》から、結果→原因の順に考えて、最初に事故死があり、次に事故死の起こる原因があって、結果が原因を呼び込むと言う構造になっていて、その結果では、強烈な二者の分離が行われるからその死に方は事故死を遂げると言う事なのです。

 また、穏やかな遊離が行われるから、その死に方は自然死となる分けです。これこそ、結果が先に、原因が後に来る《予定説》なのです。予め予定する非実在界の現象は、心に想い描いた事が心像化現象として、第一に具現され、これが結果となって、原因に迫るのです。描いた結果を追って、原因が始まるのです。

 波動が急激に変化するのですから、事故死に見舞われ、また、波動が緩やかに変化するから、自然死となるのです。
 では何故、そうなるのでしょうか。

 予め決められているからです、宇宙法則が《心像化現象》として。
 これが決定論であり、目的に向かう目的論だからです。創造主が人知を超えて、はじめに「こう決めた」のです。最初に、思い描いた結果の想念が優先する、と。

 一見、この考え方は不思議なようですが、「死に方」は個人各々に現われるのですから、ある人は選ばれて自然死となり、ある人は選ばれずに事故死となります。そして、自然死と事故死の比率は、圧倒的に事故死の方が多いのです。神は予めそうなるように計画を予定したのです。これが個人に及ぼす《予定説》の掟(おきて)です。

 さて、死ぬ瞬間を考えた場合、両者は波動変化の上においては同じですが、それが肉体の波動であるか、霊体の波動であるかということになります。ここに肉体主体で生きた者(例えばスポーツ選手や格闘技選手、ダンサーやバレリーナ、科学者や唯物論者など)と、肉体の酷使を止めて霊的波調を高めた者(例えば行法者や修行者などの宗教家や道徳家)との差が生じるのです。
 勿論、行法者と雖(いえど)も、間違った行法をしている人は、最期は無惨な事故死に見舞われます。これは祈祷師や占い師、神官や僧侶に最も多い最期の結末です。

 死亡する時の「死」という次元は同じものですが、そこから解放される者と、解放されない事故死と、自然死の大きな違いは、自然死が肉体と霊体の二つの波動が遊離するとき、徐々に行われるのに対し、事故死は一気に、急激な二者の分離が強引に行われるので、そこに強烈な痛みと苦しみと恐怖が伴うのです。心に「迷い」が生じた時は、自然死状態であっても事故死の域に落ちてしまいます。いわゆる臨終の失敗です。

 先祖の苦しみとは、こうした事故死による非業な死に方をした人が、苦しんでいる波動の唸(音声から出る言霊の一種あるいは強い想念。非業の死と遂げた人は、苦しい、悔しい、惜しい、辛い、痛い、無念などが唸波となる)が憤懣(ふんまん)やる方ない激しい波動(θ波であるが、実際にはβ波とθ波の合体で、肉体を持たないためにθ波がβ波を代表する形となる)となって空間に漂い、それが霊的エネルギーとなって浮遊し、それを分裂病患者が共振・共鳴しているという実情が、この自我が潰れた起因となっているのです。つまり恐怖のβ波を、θ波が代行していると言うことになります。

 霊体並びに肉体の各々の波動が急激に分離するときは事故死で、緩やかに遊離するときは自然死が、予め計画され、その目的に随(したが)って、「死に方が決まった」と考えられます。これは目的論であり決定論。覆えすことは出来ません。
 自由に形を作り替える事のできる想念の為せるワザは、ここに至って決定されてしまうのです。



●事故死による断末魔

 事故死の多くは、非常な苦痛と恐怖を伴います。
 今まで見てきた経験から言いますと、その断末魔は凄まじいものです。
 何故こうした断末魔に至るのでしょうか。

 これは今まで繰り返し述べてきた通り、事故死と自然死とでは、肉体と霊体の分離が急激に行われるために、そこに衝撃と苦痛が走るからです。
 俗に言う、成仏できない死に方であり、不成仏のまま死んで行くという、悲惨な臨終の瞬間がこれなのです。こうした死に方を総称して、一般には「横死」と言います。非業(ひごう)の死を遂げたさまを言います。

 人間は横死のとき、筋紡錘から大量のアドレナリンが放出され、それに続いてアセチルコリン等の物質分泌が起こります。非業の死を遂げた場合、死後硬直はこうした場合に見られます。
 筋紡錐は横紋筋の内部にあって、筋肉の緊張や収縮の程度を感受する紡錘形の微小な自己受容器です。ここには数本の特殊な筋繊維(錘内繊維)に感覚神経末端が絡まっています。動物の姿勢を保つなどの働きなども筋紡錐が司ります。

 アドレナリン(Adrenalin)は副腎の髄質ホルモンです。心筋の収縮力を高め、心・肝・骨格筋の血管を拡張、皮膚・粘膜等の血管を収縮せしめ血圧を上昇させる作用を持つと同時に、気管支平滑筋を弛緩(しかん)させますが、立毛筋・瞳孔散大筋を収縮させ、また代謝面では肝・骨格筋のグリコーゲンの分解を増進して血糖を上げ、脂肪組織の脂肪を分解し、一般に酸素消費を高める作用を持っています。

 またアセチルコリン(acetylcholine)は、神経組織に多く含まれる塩基性物質で、副交感神経と運動神経の神経末端から刺激に応じて分泌され、神経の伝達に携わっています。
 一般には神経伝達物質と呼ばれ、この物質は神経終末から放出され、次の細胞を興奮させ、または抑制して、情報を伝達する化学物質であり、アセチル・コリンを始めとしてアドレナリン、アミノ酸、ペプチド等を伝達します。

 さて、自然死で臨終を迎える場合、肉体と霊体の遊離は緩やかであり、体内にエンドルフィン(内因性モルヒネ様物質)が合成される時間があり、その時間差と作用によって、横死のように断末魔の苦痛から解放され、眠るような穏やかな臨終を迎える事が多いのです。

 ところが事故死、横死は全くこれとは逆に、急激に、その衝撃と恐怖から大量なアドレナリンとアセチルコリンが分泌され、断末魔の恐怖が免れないのです。
 特に飲酒を日々の日課と定め、アル中状態にある人や、酒豪というタイプは、内因性モルヒネ様物質の分泌が少なく、また分泌されたところで、その効果が殆ど期待できません。したがって、激痛はここから起こります。

 釈迦は輪廻を説きました。輪廻があるということは「生まれ変わり」があるという事を明確にしています。人間は闇の彼方からやって来て、また闇の彼方に還(かえ)って行きます。これは輪廻転生の暗示であり、死ねばそれっきりという分けではありません。霊魂は不滅である限り、何度でも生まれ変わりを繰り返すのです。この生まれ変わりの第一段階が「臨終」です。
 そして、この臨終に失敗するのが、横死という不成仏の死に方です。

 これは生前の功徳や善行など一切問題にされず、激痛と衝撃と悶絶が、臨終にあたり、これを待ち構えています。
 予定説から行くと、死にざまが生きざまに影響を与えた、と言えるのではないでしょうか。これはまさに予定説です。

 臨終とは、人が、まさに死なんとするとき、一挙に形相(ぎょうそう/激しい感情の表れた顔つきで、憤怒を指す)が形作られ、善業と悪業の総決算のときであり、空の世界に向かう来世の第一歩なのです。だから臨終に際しての死に方は、堕地獄に落ちるか否かの形相を引き摺ります。

 本来地獄は存在しません。人間が頭の中で作り上げた想念に過ぎません。しかし、一旦こうした想念が出来ると、断末魔の非業の死でなくても、臨終に失敗した場合、自然死であってもここに落ちることになります。