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●源初の人間の意識

 地球上で初めて受肉した時点での人間は、今の現代人とは異なり、「逆の意識」を持っていたと考えられます。
 この「逆の意識」とは、睡眠時、魂が肉体から離脱した時の方の意識が明瞭(めいりょう)であり、朝が来て目が覚め、魂が肉体に戻った時の方が、ぼやけて不明確になり、暗かったというのが「源初の人間」の意識です。

 当時の人間の意識の在(あ)り方は、現代人と違って、意識が全く正反対であり、睡眠時と覚醒時(かくせいじ)が逆転していたということです。
 人間源初の当時、輪郭(りんかく)の識別については不確実で、対象物をハッキリと認識する能力を持っていませんでした。

 また、肉体自体の存在も不確実で、輪郭は全体として暗く、それは丁度、初期の白黒テレビの実験段階の受像器と言った感じのものでした。
 対象物は総(すべ)て暗く、輪郭も境界線も不明確で、ぼやけていて、総てが曖昧(あいまい)だったのです。これが肉体の乗った魂の最初の感覚でした。

 しかし、夜になり、睡眠に就くと、魂が肉体から離脱して、現代人が見る夢よりも、もっと強烈な、然(しか)も鮮明な夢を見る事が出来たのです。
 こうした夢の中で、源初の人間は、様々な位階の神々や、霊的存在者と結び付いていたのです。夢の中で、自由に何処にでも行く事が出来、その意識のみによって、旅をする事も出来たのです。
 ところが人間が、次第に肉体的な進化を遂げるようになると、こうした魂の自由な覚醒(かくせい)が失われ、それに代って、肉体が霊体を圧して、人間の魂を支配するようになりました。
 この意識が「体主霊従」です。人間の魂は肉体の覚醒により、肉体のみが強烈に反応するようになってしまったのです。

 そこで再び、睡眠時と覚醒時の逆転が起こり、覚醒時の意識の方が、睡眠時よりも、くっきりと明瞭(めいりょう)になるという現象が意識の中に起こり始めます。夢を見る間は段々と暗くなり、不明瞭になって、肉体の覚醒時の方が明るくなって行ったのです。
 現代人の大半の、夢の出来事の多くは、日常生活の記憶の残像が殆どとなり、その中には主観的な願望や象徴が現われますけれど、これに対して、源初の人間には、こうした主観的なものより、客観的な霊的形象の方が多かったのです。

 それが肉体的な輪郭を鮮明にして、覚醒時の意識が明瞭になってくると、人間自身の中で「運命の意識」と言うものも、次第に明瞭化されていきます。肉体的な結末への支配です。肉体が運・不運の幸・不幸に左右され、運命に支配される現象です。
 そしてこれに併(あわせ、個人的な感情も明瞭化されて行く事になります。

 こうた時期が、おおよそ紀元前五〜四千年紀頃(アトランティス期)と推測されます。日本で言えば縄文時代の頃で、当時の人間にとっては、非常に「睡眠時間が長い」というのが重要な条件だったのです。
 睡眠時間が長いという重要条件は、ある意味で死後の生活と同じ様な体験内容である為、当時の人間にとって、「死」という意識は、現代人が考えているより、ずっと軽く、身近に接近していて、死に対する恐怖感など余り大きな問題ではありませんでした。むしろ死を恐れる必要はなかったのです。生死(しょうじ)は表裏一体の関係にあったからです。

 源初人間の生活は、極めて、滔々(たんたん)とした生活を送り、無為(むい)自然に生きていたと推測されます。闇(やみ)の中から来て、闇の中に帰る。これをごく自然に、当り前のようにしていたのです。死は忌み嫌われるものではなく、こく普通に受け入れられ、恐れる対象ではなかったのです。

源初人間と哺乳類が合体した霊長類の姿。現代人の脳の構造は、脳幹と延髄が連絡される事によって、生命活動を容易にした。更に爬虫類脳のR領域と哺乳類脳の辺縁系を重ね、競争や愛情と言った意識を獲得した。
 更にこの上に、原人脳の外表系を重ね、最後に美と創造を齎
(こたら)す前頭葉を所有するに至ったが、これは未発達の為、未だに知性体を構成していない。これが新しい人類と、これまでの亜人類との分れ目になる。



●運命自招の法則

 運命は、幸・不幸に限らず、自らが招き、境遇は自らが作る(招き寄せる)という法則がああります。それは《類は類を呼ぶ法則》から証明されます。自らの作り出した想念が、事象を呼び寄せます。人間の行く末を決定するのは、「想念」です。心に描いた想念が、その想念に応じて、人間の未来を決定しているのです。

 人の一生は「運命」という、どうする事もできない力によって動かされ、決まった道筋に引きずられて行くものであると信じている人が少なくありません。また、一旦落ちた奈落(ならく)での境遇は、改善できないと諦(あきら)めている人も少なくありません。

 逆に、生まれた日が分かり、その何時何分かの時間が分かれば、その生年月日を元に、九星気学や四柱推命に当て填(は)めて、吉凶を占えば、その人の一生はすっかり分かり、そのデータを元に改善すれば、以降の人生は開運できると信じている人も少なくありません。

 そして、何らかの運命判断が出れば、ある人は運命だから諦め、またある人は、占いを信じて、境遇が改善・開運できると思い込んで奔走(ほんそう)し、あるいは占い師の助言で、打開策が生まれる事を期待します。
  しかし、果たして運命とは、こうしたものなのでしょうか。

 否、《運命自招の法則》からすれば、こうした「運は天にあり」とする考え方は通用しなくなります。予定説から考えれば、結果が先で、原因は後である筈です。これは「恐れるものは皆来る」の、この事実が、これを如実に真理を表わしています。したがって、原因があって結果に至るのではありません。結果があって原因に至るのです。それこそが非実在界の現象であるからです。また、これこそが《予定説》なのです。

 その理由の一つに、「精神分裂病」(現在は人権擁護の見解から差別用語に扱われ、2003年6月30日以降は「統合失調症」と言うらしいが)という精神病を上げてみましょう。
 果たして精神分裂病は、実際に存在する病気なのでしょうか。
 しかし、現実問題として、精神科に多くのこうした患者が訪れ、治療を受け、入院しているところを見ると、どうも存在するらしい?、ということを挙げなければならないのですが、では、どうしてこうした病気が起こり得たか?、というその病因に迫らなければなりません。

 不眠症や分裂症ぎみのノイローゼになっている人は、まず例外いなく、食肉や乳製品や鶏卵等の弊害と考えられます。そして、こうした食品を摂ることで、体質が悪化するという元凶を反省してみなければなりません。つまり、心が患う病は、病気を予防する体力がないのではなく、食べ物の偏りによって生じた「体質の悪さ」が上げられます。

 多くの人は人間関係においても、「自分はあくまでも正しい、悪いのは自分以外の考え方である」と、安易に、このように決めつけています。これこそ、自他離別意識の最たるもので、「自分以外」をみな、悪者にする思い込みがあります。
 したがって、病気の原因も、自分にあるのではなく、自分の外側にある「病原体」のせいにしてしまいます。伝染病の大半は細菌のせいにされ、慢性病ともなれば、ウイルス探しに躍起(やっき)になります。

 確かに微生物であるウイルスは、強い感染力を持ちます。したがって発病の病因になる事も確かです。
 しかし、発病の病因は、ウイルスそのものではなく、ウイルスに感染してしまった体質の悪い、躰(からだ)そのものに問題があります。感染してもすぐに治癒しない体質に問題があります。

 この事は、同じようなウイルスや細菌の作用を受けても、発病する人と、発病しない人はいるという事実です。という事は、これらの細菌性微生物は、発病の絶対的な極め手となっていない事になります。
 発病するかしないかと言う、その決定権は、各人の体質が持っている事になります。したがって、簡単に発病してしまう「体質の悪さ」こそ、発病の真の病因の根元であり、ウイルスや病原体のせいでない事が解ります。
 こう考えると、問題は外にあるのでなく、あくまでも「裡側(うちがわ)」に存在すると言えます。それは病因の総てが、自分自身に問題があり、「食の誤り」「悪想念」からなる意識の誤りから起こったものと言えます。

 今日の飽食の時代は、食が益々乱れ、人々は食への「こだわり」は、自己意識を露(あらわ)にします。その事が食への誤りを招きます。「こだわり」こそ、傲慢(ごうまん)の顕われです。そして、殆どの人が、正食法を実行していない現実があります。
 そこに食の乱れの大本があり、これによって現代の難病・奇病が現れます。

 食は人間の躰(からだ)そのものを構築しているのですから、《食→血→体》の順から考えますと、この基本構造に異常を与えているのは、食の乱れであり、食の乱れが血を汚し、「体細胞の質」を悪化させていると言う事になります。
 こうした見解で考えると、現代社会には、分裂病は確かに存在するらしいという結論に達します。
 しかし、本来は存在しなかった病気です。

 結果が先で、原因は後なのです。「逆因果説」なのです。これだけはよく理解して下さい。
 非実在界の現象は、自分の想い描いた事はその現象として現れると言う「心像化現象」が起こりますから、実際には存在しない地獄を見るようなものです。したがって、想念によって描き出した事象は、必ず結果のなって現れます。その結果が先で、その結果に至る想念の出処が原因となります。

 地獄一つ上げても。想念が地獄を描き出し、それによって地獄が派生するのではなく、人間の想いが地獄を存在させるから、地獄の想念が人間の脳裡に派生させると言う事なのです。地獄の想いが地獄を造り出すのではなく、地獄が人間によって作り出されたから、地獄の想念を派生させたと言う事なのです。本来無い物は、本来在ったから、それに見合う原因が派生するのです。結果が先で、原因が後なのです。

 したがって、病気一つを上げても、病気に罹る人と、罹からない人は既に選ばれていたと言う事になります。では何によって選ばれたのでしょうか。それは体質のよい人と、そうでない人を、病気の方が選んだと言う事になります。したがって、本来病気は存在しなかったが、病気は存在する。病気が存在するから、それに懸る人と罹からない人が予(あらかじ)め選別された。それは体質の良し悪しで、既に決定されていたと言う事になるのです。
 結果的から見て、本来は病気はなかったが、実は病気は存在するらしい。そう結論付けられてしまうのです。それは何故でしょうか。

 例えば精神分裂病の場合、想念によって自我を潰したからです。しかし原因は、最初は存在しなかった。これこそは、まさに精神病的予定説なのです。

 では、存在しないのに何故、存在するようになったのでしょうか。そして、その犯人は一体誰なのでしょうか?
 「世間」です。世間の「目」が犯人だったのです。

 世間の常識という、作られた日常の俗事が、分裂病を作り上げて行ったのでした。世間と言う俗習が作り上げたのでした。しかし、元々は存在しなかった病気である事を忘れないで下さい。少なくとも、古代には存在しませんでした。
 宗教家や発明家等に多いパラノイアparanoia/体系立った妄想を抱き、偏執病あるいは妄想症といい、精神分裂病のような人格の崩れはない)は存在し、それを記す歴史書がありますが、分裂病の記録は見当たりません。

 それが何故存在する病因を作ったのでしょうか。
 それは人間の「心の弱さ」にあると思われます。その弱さが、総て軟弱な肉体と心に病因を招き寄せているのです。



●想念を曇らせる感情からの脱出

 人間は感情に生き、感情に流されます。情緒もあります。心情もあります。こうした諸々が絡みます。その為に、激(げき)し易い人は感受性が強く、純粋で、生真面目(きまじめ)な人は、善悪二元論で物事を考えます。多元的、複合的、融合的な複雑な考え方が出来ません。白か黒のいずれかで、中間色のある事に気付きません。神経質で移り気な人程、そうなります。小さな正義感が強い人程、また融通(ゆうずう)の利(き)かない人程、そうなります。

 常に二元論的な考え方をし、ひたすら学校で習った教科書が正しいと思い込み、ハッキリとした解答の出るものが好きで、影に隠れる裏側の事を想像することが苦手です。考え方がアナログ的でなくデジタル的です。答のある問題に取り組むのが好きです。その逆は好みません。暗記力があり、棒暗記するのは得意ですが、これに自分流の挿話を加えて、ストーリーを脚色したりする事が不得手です。

 白か黒かということだけに執念を燃やし、その中間色の、灰色を考える事ができません。小さな不正行為を嫌い、生真面目である反面、多角的に考えて、見えない物事の裏を見る、先を見る、予測すると言う事がで来ません。自分の眼で確かめない限り、裏側に何かあるらしい、という事だけでは、その人の行動原理になりません。

 したがって、白か黒かを決定する上で、灰色の発想がありませんから、いずれかに決めなければならない時、これを極め兼ね、結局、自我防衛に失敗し、これに押し潰れた人が精神分裂病になります。この遺伝率は百分の一といわれ、血統の1%がこの遺伝子を引き継ぎ、隠れ遺伝として陰性保菌者となり、数代後の子孫に分裂病を招くと言われています。

 では、一体「誰が?」、押し潰したのでしょうか?
 この「誰が?」は、多種多様に及びます。あるいは単数かも知れません。しかしこの、「誰が?」は「世間」であり、世間の「目」であり、一般に言う「世間様」なのです。

 自称・霊能者の類(たぐい)や占い師の中には、精神分裂病を始めとするその他の精神病を、先祖の因縁と決め付ける輩(やから)が言います。父母や祖父母の因果がそうさせるのだと言います。あるいは家系から来る血統と決め付けます。

 しかし、これは因縁というより、外界の印象を受け入れる能力である感受性(同波調の受信性の一致)という領域の感性的な「遺伝」であり、もし先祖の因縁が関与しているならば、これこそ「感受性が強い」という個人的な感覚の敏感さが、この範疇(はんちゅう)においてのみ、これが因縁に関与している言うべきでしょう。

 したがって、「気が触れる」「気が狂う」「気が違う」という、血統から来る因縁とは別のものだと考えられます。
 そして、人間には、過去から現在に継承する因縁に、二種類あることを明記しておきたいのです。

 一つは血統から受け継ぐ因縁であり、もう一つは霊統から受け継ぐ因縁です。前者を精神分裂病といい、後者をパラノイアparanoia/体系立った妄想を抱く精神病)と言います。

 ちなみに新興宗教の教祖には、こうした妄想型の精神病が多く、現に歴史上では須佐男尊(すさのうのみこと)、近代に至っては南方熊楠(みなみかたくまぐす)、斎藤茂吉(さいとうもきち)、宮澤賢治(みやざわけんじ)らがパラノイアであったと、精神病理学者達は指摘しています。

 さて、血統から受け継ぐ因縁は、肉体を通して、両親の遺伝要素をそのままコピーするもので、貌かお/観相学や人相学では脳の延長として考え、遺伝要素が脳の形態を形作るように、顔の形態も形作る)が似ている、体型が似ている、声が似ている、仕種が似ているという同一性のコピーであり、また、霊統から受け継ぐものとしては、血縁に関係無く、霊的要素がその人に受け継がれるものです。

 つまり、霊的要素を受け継ぐ人は、血統とは無関係に、何か、人間の力を超えた、要するに神や霊魂の憑衣によって、神懸り、その人に大いなる力を発揮させるということを指します。
 したがって、肉体的な血統は繋(つな)がっていませんが、しかし考え方が同じ、思考や指向が同じ、思想が同じ、主張が同じ等の要因をもって繋(つな)がっている場合を「霊統」と言います。
 また、感性の一致を見る場合も、霊的神性が一致しているものとして考えられ、過去世において、親子あるいは夫婦、兄弟姉妹というような、同家族の霊魂を持った間柄の流れも、霊統と言います。

 さて、精神分裂病やパラノイアは、こうした両方の流れから受け継ぐものがあり、これには血統を中心とした因縁の肉体を通した生体的病因と、霊的継承を受け継ぐ命体的(霊的波調が同一周波数で波動的エネルギーの同一粒子)病因とがあります。これは一般的には「いのち」を指し、肉体をコントロールする霊魂です。
 そして、以上、説明した血統による因縁と霊統による因縁の、何(いず)れかを持ち合わせた人が、感覚器の敏感性によって「世間様」を受け入れるのです。

 感受性の強い人は、鈍感あるいは、正常値にある人に比べて、外圧や種々多様の雑音を阻止するフィルターを持ちません。敏感なるが故に、ストレートに外部雑音をキャッチします。この為に極度な混乱が起こったり、情報処理の為に悪戦苦闘し、最後は疲れ果て、分裂病となります。こうした要素は、子供などに、「赤面症」(赤面恐怖症)となって遺伝する場合があります。

 赤面症は、人前に出ると不安・緊張の為に赤面し、それを気にして恐れるあまり、人前に出ることをためらう症状のことで、対人恐怖症の一つと考えられています。一旦的な発病は、木の芽に吹く春先が多いと考えられています。これは丁度、精神分裂病患者が悪化する季節と一致します。

 また、父母の何(いず)れかが、精神分裂病でこうした霊統的遺伝を受け継いだ陽性の場合、その子供には20歳前後の年齢を境にして、著名に顕われます。
 無意識のうちに前後に躰(からだ)を揺すったり、坐っている時に左右に頭などが揺れる場合は、おおよそ「三代前の先祖」から受け継いだ、遺伝子に存在する陰性保菌状態が表面化している事を顕わします。

 このコーナーでは、精神分裂病に的を絞って霊障を探ってみることにしました。
 では、精神分裂病に関与した「世間様」とは、どういう存在なのかという事に迫ってみましょう。
 これは人間社会が積み上げた、一種のルールであり、また世間的な世俗です。一般には「常識」という名で知られいます。つまり、「世間様」とは、俗習に支配され、誰もが概念として作り上げている固定観念からなる、自分が信じている一般通念の事なのです。