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●想念の差

 ではイエスは、内面的行動を指摘し、更に、心の裡側(うちがわ)までに迫り、「だが私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」と、心に色情を描いただけで、既にその者は姦通をしていると指摘したのでしょうか。
 これこそまさに「想念」であり、「罪の意識」が、あるかないかを、心の裡側に問い糺(ただ)したのです。これは、罪は心の裡側にある想念によって作り出されることを明確に物語っています。

 キリスト教をよく理解できない多くの日本人は、「心の描いた想念だけで、罪なんて」という気持ちを持つ人が少なくないようです。そして、「何と残酷な宗教である事か」という印象を持ちます。
 また、キリスト教の残酷さを誇大宣伝して、反目した形で、自分の信仰する新興宗教家も少なくありません。新興宗教の多くが、「霊魂」を問題にし、霊魂を人に布教する事で自団体が太くなっていく形をとっています。形態は神秘主義であり、オカルト思考を抱く青少年を対象に、洗脳と言う形で信者を獲得していきます。そして、洗脳による後遺症は後を絶ちません。

 キリスト教は、その根本が《予定説》であり、この《予定説》を理解できる人は、日本人は有に及ばず、キリスト教が流布されている地域の人でも、《予定説》を明確に答えられる人は殆どいません。そして、心の裡側までに入り込み、心に描く想念を問題にしているのです。
 日本人の場合、心に描く想念までを相手にする宗教観に馴染みません。また、善人と悪人の違いは、「行い」にあると考え、行いを評価するのは、余りにも唯物的です。

 日本の宗教は、行いによってその人が善人であるか悪人であるかを判断し、それは極めて表皮的です。一見、精神を相手にしながら、実は戒律までもを取り払ってしまった、「ただ一心に念じる」こととする救済論が中心になり、救われるか救われないか、それを願望する根本は、ただ現世での行いのみを相手にし、念仏三昧こそ、極楽に至る道だとしているのです。
 しかし、この思考では念仏に踊狂うしかなく、霊魂の本質を見極めることはできません。

 善人と悪人を大別する時、善人は悪人に比べて真面目であり、罪の意識は非常に強いものです。小さな事でも、良心の呵責(かしゃく)に攻められ、その事だけで思い悩みます。そして、罪の意識を中々拭(ぬぐ)い去ることが出来ません。単に、反省しただけでは足りなくて、それ以上に、何かの罰を受けなければ気が済まないような行動を執(と)ります。

 ところがこれに比べて、悪人は、罪の意識は善人ほど深刻に捉えず、良心の呵責(かしゃく)も非常に薄く、その上に傲慢(ごうまん)です。
 悪い事をすれば「報(むく)いを受ける」と言う、安易に信じている罪の意識は、大悪人だから報いを受ける、善人だから報いは受けないと言うのとは、全く無関係なのです。だからこそ大悪人は、殆ど報いを受けないで、のうのうと生きていると言うケースが出て来ます。つまり、これは「想念の差」から、こうした現象を起こるのです。

 現世は、「心に描いたことは必ず実現する」という法則(心像化現象)があり、自分の「想い」が周囲に反映されるようになっています。逆に言えば、周囲の環境や事象は、自分の想念に忠実に働くのです。「現世」と言う、非実在界の現象世界は、想念によって事象が作り出されます。総(すべ)ての事象は想念が作り出すのです。

 人は、何事かを致す時、まず心の中に想念が発生します。その想念を実現させる為に、これに沿って肉体を動かそうとします。この肉体を動かす事が「行動」であり、想念に沿った行動が展開されます。想念実現に向かって、疑わずに励めば、やがて心に描いた想念は実現します。想念と行動が間接的な形になって、現世と言う非実在界は存在しているのです。そして心に描いた事は、実現されると言うのが現世の《心像化現象》の実態です。

 しかし、想念は自分にとって悪い事は直ぐに実現しますが、善い事は中々実現しないと言う、間接的なフィルターが存在している事も、また事実です。したがって、悪想念はその実現が直接的であり、善想念は間接的であって、それを実現するには暫(しばら)くの時間がかかると言う事です。だから、悪想念は描かないようにし、少しでもこうしたものを描いてしまったら、直ぐに消去しなければなりません。そして、心の遣(つか)い方一つで、「生き方」というものが変わってしまうと言う事実があるのです。

 では、どういう風に生きていけば良いのかと言いますと、利己的なことを考えれば、利己的な反作用が返って来ると言う現実を認識しなければなりません。また、相手を思い遣(や)る慈(いつく)しみの心が起きれば、相手からも愛(いと)おしく想われる結果が得れます。
 どちらを望むかは本人次第であり、愛する想念を豊かにして、《因縁の法則》を未来に繋(つな)ぐか、あるいは利己的な悪想念を抱いて、これに「こだわり」、不幸現象を自ら呼び込んで生きていくか、それはあなた心次第なのです。

 人間には前生からの「業(ごう)」というものがあります。中には、こうした業を気にしながら、前生の業が深いから「私は駄目なんだ」と言う人が居ますが、これは考え方として悪想念に陥(おとしい)れるような思考であり、こうした諦めでは未来は開けません。
 業と言うのは、一種の積み重ねであり、何回も前生を通じて、その人が想(おも)っていた想念の積み重なり、これが現世に出現しているのですから、実はこれこそが業なのであり、「罪の意識」と「業」とは全く無関係なのです。だから「業が深い」とする考え方は、全くの的外れと言えましょう。

 これは《心像化現象》によって「ああ、私の業は深い……」と想い描くから、業は益々深くなるのであって、過去における出来事での自分自身の悪想念を速(すみ)やかに反省すれば、それはその場所で消滅してしまうものなのです。
 ところが一旦は反省しながらも、そうした悪想念に振り返って、再び思い悩むと、再度、悪想念を呼び込む結果となり、心の片隅(からすみ)に潜在意識としてこびり着きます。

 反省すれば消去されて、総(すべ)て片付いたものを、再び呼び戻すことは、まさに愚行であり、心の底から罪の意識を消去して、無くしてしまえば、絶対に過去の報いは跳ね返ってこないのです。

 例えば、前生において、あるいは現世の過去において、人を殺(あや)めてしまったとします。この時、良心の呵責に攻められて、心の底から被害者に詫び、猛反省を繰り返し、刑に服したところで、いつまでも罪の意識が残る限り、それを消す為に「償い」という形で、いろんなことを遣(や)りますけれども、それだからこそ「報い」という現象が繰り返し顕(あら)われて来ます。しかし、これは霊的に言って、「報い」と呼べるものではありません。

 報いと、被害者に対する心からの償いは別のものであり、それは、その人が単に「業を捨てきらずにいる」ということに過ぎません。これも想念の為(な)せる業(わざ)であり、世の中の多くの不幸を見て来ますと、何と「自己処罰」によって、自分自身を雁字(がんじ)絡めにして、動きのとれないようなことをしている人も少なくありません。

 然(しか)も、こうした事は、本人自身も気付いておらず、本人は「業だから仕方がない」と諦めている節が多々あります。こうした諦めの心が蔓延(まんえん)していては、この苦しみから、生涯脱出する事ができず、また来世への「業の深さ」を積み重ねて行くことになります。

 つまり、《予定説》で説かれているキリスト教では、心の裡側、魂の裡側まで迫り、もし、心に描いた想念が悪想念であれば、その悪想念は自らに禍(わざわい)を齎すとしているところに、日本教の「行い」だけを相手にする宗教とは大きく異なっているのです。
 一般に「行い」とは、慈善事業やボランティアの有無を指しますが、単にこれだけを行って、付焼刃的な行為だけでは解決できないとしているのです。

 しかし、《予定説》はキリスト教だけの専売特許ではなく、霊的な思考の中にも《予定説》が説かれています。《予定説》は、予め神が、その人の救済するに値する人物であるかを、ずっと以前に予定したと言うのですから、これに照らし合わせれば、救われる人とそうでない人は、既に決定されたとする決定論で説かれていることになります。



●救われる人と、そうでない人はどこで決定されるのか

 《予定説》では、救われる人は最初から救われるように、予(あらかじ)め神が決定したという霊的世界の現象を挙げて、これを説明しています。
 それは私たちが聞き慣れた、「金持ちが天国に行けるのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」とした言葉に、如実に現れています。つまり、金銭に執着し、金銭に信頼をおいてきた人は、それが自分の為であった場合、破壊的な断末魔の結末が待っていると言う事を言い表わしているのです。つまり、日本人の抱く金持ちのイメージは、賄賂性のもので築き上げた守銭奴を指す場合が少なくないようです。

 しかし、金持ちを憎んでのことでなく、正・不正による想念から起る現象を捉え、「ラクダが針の穴」を通るイメージで説明しているのです。
 私たちは正・不正を判断するのに『文選古楽府』(君子行)に出ている、「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず、瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず」という、こうした人の眼の誤解を嫌います。それが事実かどうかを確かめずに、潔癖であろうとするならば、人に誤解されるようなことはしてはならないと考えてしまいます。

 君子行によると、「李下で冠の曲っているのをなおすと、李の実を盗むのかと疑われるということから、 他人の嫌疑を受けやすい行為は避けるようにせよ」と言います。また、「瓜畑の中では、くつが脱げても履はき直すと、瓜を盗むかと疑われる。嫌疑を受けやすい行為は避けるがよい」と言います。

 しかし、こう思っているのは底辺の一般庶民だけであり、例えば、日本の国家試験の中でも最難関な司法研修所の教官でも、先の述べたような事は、判事・検事・弁護士たちの卵には、決して『文選』に出て来るような事は言いません。
 上司や目上を訪問する際は、手土産を必ず持参しなければならないと、教官自らが教えます。つまり、日本教が深く浸透している日本では、世の中の一切が「贈答品や接待無しには、全く機能しない」と言う社会現象を作り出しているのです。一種の病根と言ってもいいでしょう。

 したがって、『文選』に出て来るような、「李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず」とことは、全く無意味になってしまうのです。
 これは「手土産」や「接待」抜きでは機能しない、日本社会の未熟に病根は横たわっているのです。ここが非常に問題なわけです。ある意味で、日本人が資本主義の発達の精神の中で、これを理解できない発育不全的な部分に問題があると言えましょう。

 日本人の善と悪の概念は、「行い」により決定されます。
 例えば、金銭と言う概念の意識が不完全ですから、不完全なままで、これが資本主義に反映されます。その決定的なものが、「手土産」や「接待」抜きでは機能しない日本社会の現実です。したがって、金銭や不動産や有価証券を多く所有する日本の金持ちの思考には、物財も含めて、金銭が関わる考え方に特異な捻れが生じます。

 自分の持参した手土産を相手に差し出す場合、「つまらないものですが」と、一旦断って差し出さなければなりません。また、つまらない物を受け取りながらも、受け取った方は「けっこうなものを」と感謝の言葉を述べなければなりません。もうここには、想念が逆行し、差し出した側と、受け取った側との、矛盾が生じているのです。いくら社交儀礼とは言え、二つの想念は同じ物でなく、既に狂いが生じているのです。

 また、こうした狂いは、義理人情に絡め捕られ、絡めとられた後は、不思議な行動を暗黙のうちに了解させられる事すらあります。
 例えば、義理人情に絡んだ現象の一つに、ヤクザの親分の鶴の一声があります。その際たるヤクザ家業が、義理人情から起る「鉄砲玉」です。鉄砲玉は、親分の鶴の一声で発せられたものですから、これは命令であり、鉄砲玉にさせられたヒットマンは、義理により、犯行を企てます。多くの場合、敵対関係の組織への報復であり、犯行目的は殺人です。

 これは外国の「殺し屋」とは大いに異なります。殺し屋は立派なビジネスですが、鉄砲玉でヒットマンを企てる義理に絡めとられた者は、この場合、ビジネスマンではありません。商売ではなく、また契約により、ビジネスを承っているビジネスマンではありません。したがって、殺し請負の、納期が決まっているわけでもないのです。

 仮に、ある組織に二人の鉄砲玉が仕立てられたとします。鉄砲玉は、ヒットマンを遣るのですから、ビジネスではないけれど、それに見合うだけの優遇措置がとられます。幾ら義理人情と言っても、それ相応の見返りは必要です。準備資金が提供され、犯行後の逃走経路や、万一逮捕された場合の刑務所の刑期期間中の、残された家族の面倒までが保障され、それで納得の上、犯行に及びます。

 ヒットマン二人は、それぞれ親分からの依頼により、犯行報酬の準備資金を受け取り、犯行計画を実行していくのですが、一人は金を受け取っただけで実行せずに逃げたとします。もう一人は、義理人情に絡ませて犯行に及んだとします。

 この場合、善と悪の判断を多くの日本人に、「一体どちらが悪いか」と訊けば、必ず後者に悪の烙印を押します。その理由は、人を殺したからという理由によります。人殺しこそ、悪と定義するのです。ところが、これは金銭と言うものを本当に知らない人間の物の考え方です。ビジネスと言う思考が欠落しているからです。ビジネスの思考が欠落すれば、そこに派生した義理人情から起る絡みは賄賂(わいろ)と言う事になってしまい、賄賂を貯えて金銭を築き上げれば、その金銭こそ「悪」となってしまいます。正当な報酬ではないからです。

 正当な報酬により、得たものが善であり、賄賂や手土産的なもので得たものは、つまり悪なのです。ここに金銭を得る方法にしても、善と悪が存在します。資本主義が契約社会ですから、義理人情を絡ませる賄賂的なものは、一切存在しないのが本当です。しかし、この賄賂的なもので某(まにがし)かの財を築こうとする、心に想念が派生した場合、そこは既に悪想念で汚染されているのです。

 読者諸賢は、既に御存じだと思いますが、『ゴルゴ13』という劇画があります。この主役は殺し屋業を請け負う、超一級の凄腕(すごうで)のスパイナーです。しかし、ゴルゴ13はヒットマンではありません。歴(れっき)としたビジネスマンです。契約により、価格や納期が決まります。一切義理人情の捕われるところはありません。したがって契約により、約束した事は必ず実行します。一方、契約を破ったり、裏切った場合の依頼者は殺されます。
 ゴルゴ13こそ、資本主義下では、殺し屋の鏡と言えましょう。

 資本主義下におけるビジネスの対価は「金銭」です。この金銭こそ、「純粋な報酬」です。つまり資本主義下では、契約をし、契約を履行した対価として金銭が支払われると言う構造があり、この構造に義理人情は入り込む余地がありません。これが同じ人殺しでも、良心の呵責に責められるものと、そうでないものの違いです。
 ここには同じ程度の犯行が、一方は痛痒も感じないものとなり、また一方は良心の呵責に責めらるという天地の隔たりが存在しているのです。

 したがって、賄賂性のものは、その根底に義理人情が絡み、手土産や接待と言ったものがあり、日本人の金銭観念を穢(きたな)らしく汚しているのです。この穢(けが)れは、想念に包含されて発散されてしますので、同じ額の金銭にも綺麗なものと、穢いものもがあり、したがって善悪もこの判断により決定されてしまいます。事実、綺麗な金は身に付き、穢い金は身に付かないと言う現象でお分かりだと思います。ここには「正当な対価」という想念が働いています。

 つまり、「同じ人間でありながら」の根本的な意識の上に、善悪が存在し、同時にそれは救われる者と救われない者が存在するという概念を導いてしまうのです。こうした人間の持つ概念は、ことの真相を追うと、総て「想念が決定」しているという事になります。



●犯罪は、巻き込まれる側の方にも落ち度がある

 人間現象会では、「想念が決定」する現象が起ります。また、現世で起こっている事件や事故は偶発的、あるいは自然体と言う形で、何事も偶然に起こっているものではありません。
 この、「偶然」と言う事象は絶対にあり得ず、一見、奇遇(きぐう)と思える人との出逢いでも、これは必然的な理由があっての事であり、それが可視世界に無意識に展開されたと言うことに過ぎません。全ての事象は、その根元が不可視世界から起こったもので、可視世界で確認できるのは、その氷山の一角に過ぎないのです。

 例えば、百人の集団が居て、その集団の中に、心無い誰かが上空から石を投げたとします。この石に当たる人は確実に一人は居(お)り、この石で、重傷を負うか、頭部を強く打ち抜かれて頭蓋骨(ずがいこつ)が陥没し、即死する人が出るかも知れません。こうした場合、この石に当たる人は、果たして偶然の出来事によって犠牲者になるのでしょうか。

 しかし百人中一人は、絶対に被害を受ける犧牲者がおり、大怪我をするのですが、では何故、その一人の人だけが、「限定」されて、なぜ犠牲者になるのでしょうか。

 「結果は原因によって顕(あら)われ、原因があるから結果が起こる」と一般には考えます。
 しかし百人の集団の中に、上空から石を投げれば、これに当たる人は確実に一人は居るはずです。あるいは最初の一人に、この石が当たり、その石が跳ね返って、周り居た人がその跳ね返りで大怪我をするかも知れません。

 では何故、上空から百人の集団に向かって、石を投げつけようとする狂気に満ちた人間が居るのでしょうか。この狂気に満ちた人間は、覚醒剤患者かも知れませんし、精神障害を持っている人かも知れれません。いずれにしろ、百人の集団の中に、石を投げ付ける狂人が居て、その狂人の暴挙によって、確実に斃(たお)れる犧牲者が一人いるとします。そして結果は、犧牲者が出るということが紛(まぎ)れもない事実として予測されます。

 さて、これを「予定説」から検証してみましょう。
 仮に、犧牲になる被害者をAさんとし、石の投げた犯人をBとしましょう。AさんはBの投げた石が当たり、死亡したという結果が出たとします。Aさんは被害者であり、Bは加害者であることは明白な事実となります。
 しかし、では被害者と加害者の関係は、一体何処から起こったかと言う疑問が派生します。これは単に、Bの投げた石が偶然にも、Aさんに当たり、Aさんは死亡したと言うことなのでしょうか。

 問題は「現世」という、俗に言う「この世限りの出来事」(眼に見える氷山の一角)として考えれば、Aさんは破壊者のBの投げた石で死亡したというのは明白な事実ですが、これを前生(過去世/かこぜと現世にまで続く、数直線上の流れの中で観(み)て行くと、果たしてAさんは被害者で、Bは一方的な加害者だったのでしょうか。
 もしかすると、過去を検証した場合、過去では、この関係が逆転していて、AさんがBの加害者で、Bは被害者だったかも知れません。ここにAB間の過去からの因縁があると考えられます。

 これをもう少し分かりやすく言うと、喩(たと)えば、一人の少年が数人の少年から取り囲まれて、袋叩きに遭(あ)っていたとします。こうした状況を見た、通り掛かりの人は、氷山の一角的な見方をして、一方的に殴られている少年を可哀想だと思い、そして袋叩きをして居る複数の少年を悪い方と決め付けてしまいます。

 しかし、見えざる深層部には以前からのストーリーがあり、実は今殴られている少年をCとし、殴っている少年群をDとすると、最初Cは同じクラス仲間の物品を盗む癖(くせ)があり、盗みをして居る所をDの集団に発見され、「他人のものを盗む事はよくない」と散々注意を促されたのですが、逆上して、今度はCがDのいずれかに、隠し持ったナイフで襲いかかり、一人を刺して、次にまた誰かを狙って傷害を働き、この乱暴を取り押さえる為に、D達はCに止むを得ず、暴力の行使に及んだとします。

 この事件に至ったストーリーを解明して行きますと、一方的に少年群Dに落ち度があるとは言い切れません。むしろ、Cこそ処罰の対象になって然(しかり)であり、D達の及んだ暴力の行使は、正統防衛と言うべきものです。

 これを、百人の集団に向かって石を投げたと言う事件で検証してみますと、被害者Aは加害者Bの、かつては立場が逆転した加害者と被害者の関係であったと看做(みな)す事が出来ます。
 百人の集団に、上空から石を投げると言う行為は、実に狂気に満ちた犯罪ですが、これは丁度、CとDの少年群が、一方的にCを殴る現場に通りあわせて、殴られている少年を可哀想だと思ったという一瞬の出来事を見て、感じる感情に他なりません。
 ABの関係が、過去から現在に至るまでのストーリーの全貌(ぜんぼう)が総て解れば、Aは被害者で、Bは加害者であるとは言い切れないのです。

 しかしAとBの関係や、CとDの関係を過去から現代までの数直線上に置き換えますと、各々が危害を加え、各々が被害を受け、加害者となりまた被害者となり、各々がその立場を異にして入れ変わりつつ、この数直線上では、仇討(あだう)ち的な同害報復を繰り返している事に気付きます。両者間で、永遠の格闘が繰り返されます。また永遠の格闘すら、悪想念が作り出したものであり、「永遠に救われない」予定説を見る思いで、無間地獄を彷佛(ほうふつ)とさせます。

 本来ならば、被害者Aは加害者Bの偶発的な犠牲者になる事はあり得ませんし、また加害者Bも、何故、空中から集団に向かって石を投げるような行動に至るのか、ここに既に《予定》されてしまった「何か」があるように思われます。

 予定説は、キリスト教で言う「救われる者」とそうでない、「永遠に救われない者」を指します。
 これは幾ら、その人が善行を積み重ねて、功徳を積んでも、救われない人は救われないと言う法則であり、逆に悪業を重ねても、この悪業の報いは決して受けないという事を如実に現した現象であり、悪人は総(すべ)て死に、善人だけが生き残るという事にはならないのです。

 キリスト教的に言うと、最初から「救われる者」と「救われない者」を、予(あらかじ)め、神が予定したと言うことになります。だから救われる者は、善をなし、救われない者は悪をなすと言う考え方が《予定説》であり、原因と結果が逆になっている事に注目しなければなりません。これは仏教で言う、「因果応報」とは、全く異なっている処です。

 仏教では、因果律によって原因があり、結果があるのですが、キリスト教では結果があって、原因が派生すると言う考え方をするのです。そして近代では、禁欲や生産活動の禁止を強いる仏教思想に変わって、この予定説が導入され、ドイツの社会学者ウェーバー(Max Weber/経済行為や宗教現象の社会学的理論の分野を開拓、「理念型論」を提唱、学界に大きな影響を与えた。1864〜1920)の著書の指摘するところの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が反映されて、近代資本主義を作り上げたという事実を見逃してはなりません。

 人は、死の影の中で、「生」に生きねばならず、生に執着し、その享楽(きょうらく)を追求する人は、生の尽きるその終焉(しゅうえん)に怯(おび)えねばなりません。
 また、生に執着するあまり、死に面した人や、死の影を持つ人は、「生」に対して、何か約束を取り付けようと、必至で藻掻きます。これは総て利己的な思考であり、自分だけ長生き出来ればそれで善(よ)いという、個人主義あるいはエゴイズムが浮き彫りになります。

 人間の歴史を覗いてみますと、その過去には「死にざま」が「生きざま」にも影響を与えた事が窺(うかが)えます。盗賊難、強姦難、剣難、疾病苦、戦争難、処刑難、下剋上等という、他人にまで迷惑をおよぼし、ひいては国運やその盛衰にまで影響を与え、こうした中で、人は野望を滾(たぎ)らせて時代を駆け抜けて行きました。
 そして結果として顕(あらわ)れたのは、数々の「不幸現象」でした。

 この不幸現象の中には怨念があり、恨みがあり、妬みがあり、憎悪が横たわっていて、その数々が複雑な「業(ごう)」を作り上げています。まず、こうした業の、前生からの因縁を考慮に入れなければなりません。

 殺人事件等では、犯人を法律に照らし合わせて、一方的に加害者を処罰するだけです。
 しかし、これだけでは片手落ちであり、殺された被害者が前生において、その犯人に対し、何をしたかという事も追求されなければなりません。

 つまり被害者は、必ず加害者に対し、非道な事をしていたはずであり、その方の罪が一切不問にされるのは、全くの片手落ちと言う他ありません。当然そこには、一方的に被害者の遺族が不服申立てや、被害者組織を作って、加害者を糾弾(きゅうだん)する運動が昨今展開されていますが、これは犯罪の「罪」と、遺族の、加害者への「恨み」とは別問題であり、被害者の罪に対しても、その前生の因果関係は当然問われるべき事なのです。