●想念を予定する「予定説」
日本には古くから「因果応報」(哲学的には「因果律」causality/因果性の法則化された形式を指し、一切のものは原因があって生起し、原因がなくては何ものも生じないという法則)という考え方が根強く残っています。
因果応報とは、過去における善悪の業(ごう)に応じて、現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずることを言います。
つまり、過去世(かこぜ)の因縁によって、悪い事をすれば「報いが来る」という考え方です。
しかし悪い事をする大悪人でも、因果応報の原理からすると、当然、悪い報いが頭上に降りかからなければならないのですが、こうした大悪人でも、案外のうのうと生きています。
例えば、悪逆非道を繰り返す暴力団や、外国のギャングやマフィア等がこれに当たります。悪い事をしてもその報いが、著名に顕われません。むしろ端目(はため)から見ると、ますます盛会を誇っているように映ります。
彼等は因果応報の原理からすれば、明らかに非人道的であり、罪を犯しても反省の意志がなく、刑務所に送られても、そこから出てくれば、再び更に巧妙な罪を重ねます。そして、こうした大悪人と言う人間は、その実態は現世における「悪」でありながら、金・物・色に関しては非常にリッチで、豪勢なな生活を楽しんでいます。何故、彼等は因果応報の原理に従って、「報い」を受けないのでしょうか。
一方、本当は非常に温和しい、しかも善人であるのに、いつも貧乏ばかりして、うだつが上がらず、金銭的に不自由したり、病気を患(わずら)ったり、事故や怪我に巻き込まれたり、家庭内では不和が起こり、いつも苦しんでいる気の毒な人がいます。律儀で、真面目で、こつこつと独楽鼠(こまねずみ)のように働きながら、それでも豊かになれません。
小さな悪い事でも、これを一度冒せば、良心の呵責(かしゃく)に嘖まされます。悔悟の念が先に立ち、悩んだり、苦しみを味わいます。
これを考えた場合、一体これはどういう因果関係からであろうか、と首を傾げたくなります。
因果応報に随(したが)えば、善なる原因が良い結果を生み、悪なる原因が悪い結果を生むのなら話が分かるのですが、その逆に、大悪党が案外威張って堂々と生きており、虫も殺さぬ気の弱い、善人と言われる無力な小市民が、何処かの片隅で小さくなり、丸くなって細々と生きています。一体これはどういう因果関係かと、因果応報の原理自体に疑問を投げかけたくなります。
これを理解するポイントは、本人が自覚する「罪の意識」にあります。この罪の意識こそ、「良心の呵責」なのです。
善人と言う人は、単に小心者であるばかりでなく、罪の意識が非常に強いものなのです。したがって、その罪の意識を拭(ぬぐ)い去る為には、少々の反省をしたくらいでは足りなくて、何か、罰を受けていないと罪が消えてしまえたような感じがしないのです。こうした心を「良心」と言います。
良心(conscience)とは、何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪を退ける個人の道徳意識のことで、これに反すれば咎(とが)める心が起ります。そして、この「咎め」が極端に偏(kたよ)ると、「良心的」などといわれ、良心に忠実であるさまが突出し、更には、物事を誠実にやり通すさまが極端化します。
中には、良心が転じて、自虐(じぎゃく)的な意識に襲われて、罪でもないものを自分の事として、真剣に悩む人がいます。これこそが「自我(じが)が潰れる」大きな原因なのです。
精神病の人は、内因的にこうした自虐心が、何処か心の深層部に隠れていて、これがある時、突然爆発して、精神を病んでしまうのです。大悪人がふてぶてしいのにたいし、小人(しようじん)は何事にも余裕と言うものがありませんから、無理が加わるとプレッシャーが懸(かか)ります。
ストレス等の過労による軋轢(あつれき)も、実はこうした「潰れてしまいそうな自我」が深層心理を巣喰っていて、やがて疲労が蓄積されて行くと、過労死や突然死のような突発的な災難に見舞われます。精神的圧迫により、押し潰されそうになり、それが激しいストレスとなります。種々の外部刺激が負担として働くとき、心身に生ずる機能変化が起ります。自律神経への変調も、ストレスが加わったからであり、このストレスは神経症へと移行します。最初は、人格の以上などは認められませんが、長引く事で、人格に変調を来したような状態となり、追い詰められた自我は、精神分裂症擬(もど)きのような病状が顕われて来ます。
現代精神医学は、神経症は精神分裂病に移行しない。人格の破壊はあり得ないと言っていますが、複雑に絡み合った異常は、単に神経症の状態で止まるのではなく、更に変化を求めて移行をし始めます。
特に神経症の人は、喩えば、自分で服を着るにも、自分では迅速に遣っているのですが、それが一時間も二時間もかかる場合があります。焦りに反して、物事は遅々として進みません。やがて周りからは、のろまと見られてしまいます。そして周囲の人の眼を気にし始めます。そして、心は益々、歪になり、自分の心の葛藤の中では、激しい自他離別の気持ちが起こりはじめます。
神経症が起る要因としては、物理化学的なものでは、寒暑や騒音や化学物質などであり、生物学的なものでは、飢餓や感染、過労や睡眠不足などです。そして、ストレスの中で大きな割合を占めるのは、人間関係から生じた、社会的なものであり、精神緊張や不安、恐怖や興奮などです。
つまり、世間が自分を見て、どのように見られているかと言う、「世間の目」です。「世間の目」こそ、有情(うじよう)の生活する境界であり、ここには他人から「見られる目」が存在しているのです。
そして、ついに神経症レベルでは納まらなくなり、精神の破壊が訪れます。ここまで進むと、神経症なのか、精神分裂病なのか、見分けをつける事が難しくなります。
そうなると、更に深層心理に巣喰っている、意識は過剰なものになり、膨張を起こします。これは一般人の、小人における自我の潰れていくメカニズムです。
ところが、本当の大悪人や大罪人は殆ど「罪の意識」がありませんから、簡単には、自我など潰れることがなく、どこまでも図太く生き長らえます。これが、大悪人や大罪人の「報い」を受けない大きな理由です。
彼等は勢力争いの野望に命を燃やし、面子(めんつ)だけを看板にして生きる、「太く短く」の肉食動物ですから、当然、図太さはありましょう。しかし、問題は野望をぎらつかせる「想念の強さ」と、気質(かたぎ)の衆には決して負けられないという「面子に生きる」意地がこうさせているのです。
つまり想念が彼等を作り上げているのです。彼等の意識は想念が支えているのです。想念を支える意識こそ、過去世(かこぜ)から引き摺った「性格」というものであり、そこには霊の実体を支える意識体が存在します。この意識体こそ人間本来の、「本体」の姿といえましょう。そして現象界はこの意識から起る想念によって、変化し、動かされていると言う事になります。
何事も、計画する時には、まず想念によって、「こうなれば好(い)い」「ああなれな好い」というような、想念が先に来ます。つまりこれこそが、想念を予(あらかじ)め予定する《予定説》(predestination/キリスト教神学において、人間は救われるか、滅びるか予め神の意志によって定められているとする説)なのです。
《予定説》とは、最初に結果があって、その結果に基づいて、原因が起こると言うものです。これは現世の想念現象を理解する上で、最も重要な認識となります。
人間は、一方でそんなに身体的社会的にダメージを受けたとしても、また、少しでも生きる気力が残っている限り、必ず、何らかの人生設計を描いている生き物なのです。簡単に「生」を諦める事はないのです。社会不適合と称される人でも、何かしら細やかな夢を描き続け、生きる事への抵抗を続けているのです。
また、常に「心の拠(よ)り所」を求め、それに向かって努力を続けるものなのです。これこそが、人間がこのように造られた、「予定された生き物」と言う事になります。
神により、「予定された生き物」であるならば、そこには未来を展望する「予定」が描かれていなければなりません。他の動物とは異なる、特異性が存在していなければなりません。何故ならば、これこそ、人間が予め予定により、造られた生き物であるからです。社会的存在として人格を中心に考えた生き物であるからです。人の棲息し、生活する世界を「人間界」と言います。
では、人間界に生息する「予定された生き物」の本当の姿とは、いったい如何なるものなのでしょうか。
●予定説の真相を現すパウロの「ローマ人への手紙」
「ローマ人への手紙」の中で、パウロは自分の眼で見てきた事を言います、「善人は一人もいない」と。
人間は罪人である。これは全ての人間に、ただの一人も例外がなかった……と痛感させます。
これはキリスト教の定めた、東洋思想に対峙(たいじ)する西洋思想、あるいは西南アジア思想です。
また、これは東洋の人間の性(さが)を性善説に置いた、対峙(たいじ)する西洋の性悪説であり、人間は生まれながらにして悪であり、悪であるからこそ、それを教育して正し、善行に導くとした教育的な思想がキリスト教の根底には流れています。
かかるキリスト教の人間観は、総(すべ)てこれに由来します。
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▲ キリスト教は、日本人には理解し難い《予定説》で説かれている。 |
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▲《予定説》が生涯解決できなかった内村鑑三。内村は教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。 |
人間は生まれながらにして《悪》と観(み)るキリスト教に於て、人間とは、かかるものだと観(み)ている点は、如何に敬虔(けいけん)なクリスチャンであっても、その存在自体に異論はないはずでしょう。それはパウロの「ローマ人への手紙」に由来するからです。
「義人がいない、一人もいない。悟る者がいない、神を求める者がいない。みな道に迷って、みな腐り果てた。善を行う者はいない、一人もいない」
これはパウロの「ローマ人への手紙」(第三章)として広く知られています。
そしてこれは、「義人なし、一人だになし、善をなす者なし、一人だになし」という名調子の件(くだり)で有名です。
では何故、パウロに此処まで言わしめたのでしょうか。
パウロは、ファリサイ人が姦淫(かんいん)の現行犯として逮捕された女の罪を、イエスが如何に裁いたかを知っているからです。
法律学者とファリサイ人達は、姦淫(かんいん)を犯した女をイエスの前に引き立てて、こう言います。
「師よ、この女は姦通(かんつう)の最中に捕まった者です。モーセはこういう者を石殺しにせよと律法で命じていますが、あなたはどう思いますか」(「ヨハネによる福音書」第八章4、5)
これはイエスをジレンマに陥れる為の、ファリサイ人達の策略が含まれていました。
イエスは身を屈めたまま、指で地面に字を書き続けています。ファリサイ人は再びイエスに問います。これに答えてイエスは曰く、「あなた達の中で罪の無い人が先ず、この女に石を投げよ」(「ヨハネによる福音書」第八章7)
イエスはそう言い残すと、再び地面に字を書きはじめました。これを聞いた人々は、一体どうしたのでしょうか。
良心に責めを受けた人々は、一瞬躊躇(ちゅうちょ)を覚えます。
「老人をはじめ、若者までが一人去り、また一人と去っていき、イエスと中に立てる女のみが残った」(「ヨハネによる福音書」第八章9)
結局、誰一人として、刑を執行する者がいなかったのです。
ユダヤ教に於て、当時の死刑執行は、石打ちによって行われていました。役人が執行するのではなく、民衆が自主的に執行するのです。裁判の民衆参加は陪審制ですが、死刑執行に於ては民衆も参加するのです。
ユダヤ教やイスラム教に於ては、民衆は喜んで死刑執行に参加します。民衆の死刑執行は当時の娯楽に一つであったからです。この時も、姦通罪で、一人の女が石打ちの刑を受けようとしていたのです。
イエスはファリサイ人達に、その資格を問うたのです。イエスの処分は「罪無き者に限って、刑の執行が出来る」と新判決を下したのでした。
この判決は、つまり内在的な罪悪感を指摘したのです。「心に省みて、これをなさざりし者」という意味であり、法律によって裁く外的な罪より、神によって裁かれる内在的な罪を、イエスは重視したのでした。
「総て色情を懐(いだ)きて、女を見る者は、既に心の裡(うち)に姦淫したるなり」(「マタイ伝」第五章)
そしてパウロの命題は、ここに証明され、この世の中には、罪無き者は一人もいないという事が明白になったのです。
これは主イエス・キリストが、奴隷聖パウロに与え賜もうた指針であったのです。
パウロの「ローマ人への手紙」は、この大命題を見事に解き了(お)えて「義人なし、一人だになし、善をなす者なし、一人だになし」は完結します。
人間は、全て罪人であるという性悪説から始まるキリスト教思想は、もし行為によって、人間が救われるとするならば、救われる人間なんか、一人もいない事になるという結論に至る訳ですが、では、義人は一人もいないのかという事になります。
果たして一人もいないのか。否、います。それは誰か。
神が予(あらかじ)め「予定」した人です。
キリスト教の教義の結論は、神は予定した人々を救済し、善(よ)き事をなさしめたもうのです。
「ローマ人への手紙」は此処(ここ)を最大の山場として、教義を押し進めています。予定説によって、選ばれし者と、そうでない者を選別する為に……。
そしてその選別とは、「淘汰」を指します。
●淘汰の時代が到来した
人間は本来、神と共にありました。ところが文明社会の発達で、神から遠く離れてしまいました。
その為、いま、人間社会には様々な災いが、病気、事故、暴力、災害、麻薬の氾濫、人倫の乱れ、性の氾濫と不倫、家庭不和、離婚等の不幸現象として襲い始めています。
二回の世界大戦を経験した人間界の二十世紀は、淘汰の初期で幕を閉じ、更に二十一世紀初頭は、淘汰の中期で幕を開ける事になります。これは、何も「ヨハネの黙示録」にかこつけるまでもなく、その時代は、直ぐそこにまで迫っています。
神の予定した、もしくは選別した人々は、今や明かされようとしています。
「また予定された人々を召し出し、召し出した人々を義とし、義とした人々に光栄を与えられた」と「ローマ人への手紙」(第八章)にはあります。
経典に記された言葉は絶対です。宗教の全ては、経典の言葉からスタートするのです。
この事は、キリスト教独特の恐るべき結論から起こったものでしょう。
これに比較すると、ユダヤ教もイスラム教も、法律を守る事は、人間の力を以てしても不可能ではないと考えます。そうであるからこそ、後世に於て、法律学が発達したとも言えます。
しかし人間界に於ける法律学は、人間界の範疇(はんちゅう)で収まるもので、人間界を超越した異次元の高次元世界では、人間界の法律など一切適用されません。何故ならば、キリスト教は法律学ではないからです。
聖書に詳しい読者なら『新約聖書』を挙(あ)げる人が居るかも知れません。確かに『新約聖書』は「契約」を更改したものですが、これに記された新契約はゼロに等しいものです。白紙の証文で書かれたのが『新約聖書』です。日本人キリスト者の中には、この事すら知らない無知な、自称敬虔(けいけん)なクリスチャンと名乗る輩(やから)が多くいます。『新約聖書』は、まさに白紙の経典なのです。
『新約聖書』は『旧約聖書』と違って、命令の一つも書かれず、預言(神の言葉)の一言も書かれず、また何事も禁止していません。
即ち、キリスト教を、イエス・キリストが死に絶えた以降の、カトリシズム思想の中には、人間の罪も、不義も、不正も、それ等を総称した総てのものを、何一つ《悪》として指摘してない事になります。
これは現代の法律学に当て填(は)めると、罪刑法定主義下で、白紙の刑法典が、犯罪を犯した犯罪者に何も罰する事が出来ないのに似ています。
キリスト教に於て、教会は神聖な場所であり、政治的には治外法権が存在する場所と信じられています。如何なる犯罪者も、あるいは度重なる罪を幾重にも重ねた極悪人が、一度教会内に逃げ込んだならば、そこにいる聖職者は、命を張ってこうした人達を保護する立場に廻わります。これは強い終身雇用の制度によって、聖職者がその地位と身分を保証されているからであり、こうした制度によって、また、聖職者達は、如何なる困難にも命を張ります。
この命を張る根底には、信仰の力と言うものもあるでしょうが、教会への忠誠心が強められている効果も大きく、まさに、危険な未開地や、命の危険を感ずるような場所でも赴任して行くのは、一方に於いて、決死隊的なところがあり、暴動や動乱の犠牲者となっても、それを敢えて厭(いと)わないと言うのは、暴挙を所有している人間でも、「教え、諭(さと)す」ことで、如何様にも変化するという事で、この時点の正邪は存在していないことになります。
これはキリスト教自体が、現世には「正」も無ければ「不正」も無いという事を率直に認めた考え方であるからです。
だが、この種の考え方をギリシャ人は好みません。またインド人も好みません。
何故ならば彼等は、哲学者として最高であるという自負から、彼等自身の世界の双璧(そうへき)は、未(いま)だ崩されていないからです。
そして彼等の想起した哲学は、人類の発見史上、稀(まれ)なる「ゼロ」の哲理をインド人が発見したからです。
今日用いられている数学の多くは、ギリシャ哲学を基盤にして確立されたものですが、そのギリシャ人をして、「ゼロ」の発見はなかったのです。
ギリシャ哲学は、その数理哲学の範囲に於てですら、「ゼロ」の概念は存在せず、もしこれが古代ギリシャに於て発見されていたならば、今日の数学の理論は、更に発展したはずであろうと思われます。
しかしながら、これは存在せず、ギリシャに於ては、東洋に於ける「五行説」すら念頭にありませんでした。
さて、五行説の中枢は「火・水・木・金・土」の五つのエレメントからなる「五行」ですが、ギリシャ哲学は「四行」であり、五行説に比べて、一つエレメントが不足しています。これがギリシャ哲学の盲点であった「空」の概念であり、「ゼロ」の概念でありました。
西洋はこの第五番目に当る「ゼロ」の概念を抜け落としたまま、物理学的に「力づく」の哲学を展開させ、西洋錬金術を機軸に「化学」の分野を発展させてきました。西洋人有識者の多くは「空」の概念を知らず、「ゼロ」の概念を知らなかったのです。
では、此処に述べる「空」あるいは「ゼロ」の概念とは、一体何でしょうか。
それはとりもなおさず、第五番目のエレメントに匹敵する「霊子」の存在です。東洋の五行説(五行観は五つのエレメントで構成されている)これは「五輪塔」を持ち出すまでもなく、木=温、火=熱、土=湿、金=燥、水=寒で現わされ、これ等の自然観はマクロの世界から、人間観のミクロの世界へと移行するのです。そして地上に存在するものは「火」であり、「水」であり、「風」であり、「土」であるが、最後の第五番目のエレメントは「空」であったのです。
この「ゼロ」の発想ともいうべき「空」の概念は、近代に至るまで、西洋には存在しませんでした。つまり「霊子」であり、原子核の中に電子が存在し、その電子の働きの因(よ)って、全てが順調に運行されるという説ですが、電子以外に「霊子」が存在するという事実を、近年まで西洋では認める事はなかったのです。
さて、パウロはローマの市民でした。
ローマはローマ帝国の時代であり、ローマ帝国の文化は、ギリシャ文化の後継者としての役目を終わったばかりで、ローマ帝国の公用語は全てギリシャ語であったという事から見ても、ローマ人達は、如何にギリシャ文化の恩恵に預かっていたかという事が分かります。
したがってパウロの教養はギリシャ的であり、インド的ではありませんから、彼自身に「空」もしくは「ゼロ」の概念はありません。だからこそパウロは『新約聖書』だけではなく、『旧約聖書』をもまた、キリスト教の『聖書』として採用したのです。
「古代ユダヤ教」のヴェーバー(Max Weber/ドイツの社会学者・経済学者。その著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は特に有名。1864〜1920)の序説によれば、キリスト教は『旧約聖書』も採用した為、後にこれは世界宗教として発展を遂げたとあります。
では何故、キリスト教は『旧約聖書』までを採用しなければならなかったのでしょうか。
それはとりもなおさず、『新約聖書』の中には、全くの法律を持たなかったからです。『新約聖書』の中には、その「法」の萠芽(ほうが)すら見い出せないからです。
これを単刀直入に言うならば、キリスト教はユダヤ人の聖書である、『旧約聖書』すらもキリスト教の聖書として受け継いだのでした。しかし、ユダヤ教の総てを、そのまま安易に受け入れた分けではありませんでした。
モーセの戒律を、イエスは独自の解釈を行い、「十戒」に於ける、喩(たと)えば「姦淫するな」という意味を、イエス流に考えたのが、イエスの天才的な発想の転換です。これを現代流に言うならば、カント(Immanuel Kant/ドイツの哲学者で、科学的認識の成立根拠を吟味し、認識は対象の模写ではなく、主観である「意識一般」が感覚の所与を秩序づけることによって成立する『コペルニクス的転回』を主張、超経験的なものである「不滅の霊魂」「自由意志」「神」などは科学的認識の対象ではなく、信仰の対象であるとし、伝統的形而上学を否定し、道徳の学として形而上学を意義づけた。1724〜1804)のコペルニクス的発想の大転換であり、これは大転換たる大転換でした。
イエスは、モーセの法律の命令に言及しつつ、「だが私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」(「マテオによる福音書」第五章 )とあり、これは既に革命的言葉であり、コペルニクス的発想の大転換でした。
イエスの天才たる所以は、モーセの法律の外見的な、「女と姦通するな」という人間的な外面的行動を超越して、心の裡側(うちがわ)までに迫り、心に色情を描いただけで、既に、その者は姦通をしていると喝破(かっぱ)したのです。
今日の存在する法律の多くは、人間の規範及び、倫理や道徳を論(あげつら)い、それを外見的に取り締まっています。しかし、人間の内面的行動を取り締まる法律はありません。
多くの宗教理念が存在する中で、イエスだけが人間の行動規範から、心情的規範に発想を転換させ、これに気付いた事は、以降のキリスト教に大きな繁栄を齎(もたら)したと言えるでしょう。
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