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●現代の難病・奇病は「肉喰った報い」と密接な関係がある

 昨今は食生活の誤りから、ガン疾患や精神分裂病(特に自律神経失調症といわれる神経症や鬱病が激増している。本来、精神分裂病と神経症は人格の崩壊等の面に於いて、異なっていたが、物質文明では神経症が移行する稀なケースも報告されている)を始めとする神経症や躁鬱病(そううつびょう)が急増していますが、総(すべ)ては「食の誤り」に起因しているのです。

 日本も、食生活の欧米化が進んでいる為、アメリカ並に精神病が増えていると言う現実があります。まさに、「喰われた動物側の恨み」や「食べ物の恨み」であり、こうした恨みに生霊(いきりょう)が取り憑(つ)き、また一方、飢えを経験して食べられない霊が、不成仏霊化して、生身の人間に取り憑いていることも少なくありません。

 今日でも、世界の半数以上の人類は、相当な「飢餓」の状態にあります。そうした恨みは、怨念(おんねん)となって生霊化し、食える者へと取り憑きます。その為、食える者と、食えない者との格差が出来、食べ物の恨みから、食えない霊は生霊化(いきりょうか)しています。

 さて、「食べ物の恨み」には二つあります。
 一つは、食える者と、食えない者との食事情の格差であり、これは経済状態における貧富の差を現します。食える者とは、常に自分の家の冷蔵庫には沢山の食べ物が貯蔵されていて、喰うに困らない人を言います。一方食えない人は、明日の食べ物は愚か、今日食べるものもない人のことを言います。

 昨今の日本では、発展途上国の餓死者の出る社会構造とは違っていますので、もし、そうした人がいれば、福祉の対象となり、直ぐに保護措置が取られますが、貧困に喘(あえ)ぐ国々では、依然として餓死者が続出しています。
 此処にも南北問題の、南半球の深刻な食糧事情が横たわっています。

 日本の食産業は、大衆に新たな食材を提供する為に、外国のありとあらゆる食材を輸入し、これを消費者に提供します。しかし、こうした現在の日本人の飽食を背景とする、外国への買い出しは、他人の家の米櫃(こめびつ)に勝手に手を突っ込み、お金でこれを買い上げると言う行為ですから、お金にものを言わせて外国人の食べ物までを取り上げてしまうと言うのは、当然そこには、恨みが発生します。

 外国の多くの美味しそうな食材は、そこの国の人口には入りません。それは日本人が、お金にものを言わせて、これを持ち去っていくからです。こうした日本人の浅ましい行為を、外国の彼等は一体どのように考えているでしょうか。日本人の浅ましき、食への貪欲さを、どう見ているのでしょうか。
 すなわち、これが「食べ物の恨み」です。

 次に、もう一つ上げられることが、喰われる側の「食べ物の恨み」です。
 食肉になる多くの動物達は、我が身を人間から食べられることによって、恨みを抱きます。この「恨み」は、怨念(おんねん)を発する恨みであり、命を奪われ、我が身を食べられると言う、人間の性(さが)と殆ど同じ、怨念から発するものです。こうした怨念は、一種の唸ねん/感情の意識体)ですから「肉(じし)喰った報い」として、この唸は時空間に残り、浮遊します。

果たして人間は、動物の肉を食べないと生きられない生き物なのだろうか。
 肉の生産は非常に効率の悪いものである。カロリーの生産や消費量から見ると、人間が食肉や卵やミルクを欲しがれば、穀物や野菜を食べるのに比べて、二倍の労力を必要とし、牛肉を食べる為には、七倍の労力が必要である。
 その上に、改良された大型優良種を飼って、生産能率を高めようとすればするほど、本当の生産効率は悪化し、人間の労力は大変なものになり、自然は衰えると云う皮肉な結果を招く。更に、喰われた側の恨みや怒りは、決して小さなものではない。

 動物のこうした唸から派生した恨みは、命を取られ、喰われた側としての悲しみと怒りが、唸として時空間を漂いますから、善悪因果の応報として「兇(わる)いメグリ」として変質します。
 これで一番恐ろしいのが「肉(じし)喰った報い」であり、これが現代社会を忌(いま)わしく覆(おお)っています。現世の不幸現象の大半は「肉喰った報い」であり、次に生霊、不成仏霊の死霊、浮ばれない先祖霊の順に続きます。

 また、昨今の食肉や乳製品(牛乳、バター、チーズ、ヨーグルト)等の動物性蛋白質の摂り過ぎにも問題があり、争い事や不和等は、明かに「肉喰った報い」であり、人間と言う哺乳動物が、牛や豚等の哺乳動物を食べるのを止めない限り、多くの不幸現象は、更に続くことになります。

 あなたは、牛や豚が、どのように生産されているか、ご存じでしょうか。
 仔牛(こうし)の飼育は、生後六カ月まで抗菌性物質製剤等が投与されて飼育されます。法律的でも、こうしたものは与えても良いことになっていますが、それ以後については、治療目的以外に、これを餌に混入することは禁じられています。しかし、抗生物質を与えた方が、肥り方が早い為に、これをこっそり与えている生産者も少なくありません。残留検査に出ない程度に、密かに与え、殆どの生産者が、こうした手法を用いて高級和牛を飼育します。

 そして肥育期に入ると、牛房では餌の喰い放題となり、こうした餌の与え方を「不断給餌(ふだんきゅうじ)」と言います。
 濃厚飼料と水が、常にベルトコンベアで流れていて、その飼料は、大麦、玄米等の穀物のフスマ、大豆粕(だいずかす)等であり、それに併用して、良質の乾草(ほしぐさ)が与えられます。

 牛達は余念なく餌が食べられるように、牛房は静かに暗く保たれています。牛達は、ただ喰うことだけに専念します。それでも餌を食べさせようとして、無理矢理ビールを飲ませたり、甘酒を飲ませることもあります。
 更に、肥育の後期に入ると、餅米(もちごめ)を与え、黒砂糖を与えます。焼酎で牛の身体を拭き、あるいは焼酎を吹き掛けて、牛の身体全体をマッサージします。塩を与え、肉の色をよくする為に、カルシウムを一日50gほど舐(な)めさせます。

 最終段階の仕上げ期に入ると、牛を一日約700gの割り合いで肥らせる為に、更に濃厚飼料を与え、多種多量の抗生物質を与え、ビタミンやリジン等を与えます。
 生産者は、少しでも買い手に高く売り付けようと、こうした非常手段を遣(つか)います。そして、こうした裏側には、生産者達の金銭的利潤の追求が見て取れます。

 その為に、更に良質の乾草(ほしぐさ)を与え、ビールや焼酎、甘酒や黒砂糖を与えます。そして仕上げは、酵母菌(こうぼきん)まで与えます。これは牛特有の、糞尿の臭いを消す為であり、公害防止策と言っていますが、「臭いを消すこと」と「高く売り付けること」が、何かイコールに思えてなりません。

 豚の飼育の場合は、狭い檻(おり)に入れて、喰(く)い放題に食わせ、餌を送り込みます。その檻は、前後に回転が出来ないほど狭い檻です。こうした中で育てられた豚は、急速に肉が着きますが、骨は殆ど育ちません。外に出しても、数歩と歩けないのです。まさにブロイラーも同じです。

 これは牛の場合も全く同じです。出来るだけ骨を細くし、枝肉にした時の「歩留(ぶどま)り」を考えるからです。したがって、こうした高級和牛と謂(い)われる牛は、少しでも歩かすと、ちょっとしたことで骨が折れてしまいます。躓(つまず)いたり、転んだりすると、商品としては売り物にならず、直ぐに廃棄処分になってしまいます。

動物の魂を踏みにじった肉の常食習慣。現代人のガン疾患などの病気は、肉食に由来する。

 そして何よりも悲しいのは、屠殺場とさつば/業界用語で「と場」という)に送られる時です。
 牛や豚は、この時期が来たのを、二、三日前から予知します。出荷される時は、尻込みします。脚を突っ張り、貌(かお)を左右に振って、最後の抵抗を試み、悲しい泣き声を上げ、つぶらな眼から大粒の涙をこぼします。

 牛や豚は、非常に感覚器官が卓(すぐ)れた動物です。嗅覚に卓れ、聴覚に卓れ、自分自身の運命を知る能力に、非常に卓ぐれています。屠殺場に向かい、トラックで輸送すると、一日で50kgも肉が落ちることがあると言われます。これは輸送される疲労もあるでしょうし、何よりも、これから殺されると言う、死への恐怖が、彼等を苛(さいな)むのです。

 牛や豚や、その他の肉食の素材になる動物は、二度、三度繰り返して今までの事を思い、考え、反芻(はんすう)する能力がありますから、自分の過去を振り返り、何の為に肥え太らされてきたか、あるいは何の為に餌をせっせと詰め込まれたか、それを振り返ると言われます。牛や豚自身が、鋭い嗅覚で嗅ぎ取り、人間が造り上げた、ブヨブヨの我が身を纏(まと)う「霜降(しもふ)り肉」に、おそましい嘆きを回帰させるのです。
 彼等の恨みの原点は、ここにあります。

 また、こういう風な、牛や豚の育て方と言うのは、「動物の魂」を踏みにじった、まさに邪道ではないでしょうか。また、屠殺された家畜の魂は、救われません。現象界に怨念となって浮遊します。

 しかし一方で、こうまでして造り上げた霜降り肉を珍重する、人間側のエゴイズムがあり、人間が舌先三寸だけを喜ばせると言う食道楽は、食欲と言う次元を通り越した「原罪」であると言わねばなりません。ここには肉食をすると言う、人間の美食に偏(かたよ)るおぞましさがあります。
 霜降り肉と言う、一つのものばかりに執着する、こうした考え方は、どこか異常ではないのでしょうか。また、人間が保護すべき動物を、なぜ食べるのでしょうか。

 そして本来は、人間が保護すべき動物をこのようにブヨブヨに肥らせて、その挙げ句に食べ、こうした実情が、ガン疾患や精神異常をつくり出しているのではないでしょうか。

 近代的な、最先端医療の発達した国で、このような難病・奇病が蔓延(まんえん)し、病気自体が治りにくくなっている現象は、一体どういう理由からなのでしょうか。

 食が乱れ、それに狂い、慎みを忘れれば、必ず、心と身体は病むのです。これは肉体だけに止まらず、精神も病み、魂は穢(けが)され、霊的神性は曇らされ、霊性は落ちてしまうのです。

 霊的神性が落ちてしまえば、霊格も落ち、その霊的波調は低下して、次元の低い怨念を持った不成仏霊等との交流が激しくなります。こうした不成仏霊は、自身の魑魅魍魎化(ちみもうりょうか)した迷える魂を、人間の肉体に侵入し、それを容(い)れ物化することにより、コントロールして思いの儘(まま)に操るのです。ここに現代人の霊的神性の凋落(ちょうらく)があります。

肉食は、本来人間が持つ霊的神性を曇らせ、霊性を低下させる食品である。




●食べ物で贅沢を覚えた者は、やがて墜落する

 人間階層は、先にも述べた通り、「食える者」と「食えない者」とで構成されています。こうした格差は、まさに経済格差であり、貧富の差によって色分けされます。
 現在の社会的な価値観が、アメリカ的価値観で世界が支配されています。
 国際政治を見ても、世界的な規範を考えても、その殆どは欧米文化の模倣であり、文化から芸術に至るまで、ハリウッド映画に見るようなアメリカ的価値観で支配され、それが西洋の優位を象徴しています。

 しかし、アメリカ的価値観は、一種の偏見であり、偏(かたよ)った支配形態にしか過ぎません。文明と言うものは、一つの文明が未来永劫に亘(わた)り、独占すると言うものではありません。
 喩(たと)えば、文明Aが文明Bを長きに亘って支配し、搾取(さくしゅ)し続けると、ある時期に、文明Bが文明Aを逆支配する時期が訪れます。
 歴史を工学的な立場から洞察すると、最初の勝者は、後では敗者に転落して、逆支配されることが非常に多い事実として記されています。道理から言っても、今日の勝者は明日の敗者であることが明確です。

 これは、人間が逆境によって「鍛えられる」という事実があるからです。
 逆境は人間を厳しく鍛えます。逆境に立たされ、大半は立ち直れないまま、没落していきますが、その何%かは、この逆境に耐え、生き残ります。
 逆に、これまで支配する側に立っていた人間は、支配層に駆け上りますと、まず、贅沢(ぜいたく)を覚え、やがて墜落する運命を辿ります。

 世界のどの国の歴史を見ても、支配者側に立ったその子孫は、親の代の苦労を知りませんから、安易に贅沢へと趨(はし)ります。また、考え方も軟弱化であり、生活の基盤は贅沢な上に自分の生活基盤を構築しようとします。これが、孫の代になると、更に軟弱化し、その生活基盤は贅沢することが、生まれながらの権利であるかのように錯覚しますから、これが起因して腐敗・墮落の道へと踏み込んでしまうのです。

 特に、西洋史等を見てみますと、武力によってヨーロッパを支配し、武力を重んじたローマ帝国の、ローマ市民の子孫達は、贅沢を覚え、肉体的精神的試煉を嫌うようになります。兵役を回避して、常々野蛮人と卑下し、軽蔑していたゲルマン人の傭兵(ようへい)を雇うようになったのですが、そのゲルマン人傭兵部隊によって、西ローマ帝国は滅亡に追い込まれます。亡国とは、こうして訪れるものなのです。

 ここに、親の代が世界のリーダーであったとしても、子供の代で贅沢を許せば、孫の代では完全は腑抜けとなって、その支配は終焉(しゅうえん)を迎えるのです。王朝が衰亡し、崩壊する現実の裏には、こうした血縁的亡国が暗示されているのです。



●人間は皆平等ではない

 人間は平等ではありません。この認識は非常に大事なことです。
 民主主義社会で、多くの人は「誰もが平等だ」と考えていますが、平等など、この現世には何処にもありません。民主主義の発祥の地で、民主主義が愚昧政治を招いているのは周知の通りです。

 さて、愛する想念を抱く時、この「平等でない」という意識が大切な鍵を握る条件になります。
 私たちは経験、年齢、社会的な地位、立場、職業、性別、体力、体格、顔立ち、生まれや育ち、取り巻く環境等を見回すと、これらは人各々に違っていることに気付きます。以上のように、人は各々に違っていながら、これを平等視する考え方がありますが、これは大きな誤解と錯覚を植え付ける為の間違った考えであると言えます。

 問題は、以上のように、人各々に違いはあるけれども、自分と他人は「同格」であり、「同等」であり、「同価値」であるというのが、正しい認識です。
 この正しい認識があって、「愛」と言う本質が理解できるのであり、したがって平等など何処にもないと言うことを正しく理解しておかなければなりません。そしてここが、「愛」という意味合いで、重要なキーワードを持っているのです。

 自分と他人が同等でない、同価値でない、同格でないと言う考え方は、自分と他人が離れてしまった関係であり、自他一体の意識と認識こそ、愛を知る大きな手掛りとなるのです。
 ところが、昨今はこうした事が無視され、安易に民主主義の表皮だけを理解して「平等意識」を振り回す人が居ますが、こう言う人に限って、差別や憎悪の意識が強いようです。

 その為、自分と他人は別々に離れていて、全く別のものであり、然(しか)もそこには格差があると考えます。そうした考え方から、いろいろな確執が生まれて来るわけです。相手が少しでも自分より優れていると、僻(ひが)みますし、相手に負けたくないと思って、精神的な格闘を繰り返します。人間は誰も、自分が一番でないと気が済まないのです。それがまた、自分の意見を固く主張して譲らない、不和が派生する事になります。
 そこで人には、意識の中に同時に、「自他同根」と「自他離別」の双方が生じて、お互に鬩(せめ)ぎ合いを行います。

 このように自分と他人が一体と観(み)るか、あるいは別々に離れていると観るか、また自分と他人は決して平等ではないが、しかし「同等」あるいは「同格」と観るかで、差別が生じたり、憎悪や妬みの気持ちが起こる、分かれ道だと言えましょう。

 平等という言葉は、あくまで「法の下での平等」であり、人間と人間が平等であるとは、憲法の何処の箇所にも謳(うた)ってないのです。更に、社会的な地位であれ、年輩の方であれ、何でも平たく考えてしまう現在の平等意識は、やがて日本を滅ぼす要因になるかも知れないのです。亡国は、誰もが平等と考えることから始まります。

 古代ギリシアの都市国家に行われた、人民(demos)と権力(kratia)の結合した社会システムが破綻(はたん)したのは、歴史が証明しているではありませんか。
 だから人間としては平等でなく、「同格」であり、「同等」であり、「同価値」でなければならないのです。

 社会的な地位や立場にあっても、あるいは経済的な格差があっても、その差は、単なる現世の現象の差として顕(あら)われたものであり、これは「本質の差」ではないからです。人間としては、根本的な価値観において、「同格」であり「同等」なのです。
 私たちが、こうした同価値一体の想念を心に抱いた時、この想念は愛へと転化して行きます。そしてこれこそが、一番穩やかで、平和で、優しい想念を作り上げるのです。

 そして、一旦こうした想念に辿り着きますと、もうそこには、自他の区別がありません。こうした思いを持って暮らしていますと、他人からは決して害を受ける事ともありませんし、思わぬ不慮(ふりょ)の事件に巻き込まれる事もなく、ガン等の不治の病を患(わずら)う事もないし、経済的に困窮する事もないし、人から嫌われたり、陰口(陰口は本来、第三者を通じて自分に入るものを言いますが、自分の耳に聞こえなければ陰口は無視出来る)を叩かれると言う事もないわけです。

 もし、以上の事が度々起こり、現在も続いているのであれば、それは「愛の想念」ではなく、悪の想念や、差別の想念であり、事物や事象を自他離別の意識で見たり聞いたりしているのであって、それを知らず知らずのうちに無意識で、悪い方に実行しているからです。

 万一、こうしたことに気付いたら、就寝前に「今日一日の事を振り返り、反省して、悪い事があれば直ちに修正して、悪想念は消去しなければならない」のです。
 不幸現象から脱出する為には、早く自分の間違いに気付く事であり、これは陽が昇る前の明日へと持ち越してはならないのです。



●自他は一体である

 まず、自分が相手を「愛するという想念」を抱くから、また自分も「愛される」と言う現象が起こります。したがって他人を見下してはならず、見下すと言う差別や、優越感は愛の想念を否定し、悪想念を招き寄せます。
 また、見下す事だけがいけないのでなく、見上げる事もいけないのです。
 卓(すぐ)れた他人を見る場合、多くの人は不覚にも、見上げてしまいます。有名人を見るような目付きで、恭(うやうや)しい態度をとり、尊敬の念で一杯になります。

 自分より卓れた人を尊敬するのは決して悪い事ではありませんが、自分を卑下して、低きに置き、相手を上方に持ち上げて、極度に尊敬の念を示したり、お追従(ついしょう)を言ったり、恐れ多いと、感心して見上げてしまいますと、もうこれだけで差別となり、「見上げる」と言うことは「見下す」と同じくらいの悪想念を呼び込んでしまいます。

 差別とは、自他との間に境界線があって、自分と他人は「離れている」という事を現します。別々の存在であると言う格差を齎(もたら)し、これが悪想念を呼び寄せます。
 また、自分と他人との間には「差」や「格」というものがあり、これを意識して、人知れぬ優越感を感じたりする事は禁物です。

 よく見かけるのは、新幹線ではグリーン車の席に陣取り、普通席に座る人を見下す仕種(しぐさ)する人や、飛行機ではスーパーシートに座る人が、エコノミークラスの人を見下している姿です。こうした個別化によって起る優越感は、やがて自分自身を破綻(はたん)へと導きます。これが人を見下す恐ろしさです。
 逆に、自分を自分で卑下して、へりくだる事も、多くの悪想念を呼び入れてしまいます。

 したがって、こうした悪想念を消去するには、まず自他との境目をなくし、自他との一体感をイメージして、その最も根本的な想念は「愛」ですから、この「愛する想念」を持っていれば、非常に幸福で、非常に健康で、誰からも愛され、危害を加えられずに平穏に過ごせるのです。
 「幸せとは何か」と問いつめれば、結局、自他との一体感を理解して「愛する」ということなのです。愛すると言う想念は、まさに「慈悲」であり、やがては「慈悲愛」へと繋がって行くものなのです。

 つまり、自分と他人は同価値で、同じものと観る、あるいは自分と他人は一体である観(み)るとするのが、愛の本当の姿で、これは決して男女の溺愛を意味するものではないのです。
 例えばこれは、親が子に対する愛情のようなもので、口移しで食べても穢(きたな)いと思わない、一心同体の考え方です。一心同体こそ、「浄穢不二(じょうえふじ)の根本であり、これこそが「慈悲愛」へと繋(つな)がって行きます。

 ちなみに「浄穢不二」とは、清浄な悟りの状態と、穢(よご)れた迷いの状態とは、現象的には区別がありますが、本性上から見れば、不二同体であるということを指します。

 その丁度よい例が、たった一秒前まで、自分の口の中にあった唾液は、誰も決して穢いと思いません。ところがその一秒後、地面に唾を吐き捨てると、それが何だか穢(きたな)らしいものに感じてしまいます。これは自分と離れてしまったから、こう観(かん)じるのであって、自分と一体であれば、決して穢くも何ともなかったものです。

 これこそが「愛する」と言う一つの説明であり、また「愛する」と言う事は、自他は一体であると認識することから始まるのです。ある意味で、地球の総ての生命体は同じ生存世界の同居人ですから、一定不変不動の真理の中にあると言えましょう。