3



●想念が形作る「現世」と言う次元

 現世は現象世界であり、非実在界の存在ですから、一度、悪想念が蔓延(はびこ)れば、忽(たちま)ち不幸現象が現れます。
 そして、一度憑衣(ひょうい)されれば、現世では大変な事件を引き起こしまうことがあります。
 あるいは憑霊が、個人の本体の霊中枢を乗っ取り、肉体をコントロールして犯罪を起こさせたり、こうしたものが起因して、今日の現世は他動的に動かされている分けですから、取り憑(つ)かれた人の意思に関係なく行動する分けです。そして、一旦犯行に及べば、その人の罪になってしまいます。

 本当は取り憑いた人の事件なのに、取り憑かれた人の犯罪となるというのが、現在の「この世」の現象界の実情です。そして、「犯行に及んだ」ということで処罰の対象となります。
 
 もう何年の前のことですが、普段は酒が飲めない青年が、同僚に誘われて、何の気無しに居酒屋へ行き、普段は全く酒が飲めない体質(一般には「下戸」(げこ)といわれる)であったのですが、どうしたことが、ある時間が来ると、無性に酒を呷(あお)りたくなり、ついに深酒をしてしまいました。現象界では、喩(たと)えば、下戸(げこ)で酒が飲めない人が、酒を無理に呷(あお)ると「酒乱」へと変貌(へんぼう)します。

 そこへ、来店した客が、自分の肩を触(さわ)った、触らぬと口論になり、殴(なぐ)り合いの喧嘩(けんか)が始まり、乱闘騒ぎを引き起こします。そして普段は酒が飲めず、非常に温和な青年は、調理場の台所から刺身包丁を持ち出し、肩を触ったという相手を包丁で刺し殺してしまいました。
 普段は穏和で、おとなしい青年が、ある時間になると大酒呑みになって、切れてしまい、相手を刺してしまったという事件でした。

 この場合、この青年の命令系統は二つあったと考えられます。
 一つは憑衣されて「飲め飲め」と促した霊と、こう一つは霊と対峙(たいじ)して、「本当は飲めないんだけれど」と断わり続ける本来の自分の本体との葛藤(かっとう)です。両者は相反する行動で、結局、殺人事件を起こしてしまいます。これ等は典型的な憑衣現象です。そしてこうした場所に出てきた霊は、やはりアル中で死んだ人の霊でした。

万物の霊長と謂(い)われる人間の生命体は、本体・霊体・幽体・肉体の四分構成からなる。

 さて、憑衣された人の霊に対して、これを退去させる場合は、一般に「除霊(じょれい)」という方法に委(ゆだ)ねますが、除霊してもそれは長続きせず、結局、二、三ヵ月足らずで旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻ります。
 問題は《類は類を呼ぶ法則》(同類法則)という、宇宙法則を根本的に理解せず、これを根本的に断ち切る解消をしていない為です。

 除霊等の行為を完了すると、「解決」という言葉が使われます。
 この解決という言葉は、他にも事件や裁判沙汰や事故処理等が終了すると、「解決」という言葉が使われますが、こうしたものは解決である為、再び同じ事を繰り返す因縁をつくります。事件でも、裁判でも、事故でも常に、一件が落着する性質のものですから、次から次へと、また新たな原因をつくって行きます。

 したがって根本的に「解消」と「解決」では、全く意味が違います。
 解決は次に起こる事象の暗示を伴いますが、「解消」は、「もう、これっきり」という、これ「一回限り」の性質のものです。したがって以降、再発することはありません。

 さて、同じものは、同じもの同士の意思に集まると言う性質があります。
 一般には「類は友を呼ぶ」と言いますけれども、正しくは「類は類を呼ぶ」と言うものであり、これを《同類集合の法則》と言います。

 逆に、異なった同士は離反するわけですが、想念もこうした法則に左右されます。同じ想いの念を持っている人は、お互いに集合する傾向があり、違った種類の念を持っている人は、離反する傾向にあります。こうした離反する想念同士を《異類反発の法則》と言います。これは霊界での霊の集合体と酷似しています。
 これは「この世」という現世が、また霊界の一部として存在することに起因します。
 
 憑衣現象とか憑霊現象とかいうものは、悪霊化した《霊》に取り憑(つ)かれると言いますが、取り憑かれる方も、やはり取り憑かれるだけの起因を過去に作っているのです。これは霊界での、霊同士の集合法則から来るものです。同じ性質の、同じ性格の者同士が集合することから、人間界も、同じ仲間が無意識のうちに反応し、寄せ集まります。

 アル中等も一種の憑衣現象ですから、不規則な生活を送り、だらしない性格で、酒ばかり飲んでいる人には、やはりこうした酒ばかりを飲んで怠慢な《霊》が取り憑きます。
 ところが勤勉で規則正しい日常生活を送っている人には、絶対に取り憑けない法則があります。これが《異類反発の法則》です。

 《同類集合の法則》では、自然に自分と同じ類の、やはり楽をして、怠けながら、大金だけが転がり込んで、贅沢(ぜいたく)な生活をしたいと夢想している人の処に行きます。したがって、偶然に取り憑くと言うことは決してなく、「種」と「類」が同じですから、意図も簡単に取り憑いてしまうのです。取り憑かれる方は、取り憑かれる起因を最初から所有しているのです。お互いに反応する関係にあります。ここに憑衣現象や憑霊現象の恐ろしさの実態があるのです。

 精神的な病気でも、身体的な病気でも、病院に行き、医師の治療を受ける事は結構なことです。
 特に、精神的な病気でも、病院に行って治るものであれば、精神科や神経科で治してもらうことは大事ですし、抗うつ剤等の薬を飲みながら恢復(かいふく)を期待するのは悪い事ではありません。
 しかし何処の病院に行っても、どんな薬を貰って服用しても、それだけで治らない場合は、「ひょっとしたら、この精神的な災いは、憑衣されているのでは?」ということを思い出して、疑う必要があります。何故ならば、現代医学の治せる範囲は全体の20%に過ぎないからです。したがって、残りの80%は現代医学では治す事が出来ません。

 そして元々、精神病と言う病気は、もともと人間にはなかったのですから、こうした病気に罹(かか)ると言う事が、実は重要な問題になる分けです。
 病気は、自然発生的に、偶然が重なって起こるわけはないからです。そこには、病気に罹る必然的な「体質の悪さ」が存在するからです。体質が悪ければ、憑衣され易くなります。

 自虐心(じぎゃくしん)の強い人は、その軋轢(あつれき)に耐え兼ねて、精神を病むと言う病状が起こり、これまで培った自我(じが)が潰れてしまいます。これを精神医学者や心理学者は、「潰された自我」と表現しているようです。精神分裂病や躁鬱病(そううつびょう)の場合、こうした状態に、憑衣・憑霊が重なりますから、最悪の状態を招いてしまうのです。

 ちなみに、憑衣現象とは精神的に自虐心の強い人や、罪の呵責(かしゃく)をいつまでも引き摺(ず)る人に罹(かか)り易く、自分の潰れた自我で悪戦苦闘している人に、迷える《霊》が取り憑いて、憑衣・憑霊され易いようです。これは憑衣・憑霊される人と、迷える《霊》の霊的波調(憑衣・憑霊される人の波調は周波数的に次元が低く、その波調は「粗」である)が極めて似ている為です。

 憑衣・憑霊現象によって同調を受けた初期は、その人が「非常に多弁」であると言うことです。とにかく、よく喋ります。これは躁(そう)状態と考えられます。これが第二次症状に至りますと、逆に黙りこくって、鬱(うつ)の状態に移行します。そして、遣(や)ること成すことが「総(すべ)て遅い」とか、「のとまだ」と、周囲に眼には映ります。これが欝(うつ)状態です。
 精神分裂病は、これを繰り返しながら、徐々に悪化していきます。人格の破壊がないとする神経症(単数の憑衣・憑霊)が、やがて精神分裂病(複数の憑衣・憑霊。ここに至ると非常に治りにくい)に進行するのです。

 また酒好きな人は、アル中患者として生涯を送った人の迷える《霊》が憑き、酒飲の嗜(たしな)みのある人は、不図(ふと)したことで、酒場等で、ひょいと背後から取り憑(つ)きます。これは霊視によって確認されています。

 居酒屋のカウンターに両肘を着き、背中を丸めて、手酌(てじゃく)でチビリチビリやっていますと、外邪がいじゃ/多くは水死霊や横死霊でしかも生前に大酒呑みだった)が、この人の体内に潜り込もうとして、背中の真中寄りの「風門」ふうもん/足之太陽膀胱経の経絡線上にある経穴)よりスウーッと侵入します。潜り込むとまず、背中がゾクゾクとするような軽い悪寒が疾(はし)り、やがて唖門宮あもんきゅう/この宮は精気を呼び込む場所として行法者に知られ、閉じたり開いたりする)へと上昇をはじめます。

 唖門宮は東洋医術では「唖門」と言う名前で知られ、督脈(とくみゃく)の経絡線上の経穴で、ここは後頭部の温中枢(おんちゅうすう)や冷中枢(れいちゅうすう)を司さどる処で、ここに邪気・外邪(がいじゃ)が侵入しますと、体内の温度調節をするサーモスタットを破壊してしまいます。

 ここが破壊されますと、まず反射的に毛穴の立毛筋(りつもうきん)が収縮して、鳥肌が立つような状態が起こり、体内より気が逃げる阻止します。命の門が「命門」めいもん/《督脈》の経絡上にある経穴で、まさに命の門であり、腰冷え現象をを起こす。これはやがて頑固な腰痛となる。腰の悪い人は憑衣されていると観(み)て差し支えない)、外邪の風の門が「風門」ふうもん/東洋医術で言う《足之太陽膀胱経》の経絡上にある経穴)、毛穴の門が「気門」きもん/毛穴を開いたり閉じたりする「門」で、自律神経系の支配下に入る)なのです。

 外邪(がいじゃ)が侵入しますと、これらの三つの門の中枢機能が破壊されて、バランスを失います。初期の状態であれば自律神経失調症ですが、深刻な状態になると「鬱病(うつびょう)」となります。体内の温度調節をするサーモスタットを破壊されていますから、体温がどんどん上昇したり、あるいはどんどん下がったりもします。

憑衣・憑霊が起こる「風門」と「唖門」の位置。また、《足之太陽膀胱経》と「命門」の位置する経穴と、《督脈》の経穴を指す。

 外邪はまず「風門」から侵入し、「気門」を閉じてしまって出られない状態を作り、次に頸椎(けいつい)を昇り「唖門宮」に留まり、ここで体温調節機能を破壊します。
 この時、取り憑(つ)かれた方は体温調節機能が狂わされていますから、ガブガブと酒を飲んでしまうことになります。

酒で崩れる人は、酒が陰性食品である事を知らずにのみ、「陰之気(いんのき)」に当てられ、因縁によって「酒乱」か、「アルコール依存症」に発展する。

 一般に「アルコール」といわれる食品は「陽性食品」と思われがちですが、食養道の陰陽から考えると、実際には逆で、躰(からだ)を冷やし、体質を陰性化する食品なのです。一時的に皮膚表面の毛細血管を拡張し、血行をよくする効果はありますが、あくまでも一時的な事であり、発汗させ、躰を冷やす作用をするのです。この作用は、組織を弛(ゆる)め、冷え症にして、精力を抑制し、消極的な方向に向かわせます。こうした状態が、不成仏霊にとっては、取り憑(つ)く絶好のチャンスになり、背後から意図も簡単に、ひょいと憑いてしまうのです。

 憑衣後は、やがてこうした習慣が「晩酌(ばんしゃく)」と言う名目で生活の中に定着し、酒の量も、以前に比べて多くなっていきます。自覚症状がありませんから、自分では気付かないうちに、アル中の初期に罹(かか)っている場合も少なくありません。また、酒乱は憑衣とは少し異なり、酒を飲んで乱れるのは先祖霊のせいであると考えられます。
 特に、これまで酒を飲まなかった人が、何処かの酒宴の席に誘われて、それ以来、酒を呑み出すと言う習慣が起こった場合は、まず憑衣か憑霊と考えられます。

 これと似た症状を示すのが、祈祷(きとう)や占いを職業としている祈祷師や占い師、あるいは自称霊能者(修行法や霊的能力が過っている為、正しくコントロールできないか、もしくは最初からこうした能力が皆無)と称する人にも現れます。彼等は、死を迎えるその日まで、様々な外邪を体内に溜め込み、体内の温度調節機能が狂わされている為、臨終に際し、断末魔の苦しみで藻掻き苦しみます。また精神異常者も、同じ苦しみで臨終を迎え、来世にシコリを残したまま、その意識が引き継がれていきます。

 これと同じ事は、覚醒剤患者や幻覚症状のある人も見られます。
 また二重人格と言われる人も、邪霊の憑衣と見て間違いがありません。
 現在、大脳メカニズムを解明する精神医学では、こうした憑衣現象と精神病の因果関係が見つかっていませんので、一旦精神病を患(わずら)うと、中々治らないと言うのが実情であり、薬で抑えていても、やがて副作用が始まり、薬が効かなくなって、一段と強い薬に変わります。これで一時的に良くなったとしても、段々悪くなりながら、周期的に良くなったような錯覚に陥りますが、結局、ズルズルと悪くなって行くと言うのが、今日の精神医学の対処と措置の実情です。

 霊的な不可視現象に対して、これを眼で見、耳で聴き、手で触れ、嗅覚で臭いを感じ取ろうとする可視現象の物質的唯物思考で解決を図ろうとしているのですから、この次元の違いは、如何ともし難い状態にあります。そして現代医学の治癒率は、全体の20%という低さです。

 次に憑霊現象は、同じように霊が取り憑く分けですが、この多くは遺伝によるものであり、精神分裂病や躁鬱病そううつびょう/内因性精神病の一つで、精神の抑鬱と躁揚とが単独もしくは交互に周期的に現れる疾患)は、大体、百分の一の確率で、先祖や父母の因縁を引きずって憑霊されている場合が少なくありません。遺伝子的構造が似ており、大方は、「三代前くらいの先祖」の血縁に憑霊されている事が多いようです。父母や祖父母や曾祖父母の死因を調べれば、これが憑霊なのか、憑衣なのかハッキリします。

 こうした遺伝説に、否定的な意見を持っている精神医学者も少なくありませんが、遺伝子構造が血族で同じである場合、これは微(かす)かにではですが、「百分の一の確率」で子孫に遺伝するようです。または潜在的に隠れ遺伝の状態にあって、子孫の何代か後に、これが浮上すると言うことがあります。先祖に精神病を持つ人が存在すれば、その子孫は陰性保菌者と云う事になります。

 そしてこうした「潰れた自我」に陥り易い人は、まず、生真面目(きまじめで)で、律儀(りちぎ)で、几帳面(きちょうめん)で、神経質で、融通(ゆうずう)が利(き)かず、不正行為が嫌いで、質問された事に誤魔化しで逃げ切る事が出来ず、感受性の強い人が、こうした状態になり易いようです。そして救い難い決定的な性格は、思考の中に「想像力がない」ということです。

 また一方、こうした人は評論家的で、他人の揚げ足をとって言葉尻を捕まえて攻撃したり、何かと、人の中傷や誹謗(ひょうぼう)が好きで、「占い」や「方位」や「神頼み」が好きで、おまけに神社仏閣の御札集めをする熱心な蒐集家(しゅうしゅうか)でもあり、こうしたものに深入りしている人も、精神を病む場合が多いようです。

 したがって本来の意味からすると、憑衣と憑霊は、その種と段階が異なります。
 憑衣とは、同じ霊的波調を持つ人が、同じ霊的波調を持つ死霊(しりょう)や生霊(いきりょう)に取り憑(つ)かれることで、憑霊とは遺伝子構造が血族で似通っている場合に起こる、先祖霊(父母、祖父母、曾祖父母の三代前)の乗り移り等が考えられます。



●アルコール依存症の現実

 現在アメリカでは、アルコール中毒症患者が約一千万人強と言われています。二億人いるアメリカですから、「20人に1人」がアル中患者と言う事になります。
 そして、一千万人強の患者のうち、治療を受けて居る人が百万人前後といわれ、その為の医療費が年間約12億5000ドル強(日本円で約3000億円)と言われています。そして、その半分近くの医療費は国・州・地上自治体が負担して、実に大きな医療費負担となっています。また、アルコール中毒による死亡は、20万人と言われています。

 では、一億人の日本ではどうでしょうか。
 日本のアル中患者の統計調査では、僅かに二万人と言うのです。二万人と言えば、5000人に一人と言う事になります。しかし、この数字は正しいのでしょうか。
 この数字を問い質(ただ)してみると、「二万人」という数字は、精神病院に入院して、治療を受けているアル中患者の数であり、実数とは言い難いものです。

 では、日本ではアル中患者の実数は、どの位なのでしょうか。
 この根拠を検討する上で、一日のエタノール平均消費量から換算してみると、「150ミリリットル以上飲む人」が、医学的には、既に慢性アルコール中毒状態であり、現にアル中か、近未来のアル中の予備軍と考えられます。

 この平均エタノール消費量は、清酒にして「五合」、ビールなら「六本」、ウイスキーならダブルで「六杯」、焼酎なら生で「二合」前後を飲む人で、アメリカの比率を参考にするならば、日本でも精神科や精神病院で治療を受けて居る人が、十万人以上いると推定できます。また、アル中予備軍も含めると、200万人以上と推定されています。

 こうしたアル中患者は、アルコールに依存して酩酊状態を好む為に、同時に糖尿病や肝臓病、高血圧なども患っていて、身体的にも弱くなっており、精神科の治療だけでは完治するだけの体力がなく、これまで生きて来て、体質の悪さもともなって、悪循環している事が分かります。そして、こうした人は、アル中である前に、内臓的な疾患を抱えていて、アル中治療に主力をおいていない事です。

 内臓修復の為に内科を訪れ、内臓の恢復(かいふく)を第一に考えます。したがって、内臓が恢復し、ある程度良くなると、再び飲み始め、不幸にもアルコールと縁が切れない因縁を背負っていると言えます。

 また、酒乱等で暴力を奮うようになると、家族は精神病院に入れてしまいます。アル中患者は精神病院に入院すると、閉鎖病棟の中で、アルコールと無縁の生活を続けます。やがて、ある程度恢復し、健康を取り戻すと、開放病棟に移され、アルコールとの縁が切れていますので、健康を取り戻すのですが、開放病棟では、ある程度の自由がきき、隠れてアルコールを飲む等のことをやり、また、大蒜(にんにく)などを飲食してアルコールの臭いを消し、医者の目を誤魔化します。結局こうした悪循環により、アル中患者は酒の隠れ飲みで、一進一退の状態を繰り返しながら、段々悪くなって行き、殆ど完治する事がないと言うのが日本のアル中対策の現状です。

 また、アル中患者は、アルコールに絡む病気を抱えており、胃腸病、糖尿病、肝炎などを併発しているので、一般の精神病の人に比べ、医療費もそれだけ高くつきます。分裂病患者の医療費が一ヵ月平均して28万円前後ですから、アル中患者の場合、4〜5割増しとなって、一人当り40万円前後になってしまいます。

 内科の一ヵ月の入院費が40〜50万円ですから、アル中はその中間で、経済的にも大きな負担と言えます。
 本来ならば、アルコールは国が管理していて、酒税も2兆円近くとっているのですから、アルコールのマイナス面を計算して、当然社会に還元するシステムを酒税の一部からひねり出し、適切な対策を講じなければいけないのですが、先進国の中で、これをやっていないのは、日本だけと言う、何ともお粗末な現実があります。
 そして私たちは、現在の日本に、アル中予備軍も含めて、200万人のアルコールの危険に曝(さら)されている人がいるということを忘れてはなりません。