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●体質の悪さが齎す憑衣・憑霊現象 もともと病気を招く根本には「体質の悪さ」が挙げられます。 人間の思考には、自他離別と自他差別の想念が働きますから、「自分だけが正しく、他人が間違っている」という先入観や固定観念が、自己を支配します。こうした「自分自身の思い込み」は、病気を派生させる病因となり、自己中心的な考えは、これすらも病原体のせいにします。 したがって伝染病の大方は、細菌のせいにされ、慢性病においても、ウイルス探しで懸命になります。 確かに微生物と謂(い)われるウイルスは、非常に感染力の強い発病の直接的な原因になりますから、その切っ掛けを作ったものはウイルスには間違いありませんが、発病の真因はウイルスそのものではなく、ウイルスに感染した躰(からだ)自体の感受性に問題があります。つまり大勢の人がいる中で、「自分が感染した」という体質の悪さに問題があるのです。 どんな病気であれ、同じようなウイルスの細菌作用によって、発病する人と、そうでない人がいるのは、どうしてでしょうか.。 これらを考えていくと、ウイルスと言う微生物には、絶対的な感染性をもって、発病させる決定的な病因は持っていないと言う事になります。つまり真の病因は、他にあると言う事になります。 人体において、「発病するか、否か」の決定権は、各々個人の「体質」が持っていると言う事になります。この体質の「質」は、「細胞の質」であり、細胞の質の善し悪しが、病気を招いたり、遠ざけたりしているのです。 この流れを追っていきますと、《食→血→体》という順に流れている事が分かり、その基本構造は食の誤りが血液を汚染し、その汚染が細胞を変質させていると言う事になります。また、その人が何を食べているかという事で、その人の病因まで決定されてしまうのです。 『腸造血説』の見知から考えると、食物が腸内で腐敗するから、血液が汚れ、血液の汚れが、体質を悪化させ、炎症や腫瘍等の病変が発生すると言う事になります。つまり腸内で腐敗する食物を食べているか、そうでないかと言う事に関わっていきます。腸内で腐敗し、あるいは長時間停滞して便秘状態を起こし、宿便に変わるような食物を食べていれば、当然これは血液の中に取り込れてしまいます。 そしてやがて、汚れた血は体内を循環し、弱った部位に取りついて、炎症(病気)と言う状態を引き起こします。この直接の因果関係は血液の汚れです。 血液性状に異状化が起るからです。これこそが慢性病の犯人です。 したがって腸内環境を改善する必要があります。腐敗を起こす食物を極力避け、腐敗を解消する食物に切り替える必要があります。 食の世界が混乱すれば、腸内で腐敗が起る事は避けられません。混乱が起れば血液が汚されます。したがって腸内での腐敗をなくし、腸内環境をよくして、整腸を図る必要があります。これを怠れば、慢性病を招きます。こうした慢性病に陥っている人は、まず腸内細菌の性状の悪質化が見られ、次に腸粘膜の弱体化が固定化しています。 そして、こうした病因を起こしているものは、精白食品と動蛋白食品です。 体質の悪化の元凶は、白米や白パン、白砂糖、精白化学塩、化学調味料等の精白食品と肉であり、更には牛乳や鶏卵等の動蛋白食品であり、これが腸内で腐敗し、血液を著しく酸毒化の方向に引き摺っていっているのです。これこそが慢性病の直接的な病因だったのです。 こうした慢性病の時に、弱った体細胞に取り憑(つ)くのが、憑衣・憑霊現象であり、悪想念から導き出されたこれらの媒体は、細胞を媒介して身体に細胞変質をつくり出します。 細胞変質は憑衣であればガン疾患等の炎症が起り、また、憑霊であれば精神分裂等の精神障害が起ります。そしてこれらは、食の誤りから起る「体質の悪さ」が挙げられます。 ●霊魂の認識と科学的認識 人間と言う個体は、肉体だけが形作るのではありません。人の個体は、肉体と重なる幽体や霊体が存在します。しかし現在の科学と言うのは、未(いま)だに、霊魂の存在を否定し続ける傾向にあります。更には、一般的な大勢の意識は、科学的に存在する可視のみの現象にしか、その信憑性(しんぴょうせい)を抱きませんので、やはり大半の人は霊魂を否定するようです。 ところが、その他大勢の人が信じていると言う「科学的?」という概念は、大方がニュートン以来の古典的な、十七世紀の物理学のようなものを、「科学的?」と呼称しているに過ぎません。そして、この「科学的?」と称する概念の支柱も、「ただ目に見えないから」とか、「実際に触れる事が出来ないから」という、五官体験が出来ないと言う理由で、霊魂の存在が一蹴(いっしゅう)されてしまいます。 多くの人は、「人間が死んだら、一体どうなる?」と考えているのでしょうか。 こうした質問を、霊魂を信じない、一般的な中途半端な無神論者にぶつけてみました。そして、「人間は死んだらどうなるでしょうか?」という質問に、「人間は死んだら、肉体は火葬されて灰になり、精神は消滅する」という答えが圧倒的な多かったのです。 そこで「精神は消滅する」と答えた人に、次の質問をしてみました。 「では、あなたには、身内の方で、誰かこれまでに死んだ方がおりますか?」という質問をしてみました。すると「最近、祖母が肺癌で死にました。祖母は一本のタバコも吸わないのに、どうして肺癌等で死んだのでしょうか。まだ63歳だったのですよ」という答えが返りました。 では「供養はしていますか?」という質問をしてみました。それに対して「はい、人並みにしています」と答えました。 この人は、「人間は死んだら、肉体は灰になり、精神は消滅します」と答えた人でした。ここには、既に矛盾が生まれています。日本の場合、肉体は火葬場で完全に焼却されて、一部が骨壷に納まり一種の物体になります。また、精神は肉体の消滅と共に消えてしまうのですから、精神すら意識の痕跡(こんせき)を残しません。だったら、精神すら無くなってしまった事になります。 この人のおばあさんは、死んだ時点で、心、あるいは精神は消滅しているのですから、「供養」しても何も役に立たないはずです。それなのに「人並みにしています」と答えたのです。 「人間は死んだら、心をなくし、あるいは精神はなくなっている」と考えているのですから、死んだおばあさんは、孫の供養を感じる事が出来ないはずです。それにもかかわらず、わざわざ某(なにがし)かの費用をかけて供養する事は無駄なはずです。 以上のような矛盾は、日本人の大半が所有しています。そして供養は、「みんなが行なっているから、自分もしなければならないのでは」という、一種の脅迫観念に似た考えを抱いています。つまり、世間体(せけんてい)を考えての事と、自分の気持ちを、慰めると言う事で供養をする意識が強いようです。そして、こうしたことが、中途半端な無神論者を作り出しているようです。 しかし、果たして本当にこれだけなのでしょうか。 霊魂と言うと、「科学的でない」と言う意見が返って来ます。こうした事を恐れ、批難される事を嫌った為に、わざと「人間は死んだら、肉体は灰になり、精神は消滅します」と、強がりを言ったのでしょうか。 あるいは、肉眼に見えない物を肯定するのは、自身で「科学的でない」と思い込んでいるのでしょうか。あるいは「霊魂と言う概念は科学的ではない」と称する、この人の「科学」とは、いったい如何なるものなのでしょうか。 人間の深層心理の中には、異端視される事を恐れる意識を持ちながら、一方で、「供養するのは、自分の深層心理の中に、人間は肉体だけで出来ているのではなく、死後にも、心もしくは魂は残るのではないか?」という半信半疑の意識があるからです。とは言うものの、やはり何処かで、こうした思考は「科学的でない」という、心に引っ掛かるようなものを持っているのも、また事実です。 そして、「科学的でない」と言いながら、「では、何故あなたは供養するのか?」と質問すると、渋々、苦肉の策のような答え方で、「それは死者に対する古来からの、一つの思想に過ぎません」と答えを返して来るのでした。 一方で、「魂のようなものは存在するのではないか?」と言う期待を抱きながらも、一方で、「一つの思想に過ぎません」と答える結論は、矛盾に満ち、如何にも飛躍しています。 何故ならば、「何もないところに思想は生まれてこない」からです。 これを更に追言するならば、何かの思想が生じると言う事は、必ず、その思想を派生させる前提事実がなければなりません。事実がないところに、思想だけが突如湧いて起るような事はあり得ないからです。 と言うことは、心ないしは「魂が、死した後も存続する」と言う思考に至らしめるのは、それが論理上、心あるいは魂が存続すると言う事実を物語っていることに他なりません。 にもかかわらず、霊魂の存在に半信半疑な、この人は、次にこのような事を述べました。 「人間の心は、脳によって感知され、意識されるもので、これは生化学作用の結果から生じたものです。大脳生理学では、脳が働かなくなると心も失うとされています。死んでも、心が残るのであれば、現在行なわれている《脳死》や、脳死による臓器移植は医学的に不可能であり、また法律的にも殺人に近い事をして、違反していることになります。しかし現行法として、脳の死が人の死であると確認されてこれが医学的に許され、臓器移植は合法的に行なわれています。その脳死の判定が、人の死であり、人の死によって心の働きは失われるのであるから、やはり人間は、死んだ時点で心は失われるのではないか」という意見を力説しました。 つまり、脳の死が「人の死」と結論付けたのでした。 しかし、この考えは正しくありません。何故ならば、脳は死んでも、心臓やその他の臟噐が健全であるからです。人間の命体を生体を繋(つな)いでいる箇所は、脳ではなく、心臓であるからです。更に意識体としての死者の世界と、生きている人の間には、死して後も、「心の通じ合い」と言う作用が起っているからです。それを、ただ生きている人間は感じ取ったり、認識する事が出来ないだけのことが出来ないのです。 死者と、現世を生きる人間との各々の世界は、余りにも波調(波長)や周波数が違い過ぎ、確かに波動エネルギーは発生しているのですが、それを肉体に備わる五官で感得する事ができません。 これはテレビの周波数を、ラジオでキャッチする事ができないのと同じであり、波長や振動数、周波数等が異なっていて受信する事が出来ないのです。しかし、テレビの波長も、ラジオの波長も、厳然として存在しているにもかかわらず、もし仮に、ラジオ波しか受信できない人が、テレビ波など存在しないとは言えないのです。それは存在しないのではなく、存在するけれども、自分は感得する能力がないと言うべきなのです。 ●過去の結果が「今」となって現れる 現代人の多くは、学者筋の論ずる科学を、何の疑いようもなく「科学的である」と信じています。特に、大脳生理学の分野に於ては、これを鵜呑(うの)みにしている人が少なくありません。 しかし一方、この世界は、まだまだ未開の分野であり、現在多発する精神分裂病等の病気一つすら解明する事が出来ず、極め手となる治療すら確立されてないからです。 また、この種の病気に、「完治した」と言う診断書すら出せないのが現実です。 こうした現実がありながら、「科学的?」と自称する多くの一般人は、「脳が働かなくなれば、心も無くなると言うのが、現在の科学常識ではないか」と反発する人が少なくありません。そして、科学常識としては、脳が心という意識を支配し、当然、脳が無くなれば心も無くなると信じています。 しかし脳の存在は、心が物質界で活動する為の、単なる媒介の為の神経系の道具に過ぎないと言えます。 それは心と言う意識が、脳を媒介して物質界にまで活動の場を広げる為に作り出した手段の為の、一種の精密機械のような中枢神経系であるからです。 しかし、霊魂を信じない一般人は、この精密機械のメカニズムを説明するプロセスとして、「人間の誕生は精子と卵子が合体し、肉体が成長するにつれて精神思考も発達し、やがて肉体の衰退が訪れて、その消滅と共に、心あるいは精神も消滅すると考えるのが自然である」と言うのです。 そして、こうした考え方を持った人が、現代は圧倒的多数です。まるで民主主義を、人類最高の社会システムであると信じている人が、圧倒的多数であるように……。 また、多数決により決議された事が、必ずしも正しいとは言い切れず、真理に反している場合もあります。つまり、多数決の思想は、「正しいか、間違っているか」ではなく、多数決により、「好ましい」と思う事を代表者によって決議するシステムであり、圧倒的多数だからといって、正しいとは限らないのです。何しろ不完全な人間が考え、決議しているのですから……。 これと同じ現象が、「科学」という分野にもあり、科学は肉の眼で見る事ができる可視世界の「仮説」の上に成り立っていると言う事です。時代が変われば、これまで遣(つ)われていた法則すら古くなり、簡単に次の時代には覆(くつがえ)されれしまいます。 実際に、人間が意識として認識する現象は、脳やその他の何等かの物質的構造の中で、機械的な認識が行なわれているのではありません。物質的構造は、認識を表明する事に限り、単に必要であると言うのに過ぎません。真当(ほんとう)の真理、または、繊細な宇宙の玄理(げんり)を知るという霊妙なメカニズムは、実は物質記憶装置の一部である脳の中にはありません。 多くの人は、全般的に、科学に信頼を寄せる形をとり、そのように見受けられます。しかし科学の世界ほど、ドラマチックに変転して来た世界も、また他には見当たりません。 古代の宇宙構造説である天動説からコペルニクスの地動説へ。そして地動説は、天動説を打ち破って、旧来の宇宙観や世界観に大転換を与えたました。 コペルニクス、ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno/ルネサンス期のイタリアの自然哲学者で、コペルニクスに影響され、宇宙は永遠・不変な唯一の無限的存在で、神は宇宙に、最高の生命として内在し、従って同一の精神と生命が万物に浸透するとした。異端として火刑に処せられた)からニュートに至る、いわゆる科学革命によって、地球は宇宙の中心ではなく、宇宙は無限に広がりつつあるという思想が確立されたのでした。 この思想は、革命的な意味を持ち、太陽が地球の周りを廻っているのではなく、地球が太陽の周りを廻っているのだと言う、単にそれだけの事実確認にとどまらず、地球並びに人間を中心にして宇宙が創造されたというキリスト教的な考え方が否定され、人間は宇宙の産物の一つであるという事実を齎(もたら)しました。こうしてブルーノが指摘する宇宙の広大さは、キリスト教の与えた影響が大きく、深刻な問題を生み出して、キリスト教の受難劇は、ここに始まります。 現在、宇宙は無限に広がりを持つのではない事が定説になりつつあります。しかしこの考え方は、星の数も無限にあると言う事を否定したことになります。また一方、無限に小さいものも存在しないと言う否定にも繋(つな)がり、物質の最小構成要素は素粒子が担っていることも明白になって来ました。この考え方は、無限に速いものも存在しないという事を裏付けました。この世で一番速いと信じられている光さえも、太陽光線が地球に届くのは、10分以上もかかると言う事が確認されているのです。 つまり、素粒子レベルの光以上の高速の物質は、この物質界では存在しないということを意味します。 更には、時間・空間の絶対性から相対性(アインシュタインが創唱した特殊相対性理論と一般相対性理論との総称)へ。物質粒子説は粒子波動二面説へと移り、不確定性原理の発見、また量子力学の創設など、今後も更に大変転が予想されます。 以上のものは、いずれも唱えられた時は狂気じみていて、一蹴(いっしゅう)され続け、到底受け入れられるものではありませんでした。これを逆説的に言えば、「科学」というものは、その常識とする範疇(はんちゅう)において、いずれも「不確かなもの」であると言う事が出来ます。 しかし多くの人は「科学的?」という言葉に固執しようとします。どこまでも科学的である事が、心の拠(よ)り所と信じているからです。したがって、「人生も一回限り」と信じてしまう人が少なくありません。 しかし、どうしたことか、一回限りの人生と信じながらも、人生の中で「自分」と言う存在を主観的に捕らえ、他は「脇役」と看做(みな)す事ができません。これも大いに矛盾した事柄の一つです。 一回限りの人生ならば、当然、死ねば肉体も無くなるはずですから、自分勝手に傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に、太く短く生きれば言いもなのですが、生きているうちに、これを実行しようとする人が余り居ません。恐らくこうした深層心理には、「他人に迷惑をかけたり、傷つけたり殺したりすれば、いつか報(むく)いを受けるのではないか」という矛盾した考えが見て取れます。 一方、「一回限りの人生」と言い、また他方で、「この人生が終わっても、別の人生は始まるのでは?」という考えがあるからです。 日本だけを見ても、毎日、何千人という赤ん坊が生まれています。そして、この生まれて来る赤ん坊に、各々異なった条件があり、生まれる場所も、境遇も、各々同じではありません。生まれながらにして、人は「平等で無い」ことを思い知らされます。 裕福な家庭、貧困な家庭、ある人は著名な人の子弟として生まれ、またある人は、人に疎(うと)んじられて生まれて来ます。美貌を持って生まれる人、逆にそうでない人。ある種の能力を持ってうまれる人、あるいは凡夫(ぼんぷ)の範囲を出ない人と、人各々、様々です。 しかし、どうしてこのような差が生じて生まれて来るのでしょうか。 果たして、「偶然」なのでしょうか。 一般人は、「生まれ」によって生じてくる「差」を努力で改善できると信じています。確かに努力によって克服する事は可能です。しかし多くは、その努力も、空しく潰(つい)え、徒労で終わる事が少なくありません。努力は成就されないまま、空しく没落していきます。この厳しい現実がある事が、ある種の人生の掟であるかのようにも思えます。 では、こうした裏に隠れている、ある種の「掟(おきて)」とは何でしょうか。 生まれつきに差が生じると言うのは、偶然で起っている事ではありません。各人が送って来た、幾多の人生と密接な関係があります。過去の自分と大いに関係があるのです。 人間の魂は多数の「生まれ変わり」による体験を通して、進化するように定義付けられています。すなわち、「掟」というものは、「生まれ変わりを通じて、人間は魂が進化しなければならない」という事であり、再生の度に、拮抗(きっこう)のとれた発達と進化が要求されます。 したがって、前生(過去世/かこぜ)で興味や努力を以て、それに打ち込んだ事が成就されなくても、次の生まれ変わりに、潜在的能力として持ち越され、これを成就する為に生まれや能力の差なって現れます。現世と言う「今」の世は、前生における「結果」であると言えます。 ●何もなかったというのが素粒子の実態だった 科学は五官を通しての、認識できるもののみを対照にした、一種の仮説的な学問に過ぎません。したがって、五官に感知できないものは、一切対象外になってしまいます。更に、五官で感知できるか否か、という事象に於いても、それに掛からなければ範囲外となってしまいます。 そして、科学的に証明されなければ、存在しないと言う見解が下され、科学は、科学の対象とするものだけを妥当とするのです。 しかし、科学の理論及び法則は、単なる一時的な時代を担う仮説に過ぎない事も忘れてはなりません。 喩(たと)えば、原子は原子核(養子と中性子)と電子のよって成立していると言われますが、こうした原子の内部を実際に見た人はいません。技術的理論においては、客観的にこうした状態を観測できるでしょうが、この考え方は不確定原理の発見によって、既に、物理学者からは排除されています。 この不確定原理は、ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルグ(1927年、不確定性原理を提唱し、位置座標と運動量のように一つの系の二つの物理量の測定に当って、両方ともに正確な値を得ることは原理的に不可能な場合があることを具体的に示した)が発見したものですが、粒子の位置と運動量における速さを、同時に性格に測定する事は原理的に不可能であると説いた量子力学の確率的性格は、本源的あるいは原理的(但し、技術的には別である)なものであるという不確定性の関係です。この原理によれば、技術が高度に発達しても、根本を技術的に見極めるのは不可能であるとしています。 したがって、現在の物理学によれば、原子の構造は量子論によって解釈されており、現時点では量子力学の確率的性格は、量子論以外に、その妥当性はないとされる一つの仮説に委ねられています。 量子論によれば、分子・原子・原子核・素粒子等の微視的物理系を支配する物理法則を中心とした理論体系をなし、原子は原子核と電子雲によって構成されていると言います。 この電子雲は、原子核の周囲にある様々な定常波で出来ていますが、この定常波は物質ではなく、可能性のパターンを示したものであり、不確定性原理を基本として、物理量にはその上の演算子を対応させるという抽象的構造を持つ仮説であり、実際に電子雲は実在すると言うものではありません。 これは物理学者が、実験結果を関連づける為に作り上げた数学的な概念にしか過ぎません。観測値の予言は、全般的には確率的に与えられ、したがって電子雲と言うものが原子の中にあるかどうかと言う事は概念上の設定であり、実際には誰も知らない事であり、また見る事も出来ません。その意味で、状態の時間的変化を記述するシュレーディンガー方程式(量子力学でシュレーディンガー方程式と呼ぶ基礎方程式を導く。オーストリアの理論物理学者シュレーディンガー(Erwin Schrodinger)が波動力学の理論を発表した)は極めて因果的であるのです。 物理系の状態には線型空間内のベクトルを対応させ、物理量にはその上の演算子を対応させることで、原子に関する現象が非常によく説明できるのです。したがって、非常に有効な概念として使用されて来ました。 ところが、原子の構造論は屡々(しばしば)変遷され、こうした解釈にしても、一つの仮説の範囲を出るものでなく、やがては将来において、別の解釈がなされる可能性があります。したがって、現在の科学と言うのは、一種の仮説によって成り立っていると言うのがお解り頂けると思います。 しかし、仮説が有効な概念として存在する以上、こうした仮説は真実ではないかと言うレベルまで引き上げられるべきものです。もし、この仮説を信じないならば、その否定者はこれまで述べた説明より、更にうまく説明を加え、それを厳格に提示しなければなりません。 しかし、物理学者の述べたものより、もっと有効な概念を提示できない以上、この仮説を信じるのが最も合理的であると言えましょう。 しかし、科学的と称する一般人の意識は、事象も含む物質は、総(すべ)て原子から成り立っており、原子は素粒子から成り立っていると信じ、更には、素粒子は確固たる物資体もしくは剛体物から成り立っていて、これが認められると言うような、ニュートンに代表されるような古典物理学の世界を「科学的?」と思い込んでいるようです。 ところが現代物理学の学者は、誰一人としてこうした考え方をしません。物質が、総て原子から成り立ち、原子は素粒子から成り立っていると言うところまでは同じですが、素粒子についての考え方が異なります。 素粒子は陽子・中性子・電子・中間子・光子・ニュートリノ・反粒子等を言います。 量子力学ではこの素粒子について、素粒子はそれ自身で独立した実在的な物体ではないと定義します。素粒子等の質量を含むものと、エネルギーは等値であり、素粒子は一種の特殊な形態を為(な)したエネルギーの束に過ぎないとしています。 量子力学で認識する素粒子は、目紛(めまぐる)しく生成と消滅を繰り返しているのであり、それは「何もなかった」ところに「何かが存在する」というようになり、それが生成して、そこから何かが別のものに変化し、その後に再び消滅するという、生成・変化・消滅が絶え間なく繰り返され、かつ、果てしなく続くと言うものだったのです。 したがって、素粒子を構成する究極の概念は、物質的要素の集まりではないと言う事であり、また独立した実在物でもなく、単に場(空間)における居処的な凝縮したものに過ぎないというのが素粒子の実態です。 こうして科学の歴史と言うものを観(み)て行くと、物理学に限らず、総ての歴史は、必ずしも整然と進歩していくものではなく、固定観念や先入観に囚(とら)われつつ、錯綜(さくそう)と矛盾の世界の中で試行錯誤を繰り返し、少しずつ進化していくものであって、その多くは、かつての仮説がいつの間にか覆(くつがえ)されて、その時代で説かれた説は今や古典に属し、これらの学習は、単に啓蒙書を読むような事に止まり、古典の知識を記憶素子に記憶したと言う形で収まってしまいます。 ●科学的?と言う固定観念の知識 人間の頭はイメージを描けないと、理論だけでは行き詰まってしまう特性を持っています。ここに、「想念」と言う概念が入り込んで来ます。 これは数学を一つ取り上げても分かる事です。 喩(たと)えば、数学は理論を展開して学習するものではありません。高等数学に限らず、初等数学においても、イメージが広がらなければ破綻(はたん)を来してしまいます。数学は、理論だけで成り立っているにも関わらず、これが全く理解できず、やがては数学嫌いになると言うのは、こうしたイメージを描けないところに起因しています。単に、基礎的な算術が出来ないと言う理由で、数学嫌いは派生しないのです。 喩えば、「負」の数の積は、なぜ「正」になるのかという問題にしても、これは幾らかの程度の差はあるにしても、決して容易に答えられる問題ではありません。 また、物理学における疑問も、非常に謎(なぞ)めいていて、容易に答えられるものは何一つありません。 喩えば、地球が太陽の周りを廻っているのも、リンゴが木から落ちるのも、総て万有引力の結果からだと聞かされて、それでこの疑問は明確になる事ではありません。 単に、万有引力でこの問題を、固定観念で納得している人は、それでも構いませんが、しかし少し考えただけでも、どうして重力が存在するのか、あるいはそれが働くのか、また、なぜ距離の2乗に反比例して作用するのか、なぜ重力は真空中を伝わっていくのか、更には、重力が真空中を伝わる場合、「何か」を媒介にして伝わって行くのですが、真空と言う「何もない」ところで「何に伝わっていくのか?」という疑問などは、次から次へと湧き起って来ます。 つまり、仏道的に言うならば、「無から有が派生している」のです。 物理的な疑問は、「宇宙は神が創造した」という単純な説明で満足出来なった時点で、以上のような謎(なぞ)は、永遠と続き、神秘へ向かう運命は避けられません。 更には、物理的な疑問は、かつての古典物理学の理論を引っ張り出し、これを組み立てて、頭の中で考えるだけでは、決して解決する事は出来ません。 喩えば、理論的にブラックホールの存在が説明出来たとしても、それは、存在しても、矛盾しないという説明が示せただけで、実際に存在するかどうかという問題とは別問題なのです。「存在する」ということは、現実の宇宙で確認されねばならないからです。 科学は実際には、こうした盲点を持っているのです。 さて、コペルニクスが地動説を発表する以前、当時定説であった地球中心宇宙説に反対し、当時定説であった地球中心宇宙説に反対した人は、一人も居なかったのでしょうか。 否、居たはずです。 しかし、キリスト教会の目を恐れていても、コペルニクスと同意見を持った学者は居たはずです。天動説を疑い、太陽中心宇宙説を首唱するくらいの学者は確かに居たはずです。しかし、地動説を唱えるような発表は、行なわなかったと言う事になります。では、何故発表は行なわなかったのでしょうか。 つまり、当時の最先端科学は、地球中心宇宙説だったからです。これに異論を唱えますと、異端者扱いされ、ブルーノのように火刑に処されてしまうかも知れません。 霊魂の存在の事実も、同じように考えられます。これまで科学者でありながら、霊魂の存在を認めざるを得なかった学者はかなりの数居た事になります。しかし、その発表に躊躇(ちゅうちょ)したのは、異端視される目が恐ろしいからです。これを唱えた為に、学者生命は終わってしまう事が否めません。また、五官に感じる事の出来ない現象は、総て科学的でないと一蹴(いっしゅう)されてしまう現実があるからです。 更に今日の計測装置では、霊魂の存在を測定する事は不可能であるからです。 そして残念なことに、科学と言う可視世界の現象で、霊魂の観測は、未だに実現されてない現状があります。それは、「死ねば総てが消滅する」という科学者の言が、キリスト教会の天動説と同じように存在し、「死後も意識は存在する」とする思考は、一蹴されてしまうからです。 |