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愛する想念

 世の中には、飢餓(きが)と貧困の実情があります。
 しかし多くの人は、こうした飢餓
(きが)と貧困で苦しんでいる人達に、その救済法として、物質的な援助を与えることを、まず第一に考えます。あるいは募金で募った金銭であったりします。
 しかしこれは、一時的な急場凌
(しの)ぎの応急措置で、永久的かつ根本的な、正しい救済方法ではありません。

 何故ならば、貧困者自身が救済される事を期待したり、人の善意の上に胡座
(あぐら)をかき、それに甘えてしまうからです。いつまでたっても自力更生の精神が生まれず、甘えばかりが拡大してしまうからです。
 こうした場合に、最も効果の大きな方法は、飢餓や貧困の現象も含めた、総
(すべ)ての現象は、自分自身の悪想念が作り出していることを明確に理解させ、本人が、とことん理解出来るまで教え諭(さと)すことです。貧困も病気も、自らの悪想念によって作り出されているのです。

 また一方で、貧困であることを蔑
(さげす)んだり、バカにしたり、自分はあれよりも、まだましだ等と優越感を抱く人がいます。
 これこそ、愚かな思念であり、自他離別・自他差別意識の最たるものであり、
「愛のない想念」の典型的なものと言えましょう。慈しみの心が欠けているのです。変化して止まない現象界では、「明日は我が身」という現実がある事を忘れてはなりません。

 喩
(たと)えば、ある人が飢餓に苦しみ、貧困に喘(あえ)ぎ、立ち行かなと言う態(さま)は、単に一時的な、幻夢(げんむ)の非実在界の現象における、人間の仮の姿に過ぎません。こうした人に、自分と他人の間に境界線を引き、差別するのは自他離別・自他差別の意識に他ならず、むしろこうした想念が変転極まりない、非実在界に飢餓を作り出し、貧困を作り出しているのです。

 病気しにしても、同じことが言えます。
 本来、人間の姿は、「健康である」と言うのが真の姿です。不健康は、想念が歪
(ゆが)められて、病気であるという想念をつくり出したまでのことであり、病気と言う現象を、現世と言う非実在界に作り出し、それが単に、現象人間に事象として現れたに過ぎません。
 たとえ、躰
(からだ)に変調を来しても、この変調に気を取られることなく、むしろそのような時こそ、逆に、正常な想念を抱き続け、病気を齎(もたら)す悪想念を駆逐しなければなりません。病気は気からという根拠が此処にあります。

 病気と言うものは、一種の幻夢の現象に過ぎません。ところが病気を恐怖する心は、病気を作り出す想念を派生させ、人を恐怖に陥れます。
 そして恐怖心と言うものが、次々に折り重なって錯覚を積み上げ、悪想念が引き寄せる、統合失調症
やガン疾患等の異常な畸形(きけい)を作り出します。

 しかし一方で、病気は魂の大掃除をする絶好のチャンスであり、自分が病で斃
(たお)れた時は、これを素直に反省し、病気を罹(かか)ったことを悩むのではなく、「これで自分は、魂の大掃除が出来て、心が綺麗になる」という、前向きな善想念を抱くことです。
 そして、病んでいる心の深層部に居座る「病の想念」を、健全な「健康想念」に変えることです。

 また、あなたの現在棲
(す)んでいる生活空間の環境の良し悪しも、「健全な想念」を抱く事に大きく関わって来るでしょう。
 人間は健全な状態を保てる条件は、水や空気が綺麗で、日当たりがよく、騒音が少なくて、心に安定が図れて、情報量も過剰でない環境が維持されていなければなりません。
 特に、精神に異常を来す人は、情緒を安定させ、明るく朗らかな人間本来の姿を取り戻し、気力が充実し、愉快に、歓喜に満ちた姿勢で毎日暮らす事が健康への必須条件になります。

 
《癒しの杜の会》では、あなたに究極の「健全な想念」および「万能の善想念」の派生法をお教えします。また、その主軸をなすものは、自他が分離しない、自他同根の愛する想念です。

 歓喜をもって日々を送る条件は、働き過ぎでない充分な労働と、過不足のない食事をすることで保たれます。余計な情報に煩
(わずら)わされることなく、現代の物質主義の中に置き忘れた、「他人を愛する心」、「他人を信ずる心」を育むことから始まります。
 あなたの心の中を、一度大掃除してみませんか。




●愛する想念の崩壊した現代

 物質文明の途方もない発展は、その一方で「人間味のない効率中心社会」を作り上げました。この為に、科学万能主義のマイナス面として、素直だった心を歪(ゆが)めてしまい、過剰な情報に振り回される現実を作り出しました。
 本体人間は、「真直ぐなる心」を持っていたのです。ところが、物質文明に傾く幼稚な科学に眩惑された現代人は、闇の中を、闇の世界とも知らず、この世界で暴走を続けているのです。ここに「真直ぐなる心」の崩壊が起りました。

 現代社会の眩惑する闇は、どうでしょうか。車の排気ガスと過剰な騒音。核廃棄器物や有害な農薬。化学肥料や合成洗剤。食品添加物や食指針の誤り。こうしたものが自然の生態系のエネルギー情報を狂わし、個人の幸福から益々離れて行く傾向にあります。
 また、こうした元凶を作り出したのは、有限な地球上に、先進国の経済政策が絡み、経済優先の利益追求主義が人類全体の健康に歯止めを掛け、今日の種々の分野に、山積みされた難問を築き上げたといえましょう。

 経済格差も、ひところに況(ま)して、貧富の差を益々広げ、金持ちは益々金持ちへ、貧乏人は益々貧乏になって行く世の中を作り出しました。これこそ悪想念の最たるものではないでしょうか。
 金持ちは、更に大金持ちに、大富豪になる為に、利益獲得の為に奔走します。この富への執着が、貧富の差を隔てる事になります。

 本来ならば、先進国の10億円以上の資産を所有するスーパーリッチ層は、人類全体の健康の為に、富を抱え込まないで、貧しい人々の為に手放す必要があるのですが、現代物質主義の中では、人間が此処まで寛大に、進化する形跡はありません。欲汚く、金・物・色に固執し、かつての有徳の士に見られた大きさは、今日の富豪たちには見られません。彼等の多くは、自他離別の根強い想念が働き、スーパーリッチ層は、自分の資産をガードする為に、過剰なエネルギーを遣っています。

 こうした世の中の貧富の差を背景に、現代人は対人関係に苦悩し、複雑かつ不信を極めるような現実の中に奔走しています。私利私欲に振り回される現実は、現代人をストレス病へと追い込み、健康状態は心身ともに、マイナス方向へと移行しつつあります。
 このマイナス面の病気として、食餌法(しょくじほう)の誤りから起るガン疾患を始めとする慢性的な成人病等であり、一方、心は病み、精神病患者が年々増加の一途にあります。ここに危険な暴走の、現代の悩める実情があります。

 特に、精神病の代表格は、精神分裂病です。現在では人権擁護の立場から、統合失調症と言う名前に変えられてしまった精神分裂病は、非常に難解で、治り難く、厄介な病気です。この病気に罹って、ある程度、良くなったとしても、最早、精神安定剤なしには生きて行けません。
 精神分裂病の発病率は、数年前まで「100人に1人弱」と言われていましたが、今日では、1%弱の数字が2%へと近付こうとしています。年々増加の一途にあります。

 100人に1人弱の割合で、もし、あなた自身の先祖を振り返った場合、四代前までに遡(さかのぼ)れば、必ず一人は精神分裂病患者が居た事になります。
 精神分裂病は本来「遺伝はしない」と言う医学的な仮説があるのですが、これはあくまで仮説に過ぎず、先祖に保菌者がいた場合は、その血の中に、必ず精神分裂病の保菌者が潜んでいると言う事になります。また、精神分裂病と、ノイローゼ等の自律神経失調から起る神経症は、種々に分類されて考えられているようですが、神経内科的な病気は鬱病(うつびょう)を経由して、不安の要素が濃厚になれば、精神分裂病へと移行するケースも殖(ふ)え始めています。これまで信じられていた、神経症は分裂病に移行しないと云う考え方が、現代社会では、これまでの仮説が崩れ始めているのです。

 情報過剰で、人間不信の時代は、様々な妄想が吹き上げます。この中に落ち込むと、もうそこは「妄想の世界」です。精神的混乱が起り、現実から遠ざかり、孤独で憂鬱(ゆううつ)な世界へ逃げ込もうとします。
 そして、こういう状態に至った場合、世間の目は、自分とは遠く掛け離れた、精神異常者の想像をして、彼等に対しては隔離する事が必要だと、安易に決め付けてしまいます。何と恐ろしい考え方ではありませんか。

 かくして現代人の「ゴミ捨て場」が出来上がり、現代物質文明の発展の真っ只中に、精神病院と言う「秘境」が誕生するのです。しかし、一般人が思う、こうした考え方は、無知の最たるもので、本来、精神病院とは、入院患者の心の平静を取り戻す治療の場所だったのです。
 この考え方や、見方を歪(ゆが)めているのが、精神病院の構造と外形であり、重い鉄の扉の「錠前」と、刑務所さながらの「鉄格子」が、現状を知らない一般人に、更に大きな誤解を与えている現実があります。

 一般人が想像する病院は、「病院」と名がつけば、病人を優しく労ってくれると言うイメージを抱きます。ところが実際に、精神の病で入院すると、これは病院のイメージと大きく逸脱してしまいます。したがって、精神病の実態を知らない無知な一般人も、また、既に精神病を患いながら、「自分は精神病ではない」「自分の頭は正常である」と思い続けている精神病患者自身、こうした病気への無知が伴って、精神病を他の病気とは、一等も、二等も低く見下し、蔑視する考え方が固定観念として脳裡(のうり)に巣喰い、焼き付いているのです。
 そして、この固定観念が精神病院をして、「生地獄」という陳腐な言葉まで連想させてしまったのです。

 現に、日本医師会の会長であった故・武見太郎は、ある種の精神病院経営者達を指して、「牧畜業者」と呼んで物議を醸(かも)し出したことがありましたが、現実に「牧畜業者」のような精神病院もあることも事実です。ここでは、人間の人権が剥奪され、「人間イコール家畜」として患者が扱われています。
 そうした病院の各閉鎖病棟には、暴力大好きの看護師が居て、白衣の下に長靴を履き、青竹か竹刀を手に持ち、患者であるか弱き仔(こ)羊達は、彼等の暴力に屈する生地獄が展開されているのです。

 だから、こうした歪んだ固定観念は、更に中級以下の精神病院では、「錠前」と「鉄格子」、「強靱な看護師の暴力」と「保護室と言う独房」が、更に歪んだイメージとなって、「精神病は実に恐ろしいもので、多くの人間はこの世界とは無関係だ」と高を括(くく)っているのです。

 ところが、既に述べたように、精神病の発病率は100人に1人弱であり、あなたの先祖の四代前に遡(さかのぼ)れば、必ず一人は居た事になりまる。現代精神医学では「遺伝はしない」という言い方をしていますが、実は「100人に1人弱」という数字は、四代前の先祖の中には必ず精神分裂病患者が居たことを意味しています。また、その血を受け継いで、「今の世界にあなたがいる」という現実を考えれば、その血の中に、保菌者の血が混じっていたとしても、決して不思議ではありません。

 現代社会は「ストレス」と言う重圧が掛かる世界であり、人間関係も益々複雑化し、経済格差と能力格差が、その働きの応じて報酬が決定され、「貧富」という形で色分けされている現実があります。他人の心を尊重したり、弱者に思いやりをかけると言った観念が失われ、目に見えない階級が存在し、現代人はこうした世界で生きています。
 そして、こうした社会で生きて行けば、必ず他人のと摩擦(まさつ)が生じ、軋轢(あつれき)が掛かります。

 こうした現実の出現は、現代人が余りにも個人主義を追い求め、私利私欲に趨(はし)り、「自他離別」の想念を描いたからです。これこそ「愛する想念」の欠如と言えましょう。
 物質文明の真っ只中に、生活空間の便利さと、豊かさと、快適さを求める現代人は、一方に於いて人間味を失い、その反動としてテクノ・ストレス等から派生する、精神分裂病に罹(かか)るケースが非常に多くなっています。

 精神異常とは無縁だと高を括っていても、いつその不幸に見舞われるか知れません。決して自分は、精神病とは無縁であるとは断言できない時代に突入しているのです。
 あなたは、取り巻の同僚や上司、家族や親戚縁者を見回し、経済格差や能力格差の差別によって、金銭的な報酬が決定され、これに人間の価値が定まってしまうのだろうかと云う、疑念や劣等感を心の中に持っていないでしょうか。
 もし、疑念や劣等感が派生していれば、則ち、これが「テクノ・ストレス」なのです。



●愛とは何か

 よく「愛」という言葉を一般に用います。また「愛」という言葉は、一般に流布(るふ)されています。しかし「愛」という言葉の概念を、正しく説明できる人は殆(ほとん)どいません。

 では「愛」とは、一体何なのでしょうか。
 愛と言っても、いろんな形の愛があり、世間一般的には、恋愛の「愛」、男女の「愛」、同性愛の「愛」、愛欲の「愛」などを指し、普通、私たちは「愛」と呼んでいます。

 しかし仏教では「愛」という概念を、悪い意味で取り扱っており、執着するような愛は、最も危険であると定義付け、低い評価しか与えられておりません。それは、愛と言う概念が、煩悩(ぼんのう)を焦(こ)がす愛染(あいぜん)を作り、情愛の「愛」が、何事も盲目にして、愛に溺(おぼ)れる事を意味するからです。

 本来、私たちが口にする「愛」とは、脳の発達状態が、今より未熟だった哺乳類脳の辺縁系領域にある「愛情」のことであり、家族や身内等の、仲間内の愛情交流を意味するものを、知らぬ間に、これを愛と思い込み、こうした狭い思考範囲で、愛と言うものを捕らえています。
 しかし、これは本当の愛などではなく、むしろ過保護的な、親が、我が子にだけ、一方的に愛情を注ぐ、「情愛」【註】一般には、「こまやかな慈しみ」と信じられているが、これこそ自他離別の典型的なもの。特定の人に愛情を注ぐのではなく、全人類に対して愛情を注がなければならない。恋愛の、それでないことに注意)と呼ばれるものです。
 そして、日本人は西洋人に比べて、この「愛」という言葉の表現が、いまひとつピンときません。

 また「愛」という言葉を乱用している若い世代でも、具体的に「愛とは何か?」と問い詰めると、これに正しい回答を下せる人は殆どいません。若者の口にする愛は、異性への肉欲、同性への肉欲を得る為の、単なる言葉の駆け引きに過ぎません。「愛」を口走れば、相手もそれに応じて、「愛イコール肉欲」の図式が出来上がっているからです。

 しかし、「愛とは何か」という事を明らかにしないと、幾(いく)ら愛という言葉を乱発しても、説得力がありません。
 そして「愛」という言葉の乱用の裏には、性愛・愛欲・肉欲の「愛」を、単に私たちは「愛」と、間違った意味で使っているのかも知れません。

 さて、愛という言葉は、十六世紀、日本では、キリスト教の宣教と同時に持ち込まれました。キリスト教で言う愛は、仏教で一番近い言葉を探すと「慈悲」という言葉に当たります。慈悲こそ、まさに愛の根源であり、愛するという想念と、慈愛深いという想念はイコールなのです。

 仏教では「慈悲」というと、菩薩が衆生しゅじょう/一切の生物の事でで有情(うじよう)とも)を哀れみ、慈しむ心のことです。衆生に楽を与えることの《与楽》を「慈」、苦を除くことの《抜苦》を「悲」と言います。また「情け」を、こうした慈悲に置き換えることもあります。

 衆生とは「命有るもの」あるいは「生きとし生けるもの」を指します。これは一切の人類や動物のことで、六道(りくどう)を輪廻りんね/車の車輪が回転するように迷いの生死を重ねて流転する事)する存在という意味です。
 六道とは、衆生が善悪の業ごう/行動や行為。また身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為の三業を指す)によって、趣(おもむ)き住む(心の向かう方向に居を定めること)六つの迷界のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六趣(ろくしゅ)を指します。そして人間の住む世界を「衆生界」(人間界)とも言います。

 そこで衆生に「情け」をかけ、「慈悲」をかけ、こうした行為を、つまり「愛」と言ったのです。
 「愛とは何か」というと、「愛する」という想念だったのです。
 そして、更に深く掘り下げていくと、自分と他人は同じもの、あるいは自分と他人は一体であるという意識であり、ここには「浄穢不二」じょうえふじ/清浄な悟りの状態と穢れた迷いの状態とは、現象的には区別があるが、本性上から見れば不二平等という思想)の関係が成り立ちます。

 更には、愛とは信じて疑わないことであり、もし仮に、「裏切られた」としても、これに一切の憎悪を向けず、また恨みも抱かないということであり、この心の下(もと)には、清々しい、晴れ晴れとした「たとえ裏切られたとしても、一切の悔いはない」という裏付けが生きていなければなりません。こうした裏付けがあってはじめて、「愛」と言うものに対して語れる資格があり、本当の愛は狭義的な、男女の溺愛ではなかったのです。



●愛を想念する人は、憑衣現象や憑霊現象に冒されない

 大方の精神障害は、憑衣現象や憑霊現象に冒されていることが少なくありません。
 特に、かつての「精神分裂病」が、昨今では「統合失調症」(日本精神神経学会が2002年6月30日に、人権擁護の立場から改名)と名前を変えて以来、この病気は益々急増の一途を辿っています。どこの精神科や神経科も、不定愁訴ふていしゅうそ/明白な器質的疾患が見られないのに、さまざまな自覚症状を訴える状態)を訴える半病人で溢れ返っています。

 それに併(あわ)せて、覚醒剤患者、薬物依存症、アルコール中毒依存症、シンナー中毒、神経症、痴呆症、そして統合失調症(自律神経失調症からはじまる)や躁鬱(そううつ)(鬱病(うつびょう)は急増している。鬱病学会によれば、現在は7人に1人が鬱病と報告)等が、水面下で蔓延(まんえん)し、若い世代や高齢者世代を蝕みはじめています。しかし、こうした病気の多くは、完全に恢復(かいふく)する兆(きざ)しが見えていません。
 また、精神障害の多くは、まだまだ未知の分野であり、その多くは殆ど解明されていないのです。大半の精神医学者は、憑衣現象や憑霊現象を一切相手せず、こうした現象を「科学的でない」と一蹴(いっしゅう)します。

 しかし、霊視(不可視世界を視る)・霊耳(不可視現象を聽く)・霊臭(不可視世界の臭いを嗅ぐ)をすれば、憑衣現象や憑霊現象であることは明白であり、可視的世界の現代科学を、不可視的世界の実物体に当て填(は)めて考えるのですから、これは当然、測定不可能となります。可視世界の物差で、不可視世界の実体を測る事は出来ないのです。そして精神障害の殆どは憑衣現象や憑霊現象によるものです。
 その証拠に、こうした病気は現代科学と言う可視世界の薬物投与(多くは「抗うつ剤」の投与)や電気ショックでは完治できないのです。

 不可視世界に存在する憑衣(ひょうい)現象や憑霊(ひょうれい)現象を、「科学的でない」という精神医学者の一言は、東洋医術や民間療法の駆逐(くちく)にまで現代科学の批判のメスを入れ、これを否定する現実があります。また、精神医学界の傲慢(ごうまん)が、かつての共産主義や社会主義を信奉する科学者によって展開されています。
 そして、一部の権威筋の医学者の間では、精神病全体を唯物弁証法的な科学で、脳のメカニズムを解き明かし、抗うつ剤等の薬物投与で、これに解決を図ろうとする傲慢な療法が展開されています。

 ちなみに一般には、憑衣現象や憑霊現象を総じて「憑衣」という言葉で現されているようですが、厳密に言えば、両者は異なり、ガン疾患等も、まさしく不浄霊や不成仏霊の「憑衣」であり、また、精神障害疾患等は血縁を同じくする横死(おうし)した不浄の祖霊の「憑霊」であると言えます。

 さて、自らの想念を歪(ひず)ませたり、悪想念に転じますと、自身の霊的波調は低下して粗(あら)いものになり、低級霊に憑衣されると言う現象が起こります。また、食肉や乳製品ばかりの動物性蛋白質の摂取が過剰になりますと、血液を汚染させて、体液が酸性化の方に向かい、体細胞の弱い箇所の細胞変質が始まります。こうした食による必然的な結果が、霊的波調を低下させ、憑衣・憑霊現象を起こしているのです。



●食の乱れと狂いが、現代の憑衣・憑霊現象を齎す

 近代は、これまでの連綿として続いた日本の食体系が、欧米指向型に取って代わられ、食肉や乳製品の動蛋白食品が主体になり、血液を酸毒化する傾向にあります。
 現代医学では「動物性脂肪を極力避けて、動物性蛋白質をしっかり摂るべし」という意見を掲げていますが、これは苦し紛れのひねくれた論法に過ぎません。

 これまで現代医学は、肉は「スタミナ食だから、多く摂れば摂るほど体によい」と言い続けてきた手前上、食肉過多の弊害が、誰の目にもはっきりして来た今日、180度転換した意見は掲げにくく、苦肉の策の、「動物性脂肪を極力避けて、動物性蛋白質をしっかり摂るべし」等と言う、修正論を打ち出したわけです。

 しかし「動物性脂肪を極力避けた赤味」であっても、脂肪を取り除いて、良質なタンパク質だけとなると、こうした作業は、人間の手では不可能となります。肉眼ほど充(あ)てにならないものはなく、肉眼ではハッキリとした白い脂肪層が見えていなくても、肉である限り、脂肪はたっぷり含まれています。肉成分の中には、タンパク成分と脂肪成分が、何処の箇所でもガッチリと結びついているのです。
 そして更に問題なのは、肉のタンパク成分であり、これは肉の脂肪に負けず、有害因子である、第二級アミン、アンモニア(馬尿酸等)、硫化水素、飽和脂肪酸等の様々な酸毒物質を含み、これが体内に摂り入れられると、腐敗物質を発生させて、血液を著しく濁していきます。

 つまり、こうした諸々の腐敗物質は、総(すべ)て肉のタンパク成分であるにも関わらず、現代栄養学では「良質のアミノ酸」として評価を受け、この神話は未(いま)だに崩れていません。しかし、現実問題として血液汚染の実情をつくり出しているのです。
 結局、こうした事から考えれば、肉そのものは、人間の健康にとって、全くの無用の長物と言えるのです。

 現代栄養学では、肉は「動物性の蛋白源」と称されて、十把一絡(じっぱひとから)げにして、動物の肉と魚の肉を同じように考えていますが、これは根本的に異なります。動物の肉は血液を酸毒化の傾向に導き、いろいろな慢性病を発生させますが、魚の肉では、大型魚を除く小魚に限り、こうした不都合は起きていません。

 これは、人間の躰(からだ)と言うものが、魚肉に、特に適応しているからであり、人類は、その昔、進化の過程において、ある時期、海の浅瀬で生活をしていた頃があったからです。

 しかし、魚なら何でも良いと言うわけではありません。次の条件を満たしていなければ、それは動物の肉と、何ら変わりがないからです。
 その条件とは、次の通りです。

魚 が 持 つ 有 用 性 の 条 件
頭から尻尾までの全体食ができるもの。 背中の青い小魚で、特にイワシには、老化防止因子の核酸がたっぷり含まれている。
消化がスムーズに行えるもの。 タ・ヒラメ・ブリ・マグロ等の高級大型魚は、動物の肉に近く、腸内で腐敗物質の変質する。
EPAeicosapentaenoic acid/エイコサペンタエン酸。不飽和脂肪酸で血小板凝集抑制作用をもつ)やタウリンtaurine/アミノエチルスルホン酸)、その他の各種ミネラルの有効性分が豊富に含まれているもの。 イカ・タコ等の肉エキスは多量のタウリンを含む。サバ・イワシ等の魚油中にグリセリン‐エステルとして含まれる。
養殖魚でなく、天然のもの。養殖は養殖魚のエサに問題あり。 海水養殖ではタイ・ハマチ等の魚類、カキ・真珠貝等の貝類、ノリ・ワカメ等の海藻類、クルマエビ等の甲殻類があり、淡水養殖では、コイ・ウナギ・ニジマス・アユ等があるが、飼料と運動性に問題がある。

 以上が魚が持つ有効性の成分ですが、魚介類を食べる上で、一番注意しなければならない事は、丸ごと食べられる「全体食」であるか、否かと言う事です。
 魚は体質を陽性化させる為、肉ばかりを食べて、他を食べないのであれば、ミネラル分の吸収は不可能になってしまいます。ミネラル分は魚の皮膚や頭、尻尾やヒレ等に集中しており、多く人はここを捨てて、肉だけを食べようとします。
 これでは折角の魚食も意味がありません。骨ごと、食べられると言うのは魚食の基本なのです。

 したがって、「手のひら大」に収まるくらいの大きさを目安に食さねばなりません。イワシ、ししやも、わかさぎ、さんま、あじ、とびうお、さば等の背中の青い魚、更に、さより、えぼだい、また淡水魚としては、あゆ、ます等、貝類は、ままぐり、赤貝、しじみ、あさり、あわび等、その他、小海老、小イカ等の小型の物を食べるようにします。

全体食として適当な魚・貝類

 また貝類には、銅や亜鉛等が含まれ、これらはミネラルの内でも微量元素と謂(い)われるもので、細胞の壊れた箇所を急速に自然治癒させる重要な役割を持っています。
 更に海中動物は、生物進化の過程から観(み)ても、躰全体か均質になっていて、完全なバランス食であるばかりでなく、バナジウムvanadium/銀白色の金属)等の独特な微量元素を保有し、こうした海中動物には、なまこ、くらげ、うに、ホヤ等があります。また、これに加えて、魚卵類のクサヤ、イカの塩辛等のように、内臓を利用した食品も御薦めです。

イワシの丸干し焼き はまぐりの吸物

 魚介類の多くは、体質を陽性化するもので、多忙と過労に追われて体質を陰性化し、マイナス想念を派生させている現代人にとっては、最も大切な食品です。
 現代日本人の体質は一様に陰性化し、その抱く想念はマイナス思考のものばかりです。こうした現状を踏まえますと、小魚・魚介類は益々重要な食品となります。本来の生命維持であります。


 【ご注意】

 これから先を読むにあたって、霊とか、霊的世界、あるいは人間の本性が持ち得る霊的神性などと言えば、眉唾と一笑に付す人が多いであろう。
 度重なる偶然に起こったと思える現象でも、妄想だ、白昼夢だと、科学信奉者は、その一蹴するだろう。
 だが、既に異次元の不可視世界に肉眼では確認できない「何かが」起こっているのである。
 精神世界と言えば、病的領域だと見下し、可視世界で起こっているものこそ事実と容認し、不可視世界の現象を荒唐無稽の騙り屋の“まやかし”というであろう。
 当今のこういう現実を招いたのは、戦後日本人の「科学的根拠?」という謎掛けが禍を招いたと言える。
 戦後日本人は唯物史観の弁証法に汚染された嫌いがある。
 大半の人は死後の世界まで否定してしまった。人間の魂が意識体であることも否定し、死後は存在しないと断定する人も少なくない。
 あるかないか判らない世界を、戦後は科学という信仰を持ち込んで「無い」と断定してしまった。総ての生物は、死ねば無に帰するものだと思い込んだ。
 そして現代人の多くは、死について漠然と思うことはあっても、具体的に何十年も亘って、宗教や死と格闘しなくなってしまった。漠然とした、曖昧なる結果から、科学者がいうから……という安易な考えで、無いと決め付けたのである。
 その結果、世には様々な障害が出始めた。生体的には心を病み、肝心な霊体の中枢である「神
(しん)」までもを冒される事態を招いたのである。現代の精神を病む社会現象は此処に由来する。それは霊的神性を喪うことであった。