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●精・気・神のバランスが崩れると人間は病気になる ひとりの人間、一個の人間には、予(あらかじ)めその生命体の中に精も気も神(しん)も宿っています。 この三者は普段は内気として体内を循環していますが、意識的に取り出して外気として作用させることも可能です。この場合、精(本能的欲求)も神(祈念)も表象しての形をとらず、肉体の力として姿を顕わします。 さて、精・気・神の性質が、より一層克明に現れるのは、そのいずれかが傷ついた時です。つまり病気になった時で、このいずれの性質、あるいはそれらが複合的に絡んで現れてきます。そして現代においては、いずれかが単体で現れることはなく、複合的に絡んで現れることが多いようです。 それだけ現代人は一昔も、二昔も前の人より霊的神性が曇り、また、心身ともに病んでいる時代といえます。 その一つに、鉄骨構造の建物の中で生活しているという実情があります。 文明の発達は人間と磁場との関係を急速に疎遠させ、日本列島は物質的豊かさを需めて改造論の嵐が吹き荒れ、狭い日本は横に広がる土地がない為に今度は、上に向かって鉄筋コンクリートの高層建築を建て、此処を仕事場にしたり、住まいにしたりして、一戸建住宅より、マンション生活者の方が多くなるという逆転する現象が起きました。 鉄筋コンクリートの素材である鉄骨は、磁気を吸収しやすい為に、屋内で暮らす人に伝わる磁束密度(CGS電磁単位であるガウス《gauss》のことで、1ガウスは1万分の1テスラ。記号G)は、屋外に居て、直接地球の磁場から受ける磁束密度の約半分程の02.5Gで、更には、ステンレスやジュラルミンの乗り物である、車や電車や飛行機等も磁気を吸収しやすい状態になっています。こうした乗り物は、動きの中に、地球の磁場の影響を受けて磁性を派生させます。 これが人間でも同じであり、旅から旅を続けている人は生物電流の電気線が浮き上がり、常に浮き上がった状態になっているのです。そして磁性を帯びます。 こうした電気線の浮き上がった人は、八門遁甲で軍立(いくさだて)の日取りを割り出しても、その効果は現れませんが、逆に、地球の磁場の直接的な影響も受けませんから、霊障絡みの病気になったり、特別に経済的な窮乏を招くと言う事がありません。 1960年代、日本は高度成長を経験し、その10年後の70年代には田中角栄の「日本列島改造論」が吹き荒れ、これは90年代前半までバブル景気として、豊かで、便利で、快適な文明生活の恩恵をもたらしました。 しかしその一方で、磁気欠乏症から「切れやすい」若者が増え、これに関連して青少年の犯罪が増加し、原因不明の現代病が難病・奇病の形で、別の角度から日本人を襲いました。 そして文明の発達は、実は磁気の欠乏を齎し、磁気欠乏症候群によって、肩凝りや腰痛を始めとする不定愁訴的な病気が急増しました。以前はこの原因が、カルシウムの欠乏から起こると考えられていましたが、実は磁気欠乏がその犯人でした。 更に、驚くべきことは、現在の地球の磁場密度は五百年前に比べて、約半分ほどに減ってしまい、百年間で約5%づつ減り、一人の人が地球の磁場から受ける磁束密度は、約0.5G程度だといわれ言われています。 こうした磁気欠乏症候群によって、精・気・神の性質が傷ついて起こる病気も複雑化し、複合度が高くなってきています。 さて、病気には三つのパターンがります。 |
その第一、 | 精が病んで、肉体そのものが病んでいる場合。この場合は治療の目標が肉体治療であり、内科治療では肉体バランスの恢復を目指し、外科治療の場合は外科的な手術等で、悪いところを切除して恢復を目指す。これが第一層の表皮的な病気である。 |
その第二、 | 気が病んでいる場合で、経絡異常が現れてくる。 したがってこうした病気は経絡治療が有効であり、鍼灸や整骨術などが中心となる。しかしこうした東洋医学的な治療で治らない場合、心に「絡み」が生じて、感情が凝固して深層部の潜在意識に潜んで、気質を冒す病気に発展することがある。これが心身相関病といわれる病態である。こうした病気には潜在意識に直接働きかけて、催眠療法が極めて有効となる。 しかしこれは、病根を溶かす専門的な言語操術必要であり、催眠療法の専門家がこれに当たる。これは第二層の病気で、心の潜在的な病気である。 |
その第三、 | 神(しん)が冒された場合。 例えば心身症は気の傷ついた病気ですが、神が冒されると精神異常を起こす。これは第二層の病気とよく似ているが、質が違う病気で、「気が触れる」「気が狂う」「気が違う」等といわれ、例えば「気が触れる」は「気が振れる」とも言われ、「気」が本来の軌道から逸脱して、自分で元の軌道に戻れなくなってしまった状態を指す。 精神分裂病等はこのタイプの病気。 |
この状態に陥った場合、自己修正機能は失われ、「気が狂う」「気が違う」等の顕在(げんざい)意識が現れます。気が狂うとは軌道から外れて、循環する軌道が狂っていることであり、気が違うのは軌道が間違って「精」と「神(しん)」を結ぶ「気」が萎縮(いしゅく)し、感情が失われた状態を指します。 元々「神」は「精」と結ばれた状態になければなりません。 ところが、感情を激したり、興奮状態、驚きの状態、あるいは激怒の余りに、更には、憎さの余りに神(しん)が精から孤立します。こうした状態は慢性的な、遺伝ではないかと疑われている精神病とは区別します。 気が急性状態で傷つき、しかも神が精から孤立した場合、躰(からだ)を持たない霊はこうした肉体の、誰彼構わず、外部から侵入します。 本来、宇宙の概念の中には「地獄」というものは実在しません。 しかし「神」が「精」から孤立した場合、瞬時の地獄絵が出現します。 この地獄絵は経験を通じて、自らが想い描いた先入観や固定観念が作り上げたもので、こうした頑迷な性格の一面が、元々存在しなかった現実世界に「地獄」を作り上げます。この地獄は、視覚を通じて強烈な幻覚を見るばかりでなく、匂いがあり、形があり、音があり、現実のものとしての触れる感覚があります。 また、「痛い」「苦しい」「重い」「動けない」「騒々しい」等の実像感まで再現してしまいます。そしてその度合が大きければ大きいほど、自分で自分を破壊する破壊力が大きくなります。精神病患者は、こうした苦海の中で堂々巡りを繰り返します。 こういう状態に陥って、元通りの環境を取り戻したり、気の調律を回復させたり、失われたアイデンティティを復活させる為には、精神病治療を施すことは勿論のことですが、早急に急がれることは居住空間の整備と、居住環境を磁場が正しく伝わる木造住まいなどに変える必要に迫られます。 今、若者らが「切れやすい」状態にあることは周知の通りです。 これは石油を原料とした農薬や飼料で飼育された動物性蛋白質や、これ等に汚染された植物性食品、あるいは養殖魚を摂り、また石油を原料とする化学調味料で味をつけ、更には安易にその危険性も知らず、ジャンクフードやインスタントのカップ麺(めん)を食べ、こうした食べ物によって、長年蓄積された毒物が表面化し、性格異常や性格破綻者が生まれます。その上に地球磁場を直接受けることの無い環境で成長していけば、結果がこうなることは見えています。 私たちは、こうした環境の中で生きている現実があり、現代人に寄生する難病・奇病は、豊かさと便利さと快適さを求めた現代人への当然の「報い」と言えましょう。 一方、最先端医療技術は日進月歩で発達しています。日本も世界の中では長寿国といわれるようになりました。しかしその実態は「薬漬けの長寿」であり、植物人間状態での長寿です。正常な状態での自然長寿ではありません。 鼻からの流動食と点滴で栄養を吸収し、病院のベットに寝たままの長寿です。 そして長生きをしても、高々百年程度しか生きれない人間が、「大志」を抱くには余りものお粗末な環境であり、こうした現実の中で、私達は家畜のように飼育されている現実に改め気付かされます。 道が開けない、運が開けない、不幸現象が克服できないというこうした現実は、私たちの居住環境である地球磁場放射の受信態勢と、食べ物に大きな欠陥があり、これが病める現代人の最大の原因といえましょう。 ●霊的食養道を実践して半身半霊体の体躯に近づく 私たち日本人は、戦後民主主義の中で資本主義市場経済の景気動向に左右され、大なり小なり、大方の人がこれに一喜一憂し、喜怒哀楽の中で浮沈を繰り返して生きています。 また、民主主義を基本的人権として捉えるばかりでなく、自己主張として捉え、その結果個人主義やエゴイズムが横行しました。自分だけが倖であれば、という観念に支配されて、相互扶助の精神である自他共栄を繁栄させることはできませんでした。ここに現代人の不幸の現実がります。 そして多くの人は、「幸福」とは、先ず第一に、物質的豊かさのそれに需(もと)め、精神的豊かさの「清貧」を一等も、二等も低く考えてきました。金が無ければ何も出来ないと言う考え方です。 大半の現代人が夢描く幸福とは、多くの蓄財があり、不動産という資産があり、動産という物財があり、プール付きの白堊(はくあ)の豪邸に住み、社交界の舞踏会の如きパーティーに明け暮れ、異性との恋愛関係や情愛関係が良好で、周囲の人に傅かれ、封建時代の王子や王女のようなヒーローやヒロインになり、自分だけの倖という、絵空事のようなものを想像して、これを幸福の定義にしているのではないでしょうか。 現にユダヤ思想は、こうしたことを真当(ほんとう)の幸福と考え、金銭で世界を支配する今日の金融経済社会を現実のものにしました。これが市場経済の発展のベースになり、私たちの価値観はこれに規準して、金銭という報酬の大小で行動しています。 現代の不幸現象の源泉はこうした金・物・色の価値観に由来します。 したがって不幸現象を解消するには、価値観を変え、物質的価値観から精神的価値観へと移行が必要になってきます。 金や物に捕われる価値観は、人間本来の霊的神性を曇らせます。霊的神性が曇れば「見通し」が利かなくなり、動物的な観念で薄穢い野望に覆われます。こうした野望は一時的に成功しても、最終的には成就することが無く、多くの人の恨みを買って、最後は空しく潰える運命にあります。 さて私たちは、こうした物質界の低い次元世界から一日も早く解脱し、次の高次元世界へと向上しなければなりません。 次元は高度になればなるほど欲望が薄れ、自他の境目が無くなって、「自他一如」(自分と他人は、宇宙のひと滴の源流を同じにする同一生命体)という意識が芽生えます。これが真の意味での「自他共栄」です。だから「私」だけではなく、同根の「あなた」も共に栄えるという精神です。これが自他共尊へとつながります。 また、顕在界(三次元空間)の肉体重視の時空に制約された世界を超越してしまうのですから、異常食欲や異常性欲も次第に解消(退化するという意味ではない)されて、多くのものを食べ、多くの食物の命を奪わなくても満足できる慎みが生まれ、また性欲においても、異性の性器への快楽を求めて「精の垂れ流し」(人間には「精禄」というものがあって、その人が生涯に浪費する精力の源泉である精液や愛液の許容量が極められている)という愚行が避けられます。つまり精の垂れ流しという、一種の自殺行為が回避できます。精禄(せいろく)は使えば使うほど、脳の情愛中枢が狂い、寿命が縮まる。 また、人間には「食禄」というものもあり、その人が生涯に食べる食べ物の量が運命的に決められています。例えば主食は約6,000kg程と決められていて、多喰いの大食漢は自分の食禄(しょくろく)を早く食い潰します。 大きな体躯の哺乳動物は地上には生息できず、海に帰って行った鯨がそのよい例ですし、鳥類では恐鳥モア(moa/ダチョウ目の走鳥)が、十八世紀を最後に絶滅してしまいました。 かつてニュー‐ジーランドには大小種々のモアがいましたが、現生の走鳥類と同様に飛翔力がなく、最大のものは高さ4メートルを超え、体重230kgと推定される恐鳥いたのです。こうした鳥類や、またマンモスなどの巨象が絶滅したのは、人間の狩猟によるものだと歴史学者や生物学者は見ているようですが、それに合わせて、こうした巨大動物が「多喰いだったこと」も忘れる分けにはいきません。 また、中生代の三畳紀に出現し、白亜紀末に絶滅したといわれる恐竜においても然りです。恐竜の絶滅は隕石飛来説が主流のようですが、それに合わせて氷河期が襲来し、食べ物が減少したためです。多喰いの彼等は、こうした実情の中で生きる術を知りませんでした。 ●.肉体:霊体の関係比率 何事も「過ぎれば」結果はこうした、絶滅の危機を免れません。 さて、自分が空腹である時は、他人も空腹であり、そうした他人の心情を即座に察することが自他共栄の精神へとつながります。 さて、ここで半身半霊体の話を進めましょう。 半身半霊体とは、読んで字の如く、半分が肉体であり、残りの半分が霊体であるということを指します。 人間の「体躯」は、時代が下がれば下がるほど、それは霊的には退化していきました。 現代人に至っては「肉体:霊体」が「1:9」の関係になるほど退化し、物質的な現象のみしか感知できない、お粗末な体躯へと変貌し、澄み切った「見通し」しかできなくなってしまいました。ここに価値観を金や物で揺さぶられる現実があります。 これは精神の退化であるばかりでなく、霊体が急速に退化しているという現実があります。 そして霊体が急速に退化するということは、物質界の現象のみを真理として捉え、その他を異次元現象を理論物理学にそぐわない事象を、非科学的な迷信や蛮行と決め付けたのです。目に見え、耳に聞こえ、鼻を刺激する匂いがあり、手に触れることのできる可視現象を、宇宙の法則であると決め付け、それ以外の現象を迷信、あるいは非科学的な、低次元な根拠の無い、世を誑(たぶら)かす「世迷い言」と一蹴したのです。 しかし不可視現象は実際にあります。 ところが低次元な、三次元顕界の事象に制約されながら、時空を超越できない顕在意識ではこの現象を測定することは出来ず、またその実証も極めて不可能であるということです。 かつて人間は宇宙の心に準じて、霊的神性を誰もが等しく共有し、自他共に共通の、平和な意識で暮らしていました。そこには時間や空間は存在せず、何ものからも束縛されず、また齢(年齢)をとるという老化現象すらありませんでした。 しかし人間は、いつの頃からか、齢をとるにつれて生理機能が衰えるという遺伝子細胞の、時間の経過とともに変化する「老化」を選択してしまったのでした。 人類の多くは、人間の生まれ変わりを目的として老化現象を選択し、老化によって躰に起る様々な変化を取り入れて、視力、聴力、嗅覚力、記憶力、判断力、洞察力、思考力などの低下を由とし、世代交代を前提とする代替わりを選択しました。 これは人間に限らず、生きとし生けるものは、「生まれては死に」という生・老・病・死のサイクルに人生を委ねたのでした。 この結果、物質界に支配されることになり、時空に支配されるという、三次元顕界に生きる水冷式高等哺乳動物の形態を採用し、それに霊的神性の曇った僅かばかりの霊魂と、その霊魂を結び付ける心を宿して、「生まれ変わり」を繰り返すという輪廻転生の「人間道」(天上界などに対して、人の棲息し、生活する世界)を歩むことになったのです。 最初はこうした選択による生き方は順調でしたが、いつの頃からか、「我」というものが芽生え、これはやがて「自我」となり、欲望に左右される「自意識」となっていったのです。これが次第に霊的神性を曇らせ、欲望に燃えて自他を区別し、支配階級と被支配階級の階層の断絶という現実をつくり始めました。 また、人間の個においても、肉体態霊体の比率が急速に肉体重視に傾き、五官の要素である、五感を生ずる五つの感覚器官に頼って、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)のみを信頼するという低次元の現象のみを正しいとする考え方が生じました。人間にとって、「見通し」では必要不可欠であるとする「勘」、即ち直感や第六感という、第六番目の機能を退化させ、あるいは喪失させてしまったのです。これが霊的神性を曇らされた大きな原因です。 したがって人間として、肉体を授かった時には「5:5」の半身半霊体が、或る日、物質界に偏重したためにその比率が「1:9」にまで拮抗を失い、変貌したということなのです。 今日の、自他に境目が出来、人間同士が戦争という「陣取り合戦」や、欲望という「我田引水」で奔走する原因になったのは、こうした半身半霊体の欠如によるものだったのです。 |