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●善対悪の対極論は誤り

 この世の中の非実在界は、表面的に見れば善対悪の関係で対峙(たいじ)しているように見えます。善があって一方に開くがあり、それが一次元の数直線上で、善か悪かで対峙しているように見えます。

 ところがこれを二次元平面の円の世界からみますと、同じ円の円周上を善と悪が各々に循環していることになります。

 世の中に良いものと駄目なものが存在するように言う人がいます。しかし円の円周上の順環で考えますと、これを一次元的に見れば確かに良いものと駄目なものは、その上下において対峙し、二つを隔てているように見えますが、二次元円周上の世界観で見てみますと、これは同根である事が分かります。

 人は、何かの評価や評論を求められて、「どうでしたか?」と訊かれることがあります。この時、自分で良いと思えば、「実に素晴らしかった」と答える人が居る一方、駄目であれば「実につまらないものだった」という答えが返って来ます。

 問題は多くの人が、良ければ素晴らしいと言い、悪ければつまらないと言う、この非実在界の評価・評論です。
 しかしこうした考えは、一次元数直線上の二元対極に立った考えであり、二者が鬩(せめ)ぎ合い、二社が対極した考え方と言わねばなりません。そして、もしつまらないものだとすると、つまらないものに一歩進めて、「では、何故つまらないものを見せられる羽目になったか」こうしたことを考えてみなければなりません。この裏には、「ボールの跳ね返りの関係」が成り立っていて、かつて自分のやったことが返って来ると言う法則があり、「かつてあった事は、これからも起こる」という、円周上の順環です。

 一見、ボールの跳ね返りの関係は、一次元的対極に対し、直線的に投げたものが、直線的に跳ね返って来るように映りますが、これは二次元平面の円の円周上をボールが循環していると考えたらどうでしょうか。
 かつて、投げられたものが、この円周上を循環して、やがて跳ね返って来るのです。こうして考えてみると、総ては繰り返しの順環の中に存在していて、これが時間と共に、寄せ集まったり、離れたりしているのです。

 良いものがあり、一方でつまらないものがある。この現実は、実は円周上を循環しれいる「善し悪しの関係」であり、この順環物が、実は良くもなり、悪くもなって、非実在界にいろいろな形を変えた現象として起こっていると言うことなのです。
 今日の失敗経験者は、明日の成功者かも知れませんし、今日の順風満帆の事の運びは、明日の躓(つまず)きの第一歩かも知れません。

 非実在界の現象は常に流転し、刻々と動いています。変化を遂げ、古くなっては、新しく生まれ変わります。こうした現象を、表面的に見れば、古いものと新しいものが対極した形で現れますが、実は古いものと新しいものが、数直線上で動き回っているのではなく、円の円周上を循環しているのです。そうすると、世の中に駄目なものはなく、それ等は総て同根の範疇に、善も悪も一緒に存在すると言う事実に気付かされます。



●幸運の女神は自他同根の意識のある人にだけ微笑みかける

 善対悪の一元対極が誤りだとすると、善対悪は常に変化すると言う円周上の関係式が成り立ちます。両者は常にこの中を循環し、良くもなったり悪くもなって、ある時は廻り道をし、またある時は近道をして、いずれかを循環しています。

 昨日の失敗は今日の成功であるかも知れないし、今日の成功は明日の没落かも知れません。人は心の自惚れと、心の謙虚さの、どちらに帰属するかという事で、これから先の運命は定まります。自惚れれば、運は嫌気がさして逃げましょうし、謙虚さを失わずにいれば、いつまでも運は手許(てもと)に留まりましょう。

 何しろ、幸運の女神は気紛れであり、いつまでも同じ人ばかりに、幸運の微笑みを投げかけてはくれません。
 もし、幸運の女神の気を惹きたいのであれば、自惚れず、傲慢にならず、優越感に陥って自他離別の意識を抱かないことです。常に自他同根の意識を感得している人にだけ、幸運の女神は微笑みかけてくれるのです。



●言葉の持つ意味

 お追従(ついしょう)を言われても、こうした甘い言葉に喜んだりせず、また悪態をつかれても意に止めず、サラリの流して発想の転換を行ない、直ちに悪想念を消去する事です。お追従も、悪態もどちらも同じ次元の言葉であるからです。

 言葉の中には、言語と理性が含まれています。両者は概念・意味・論理・説明・理由・理論・思想などを現し、是れは実体化されて、非実在界全体を支配します。人々の話す「ことば」を「ロゴス」とも言います。

 言葉は霊的には「光透波(ことば)」であり、一種の宇宙波動です。この宇宙波動は、言葉に宿っている不思議な霊威であり、古代においてはその力が働いて、言葉通りの事象がもたらされると信じられたのです。現に、非実在界における現象の総ては、一種の「唸」が趨(はし)り、この唸(ねん)によって現象人間は喜怒哀楽や一喜一憂を繰り返しています。

 言葉は、想念エネルギーの実体化したものです。したがってこれは宇宙波動であり、「光透波」の意味がより明らかになります。
 しかし昨今の実情を見てみますと、「食」や「色」と共に、「言葉」もまた、これまでの歴史になかったくらいに乱れに乱れています。
 言葉が乱れると言うのは、「光透波」が乱れると言うことであり、既に「宇宙波動に狂いが生じている」ということになります。日本人は古来より、言葉には霊が宿るとして、「言霊」としてこれを大切にして来ました。

 ところが近年に至って、言葉は大きく狂ってしまったいるのです。言葉の狂いは運気を衰退させます。日常どのような言霊を使っているかで、その人の運勢まで変わってしまうのです。そして言葉の遣い方を誤れば、天地は濁り、不幸現象も発生します。

 言葉には宇宙の満ち満ちた絶対エネルギーが内包されているのです。もし、あなたが不運不幸を思っているのなら、それは言葉の遣い方の誤りかや来る、「歪み」がこのような現象をつくり出しているのかも知れません。

 そしてここでも、自他同一の意識が働くことを念頭に置いて下さい。言霊を使って、もし人の悪口を言うのであれば、これは自分への悪口であり、言葉に神の波動である「光透波」が宿っているのですから、人の悪口とは、神への悪口にもなります。神へ悪口を言い募る人が、果たしてよき運など転がり込むはずがありません。言霊は正しく使わねばならないのです。

 言葉の汚い人は、宇宙の波動を正しく受けられないのです。また「べらんめい」口調で喋る人は、間違いなく困窮生活が強いられます。また、その上に輪を掛けて、霊的神性が曇らされ、霊的波調が低下する為、霊性が低くなって憑衣・憑霊され易い体質となります。不運不幸はこうしたところにも忍び寄って来るのです。

 そして「光透波」は、波動ですから、これを正しくキャッチする為に、この波動を正しく理解し、聞き逃した聞き違えをしないだけの智慧(ちえ)と、感受性を持っていなければなりません。
 智慧が集積されていないと発した波動は正しく理解しませんし、感受性を受信する神経系に異常があれば、これを正しく受け入れることが出来ません。こうした聞き逃しや聞き違えが、自分の感覚意識に誤解を発生させ、光透波を発した相手を誤解したり、身分の未熟を棚に上げて、自他離別の闘争想念を抱いてしまいます。
 またこれを起因として、聞き逃しや聞き違えの過失者に憑衣・憑霊現象が発生します。光透波の過失は、発する側ばかりでなく、受ける側の過失も問われるのです。



●霊は「日」、心は「月」

 人間の人体は三つの要素からなり、霊・心・肉体から構築しています。
 霊は「日」と結び付き、太陽を棲家とします。心は「月」と結び付き、月を棲家とします。また肉体は「地」の結び付き、地球を棲家とします。これが「天・人・地」の関係です。
 そしてそれぞれは「三宝」を所有し、天に日・月・星(惑星)があり、地に火・水・風があり、人に神・気・精があります。

 しかたがって私たちの人体は生物学上で言う、単なる水冷式の哺乳動物ではありません。
 更に、霊は「神(しん)」と結び付き魂(言葉等の「唸」であり天意)を司ります。心は「気」と結び付き玄気(エネルギー体)を司ります。肉体は「精」と結び付き形(物資体)を司ります。

 さて、人体の「人」は天地に挟まれながら生きていかねばならない宿命を背負っており、気が聚(あつま)って命(めい)が宿り、これが散じて死に至ります。その為に人は宇宙から玄気だけを授かるのではなく、天から霊魂を、地から肉体を授かりました。これを総じて「三宝」と言います。

 精とは、精力で肉体の力、気とは、玄気で宇宙の波動エネルギー、神(しん)とは、意識で霊魂を各々に授かっています。また各々に脳波を持ち、精はβ波、気はα波、神はθ波です。
 不幸現象は、人の三宝に異常が生じた時機に起こります。

 つまり三者のバランスが崩れ、拮抗が失われた時機(とき)に、先ず、精を通じて現われてきます。筋骨の調整が順調にいかなくなります。これが不定愁訴の原因で、病気ではない病気です。これは運が衰退していく時機に起こります。
 次に波動エネルギーをキャッチする気に異常が生じ、この結果玄気が失われて気持ちは滅入り、心に迷いや不安が生じます。これが感情の、悪い意味での表出です。

 異常が生じるとα波が急速に失われ、β波のみとなり経絡(気が流れる十四の通路)の調整がうまくいかなくなります。
 そして最後には神に異常が生じ、霊感が失われて「先見の明」が停止し、「見通し」が出来なくなります。
 また精神状態が乱れてコントロールが利かなくなり、精神分裂病状態になります。
 こうした病的状態は、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなる病気で、破瓜型・緊張型・妄想型等があり、多くは思春期や青年期に発病し、妄想や幻覚等の症状を呈し、しばしば慢性に経過して、人格の特有な変化を来す内因的精神病と発展します。そして極めて難解な病気であり、精神科では薬の投与で異常な行動を抑えていますが、長引くに従って、悪化の傾向を辿ります。

 医学上では遺伝であるという説もありますが、《癒しの杜の会》では「霊導法」を指導し、根気よく努力して、完治した人もいます。またアルコール依存症や麻薬中毒症なども、一種の憑衣による精神障害で、霊導法によって恢復へと向かわせることも可能ですが、非常に根気のいる作業です。詳しくは、「霊導法」のページをご参照下さい。

 これは神と精を繋いでいる気が弱まって、神と精がバラバラの状態で動き廻り、肉体のコントロールが狂うことを指します。これが「霊障」(霊症)であり、神が眠らされ霊だけに支配された状態となります。神は元々、肉体をコントロールして、気に居心地の良いα波を適度に放出させる環境を保つ役目を果たしていました。

 しかし神が精と結ぶ力(気)や弱くなれば、これがバラバラになり、神が眠らされて、これに代わって霊が肉体を支配します。心情を司る言霊が狂わされた為です。精神病者の異常な行動はこうした、霊に肉体を占領されたことから起こる霊障であると言えます。

 また、これに近い病気に心身症が挙げられますが、心身症は心を司る気が病んだ病気で、これ発生すると人間関係が崩壊していきます。
 不幸現象の多くはこうした宇宙の仕組を無視して、自己流の独断と偏見が招いた病気だということが解ります。

 ではこういう状態に陥らない為に、あるいはこういう状態を早期発見して、これを改善・恢復していく方法はないものでしょうか。



●霊魂の正体を知る

 こうした不幸現象を避ける為には、先ず「霊魂の正体」を知らなければなりません。
 また三宝(神・気・精)の関係を充分に理解しておかなければなりません。

 さて、一体「霊魂」とは何でしょうか。
 霊魂とは時空を超えて伝わる「意志」のことです。
 自らの異次元または宇宙の遠くからやってきて、神・気と合体して伝われば憑衣ポゼッション/脳が呼び寄せる霊の乗り移り)の形をとります。また、こちらから意念(想い)を発して、気(玄気)で貫けば、俗に言う神通力という形をとります。

 神通力とは遠隔通信、遠隔治療、幽体離脱、瞬間移動など超能力であり、これが異次元空間で起これば、脱魂ecstasy/エクスタシー)となって忘我状態となります。
 元々エクスタシーなる言葉は、ギリシア語の「ekstasi」の「外」と「立つ」の合成語で、魂が世界を超えてある状態に達することを言います。哲学的には魂の脱離を意味します。
 魂の離脱とは、人間が神と合一した忘我の神秘的状態で、フィロン・新プラトン学派の中世神秘主義思想家の重要な概念となり、忘我(ぼうが)や恍惚(こうこつ)や法悦(ほうえつ)を指しました。

 霊魂は本来超時空の存在で、その本質は意志であり、肉体を持たないということにあります。肉体を持たないという状態は、意志のみでは物理的な現象や作用は起こせないのですから、人間の神・気(神気)である魂と結んで神に宿り、物理的な行動を伴わせて肉体をコントロールしようと働きかけます。

 これが霊魂の実体です。
 だから神気が弱まれば、神は眠らされ、肉体は一方的に霊の棲家(すみか)となります。
 そしてこの霊の実体とは宇宙に漂う浮遊の霊で、これが、神が眠らされた場合、即座に肉体を持つ人間に取り憑き、脳を支配して歪んだ症状を起します。



●宇宙波動としての念波

 おしい、悔しい、憎いの気持ちは不幸現象招くばかりか、心像化現象を消極的にして、脳の現れである貌に歪みを作ります。
 あなたは今までに「おしい」「悔しい」「憎い」の気持ちを抱いたことはないでしょうか。また他人を悪く言ったり、陰口を言ったことはないでしょうか。

 不幸現象の原因は、こうした感情と念から発する唸波ことば/宇宙波動として「光透波」の意味合いを持つ)によって意識が発動された場合、神を司る言霊が狂わされて、これがあなた自身の身に振り返ってきます。
 脳の状態を如実に顕わした場所は肉体では、人間の貌(かお)に当たります。脳が反映して貌が構成されています。

 無知な人は無知なような貌になり、精神異常者や痴呆症でなくても、教養や学力がなければ、口がポカリと開いて痴呆の貌を構成します。
 また、念は脳によってもたらされ、これが感情としての意識の現れですから、精神分裂病で一番多いのはこうした「おしい」「悔しい」「憎い」の気持ちに加えて、他人を悪く言ったり、陰口を言うという人に圧倒的に多く、素人評論家にも多い病気です。

 あなたはテレビで、アナウンサーやニュースキャスターや評論家、あるいはお笑いタレントや漫才師や落語家の人達の、喋っている口が、左右対称の開閉ではなく、いずれかに大きく歪んでいる司会者らを見た事がないでしょうか。

 この人達は左右いずれかに間違いなく口が歪んでいます。要は、彼等は人を評する商売であり、時として唸波が意識として発せられ、言霊を狂わせてしまう場合が少なくないのです。
 人間の唇の形や大きさはともかくとして、上唇と下唇は貌(顔)の正中線に対して、真一文字に直角に交わっていると思ってはいないでしょうか。実はそんな人は殆どいないのです。

光透波(ことば)としての宇宙波動が言霊である。

 多くの人は静かに口を閉じた状態を見ると、右の唇の端が左より少し上がっています。
 つまり、唇の真一文字の線は、左の口の端から右の端に向かって斜めに上がっています。これは鼻が右上がり、あるいは左下がりになっているのと同様に考えられます。

 人間の鼻は正面から見ると貌の正中線に一致して垂直になっている人は殆ど居ず、多くの人は鼻の先にいくにつれて貌(かお)の右寄りに捻れています。そして左側の鼻は右側の鼻より大きく、鼻腔も左側が大きく開いています。

 これを更に観察しますと、右側の鼻は左側の鼻より少し上に位置して左右は微妙に違っています。
 口はこの鼻の曲がりに影響を受け、此処でも「左回りの法則」が働いています。
 つまり人間の貌は、目は右側が左より少し大きく、鼻は右に曲がり、耳は左が大きく、唇は右端が少し切れ上がっているというのが人間の貌(かお)であり、貌は左右のアンバランスの上に構築されています。
 またこの状態が自然であると言えます。

 しかしこうした自然の状態を無視した人も存在します。
 この人達は、このアンバランスの左右関係が逆になり、右回りの状態で喋り続けています。彼等は換言すれば現代の「語部」であり、喋ったり、評論をすることを職業としています。
 そもそも語部とは、日本古代の儀式に際して旧辞や伝説を語ることを職とした品部のことで、出雲(今の島根県の東部で雲州)・美濃(今の岐阜県の南部で濃州)・但馬(今の兵庫県の北部で但州)等に分布していた特殊技能を持った人達でした。一種の審神者的な特技を持ち、斎清めた場所で左回りの法則にしたがって旧辞や伝説を語りました。

 ちなみに審神者(さにわ)とは「さ庭」とも言い、さ庭の「さ」は神稲の意味で、神おろしを行う場所で神のお告げを講じる霊媒者で、神の啓示を行うことを職業としたのです。古事記中には「審神者に居て神の命を請ひき」と言う一節があり、神慮を審察する人、あるいは神命を承(うけたまわ)る人を指しました。語部もこうした意味で共通点を持っていました。

 しかし語部と審神者の根本的な違いは、前者が古代の儀式に際して旧辞や伝説を語ること対し、後者の審神者である巫覡や巫女はシャーマン的な霊媒師で、単に語りを職業とする、神意をうかがって神託を告げる者とは異なっていました。
 また神子といわれる審神者は、未婚の少女(処女)でなければならず、数千人に一人の割合で選ばれた娘達でした。

 しかし「告げる」という意味では現代のスポークスマンに匹敵する役割を果たしていました。
 ところがこうした神性であるべき代弁者は、現代に至って神性を告げる語部の要素がなくなり、喋りに私感が含まれて自己主張的な報道や代弁が多くなり、これを職業とする人達の左回りの自然な言霊が崩れ、貌が右回りの状態になって、特に唇が左につり上がって居る人が増えています。

 さて、本来言霊を正しく発音できるのは世界の民族の中でも日本人だけであり、47音に「ん」を含めた48音と濁音を含む75音を発音していましたが、昨今の横文字文化と英語の急激な普及で、日本語が正しく発音できない人が増えてきています。

 こうした現実の中で、唸波を発すれば「おしい」「悔しい」「憎い」の気持ちに加えて、他人を悪く言ったり、陰口を言うなどの狂った言霊はそれなりの毒を持ち、この毒は小動物を殺傷する威力がります。
 例えば、毒づいた言葉を発した直後、その唾液を採取して、実験用のマウスやモルモットに注射器で投与すればこうした小動物は12間以内に死ぬという報告も入ってきています。
 不幸現象の多くはこうした宇宙の仕組を無視して、自己流の独断と偏見が招いた病気だということが解ります。

 ではこういう状態に陥らない為に、あるいはこういう状態を早期発見して、これを改善・恢復していく方法はないものでしょうか。
 もし、今、あなたが不幸に見舞われているとしたら、こうした点がなかったか、即座に反省して見るべきでしょう。