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●金銭至上主義の裏表 金に魅(み)せられない人は殆どいません。そして、こうした欲望の拡散・膨張に大きく関わったのは、奇(く)しくも物質文明でした。 宗教革命、産業革命、イデオロギー革命と、目紛(めまぐる)しく動いた近代は、多くの人間の犠牲の上で物質文明を進化させてきました。 過去百年の歴史を振り返ると、二十世紀は可視的意識と感覚だけで物事を捉える理論社会が出現し、これまでの精神文化は大きく後退して、人間平等の権利から、社会主義や共産主義がその虚構理論と共に芽吹き、マルクスの提唱した暴力革命が、旧態勢権力を奪い取り、あるいは自由主義陣営では、自由奔放を求めて、欧米等の先進諸国は資本主義市場経済の体系を取りながら、植民地主義や帝国主義を押し進めました。 そして、共産主義も自由主義も原点は、たった一つのところから出発しているのです。 それはルネサンスです。 ルネサンス(Renaissance/フランス語で再生の意)は、十三世紀末葉から十五世紀末葉へかけてイタリアに起り、次いで全ヨーロッパに波及した芸術上および思想上の革新運動でした。 これまでのローマカトリック教会の宗教的制度や教義やカリスマ的伝承など否定して、現世の現実主義を肯定して、個性の重視や感性の解放を主眼とする意識改革が起こりました。この改革の中心課題は、ギリシアやローマの古典の復興を契機として、単に、文学や美術に限らず、広く文化の諸領域に清新な気運を引き起こし、人文主義を以て、神中心の中世文化から、人間中心の近代文化への転換の端緒をなした文芸復興です。別名、学芸復興とも呼ばれ、一般には「ルネッサンス」とも呼ばれています。 当時の欧米列強は、ルネサンス以降、物欲闘争を繰り広げ、歴史的に植民地から略奪した金銀財宝や、地下資源の獲得を道徳的に、低級な弱肉強食主義に求め、平然と自らの所得にすり替えたのでした。 そして日本は、こうした欧米列強の植民地主義に習い、大陸へと侵略しました。 欲望拡散の遺産は、先の二回の大戦で自滅してしまったものの、今なお、その延長にあり、目覚めぬまま、今日に至っています。 換言すれば、人間の意識は可視的感覚から一歩も出る事なく、五官(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)の領域内で欲望を露出し、意欲的に行動した結果に過ぎないということだったのです。 これは自然に生きた縄文の太古から、文明の名の下(もと)に台頭した唯物主義、更には近年に至って物欲主義が全盛になり、その猛威は一方で終焉(しゅうえん)が叫ばれながらも、その威力は依然、衰える様子がありません。 金銭至上主義、拝金主義は永遠不滅の様相さえ呈しているのです。そして世界の諸国が、ひたすらこれにこだわる限り、国民として存在する私たちも、必然的にその影響を受けるのです。今日、世界各地で起こっている戦争の火種は、こうした欲望と共に燻(くすぶ)り続けているのです。 諸悪の根源は、人間の欲望に由来すると言っても過言ではないでしょう。また、金に魅せられる「自我欲」も同罪でしょう。 「自我欲」が横行する現在、五人に四人が金によって非常識となり、四人に一人がお金によって狂いはじめました。こうした現代社会の恥部に、絶望を感じて、厭世観に陥る前に、あるいは悲観的に物事を考えるのではなく、これから先、「人間はどうあるべきか」を真摯(しんし)に模索する必要があるのではないでしょうか。 こうした思考の有無が、不幸現象とは無縁ではないのです。 ●苦楽の意味を考えよう 人生の標語に「苦楽」というものがあります。 これは「苦楽を共にする」という言葉で、一般には知られています。苦しんだ後に、然(しか)るべき楽しみが訪れるという含蓄(がんちく)ある言葉です。したがって楽苦という、逆は存在しません。あくまで苦楽であり、「苦」が先に来るのが順序です。 しかし問題は、楽しみが何時(いつ)訪れるかという事と、苦しみ方の度合が、何とも気になります。 苦しみのドン底に落とされ、不幸と不運の連続の真っ只中にある人は、多くの場合、既に人生を諦めてしまっています。苦しみに耐えることすら放棄してしまい、ルンペンやホームレスに成り下がって、人間失格の道を選択する人も少なくありません。 昨今のデフレ不況下では尚更(なおさら)の事であり、失業率が一割近くに迫る勢いの今日の日本の社会構造では、彼等に出来る仕事は永久に回って来ません。せいぜいあって、空缶拾いか段ボール収集くらいでしょう。それでもこうして働いている人は、まだ増しな方です。 問題はそれすら出来ずに働かず、あるいは働けず、ただ死を持つばかりの動物に成り下がっている人間失格者です。 彼等は、ここまでの路程の中で、苦しみに耐えた然(しか)る後に、楽しみがやって来るという夢想すら出来ません。問題はここにあります。 不幸だ、不運だと思い続けてもいい。しかし、その裏を返せば、幸福が近づいていると、希望すら抱けなかったものかと、残念な気持ちになります。 こうして考えてきますと、苦しみの根底には、自己萎縮(いしゅく)という消極的な凝結があり、それを解決する為に他の人に相談するなり、自分の知らない空気に接することで、解消を図ろうとする努力を怠ったことに起因しているのではないか、と思わずにいられません。 彼等はこうした行動を起こさなかったが為に、幸運を取り逃がし、不運の糸を自らの手で手繰り寄せる結果となってしまったのです。 また不運・不幸で付き纏うことは、金銭であり、これがない為に、不幸に見舞われるという側面も否定できません。 世の中では、金が総てではないと思っている人が少なくありません。確かにそうでしょう。 しかし、こういう事を口先で言う人は、お金について全く何も解っていない人です。また、こうした人の思考概念の中には、貧乏人は正直で、金持ちは狡猾いという嫌悪がしこりとなって潜在しており、また、こうした処が困窮生活を招いているのです。 人間が欲望を募らせ、恐怖を拡大していくのは、全くお金に対する理解力の欠如からであり、したがって、お金に振り回される生活を強(し)いられるからです。これが次第に悪化すると、常人以下の生活が余儀なくされます。 不運・不幸のドン底に落ちていく人の多くは、最初は、人生において「お金が総てではない」と思って、人生を出発しているのではないでしょうか。 こうした考え方は、やがて金銭という生き物の実態を知らない為、お金に振り回される生活が強いられます。そして遂には、人間失格の域にまで下降してしまいます。 一言で「お金が総てではない」と言います。しかし、これは一種の待たざる者の僻(ひがみ)であり、こうした考えを持ち続ける以上、大金は自らの頭上に転がり込む事はありません。 そもそもの原因は、努力や苦労を積み重ねることを怠り、お金に困らぬ環境造りを怠った為です。 ちなみに物を象徴し、総ての物財を具象したのが金銭です。金銭は現世・物質界で最も敏感な生き物です。金銭はこれを大事に扱う人に集まります。お金に憎悪や嫉妬を抱かず、また無駄遣いをせず、生かして遣う人に集まることを認識して下さい。 ●「まごころ」の行動原理を識る 「発想即行動」 がなければ、人生は半分以上が無駄なものになってしまいます。 また、これがなければ、人生は不透明で、不安で、猜疑心に満ち溢れて、その上息苦しい窮屈(きゅうくつ)な型に嵌(は)まったものになってしまいます。 さて、発想とは「ひらめき」を指し、「ひらめきの行動」 を実践することで、この型に嵌(は)まった、束縛された人生から、一挙に脱出することができるのです。 では、それを実行するのには、どうすればよいのでしょうか。 「ひらめきの行動」 とは、あれこれ考えた末、結論を出して行動してはならないということです。所詮、人間の人知を弄(ろう)した行動など、思う通りにならないものです。 事が思うように運ばないのは、自分を中心にして物事を考えているからです。 人間の一生は、周囲の人達によって、あるいは大自然の恵みよって、支えられているのだということを肌で感じている人が、果たして何人いるでしょうか。 共存共栄の精神は頭で理解できても、それを即実践に移せないのが人情のようです。 では何故、実践出来ないのでしょうか。多くの人は、人間が人間によって教育された、人知と作為から成る知識に妨害されます。 言い換えれば、人間の浅知恵で考えた結論から、臆病で、石橋を叩くような用心した行動をとり、打算的で、個人主義の自分中心の利害得失を考えて、人を出し抜く為に日々奔走しているという日常生活の営み方に問題があります。これがまたエゴイズムの殻(から)を固執させ、人々から「まごころ」を喪失させる原因にもなっているようです。つまり「まごころ」の喪失が、霊的神性を曇らせた直接的な原因であるということになります。 さて、「ひらめきの行動」 は、起床からはじまります。 例えば目が覚めて、何かの脳裡(のうり)に思いつきが浮かべば、これが「ひらめき」です。 ●見通し 「ひらめき」とは、昨夜の就寝前に仕込んだ「見通し」が、魂の反応に導かれて翌朝に開化したに過ぎません。 これは魂から発動される直感(勘)であって、作為中心の自分の考えではありません。 無我の時に発せられた「宇宙の心」の教えと言ってもよいでしょう。あるいは天命の啓示による神の意識です。だから「ひらめき」は、自意識から起こる人知や作為ではないのです。 これを「導き」と言います。 「導き」は、大宇宙創造主の教えなのですから、その通り行動を繰り返すことで、奇蹟も偶然ではなくなり、不思議な力を発揮します。 さて、私たちが棲んでいるこの世界は、陽から陰に向かっています。 つまり生から死に向かう、「右回り」の方向で生・老・病・死の順序に準じています。方角で言えば、南から北に向かって、西を経由しながら右回りに動いています。 「盛者必衰のことわり……」も此処に由来します。 したがって、斜陽に差しかかかってしまった企業は倒産以外に方法はなく、沈みかかった人は奈落の底まで墜(お)ちて行くしかありません。一旦沈んだ後に浮上するというのが「左回り浮沈の法則」です。 企業も商店等の商売も、一種の目的意識を持った利潤追求の「生命体」なのですから、それを運営する原理は「まごころ」の発動如何に左右されます。 この場合の「まごころ」は、経営者の経営理念の顧客への「感謝の気持ち」がそのまま商に繁栄されます。 しかし「まごころ」が薄かったり、喪失していれば、こうした企業や商店は、衰退や倒産が余儀なくされます。一種の自省が突き付けられるのです。 ところが、これを無視した手段が用いられるようになりました。倒産する運命にある大企業や金融機関を、倒産させず、公的資金で救済する政策がとられて、救済の為に国民の血と汗の結晶であった、郵貯の金が使われるという、強者に甘く、弱者に厳しい政策です。 ●巧妙な第二の国家予算の裏側 郵貯とは、私達が郵便局に貯蓄した郵便貯金や各種の年金の預託金であり、これを別名「第二の国家予算」と言います。この金の使途については国民の承諾は愚か、国会の承認も得ず、財政投融資という名目で資金運用がなされます。 私たちが棲(す)む日本は、こうした「まごころ」を欠いだ政治家や高級官僚らの特権階級によって牛耳られ、運営され、知らぬ間に私たちの国・日本は、ひと握りのエリートに横領されているのです。 これは、個人の日常生活においても同様なことが言えます。 「まごころ」の喪失している人は、得てしてエゴイズムな人で、悪しき個人主義で凝り固まっています。 こういう人は自分の為だけに、贅沢し、物財で周囲を飾り、高級車を乗り回し、妾を侍らせ、挙句の果てに経済感覚の無い浪費を繰り返します。我田引水の悪の根源はこうした心に寄生します。 自分の稼ぐ所得内で生活をすることを考えず、VISAカードのローンという借金で、物質的豊かさを求めるという指向がこれに当たります。これがサラクレ等の借金で苦しむ現実です。 こうした個人の生活経済ですら、生から死に向かう、「右回り」の生・老・病・死の順序に置かれているのです。 ところが「大宇宙の倖の仕組」の「左優位法則」に従えば、陰から陽に向かう病気・老い・そして生まれ変わるの順を辿れば、北から、東を経由して南に向かいます。死ぬ寸前まで弱りかけていた人はやがて元気(玄気)を取り戻し、新たに復活して生まれ変わることができます。 「まごころ」を発動させ、「ひらめき」を増幅させる為には、肉体的・精神的に病んでいたり、邪気や欲望に取り憑(つ)かれて、霊的神性の源泉である自他共栄の精神が曇っていては、成就するものも成就できなくなります。 《癒しの杜の会》では「発想即行動」を実行する為に、「頭寒足熱」(頭部を冷やし、足部を温める姿勢)という、涅槃(ねはん)の北に頭を置き、「北枕」(古神道に由来し、皇族の間で実行されている日常習慣)に寝て復活を成就させるのです。これを『頭寒足熱の玄理』と言います。 ●天命を識(し)り、そして自分自身を知る 一人一人の心は同じではありません。それなのに自分が望むように、相手に認めてもらいたいと思う願望と自意識が働きます。 自意識過剰の人は自分の考えに固執して、絶対にそれを変えようとせず、是非とも己の考え方を善、他人の異論を悪として、痛烈な自己主張の許に、結局自分の思う通りに相手がならなければ満足しない人が少なくありません。 こうした人は、概ね学歴偏重型の、いわゆる一流大学出身の学閥重視の科学万能主義者に多く見受けられます。 また、こういう人は、知識で武装された自意識で人生を乗り切ろうとして、傲慢で横柄な態度に出ることが少なくありません。 ここで、ある大学の医学部の教授(内科部長)だった人の話をしましょう。 この教授は医師という資格にたいそう酔い痴れ、傲慢で、威張るのが好きで、人を見下して考える思考の持ち主で、強気な人でしたが、ただ自分が癌(がん)になることを恐れ、酒も煙草もやらず、食事にも十分に気を遣い、焦げた部分やパンの耳は全て捨ててしまい、焦げ目の無い白い部分だけを食べていました。 肉を食べるにしても、脂身の部分は避け、上質で高価な和牛等の赤味の部分だけを食べるようにし、魚介類もスーパー等で売っている安物は避け、直接馴染みの魚屋から高級魚だけを届けさせるようにしていました。 外に出る時は車の排気ガスを吸い込まないようにマスクを欠かさず着用し、喫煙者の近くには寄らないように注意して、バスや電車に乗るにしても禁煙席に真っ先に飛び込み、異常とも言える過剰な神経を使っていました。 さて、ここで癌を簡単に説明すると、癌とは、悪性腫瘍の総称で、特に、上皮性の悪性の癌腫を指します。この悪性腫瘍は、体細胞が過剰に増殖する病変で、多くは臓器や組織中に腫物・瘤として限局性の結節をつくります。 また医学上では、発生母細胞により上皮性と非上皮性、また増殖の性質から良性(腺腫・脂肪腫・線維腫・骨腫など)と悪性(肉腫・癌腫など)に分け、増殖が非可逆的かつ速やかで、周囲組織への浸潤、遠隔部への転移により、病巣を拡大し、生体の消耗を招来する腫瘍が悪性として挙げられます。癌組織は発生母組織により、癌腫と肉腫に分けられます。そして動物性蛋白質下で培養されやすい特性があります。 ところが、この大学教授はこうした癌の恐ろしさを十分に知識の上では知り尽くし、ここまで神経質に、神経を使っていたにも関わらず、この内科部長先生は皮肉にも退官間際、癌で死んでしまいました。ここに人知では如何ともし難い現実があります。また、《恐れるものは皆来るの法則》が、ここにはしっかり働いています。 私たちは人知から発したこうした知識が、運命の上からは「ひとたまりもない」ということを識(し)らねばなりません。 また人知では、如何ともし難い大きな力が働いていることを識らねばなりません。 この力こそが、「天命」を司る偉大な知恵なのです。 ●天命とは何だろう 人間が、天命によって生かされている現実がここにあります。 私たちは自意識で「生きている」のではなく、「生かされている」という感謝が必要なのです。多くの人はこの感謝を忘れ、一時的なツキに恵まれた人は順風満帆に気よ良くして有頂天になったり、傲慢になったり、横柄になったりして、自身の身を律したり、慎んだりすることを忘れてしまっています。 また、不幸現象に襲われて、進退窮まり困窮している人はツキに見放されていることだけを嘆き、天命が働いていることを忘れ去っています。 こうした時、天は交通事故や事件に遭遇させ、あるいは奇病・難病に陥れて、その人の「命」をその場で断ち切ってしまいます。 天は時として、命の断ち切りに交通事故死を用います。誰もが死ぬ為に車を運転している人は一人もいません。 ところが、交通事故は後を絶ちません。 これは天命の、こうした意図が人間の運命に大きく働いているからです。 ●人生に順風満帆なんて有り得ない ここで、順風満帆な人生を送っていたAさんの話をしましょう。 このAさんは働き盛りの40歳で、親子代々資産家の家に生まれ、一流大学を卒業し、当時大手一部上場企業の課長職にあり、或る日、有給休暇を利用して、車で家族旅行に出かけました。家族はAさんを含めて、美人の奥さんと、出来の良い子供二人の、恵まれた家庭を作り、近未来において、不安要素は何一つありませんでした。40歳にしては高級取りで、大きな洋風の洒落た、プール付きの豪邸に住み、車庫には三台の外国高級車が並び、その屋敷の敷地は200坪を越えていました。まさに幸福を絵に書いたような家族を持っていました。 こうしたAさんがお気に入りのメルセデス・ベンツ450SLを走らせ、一家で家族旅行に出かけました。 ところがトンネルを通過して、直後の右カーブに差し掛かった時、大型ダンプカーと正面衝突し、この一家の乗った車はメチャメチャに壊れ、全員が即死するとういう悲惨な事故に見舞われました。 ドライブ旅行に出かける前、Aさんは平均以上の高地位があり、将来を嘱望され、この一家は誰が見ても羨むほどで、倖(しあわせ)の女神の祝福を一身に受け、倖な明日を彷彿とさせました。 しかし実際のところ、誰にも、どんな明日があるか予測できません。あるのは「今、この一瞬」であり、今の時点で、一秒先、一分先のことも予測がつきません。それなのに、私達は安易に「明日がある」と思い込みます。Aさんもトンネルを抜けた向こうに明日があったはずです。 しかし実際はトンネルの向こうの明日はなく、Aさん一家は悲惨な衝突事故に遭遇し、全員があえない最期を遂げることになってしまったのです。そしてAさんは、何も死出の旅にドライブ旅行を選んだはずではありませんでした。 この事故の原因は、Aさんがトンネルを抜けてその直後にセンターラインを越え、右カーブに油断したためでした。しかしこの時、Aさんが《左優位の法則》を知っていたら、状況は一変し、事故は回避できたかも知れません。 さて、天命はこうした結末を人間に押し付けてくることがあります。これが天命の下す「運命」です。 私達はこうした突然に襲ってくる不幸現象を、どのように捉えていけばよいのでしょうか。 ●不幸現象と天命との関係 人間は生きる因縁によって天命から生かされています。 そして生かされるためには、生かされる理由があります。逆に不幸現象によって、死を命じられる人は、生かされる理由がないからです。 交通事故や飛行機事故や海難事故等の事故死を始めとして、殺人事件に遭遇して殺されたり、自殺をしたりする、こうした人は天命によって生かされる理由が無いからです。だから即刻「死」という形を以って、生きる因縁が断ち切られます。 安易な、計画性の無い考えでサラ・クレに多額の借金を作って、借金地獄で苦しんでいても、あるいは倒産の憂き目にあったり、不景気の最中リストラされて職を失っていても、生きる因縁のある人は、死なずに生きています。 こうした筆舌に尽くし難い、苦難を身に受け、地獄の底を這いずり廻っている人でも、希望を失わない限り、生きる因縁は天命から与えられています。 彼等が安易に自殺という、生死の二者択一の選択肢の中で、窮地に追い込まれながらも死を選ばないのは、自殺する勇気の無い臆病者ではなく、実は、迷いながらも生きる因縁を自分なりに模索し、天命を全うする糸口を真剣に探しているからです。だから安易に自殺という行動に出ない分けです。他人から嘲笑されるような、勇気が無いから死ねないのだという一蹴(いっしゅう)は、この場合、当てはまりません。 ただ残念ながら、こうした窮地に追い込まれ、糸口を模索して懸命に人生を生きようとしている人と、既に人生を諦め、負け犬になっている人とでは、その差は天地の開きがあります。 こうした状況にあっても、まだ、希望を失わず、懸命に脱出の糸口を模索している人は、自らの魂の導きによって、ついには脱出口を見付け、ここから解脱します。 ところが人生を諦めている人は、ここが人生の終着点になり、残りの人生は動物的に生きる余生の生活となってしまいます。ホームレスの多くはこうした人達です。 ホームレスはホームレスなりにポリシーもあり、仲間裡での葛藤があるようですが、人間としての日本国憲法で保障された基本的人権は名ばかりで、こういう人には気の毒ですが、実体は猿よりましな生物学上の高等哺乳動物に過ぎません。 《自己開拓》や《自己学習》で、「希望への哲学」を信条とする《癒しの杜の会》では、もし、あなたが今、不幸な境遇、あるいは苦境に立たされていても、一生懸命に生き、地獄のドン底から真剣に立ち直ろうとする人達を応援する「天命増幅装置」です。人生を諦めない限り、必ず道は開けます。 かつて中国、春秋戦国時代の思想家・孟子は、「天命の章」に、「天(てん)の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降くださんとするや、必ず、まずその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨を労す」とあります。 これを分かり易く言えば、「天がその人に大役を与えんとする時、天はその人を、これでもか、これでもかと苦しめ、困窮させ、苦境に立たせ、窮地に追い詰めて、火と水の試煉を与える。しかしその人がその試煉を見事に耐え忍び、真当にその大役を受けるに相応しい人物に成長した時機、やがて天はこれを認めて、その人に大役を委ねてついには一廉(ひとかど)の人物にまで押し上げるのである。これを即ち『天命』という也」とあります。 もし、今、あなたが不幸の真っ只中にあったり、窮地に立たされ、困窮していると思っているのなら、老子の「天命の章」を何度も口ずさみ、将来の大役が与えられんがための、今が試煉の正念場であり、修行であると思ったら、一局面である今の困窮はやがて好転に転じ、好機が到来します。これを信じるか否かは、あなたの真摯な前向きの考え方にかかっています。 |