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●野性のエネルギーを蓄えた緑色米 玄米を「正食」とする上で大事なことな、まず雑穀ご飯にするというのが一つの大きなポイントになるわけですが、それに加えて、玄米の質を成熟米と、成熟以前に刈り取った未成熟米を3:1の割合に配合すると、主食が薬膳食として大きな効果をあげる事が出来ます。
この未成熟米は、「活青米(いきあおまい)」などの名前で薬局などで市販されており、早稲種の米です。外形的には、成熟玄米の約三分の二程度の大きさで、緑色をした玄米です。玄米自体も緑色をしたものほど、野性のエネルギーが強く、それだけ「生きた米」と言う事になります。
特に白米ばかりの主食や、白パンなどの主食は炭水化物を完全燃焼できない食品であり、こうした食品が主食だと、スタミナに問題が起ります。頑張りに利かない体質になってしまいます。 スタミナを強化するのは、焼肉定食などではなく、動蛋白過多は逆にスタミナを衰えさせてしまう元凶です。また、「焼肉」に「白ご飯」といったお決まりの定食スタイルは、神経伝達に問題を起し、脚気(かっけ)などの病気で苦しめられる結果を招きます。更に白米を食べると、栄養失調を起さない為に、どうしても御数(おかず)の種類と量が増え、大食漢になり易く、最終的には肥満の原因を作ってしまいます。 私たちの身体の根元は、腹部の消化器にあります。腹部の消化器が健全であれば、身体も健全であると言えます。消化器の健康度は通便の状態で判断する事が出来ます。
しかし、動蛋白アミノ酸信仰や牛乳神話ばかりに翻弄されていては、血液を益々汚染させ、高血圧症や動脈硬化は悪化の一途を辿り、最後は病と共に朽ち果てて行かねばなりません。 ●日本人の未来に待ち構えている暗い老後 人間は、生まれた以上、死ななければなりません。しかし、同じ死に至るプロセスは、人によって異なります。そして、現代人に最も多いのは、人生の晩年に控えている、生・老・病・死のうちの「老・病・死」の三段階が、非常に悲劇的であり、誰もが「横死」と言う状態を辿って、死に就く事です。つまり、「病死」といわれる、一瞬も「事故死」です。事故死は、横死に他なりません。 横死の元凶は、肉体的には、既に40歳の坂道の「初老の時期」に顕われます。自分では健康であると思い込んだり、体力に自信があり、まだまだ十代二十代の若者には負けないと自負していても、その差は歴然と肉体の上に顕われて来ます。そして、初老から60代、70代の老齢に向かう時期は、非常に早いスピードで襲って来ます。強健と自負していても、それは幻想に過ぎません。 人間は還暦(かんれき)を迎える、60年で再び生れた年の干支に還る年齢に達すると、誰の頭上にも老醜が忍び寄って来ます。その後の人生は、老齢と病に蝕まれ、肉体は見る見る中に衰えて行きます。 そして、躰(からだ)の自由が利かなくなり、動くことに制限されて来ると、やがて外界から完全に隔離され、孤独に包まれる生活を余儀なくされます。 歳老いても、歩き回れて、少なくとも最低限度の健康を維持できて、元気で動ける間は、自分でも周囲でも、老人を見ても、あまり年寄り扱いしないものです。ところが、動きが鈍くなり、退屈したり、寂寥(せきりょう)を感じる孤独に中に閉じ込められるようになると、周囲の眼は急に老人視する眼と変わり、まるで不具者を見るような目付きに変わって行きます。 歳老いても健康なうちは、新聞も読みもすれば、テレビも見て、ラジオも聴き、時には旅行に出掛けたり、音楽などのコンサートや映画や芝居にも出かける事が出来ます。この限りに於ては、周囲の世界と接触を保ち、そこに関心を抱く事が出来ます。 しかし、一度、外界から隔離を強いられ、孤独空間に置かれると、みるみるうちに精神的老化現象が現れます。 以前のように頭の回転がスムーズに行われなくなって鈍くなり、隔離された空間あるいは病室の壁の外の生活空間に興味を失い、その挙げ句に、現実と過去の区別がつかなくなります。老年期の認識というのは、もっぱら過去に縛(しば)り付けられる認識が多くなります。これは心理学上の、精神の「自己防衛本能」だと云われていますが、何ともこうなると惨(みじ)めなものです。過去にしか生きられなくなるからです。 そして、こうした時期に突入した多くの老人は、いま、自分が対面している現実に、心あたたまるものは何一つ感じ取れないからです。 自分の足で歩けなくなり、車椅子に坐っている時にしろ、現実がどう過ぎ去って行くか、それを知った時、人は往々にしてショックを感じるものです。 隔離空間に置かれた老人の多くは、自分の息子や娘が訪ねて来たのを見て、一時的に嬉しそうな顔をして、ほころばせることはあっても、それはほんの一時的なものです。ほんのわずかな瞬間です。 本来、人間は自然死する生き物であったのですが、これが適(かな)わなくなりました。余りにも物質的な豊かさを追い求め、余りにも欧米追従型の生活を追い求めた結果からです。人間は、自然と絶縁関係にあり、自然から隔離された空間に閉じ込められてしまったからです。その隔離空間こそ、大都会という空間であり、更に大都会で老いさらばえれば、これ以上に不自然な孤独空間へと追い込まれて行く現実を出現させました。これが老人ホームとか、老人養護施設と言うものではないでしょうか。 この不自然な孤独空間に置かれると、人間としての活動に、肉体的精神的状態に於て阻害されて行きます。 自由を失った老人達は、朝起きると、躰を洗ってもらい、服を着せられて車椅子に移されます。朝食を介添え人から手伝ってもらって終えた後は、坐ったままずっと一人で過ごします。難聴になっている為、ラジオも聴く事は出来ません。テレビを見て何が語られているか理解するだけの能力も失われ、また、読書するだけの気力もありません。 正午には昼食が与えられ、午後三時頃になると、勤務を終える付添え人から服を脱がせてもらいベットに戻ります。この後の午後四時頃、軽い夕食が出されますが、食欲がないので断わる事が多いのですが、そうすると付添え人から、なぜ食べないのかと叱られ、頭ごなしに罵倒されたり、虐待を授ける事もしばしばです。 老人ホームや介護施設では、看護師やヘルパーに限らず、一見暖かいように見えて、その実は寂しい空間の中で、多くの老人達は過ごすことになります。 こうした老人達を持つ家族の中には、こうした現実を見て、人間らしいものにしてやりたいと腐心を、俄(にわか)に持っている人も居ますが、それは経済的には赦(ゆる)されず、自分がいま抱いた腐心が、幻想であることに気付かされます。 老人達は結局、一人で老い、しかも自分の面倒を自分で見れないということに苛立ち、自分の人生が、結局なんだったのか、疑いを抱き、あるいはこれから先の改善策はないかと模索しはじめるのです。長い活動的な人生を送った末の結末が、或る日突然、自己の存在理由と、体制側の威厳によってむしり取られてしまうのです。此処に残された余生は、自分と同様に世間から余計者扱いされている老人達と、こうした施設で過ごす運命しか残されていないのです。福祉国家を標榜(ひょうぼう)していても、結局こうした縮図の中でしか、生きれない老後しか残されていないのです。 「揺り籃(かご)から墓場まで」と標榜する福祉国家のスローガンは、余りにも美辞麗句(びじれいく)に振り回されている観があります。そして老人ホームなり老人介護施設なりは、収容者の大部分が、自発的にそこに入ったのではなく、老人の存在を忘れたくなった福祉国家の標榜によって、機械的の押し込められると言う事実を見逃してはなりません。 文明国と称される国では、「歳をとり過ぎた」ということは、「犯罪」のそれと同じように扱われがちです。苛酷(かこく)な判決が老人達の頭上に降り懸(か)かります。社会という機能によって使い古された歯車は、容赦なくゴミ箱の中に放り込まれます。これは福祉国家であっても例外ではありません。 そこで《癒しの杜の会》では、老境に入ったら、他人の重荷にならず、また家族の重荷にならず、安定した充実した老後を送りたいと願って居る人に、まず、これまでのテーブルに椅子という欧米型の食生活を改め、日本人が日本人として、日本精神に目覚め、連綿と続いた古きよき伝統を、再発見して頂きたいと、「正食」を奨励し、その促進運動を展開しているのです。 それは、これまで私たちが見逃して来た、「玄米正食」をして、心身を活性化させなければなりません。若返る必要があるのです。 高血圧症やガン発症という悲劇は、「玄米正食」を実践する事で、予防でき、また改善されるのです。便秘を治し、機敏で軽快な体躯(たいく)を取り戻し、便通をよくして、悪臭便を取り除く作業から始めなければなりません。その為には、やはり「玄米正食」が欠かせないのです。 玄米の繊維が、腸管を程よく刺戟し、更には腸内の蠕動運動(ぜんどううんどう)を盛んにします。 これが容易に行われる最初の第一日目が完成すれば、「玄米と味噌汁だけで、10日間続けられたら、間違いなく3kgは確実にダイエット」できます。また、普段から肥満状態にある人は、同じ食事量で10日間で8kg以上も減量できてしまうのです。これは断食より楽にできるダイエット法で、更には高血圧症も改善できると言う無理のない健康法です。 考えてみれば、「便秘」も「肥満」も、あらゆる慢性病の温床でした。 ところが「玄米正食」をするだけで、これが解消されてしまうのです。人間は、「食の化身」であることを忘れてはなりません。そして食べ物が人体を養い、私たち人間に生きる因縁を与えているのです。 ●和食とは名ばかりの、和食の名を借りた欧米食に騙されるな 私たちは「和食定食」と称した、和食の名を借りた欧米食に騙されます。「和食」と名が付けられながらも、実は「焼肉定食」であったり、「すき焼き定食」や「牛肉丼」であったしします。一見、「定食」と名がつき、白米ご飯が付いていれば、和食と勘違いしてしまいます。 ところが、白米ご飯に焼肉とか、白米ご飯に、すき焼きや牛肉の具が載っているのは、明らかに和食とは程遠い、和食の名を借りた欧米食なのです。こうしたメニューに騙され、安易に、自分は和食党などと思ってはなりません。 白米ご飯に、焼き肉や焼き魚が添えられたとしても、これは和食などではなく、「欧米食」あるいは「雑食」と言うものです。 こうした「欧米食」あるいは「雑食」が、血液を汚染し、高血圧症を齎しているのです。
血液を汚している人の多くは、おしなべて動蛋白摂取過剰の人に見受けられます。そして、こうした人は、なにかしら頭痛持ちで、頭重感に悩まされています。
私たち現代人が忘れてはならないことは、「人間の代謝機能における心理は、生理に規定され、生理は環境と食物によって規定される」ということです。つまり、「真の健康法」とは、スポーツをしたり、新たな体操をしたりなどの外面的なものばかりに心を奪われず、人間の裡側である「食」を基本においてこそ、健康が約束されるのであり、食べ物が間違っていれば、幾ら運動しても、それは健康へと繋がりません。 |