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●野性のエネルギーを蓄えた緑色米

 玄米を「正食」とする上で大事なことな、まず雑穀ご飯にするというのが一つの大きなポイントになるわけですが、それに加えて、玄米の質を成熟米と、成熟以前に刈り取った未成熟米を3:1の割合に配合すると、主食が薬膳食として大きな効果をあげる事が出来ます。

玄米・雑穀の炊込み御飯。四重の初老を過ぎると、食事は腹六分を心掛け、主食のご飯は「一膳」とするようにしなければならない。主食のご飯を二膳も三膳もお代りをするのは、中高年には命取りであり、高血圧症へ繋(つな)がる元凶となる。粗食・少食こそ、長寿の秘訣。

 この未成熟米は、「活青米(いきあおまい)」などの名前で薬局などで市販されており、早稲種の米です。外形的には、成熟玄米の約三分の二程度の大きさで、緑色をした玄米です。玄米自体も緑色をしたものほど、野性のエネルギーが強く、それだけ「生きた米」と言う事になります。

 緑色米の特長を上げると、次のようになります。

GABA(γ-aminobutyric acid/ガンマ‐アミノ酪酸)が発芽玄米の2倍以上であり、緑色米を食べるという事は、微量栄養素も成熟玄米の2倍以上を摂取するということで、白米とは較べものにならないほど、多く摂取することになる。
また、癲癇(てんかん)などはGABAの不足から起る痙攣(けいれん)で、抑制系の神経伝達物質が不足すると、こうした症状を起す。したがって、GABAは神経の異常な興奮を抑える働きがある。更にGABAは脳内の血行を促進し、酸素供給を促す働きがある。
成熟玄米も未成熟の緑色米も胚芽の大きさは同じであるが、緑色米の方が炭水化物の量が少ない。その為に胚芽の量は2倍以上食べている事になる。
脂質が多く、坑酸化力のの強いビタミンEを大量に含んでいる。ビタミンEは肌に潤いを与え、シミや皺を少しずつ改善して行く作用がある。また、乾燥肌の改善やその予防にもなる。更にビタミンEの効用により、細胞膜に取り込まれた活性酸素からの害を防ぐ。
繊維質の量が多く、成熟玄米より繊維の質が非常に柔らかいという事である。成熟玄米を繊維質は多いが、未成熟の緑色米の方が、繊維が柔らかく、水分をよく吸収する性質を持っている。柔らかい繊維部分が腸管の襞に隠れた腐敗物質を取り除き、老廃物を除去した上で、満遍なく量を刺戟して蠕動運動を活発にする。
ビタミンB群が多く含まれていて、成熟玄米の2倍の量の胚芽を食べるわけであるから、ビタミンB1は炭水化物を燃焼させる効果があり、腐敗ガスなどの有害物質を除去する。しかし、白米や白食パンなどを食べていては、完全燃焼させて、食物の持つエネルギーを取りだせない状態となる。スタミナというのは、この炭水化物を如何に燃焼させるかという事で、この燃焼効率の良さでエネルギーが決定される。
腎臓の働きをよくする効果がある。成熟玄米もそうであるが、未成熟の緑色米を食べると、小便の量が多くなる。腎臓状態が改善されるので、小便の量が多くなり、浮腫(むくみ)がなくなる。
 更に緑色米の特長は、リチウムの含有量が多く、リチウムは鬱病を予防する事で知られています。リチウムが不足すると、鬱病(うつびょう)になるリスクが高くなり、昨今の青少年の間で統合失調症などの精神病が増えているのは、食品の中に含まれるリチウムの少ない食品ばかりを食べている為です。

 特に白米ばかりの主食や、白パンなどの主食は炭水化物を完全燃焼できない食品であり、こうした食品が主食だと、スタミナに問題が起ります。頑張りに利かない体質になってしまいます。

 スタミナを強化するのは、焼肉定食などではなく、動蛋白過多は逆にスタミナを衰えさせてしまう元凶です。また、「焼肉」「白ご飯」といったお決まりの定食スタイルは、神経伝達に問題を起し、脚気(かっけ)などの病気で苦しめられる結果を招きます。更に白米を食べると、栄養失調を起さない為に、どうしても御数(おかず)の種類と量が増え、大食漢になり易く、最終的には肥満の原因を作ってしまいます。

 私たちの身体の根元は、腹部の消化器にあります。腹部の消化器が健全であれば、身体も健全であると言えます。消化器の健康度は通便の状態で判断する事が出来ます。
毎日、排便タイム(午前6時前後から8時前後の間)に排便はあるかどうか。人間の生理機能には、「同化作用」と「異化作用」があるので、これに注意。生理機能が狂うと、鬱病(うつびょう)などの精神障害を起し易く、現に「総合失調症」といわれる多くの患者は、殆どの人が便秘気味である。
排便された便が繋(つな)がっているかどうか。ウサギの便のようにポロポロで、細かくコロコロしている便は、動蛋白摂取過剰。
排便時、瞬時に長い便が出るかどうか。この時、便は細くなれば、大腸ならびにS字結腸などに病因の問題は発生している。
便には悪臭がないことが健康状態を顕わすバロメータ。悪臭がある便は、腸内に残留した腐敗物質が大量に溜まっている事を意味する。
排便したときの便の色は、濃い目の黄色で、俗に言う「黄土色」である。しかし、肉常食者などの動蛋白摂取過剰になって居る人は、この便の色が黒ずんでいる。これは腸内腐敗が進行している為である。
 通便状態が良好であるということは、内臓が正しく機能していると言う事になります。つまり、血液状態が正常で、血液が酸毒化されていないということを物語っています。

 しかし、動蛋白アミノ酸信仰や牛乳神話ばかりに翻弄されていては、血液を益々汚染させ、高血圧症や動脈硬化は悪化の一途を辿り、最後は病と共に朽ち果てて行かねばなりません。



●日本人の未来に待ち構えている暗い老後

 人間は、生まれた以上、死ななければなりません。しかし、同じ死に至るプロセスは、人によって異なります。そして、現代人に最も多いのは、人生の晩年に控えている、生・老・病・死のうちの「老・病・死」の三段階が、非常に悲劇的であり、誰もが「横死」と言う状態を辿って、死に就く事です。つまり、「病死」といわれる、一瞬も「事故死」です。事故死は、横死に他なりません。

 横死の元凶は、肉体的には、既に40歳の坂道の「初老の時期」に顕われます。自分では健康であると思い込んだり、体力に自信があり、まだまだ十代二十代の若者には負けないと自負していても、その差は歴然と肉体の上に顕われて来ます。そして、初老から60代、70代の老齢に向かう時期は、非常に早いスピードで襲って来ます。強健と自負していても、それは幻想に過ぎません。

 人間は還暦(かんれき)を迎える、60年で再び生れた年の干支に還る年齢に達すると、誰の頭上にも老醜が忍び寄って来ます。その後の人生は、老齢と病に蝕まれ、肉体は見る見る中に衰えて行きます。
 そして、躰(からだ)の自由が利かなくなり、動くことに制限されて来ると、やがて外界から完全に隔離され、孤独に包まれる生活を余儀なくされます。

 歳老いても、歩き回れて、少なくとも最低限度の健康を維持できて、元気で動ける間は、自分でも周囲でも、老人を見ても、あまり年寄り扱いしないものです。ところが、動きが鈍くなり、退屈したり、寂寥(せきりょう)を感じる孤独に中に閉じ込められるようになると、周囲の眼は急に老人視する眼と変わり、まるで不具者を見るような目付きに変わって行きます。

 歳老いても健康なうちは、新聞も読みもすれば、テレビも見て、ラジオも聴き、時には旅行に出掛けたり、音楽などのコンサートや映画や芝居にも出かける事が出来ます。この限りに於ては、周囲の世界と接触を保ち、そこに関心を抱く事が出来ます。
 しかし、一度、外界から隔離を強いられ、孤独空間に置かれると、みるみるうちに精神的老化現象が現れます。

 以前のように頭の回転がスムーズに行われなくなって鈍くなり、隔離された空間あるいは病室の壁の外の生活空間に興味を失い、その挙げ句に、現実と過去の区別がつかなくなります。老年期の認識というのは、もっぱら過去に縛(しば)り付けられる認識が多くなります。これは心理学上の、精神の「自己防衛本能」だと云われていますが、何ともこうなると惨(みじ)めなものです。過去にしか生きられなくなるからです。

 そして、こうした時期に突入した多くの老人は、いま、自分が対面している現実に、心あたたまるものは何一つ感じ取れないからです。
 自分の足で歩けなくなり、車椅子に坐っている時にしろ、現実がどう過ぎ去って行くか、それを知った時、人は往々にしてショックを感じるものです。

 隔離空間に置かれた老人の多くは、自分の息子や娘が訪ねて来たのを見て、一時的に嬉しそうな顔をして、ほころばせることはあっても、それはほんの一時的なものです。ほんのわずかな瞬間です。

 本来、人間は自然死する生き物であったのですが、これが適(かな)わなくなりました。余りにも物質的な豊かさを追い求め、余りにも欧米追従型の生活を追い求めた結果からです。人間は、自然と絶縁関係にあり、自然から隔離された空間に閉じ込められてしまったからです。その隔離空間こそ、大都会という空間であり、更に大都会で老いさらばえれば、これ以上に不自然な孤独空間へと追い込まれて行く現実を出現させました。これが老人ホームとか、老人養護施設と言うものではないでしょうか。

 この不自然な孤独空間に置かれると、人間としての活動に、肉体的精神的状態に於て阻害されて行きます。
 自由を失った老人達は、朝起きると、躰を洗ってもらい、服を着せられて車椅子に移されます。朝食を介添え人から手伝ってもらって終えた後は、坐ったままずっと一人で過ごします。難聴になっている為、ラジオも聴く事は出来ません。テレビを見て何が語られているか理解するだけの能力も失われ、また、読書するだけの気力もありません。

 正午には昼食が与えられ、午後三時頃になると、勤務を終える付添え人から服を脱がせてもらいベットに戻ります。この後の午後四時頃、軽い夕食が出されますが、食欲がないので断わる事が多いのですが、そうすると付添え人から、なぜ食べないのかと叱られ、頭ごなしに罵倒されたり、虐待を授ける事もしばしばです。

 老人ホームや介護施設では、看護師やヘルパーに限らず、一見暖かいように見えて、その実は寂しい空間の中で、多くの老人達は過ごすことになります。
 こうした老人達を持つ家族の中には、こうした現実を見て、人間らしいものにしてやりたいと腐心を、俄(にわか)に持っている人も居ますが、それは経済的には赦(ゆる)されず、自分がいま抱いた腐心が、幻想であることに気付かされます。

 老人達は結局、一人で老い、しかも自分の面倒を自分で見れないということに苛立ち、自分の人生が、結局なんだったのか、疑いを抱き、あるいはこれから先の改善策はないかと模索しはじめるのです。長い活動的な人生を送った末の結末が、或る日突然、自己の存在理由と、体制側の威厳によってむしり取られてしまうのです。此処に残された余生は、自分と同様に世間から余計者扱いされている老人達と、こうした施設で過ごす運命しか残されていないのです。福祉国家を標榜(ひょうぼう)していても、結局こうした縮図の中でしか、生きれない老後しか残されていないのです。

 「揺り籃(かご)から墓場まで」と標榜する福祉国家のスローガンは、余りにも美辞麗句(びじれいく)に振り回されている観があります。そして老人ホームなり老人介護施設なりは、収容者の大部分が、自発的にそこに入ったのではなく、老人の存在を忘れたくなった福祉国家の標榜によって、機械的の押し込められると言う事実を見逃してはなりません。

 文明国と称される国では、「歳をとり過ぎた」ということは、「犯罪」のそれと同じように扱われがちです。苛酷(かこく)な判決が老人達の頭上に降り懸(か)かります。社会という機能によって使い古された歯車は、容赦なくゴミ箱の中に放り込まれます。これは福祉国家であっても例外ではありません。

 そこで《癒しの杜の会》では、老境に入ったら、他人の重荷にならず、また家族の重荷にならず、安定した充実した老後を送りたいと願って居る人に、まず、これまでのテーブルに椅子という欧米型の食生活を改め、日本人が日本人として、日本精神に目覚め、連綿と続いた古きよき伝統を、再発見して頂きたいと、「正食」を奨励し、その促進運動を展開しているのです。
 それは、これまで私たちが見逃して来た、「玄米正食」をして、心身を活性化させなければなりません。若返る必要があるのです。

 高血圧症やガン発症という悲劇は、「玄米正食」を実践する事で、予防でき、また改善されるのです。便秘を治し、機敏で軽快な体躯(たいく)を取り戻し、便通をよくして、悪臭便を取り除く作業から始めなければなりません。その為には、やはり「玄米正食」が欠かせないのです。
 玄米の繊維が、腸管を程よく刺戟し、更には腸内の蠕動運動(ぜんどううんどう)を盛んにします。

 これが容易に行われる最初の第一日目が完成すれば、「玄米と味噌汁だけで、10日間続けられたら、間違いなく3kgは確実にダイエット」できます。また、普段から肥満状態にある人は、同じ食事量で10日間で8kg以上も減量できてしまうのです。これは断食より楽にできるダイエット法で、更には高血圧症も改善できると言う無理のない健康法です。

 考えてみれば、「便秘」「肥満」も、あらゆる慢性病の温床でした。
 ところが「玄米正食」をするだけで、これが解消されてしまうのです。人間は、「食の化身」であることを忘れてはなりません。そして食べ物が人体を養い、私たち人間に生きる因縁を与えているのです。



●和食とは名ばかりの、和食の名を借りた欧米食に騙されるな

 私たちは「和食定食」と称した、和食の名を借りた欧米食に騙されます。「和食」と名が付けられながらも、実は「焼肉定食」であったり、「すき焼き定食」や「牛肉丼」であったしします。一見、「定食」と名がつき、白米ご飯が付いていれば、和食と勘違いしてしまいます。

 ところが、白米ご飯に焼肉とか、白米ご飯に、すき焼きや牛肉の具が載っているのは、明らかに和食とは程遠い、和食の名を借りた欧米食なのです。こうしたメニューに騙され、安易に、自分は和食党などと思ってはなりません。

 白米ご飯に、焼き肉や焼き魚が添えられたとしても、これは和食などではなく、「欧米食」あるいは「雑食」と言うものです。
 こうした「欧米食」あるいは「雑食」が、血液を汚染し、高血圧症を齎しているのです。

ご飯物の食事メニューを「和食」と勘違いしてしまう元凶。巧妙に和食を模索していても、中身は完全な欧米食あるいは雑食である。雑食を食していては、益々血液が動蛋白に汚染され、汚れるばかりである。和食の名を借りた、欧米食に騙されるな。

 血液を汚している人の多くは、おしなべて動蛋白摂取過剰の人に見受けられます。そして、こうした人は、なにかしら頭痛持ちで、頭重感に悩まされています。
 そこで医者に行けば自律神経失調症と謂れ、それなりの治療を受けながら、「時々は旅行などをして息抜きをしなさい」とか「運動をしなさい」とかいわれて、社交辞令風のアドバイスを受けるのですが、いっこうに頭重は改善しません。そして周期的にやって来る頭重感は、解決されないまま、長期に亘って持ち越されます。

 ある日突然、いつもの頭重に襲われ、激しい腹痛を訴えて、病院で検査を受けたところ、胃には潰瘍が出来ていて、出血などをしているという現実に襲われます。
 此処に至るまでのプロセスは、下痢や便秘を繰り返し、こうした危険信号の発信を、見逃し、それに加えて、仕事の多忙や、過度のストレスが加わり、実は働き過ぎが頭重や頭痛を誘発し、躰の免疫力を低下し、病気に罹りやすい体質へと移行していたのです。
 こうした変調は、ひいては他の臓器疾患にも飛び火して、慢性成人病へと追い込まれて行きます。

 こうした最悪の状態に追い込まれない為にも、玄米を正食として、それに一汁一菜を付け加える、粗食・少食に徹すベ行きなのです。
 動蛋白摂取過剰は、まず頭痛や頭重を招くということです。放っておくと、血圧が上がる。頭が痛い。下痢や便秘をするという症状が現れます。これを解消する為には、まず、次の事を心掛けるべきでしょう。

玄米雑穀ご飯と「菜根」こそ、人間に最適な食べ物である。それは人間の歯型が物語っている。

腹六分にして、粗食・少食を心掛ける。粗食は雑穀ご飯が基本。
ベースにする玄米は、無農薬栽培されたものを用いる。
玄米雑穀ご飯を食べる時は、良質の胡麻塩を振り掛けて食べる。

 私たち現代人が忘れてはならないことは、「人間の代謝機能における心理は、生理に規定され、生理は環境と食物によって規定される」ということです。つまり、「真の健康法」とは、スポーツをしたり、新たな体操をしたりなどの外面的なものばかりに心を奪われず、人間の裡側である「食」を基本においてこそ、健康が約束されるのであり、食べ物が間違っていれば、幾ら運動しても、それは健康へと繋がりません。