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●貧困について

 経済的循環が停止された状態を「貧困」と言います。しかし貧困状態は、幻夢の一種であり、実在世界における真の姿は、「無限の富」に溢れたものであり、ここには不自由と言う現象は起こりません。しかし非実在界での現象は、心に描いたものが具現されてしまう事物・事象の現象世界ですから、想念によって現象が自在に現れたり、消去したりします。

 本来、貧困は不完全な現象です。あるべき現象ではなく、むしろあってはならない現象なのです。
 しかしこうした不完全な現象が、あるかの如き形で現れて来るのは、まさに異常な想念が作り出した異常現象だったのです。異常現象は容認すべき事態が、心の潜在意識の中に隠れていれば、それが作用して異常事態を作り上げます。この意識は、「微少」でも、こうした想念が隠れていれば、即、具現化されてしまいます。

 貧困から解放され、自由自在性を取り戻すには、次の想念が必要です。

その1
貧困の幻夢を取り去る。
本来あるべき現象ではないので、貧困は誤った想念がつくり出したものである。ほんの僅かでも、こうした想念があれば、直ぐに具現されてしまう。したがって、これを消去する作業を行なわねばならない。
その2
言動や行いを改める。
富者を羨(うらや)んだり、悪口を言ったり、賎(いや)しむ言動を慎み、自身が富者である想念を抱く。貧困の実体は富者への羨望(せんぼう)であり、こうした意識が起これば、自らは貧困へと転落する。
その3
貧困そのものを完全に忘却する。
貧困になる多くの起因は、貧困を恐れている想念が誘導する「意識」であり、こうした意識は即座に消去して、貧困になる恐れを、想念意識を完全に消し去らねばならない。
その4
貧困に相応する想念の転換。
貧困者の多くは、自己の利益を図ったり、我田引水的なところがあり、こうした「ケチな想念」を捨て去る。要するの「心の狭い想念」「惜しいと言う想念」「もったいないと言う想念」を潜在意識から完全に駆逐する。

1.自分の労力や、財産を出し惜しみする想念を駆逐する。
 中産階級以下の多くが「中産階級の壁」を乗り越えられないのは、こうした想念が、潜在意識の中に隠れているからである。

2.「奪う」という意識の想念を駆逐する。
 博打に手を出す想念は、「奪う」と言う想念が、前頭葉の知性を眠らせ、爬虫類脳のR領域を刺戟(しげき)するからである。特に、パチンコなどの小ギャンブルに手を出している老若男女は、その意識が「強盗」であり、また人相が「強盗」に成り下がっている。しかし本当に儲ける側は、パチンコをする側ではなく、させる側である事を忘れないように。

3.他人の貧困を喜ぶ想念を駆逐する。
 「あれに比べらた、自分の方が増しだ」とか、自分の事を棚(たな)に上げて「貧乏人ども……」といった優越感や自他離別意識を駆逐し、「もしかしたら、あれは前生では、自分の父や母であり、あるいが兄弟姉妹であったかも知れない」という慈しみの心を持つ。

4.他人の富を否定する想念を駆逐する。
 「お前の財産は、どうせ悪い事をして築いたのだろ」とか「人を泣かせて溜め込んだのだろ。金持ちは汚い」等の卑下を改め、「やがては自分も富者の道へ進む」あるいは「常に自分は富者である」という想念を持つ。これ事態で、心は非常に豊かになるはずである。積極的に寛大で、豊かな想念を抱く事が必要である。

5.狭小で貧しい想念を駆逐する。
 ケチは自分の身を誤らせるだけでなく、非実在界では「生きざま」が、そのまま「死にざま」に反映されるので、出し惜しみするケチは、既に、横死の相を持った人生を選択した事になる。ただし、「ケチ」と「節約家」は根本的に異なっているので、この違いを知ることが大事である。
その5
他人に与える想念を持つ。
貧困は、もともと「他人に与えない」想念が作り出したもので、この想念を消去する為には「他人に与える」ことを実行すれば良い。
但し、他人に与える事は、非常に簡単であるにもかかわらず、これを実行に踏み切れない人は多い。貧者は、迷妄で、頑固で、理解力に欠け、簡単な事が中々実行できない悲しさがある。
その6
自他の垣根を取り払う。
自他離別意識があると、貧困は絶対に解消できない。他人への慈しみを忘れ、一度でも「優越感」をもって蔑視(べっし)すれば、「愛のない想念」が発動されて、一時的によくなっても、また行き詰まり現象に悩む事になる。


 貧困状態が解消したければ、以上の自由自在性を取り戻す想念を抱き、「常に自分は富者である」という想念とともに、自分が困窮状態から抜け出し、具体的な富裕の未来図を心に描き続ける事です。
 また「常に富者である」という意識は、心に余裕と豊かさを与えますから、この想念を抱き続ける事で、心は「富者」へ移行されますから、それに伴って、現象社会での出現も、その方向へと移動を始めます。

 世の多く人は、「棚からボタ餅」式で転げ込んだ思わぬ入金に、心を踊らせ、一時の有頂天に舞い上がります。しかしこうした意識を、「利(り)」と言い、やがてはここらか下り坂へ向かう事を暗示します。つまり「利」と「衰(すい)」は、損得についての心の動きであり、「利」に一旦偏(かたよ)れば、次は「衰」の反動が起こるのは拮抗(きっこう)を保つ上でも当然の現象として現れて来ます。

 一時的に、思わぬ事で「お金が儲かった」という現象は、「これからお金に苦労する」という警告であり、ここで有頂天に舞い上がったり、入ったお金を出し惜しみすると、今度はそのツケがやがて廻って来ます。

 これはパチンコ等の小ギャンブルに手を出している人を見れば、一目瞭然です。ギャンブルで勝ち続けている人など、一人も居ないのです。よくテレビ等で、プロパチンカーがパチンコの儲けで、高級外車を乗り回したり、豪邸に住んで左団扇(ひだりうちわ)の映像が流れますが、これは庶民を釣り上げる為の「ヤラセ」であり、自称パチプロと遊戯場組合が手のこった演出をしているに過ぎません。こうした一局面を庶民が羨ましく思い、「自分もあやかりたい」の想念が、「奪う想念」を作り上げ、やがてはパチンコ依存症へと傾いていくのです。
 一種の、目先の小銭に転んだ困窮意識と言えましょう。
 パチンコ屋や公営ギャンブルは慈善事業でない為、最初に甘い仕掛けで「とらせて」おいて、次に「根こそぎ回収」する営利事業なのです。

 お金は常に循環していなければならず、入金があった時に愉快で元気になれば、また出て行く時も、これと同じく、上機嫌で愉快でなければならないのです。出て行く時に、「おしい」という気持ちで送り出すと、それは転落への暗示であり、ここから困窮が始まります。
 貯金して、お金が溜まっていくのが喜びであれば、また借金だって嬉しくない道理がないのです。常に「歓喜」にj満ちていれば、「歓喜」の方へ流れが移行するのは当然の事です。宇宙法則において、「一方だけが良く」「一方だけが悪い」というのはあり得ないのです。総てが同根であり、自他同一と言う意識が大切です。
 また「歓喜」こそ、《光明思想》の原点となります。



●潜在意識で金儲けが出来ると言う大ウソ

 人間の深層心理には「潜在意識」があります。そして潜在意識は、α波が派生している時に限り、集中力を高め、普段は10%位にしか発揮されない能力が、80%程にアップされると言われています。

 今、こうした能力をフル活用して、金儲けや仕事が旨く行くと言うような宣伝文句で、新手の新商売が、凡夫をターゲットに展開されていますが、果たして潜在脳力を遣(つか)っただけで、貧困から大富豪へと転身出来るのでしょうか。

 こうした新商売は、私たちにこのような甘い言葉で囁(ささや)きかけます。
 「大した能力もないのに、ギャンブルや金儲けがスイスイと面白いように運び、大金が転がり込んで、異性にもモテまくり、仕事もどんどんこなし、お調子者なのに上司の受も良い。この秘密はα波にある」と。

 しかし、少し考えてみれば分かる事なのですが、ギャンブルでの金廻りは泡銭(あぶくぜに)であり、仕事で儲けるにしても、せめて「貸借対照表」や「損益計算書」の読み方を知らなくては、お金の流れなど、到底掴む事が出来ません。果たして、こうした事が潜在意識だけで済まされるのでしょうか。

 また、潜在意識を上手に活用させる為には、肉食主義者は短命で異常性欲者に陥りますから、血液はドロドロで、汚れています。こうした身体環境の許(もと)で、α波は派生するのでしょうか。
 仕事が出来るとは、「要領のいい」ことを言うのではなく、健康な体躯と健全な知性を持ち、発想が柔軟であり、身体的にも躰(からだ)そのものが柔らかく、更に血液はサラサラで、頭脳が明晰(めいせき)という条件が課せられます。また、先入観や暗い固定観念も、完全に取り払われた状態でなければなりません。更に、「損益計算書」の数字をそらんじて言えるくらいの、経営成績を把握出来ている人が、要するに「仕事が出来る人」なのです。

 食肉や乳製品等の動蛋白を普段から常食にし、白米や甘味料を摂取し、化学調味料で味付けした食生活を盲信的に履行した人が、どうして頭脳明晰の条件を満たすのでしょうか。
 また、こうした人の特徴は、常に異常性欲状態にあり、異性を求めて奔走すると言うのが行動パターンになっていますから、頭の中にあることは、異性にモテて、セックスに及び、安易に性交遊戯を悦楽する思考しかありませんので、その思考そのものは「棚からボタ餅」式の《期待》しか描く事が出来ないので、最も安易な道を選択している事になります。安易な道を選択した人に、富者が出た例(ため)しはありません。

 発想が柔軟と言う事は、運動神経ならびに反射神経も優れていて、臨機応変に立ち回る事が出来、持久力があって、積極的な行動がとれると言う事です。性欲異常の想念ばかりを持て余し、食肉の結果、アレルギー体質に陥っている人が、どうして付焼刃(つけやきば)的な疑似α波だけで、天からお金が降って来るのでしょうか。

 金持ちや地位の高い人で、無理に這(は)い上がった人は、例えその成功に湧いて、成り金の地位を獲得し、有頂天の世界に舞い上がることが出来ても、これは一時的な現象であり、やがては転落する運命を免れません。
 また、自己の欲望を達成させる為のエゴイズムは、最後はありもしない地獄に、自らを陥れてしまうのです。何故ならば、こうしたエゴイズムは、「自他離別」や「自他差別」の意識から派生するものであるからです。



●金運に関する書籍について

 金運を得るには、金運信仰をしても、本当の効果は得られません。
 昨今は若いタレント等に、ウソの証言をさせて、某占い作家が、金運信仰をすることによって大金運を掴むとした神頼みを流行させていますが、これは瞞(まやか)しであり、どうして「貸借対照表」や「損益計算書」の数字が読めない人が、大金運など掴む事が出来ましょうか。

 金銭哲学は神頼みではなく、自分自身に課せられた浪費癖を抑制し、制御する、金銭に対する意識なのです。こうした意識を失いますと、浪費が始まり、お金は自分の手許(てもと)からどんどん逃げて行ってしまいます。
 自分の「資産の部」と「負債の部」の判断を出来ない人が、果たして金運を掴むチャンスに恵まれるでしょうか。

 人間社会には多くの無知が蔓延(まんえん)しています。
 その一つが、お金の持つ本当の威力を知らないことです。多くの人を相手に、大きく口を広げて横たわっているのは、お金の威力を知らないと言う「無知」からくる落とし穴です。お金への無知は、人をこうした落とし穴に陥れます。そして無知が恐怖と欲望を増幅させ、感情によって仕掛けられた、落とし穴と言う罠(わな)は、無知であればある程、容易に嵌り込んでしまうものなのです。

 その一つが「金運信仰」という愚かしい考え方です。果たして、お金を神のように拝んで、お金はやって来るのでしょうか。
 よく、一般的な金運信仰として、日本では稲荷信仰が上げられます。
 稲荷尊(いなりそん)は五穀(ごこく)を司る倉稲魂(うかのみたま)を祀(まつ)ったものですが、御食津神(みけつかみ)を三狐神(みけつかみ)と付会(ふえ)して、稲荷の神の使いとする俗信から、「お狐様」の俗称で親しまれています。

 稲荷信仰は、農耕神信仰から商業神や屋敷神など多岐の信仰に拡大し、全国的に広まった信仰です。京都市伏見区稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社を中心とし、各地に稲荷社が勧請されています。そして狐を神使とします。
 近代に於ては、各種産業の守護神として一般の信仰を集めました。稲荷社に参詣することを「福参り」ともいいます。これは二月の初午(はつうま)の日に行なわれ、この日を蚕(蚕日待(かいこまちび)とも言い「おしら講」とも言う。関東の養蚕地で蚕の神を祭る行事。女ばかりの会合で多く正月に行われる)や牛馬の祭日とします。
 
 さて、こうした事が一種の信仰であり、神聖なもの(絶対者・神をも含む)に対する畏怖(いふ)からこれを行なうのは構わないのですが、いつしか共同の利益を求め、宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有するようになると、もうこれは感情と言う欲望だけが露出する表現性が浮上してきます。
 つまり金持ちになる為の、金運信仰に当たり、神棚を用意し、これを拝むと言う露骨な表現性です。果たして、信仰だけで本当に金運を得る事が出来るのでしょうか。
 
 もし貧乏が発生し、金詰まり現象が派生すると言う事実は、実はこうした無知と、貧乏であると言う恐怖が招き入れている現象なのです。
 まず、お金は拝むよりは、「どう扱うか」と言う事が大事であり、お金と言う、金銭の多少を唯一の条件として物事を判断しようとする「金銭尽(きんせんずく)」の強欲さが、心に巣喰う恐怖となり、多くの人は、こうしたものに翻弄(ほんろう)されているのです。

 「金運」等と称した書籍には、金銭信仰や運勢論以外、何一つ書かれていません。お金は信仰や運で転がり込むのではなく、これは「扱い方」で決定されてしまうのです。
 昨今は「金運」等と称して、金儲けに至る「神業(かみわざ)」を書籍に著してマニアル化し、こうした祀(まつ)り方をすれば良くなる等といった愚かしい信仰が流行していますが、金銭と言う生き物に対し、こうした方法論は一切ありません。神棚を祀(まつ)ると言う行為は、神との交流の場を求めて遣(や)る行いではなく、こうした、拝んだり、柏手かしわで/神を拝む時、手のひらを打ち合せて鳴らすこと)を叩く等の、祭事を行なったりするのは、単なる形式であり、型の一部に過ぎないのです。

 肝心なのは、拝む時の正しい想念であり、型を踏むのは、高き想念で、唸を念じ易くする方法論に過ぎません。したがって、「金運」と聞けば、何でもかんでも拝んで、礼拝すれば良いと言うものではありません。むしろ利己的な気持ちで拝めば、利己的な世界との交流が始まり、かえって貪欲な悪霊に見入られてしまうことになります。

 そしてお金を追う意識は、目先の事のみに囚(とら)われてしまって、本来近付くべきはずの神仏の世界からは、遥か遠くに離れてしまい、邪気に汚染されてしまうものなのです。
 特に、自分の為に利益誘導する、自分だけの限定された狭き神は、小さく凝り固まった自己の願望すら破壊してしまうのです。

 そして絶対に忘れてはならないことは、同じお金でも、労働によって神徳により頂いたお金と、ツキやメグリによって、博打等で得たお金とは、全く違うと言うことを強く認識すべきです。
 「金運」あるいは「金の儲かる法」等と称した書籍は、一種の「HOW TOもの」と看做(みな)されますが、金運がつき、金儲けが簡単に出来るのなら、本など書かずに、著者自らが自分で儲けてしまえば良さそうなのですが、もっともこうした著者が、ベストセラー作家として持て囃(はや)されるのですから、著者自身が中々抜け目のない、賢い人間であると言うことが分かります。

 これは丁度、金運祈願の戎(えびす)神社にお参りする人よりも、「戎神社」が儲かると言うわけで、また、易者にしても、人の運勢が良く分かると言うのであれば、寒空の夜中に立つ必要もなく、自分で立て卦(け)を自分に使って、もっと大金持ちになっても良さそうなはずなのですが、どうしたことか、こうした易者や占い師には出会った事が一度もありません。
 ギャンブルだって、自分がやるよりも、人にやらせる方が絶対に儲かるのです。

 運勢や金運を扱った書籍の多くは、自分がやるよりも他人にやらせて、それを傍観(ぼうかん)すると言うものであり、もし、こうした書籍がベストセラーになって、年間何十万冊、何百万冊もの人が読むのなら、それだけで不況等はないはずですし、世の中は幸せな人で溢れていなければならないはずです。
 しかし事は、思うように運びません。

 これは一体どうしたことでしょうか。
 即ち、表面に現れた結果だけしか見えない人は、「簡単」で、しかも「直ぐに結果の得られるもの」に飛びつくからです。つまり「期待」という、他力本願を信じて尋ね歩いているからです。そして金銭哲学に対する実務等を、後回しにしてしまいます。

 果たして貧乏をしている人が、金銭信仰や運勢以外の知識を持ち、『貸借対照表』や『損益計算書』の数字に通じているでしょうか。
 また「資産の部」と「負債の部」の違いを明確に把握しているでしょうか。
 金持ちになる為には、金銭信仰や運勢の知識を詰め込むのではなく、資産と負債を違いを知り、まず資産を買わねばならないのです。これが金持ちになる為の第一の鉄則であり、神棚に手を合わせて拝んだり、九星気学の方位や日取りを勉強して、それに合わせて行動をすることではないのです。

 貧乏で、金詰まり現象にいつもヒイヒイ言っている人は、『貸借対照表』や『損益計算書』の意味が解らず、また人生の設計も立てられないから、お金に困るようになるのです。
 もしあなたが、金詰まりで悩んでいるのでしたら、まず「資産」と言う数字に強くならなければならず、この意識が欠けていれば、幾ら金銭信仰や占いを信じて動いても、全くの徒労努力と言うものなのです。

 上流階級の28/72の「28」に属する金持ちは、資産を手に入れ、逆に72/28に属する中流階級以下の人は負債を手に入れるのです。またユダヤ黄金率は、資産全体の28%が金持ちのものであり、このうち負債の72%が中流階級以下の人のものであると言われます。

 そして負債を買うから、貧乏で、金詰まり現象にいつもヒイヒイ言っているのです。
 こうした悪循環から抜け出す為には、まず負債を買わないことであり、浪費の為の浪費の借金をしないことなのです。
 しかし現実は、多くの人が負債を抱え、死ぬまで負債を払い続けるラットレースに与(くみ)されているのです。まず、こうしたラットレースの輪から、抜け出さなければなりません。



●正常な金銭感覚を持つ

 フランスの諺(ことわざ)に「金は良き召し使い、そして悪しき主人なり」というのがあります。また、「金は麻薬なり……」という諌言もあります。

 お金と言うものは、程々に入ってきて、その枠内で適当に循環し、回転している間はいいのですが、こうした循環に飽き足らず、欲を出し、少しでも背伸びをすると、立場が逆転してしまいお金の奴隸になって、それこそ地獄の様相を呈します。お金は麻薬の観があるのです。そして金銭に対する感覚は、これが一旦崩れてしまうと、麻痺に要する時間は差程かかりません。

 また、お金は自分の手許に置いて、適当に遣い、枠内で循環している間はいいのですが、買物や旅行や飲食をするのに、クレジットカードやサラ金カード等を遣い始めると、最後にはその虜(とりこ)になって、この底無し地獄から抜け出せなくなります。
 その結果、戸籍を汚したり、身を売ったり、臟噐売買の罠(わな)に掛かったり、人身売買組織のカモになり、身包み剥(は)がれて売り飛ばされると言うのは、芝居の上での作り話でなく、現実に存在し、これまでに培った理性も分別も、人生の設計までもを犧牲にしなければなりません。また、あらゆる常識を投げ捨てて、獣同様の動物に成り下がるしかありません。

 こうした愚行を避ける為にも、金銭哲学を上手に身に付け、『貸借対照表』や『損益計算書』くらいのものは熟知しておく必要があります。貧しさの根元は、収入が少ない事ではなく、収入内で生活する智慧を持たない事であり、少ない収入を上手に遣繰りしながら創意工夫をして、現状と言う局面を乗り切るしかないのです。

 正常な金銭感覚が身につけば、借金で買物をしたり、旅行をしたり、飲食をしたりという生活の在(あ)り方が間違っている事に気付きます。また、充分な頭金(不足分を借金する時は、全体の二分の一を用意するのが常識)を用意せず、マイホームを建てたり、車を買ったりと言う事が間違いである事に気付きます。そして大ローンで買った、これらの総ての物が、実は資産ではなく負債である事に気付きます。
 安易に、「家賃感覚……」等という販売業者の口車には乗るべきではなく、慎重の上にも慎重を帰すべきです。

 僅かな貯えや、足りない分はローンで……と言う安易な考えは捨てるべきであり、今はじっとして、耐える時期なのに、これを無視して無理をすると、やがては支払に行き詰まり、支払の為の支払が始まり、後は坂道を転げ落ちるような地獄へと転落していきます。