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●人間は金を得る為にだけ働くのだろうか いったい私たちは、何の為に働くのでしょうか。 「いったい何の為に働くのか」ということを訊(い)いてみますと、「そうですね、いま働いて、充分に蓄えておかないと、老後の設計が出来ないでしょう。何しろ、歳をとってからも、躰(からだ)に鞭打って働くことは惨めですからね。歳をとってから、働かずに、ご飯が食べられるように、今こうして、せっせと働いているのですよ」という、応えが殆どではないかと思います。 一見、まことに尤(もっと)もな御意見だと思います。つまり、働く多くの人の意見は、「将来、働かない為に、いまは働く」というのです。 しかし、そうすると訝(おか)しな事になって来ます。何故ならば、「働かずに、ご飯が食べられるように」と云っているからです。これは「働かない」という事が目的の前提となった「物事の考え方」です。詰まる所、「働かない為に働く」という訝しな矛盾が、その人の中に同居している事になります。 そして、矛盾の最たるものは、目的は「働かない」という事であり、「働かない」手段は、「働く」という目的を持っているからです。つまり、目的が、相矛盾して、二つあるからです。まるで、わが身一つを同時に分割して、こなすと言う分裂病的な矛盾が生じます。果たして、一人の人間を二分割に分裂させる事が可能なのでしょうか。 人は、自分の「働く本当の目的」を知らぬまま、「今は働くが、将来は働かない」という目的に突き進んで事になります。果たして、こうした目的意識が、「働かない為に働く」という事で、成就するのでしょうか。 もし、この目的意識に向かって働くならば、我武者羅(がむしゃら)に目をつぶり、歯を喰(く)い縛り、力一杯力(りき)み、無理を承知で働かなければならない事になります。こういう働きからでは、必ず肉体の何処かに故障が生じ、心の何処に、心の病が巣喰います。身は痩せ、顔は蒼白(そうはく)になり、やがて神経症などのノイローゼになり、あるいは胃潰瘍(いかいよう)になります。 昨今多発している、働き盛りの壮年層が、過労から過労死したり、突然死したり、あるいは自殺に追い込まれると言った実情は、以上の「働く目的」を矛盾させている事が元凶と考えられます。 本当に働くという、働き方は、「働かない為に働く」という事ではありません。 本来の働きは、「もっと健やかに」あるいは「もっと豊かに」で、働けば働くほど、顔の色艶(いろつや)も良くなり、精神的にも肉体的にも、益々健康になるものなのです。決して、過労死したり、突然死するような事はありません。 もし、過労死か、突然死か、あるいは自殺に追い込まれるような状態に見舞われたのならば、その死んだ人は、本当の「働く目的」を知らなかった事になります。 裏を返せば、不幸にして、過労死した人、突然死した人、上からのプレッシャーで自殺に追い込まれた人は、単に、働く目的が「お金の為」であったからです。お金を拝み過ぎ、金銭至上主義に趨(はし)った元凶が、そもそもの死因の元凶です。何も、この程度の事で「死ぬ必要はなかった」ということになります。 つまり、生きている事は、働いている事と同義ですから、我武者羅(がむしゃら)に働くとか、歯を喰い縛って働くと言う事は、一切必要ないのです。 もし、働く事を、このように捉(とら)えているのなら、その人は、「お金の為だけに働いている」あるいは「自分の家族の為に、家族に楽をさせる為に、更には人よりも美味しい物を食べ、良い服を着、贅沢な物財に囲まれ、大邸宅に住み続ける」ことだけを目論んで、愚かな働き方をしている事になります。 こうした事が、働く目的であれば、当然そこには無理が生じ、過労死か、突然死か、あるいは自殺に追い込まれて、死ななければなりません。 生きている事は、働いていると同義ですから、働けば働くほど、生命力は高められ、心身は丈夫になり、心は豊かになっていくはずです。働き過ぎで死んだ人、仕事上のプレッシャーで自殺に追い込まれて死んだ人は、間違いなく、不成仏霊の領域から逃れる事が出来ません。死しても、なお、仕事と格闘し、苦しむ死後の世界が待ち構えているのです。 ●お金が身に付く徳分 「人は何故働かねばならないのか」 これを考えた時、私たちは、単にお金の為と言うこと自体に、疑いを抱き始めます。 また「若い時に一生懸命働けば、歳をとってから必ず幸せになれる」という考え方も、どうも間違っているのではないかと気付かされます。 第一、「若い時に一生懸命に歯を喰い縛り、働き詰めだった人が、歳をとってから、金にも困らない、裕福で健康な生活」を送っているでしょうか。 むしろ、躰は、若い時の無理が祟(たた)り、四肢のあちこちは、故障だらけでボロボロになっているのではないでしょうか。 さて、「若い時に一生懸命働けば、歳をとってから必ず幸せになれる」という、この論理は、明らかに妄想である事に気付かされます。 つまり、歳をとってから、必ず幸せになるかどうかは、一切その人の働いた労働時間と関係なく、総ては、その人自身の身に付いた「徳分」であり、過去世(かこぜ)の「因縁」であります。 幾ら一生懸命に働いても、「徳分」がなければ、金銭は身に付きません。幾らわが身に鞭打って、時間外労働に励んでも、過去世の「因縁」が悪ければ、金銭は身に付きません。 「働けど働けど、わが暮らし楽にならざる」と嘆いている人は、まず、我武者羅に働いても、実入りが少なく、支払ばかりが多くて、手許(てもと)には殆ど残らないという状態にある場合、「働き」に原因があるのではなく、「徳分」や「因縁」の有無を疑ってみなければなりません。 「若い時に一生懸命働けば、歳をとってから、必ず幸せになれる」という保証はないし、この言葉自体が欺瞞(ぎまん)である事は疑う余地もありません。 何故ならば、若い時一生懸命、汗水垂らして働かなくても、金持ちになった人は幾らでもいるし、また、幸せな生活を送って居る人も沢山います。 若い時、あくせく汗水垂らして、会社の命ずる儘(まま)に、猛烈に働きながら、一時は働きの応じて高額年俸や特別ボーナスを貰いながら、しかし、歳をとっても、まだ、お金にあくせくして、貧乏をして居る人もいますし、逆に、若い時、働きはほどほどなのに、常に何処かでお金が循環し、生涯金銭的に困る事なく、悠々自適に、幸せで、リッチな生活をしている人も居ます。 一体、この違いは何処から起るのでしょうか。 その答は、ズバリ「徳分」と「因縁」にあります。 お金が身に付かない因縁を背負っていたら、幾ら働いても、底の抜けたバケツに水を継(つ)ぎ足すようなもので、水は一向に溜まらないのと同様、お金もこれと同じ現象を起します。 また、若い時、そんなに働かないのに、お金が身に付く「徳分」を持っていれば、お金の方から遣(や)って来ます。つまり、「徳分」次第で、お金が身に付いたり、離れていったりするのです。 人の道を外さず、当たり前の事を、当たり前に遣っていれば、幸せの方が遣って来るのです。つまり、貧富は人間の努力で如何ともし難く、この格差は、「天」にあると言えましょう。これは、わが身が持つ「徳分」と「因縁」に回帰されるわけです。 いま、「徳分」と「因縁」がなければ、幾ら働いても、お金は決して身に付くものではないと申しましたが、理屈なしに、これは万人が実感できるのではないかと思います。 例えば、若い時、一生懸命に働き、働きの応じて他の人より多額の年俸を受け取っていた人が、結婚と同時に、途端に貧乏になる場合があります。これは結婚相手の伴侶が浪費家であったり、あるいは浮気などで妻や良人(おっと)以外の異性を影で作り、そちらの方にお金が流れ、一向に溜まらない状態になります。 また、人の羨(うらや)む、一流大学からキャリア官僚になり、出世も年俸も人より多額に受け取っているにもかかわらず、ギャンブルに魅入られてギャンブル狂になり、年から年中、お金を借り捲っている国家公務員も居ます。 つまりこれは、お金が身に付いたと思っていても、身に付く「徳分」や「因縁」がない為に、直ぐに出ていってしまうのです。 歯を喰い縛り、ひたすら出世コースの「勝ち組」の入る為に、臂(ひじ)で人を押し退け、運良く出世コースに足を踏み入れたとしても、これでお金が身に付く条件が、出揃(でそろ)ったとは言えません。大金を溜め込んだとしても、これで一安心とはいきません。 こうした人に限り、急に子供が大病に罹(かか)ったり、奥さんが半身不随になるような重症を負ったり、あるいは交通事故などで、今度は自分が大怪我に見舞われると言う事態が発生します。つまり、これにより、溜め込んだお金は、直ぐに出ていってしまうのです。これを《運命の陰陽支配による回収の法則》といいます。 これは、お金が身に付く「縁」が存在するか否か、あるいは「徳分」があるか否か、にかかるようです。だから、我武者羅に、寢る暇を惜しんで働いても、お金は溜まらず、出て行くばかりなのです。 これは、一日数十万円も稼ぐ、水商売の人気ホステスやソープランド嬢が、その多額の実入りがありながらも、それほどリッチではなく、また心身ともに満たされた、豊かな生活をしていないのと同様です。彼女達は、実入りの派手さからは想像も付かない、大きな不幸を背負い込んでいる場合が少なくありません。 自分の稼いだお金を、ホストクラブで散財したり、素行の良くないジゴロに引っ掛かって、稼いだお金を巻き上げられたり、株屋の毒牙に掛かって一文無しになったり、ベンチャービジネスやマルチ商法に引っ掛かり、大損をしたりと、実入りがあればあったで、結局、もともとの身に付かない因縁から、結局、第三者に回収されてしまいます。 ここで、やはり働いても、出て行くという現象が待ち構えている事は、良く理解できるのではないかと思います。 ●「徳分」を養う東洋の智慧 では、働いても、何故お金が身に付かないのでしょうか。 それは既に述べたように、「徳分」と、身に付く「因縁」がないからです。 そこで、わが東洋の智者達は、お金を直接追い求めるのではなく、間接的に、お金が入って来るように仕向ける「徳」を積んだのです。 儲ける為に働く事は、決して悪い事ではありません。しかし、「お金の為」というふうに、我武者羅な働き方をするのではなく、まず、お金や幸せが身に付く「徳分」を養ったのです。 一方、パチンコや競馬や競輪などの小ギャンブルに手を出し、これで「一儲け企む」という考え方は、決して「徳分」を身に付ける分けでもなく、お金の入る「因縁」を引き寄せたわけでもありません。 そもそもギャンブルに狂い、パチンコ依存症候群などの精神病に罹(かか)り、度々サラ金に足を運ぶような、生活をして居る人は、過去世(かこぜ)の悪因縁により、全くお金と縁が無い生き方をしているのです。ギャンブル狂は、過去世の因縁が、こうした小ギャンブルに手を出させ、パチンコ依存症候群などの精神病に罹って、一生を借金で棒に振る人生を選択させているのです。 こうした狂って居る人は、ここから抜け出す事は中々難しいと思いますが、心を一新すれば、その時点で、「徳分の基礎」を身に付ける事は可能です。 「徳分の基礎」とは、心の一新をもって、心像化現象が働くように、お金や幸せの方が、こちらに向かうようにします。 しかし、これを直接的に遣(や)れば、「我(が)の炎上」に過ぎません。あくまで「間接的」に、「メグリ」を利用する方法で、これに当たらなければなりません。 その場合、一切の貪欲(どんよく)さ、我執(がしゅう)の強さは捨て去らなければなりません。こうしたものは、いわば人間の我欲であり、わが身一身の為の「欲望」であり、煩悩(ぼんのう)の焔(ほのお)であることは言うまでもありません。 また、サラ金などで借金をして、残金高を見て、「あと、幾ら残っている」とか、車やマイホームを買った人が、「残金が幾らある」などの、「借金の減らす為」の作為を出来るだけ遣らない事です。実入りのお金は「プラスのお金」ですが、借金もまた「マイナスのお金」であり、両者は一方だけが減り、一方が殖(ふ)えるという状態を作ったのでは、減るものも減らず、殖えるものも殖えません。両者はバランスが大事なのです。 これは安定した企業が、銀行から借金をしながら、利益を出している状態に匹敵します。つまりバランスシートの、バランスがとれ、「収入の部」と「支出の部」の双方が、平均して釣り合っている事を言います。 「借金も財産のうち」という俚諺(りげん)がありますが、これはこうした事を指しています。但し、生活経済の原則は、高利ではなく「低金利で借金をしている」ということが大事で、年利13.4%以上と言うサラ金やVISAカードの高利では、これは本当の意味での借金ではなく、単に、自らが「暴利にカモられている」という、最悪な状態を作り出しているだけのことです。 したがって、「マイナスのお金の借金」も「プラスのお金の身に付いた金銭」も、直接的に、決して、「求めたお金」であってはならないのです。 ある宗教などでは「求めて得たものはホコリ」といいますが、これはまことに的(まと)を得た言葉だと思います。 幸福と言うものは、自分から求めるのではなく、向こうの方から遣(や)って来るものでなければなりません。その為に東洋の智者達は、幸福が身に付く、「徳分」を養うことを重要視したのです。 お金や幸福は、先方の方から遣って来ます。「徳分」を身に付けて、ただ、これを先方からくるようにすればよいのです。但し、「徳分が身に付いた」と言う条件に限り、これは成就されます。 徳分についてはdaitouryu.netの【運気】をご参照下さい。 ●「時は金なり」と言うが……その本当の意味は 現在、死語に近い言葉に「時は金なり」という俚諺(りげん)があります。 この言葉の意味は、時間は保存の利(き)かない貴重な資源であり、「時」というのは、「月日の神」と言われる所以(ゆえん)から、そう呼ばれています。 事実、借金をすれば証文を書欠かされ、種類には支払い期日が記入されます。そして、期日の支払日を履行しなければ、再び借金はきかなくなります。 ここに「月日」を大事にする信用と、それを粗末にしている人の差が出ます。月日を粗末にしている人は、「神の信用」をも、失ってしまう現実がここにあります。 月日を粗末にし、時間を粗末にしている人に、運の良い人など一人もいません。約束を度々破る人間に、運命は決して笑顔を送る事はありません。 ウソをついて、一時凌(しの)ぎの借金をする人は、その時点で、既に、神との約束を破っている事になります。しかし何事も先送りして、後になってウソの連続を重ねるくらいなら、最初から返済できない借金はしないことです。 最後に借金に苦しむ人を見ていますと、まず第一に挙げられるのが、浪費的な無駄遣いが非常に多いと言う事です。必要でない物を、だた「安い」という理由で買い集める人がいます。こうした人は、常に何処かで、ダラダラと浪費を繰り返していますから、自分の稼(かせ)げる範囲内で生活設計が立たなくなります。 馬鹿正直に言われた事だけを実行して、一生懸命に働くだけでは、能がありません。 こうした人は、労働者としては優秀かも知れませんが、優れた金銭哲学の持ち主ではないからです。また、こうした人に限って、「収入」と「支出」の関係が把握できず、ダラダラと、つまらない物ばかりに浪費を繰り返しています。 まず、健全な「時を待ち」、健全に「お金を遣う」には、その「時機(とき)」というものを知らなければなりません。 時機を知るには、ただ節約をして、銀行に貯金するだけでは駄目で、「収入の部」と「支出の部」を明確にして、これをベースに「資産の部」と「負債の部」が一目で分かる《貸借対照表》を勉強しておかなければなりません。 これを読めずして、お金を呼び込む想念だけを潜在意識に送り込んでも、お金は循環して来ません。歯を喰い縛(しば)ってコツコツと貯蓄を始めても、途中で息切れがしてしまいます。数字を把握できない人に、お金が溜まる道理がないからです。 そして、最も、愚の骨頂とも言うべき行為に、見せ掛けで、周囲を騙(だま)す行動に出る人がいます。つまり粉飾(ふんしょく)です。 粉飾行為には、企業の粉飾決算(企業会計で、会社の財政状態や経営成績を実際よりよく見せるために、貸借対照表や損益計算書の数字をごまかすこと)や、粉飾預金(銀行が正規でない手段で作り、実態以上に多く見せかける預金)がありますが、こうしたウィンドー・ドレッシング(window dressing)で実状を隠して、見かけをよくしても、虚栄の化けの皮は、直ぐに剥(は)がれ落ちてしまいます。 見栄を張り、良い家に住み、良い服を着て、美味なる贅沢な食生活に溺れ、3ナンバーの高級車を乗り回すという人が居ますが、中身は借金であり、目先の事ばかりに囚(とら)われて、全く「自分」というものを知らない人です。こうした人は、やがて、借金苦から逃避する為に、快楽へと溺れていきます。 一時の慰安を求めて、安楽や快楽を追い求めれば、かえって心を苦しめる事になります。 良い服を着て、高級レストランや高級料亭に出入りしグルメを気取って、周囲の眼を欺(あざむ)いても、それがローンで購入したり、リボ払いの物であれば「負債の部」のものですから、これは明らかに自分の物ではありません。心の深層心理には、何処までも「借金」という意識が潜在してしまいます。「身や舌先を楽しませれば、心が苦しむ」と言う現実が、ここにあります。 これは総(すべ)てにおいて言える事ではないでしょうか。 例えば、旅行をする事が大好きな人は、旅行する事によって、知らない所を見て回り、眼を楽しませる事は出来るでしょうが、それだけに脚は疲れ、心は苦しみます。それがローン仕立ての海外旅行などであったりしては、尚更、この疲れは大きくなります。残るのは借金だけだからです。 また、グルメを気取る食道楽の人は、舌を楽しませますが、心の中には、常に何処かに、何か美味しい物はないかと、それらを追い求めて、心を苦しませる事になります。 おまけに、美食はプリン体(purine/複素環式化合物の一つで、化学式 C5H4N4 無色の針状結晶)の病巣になっていますから、痛風(動物性蛋白ことに核酸摂取の過剰により、足・手指・膝関節などに尿酸塩の沈着を生じて発作性激痛を反復する疾患)に悩まされ、慢性化した場合は、腎不全(腎臓の機能が低下した状態で「尿毒症」を指す)で死亡する危険からも悩まされ、常に死の影に怯(おび)えなくてはならなくなります。 人間は「安易」に流れる生き物です。 木綿(もめん)の重い衣服よりは、羊毛や絹の軽い服を着たがります。不便で、暗くて、日当たりの悪い家よりは、明るくて便利で軽快で、住み良い家に住みたがります。公共の電車やバスを利用するよりは、自在に動けるマイカーを乗り回す事を求めます。しかし、躰(からだ)を楽しませようとして、躰に安楽を求めたり、快楽を貪(むさぼ)れば、この反動として心は苦しむ事になります。 身を楽しませる物は恥に近く、心を楽しませる物は恥に遠い俚諺(りげん)があります。心を楽しませると言う事は、つまり心を豊かにすると言う事であり、心が豊かになれば、いま自分は不便、不快、不自由であっても、やがてそれ等から解き放たれる時機(とき)が得れることなのです。 逆に、身を楽しませる事ばかりを追求すると、やがてはこの享楽から転落するのではないかと言う不安に駆(か)られます。 現代と言う世の中は、物の豊かさや、身の安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)る事が、何と多い事でしょうか。 「時」というのは、こうして人間の心を蝕(むしば)み、やがては身を滅ぼしてしまうものなのです。 したがって、現代人の私たちは、「棚(たな)からボタ餅」式で、時の過ぎ去るのを安楽的に待つのではなく、不便、不快、不自由の中に身を置いて、「心の豊かさとは何か」という、自分の根本を考え直さなければならない時期に来ているのです。そうした経験の想念の中で、将来への「見通し」を模索しなければならないのです。 ●身を滅ぼす第八魔界 世の中には、貧困のドン底で苦しんでいる以上に、恐ろしいことがあります。 さて、人生と言うのは、一瞬一瞬の生活体験に大きな意味があるのです。自分では、どんなにつまらないと思う人生であっても、それ自体に意味があり、それを、「今、体験している」と言うことに大きな意味があります。平凡であっても、その平凡に意味があり、何の変哲もない平凡の中で、多くの人はに途上生活を暮らしています。そうした時に、落ち込む世界が「第八魔界」です。 一旦、此処(ここ)に落ち込むと、それから先は、空回りして、思うように進めなくなります。全くの空虚になってしまうのです。自分で自分が分からなくなり、遣(や)ること為(な)すことが、総べて無意味になってしまうのです。 人生は一見無意味に思えることでも、それ自体に大きな意味があります。これこそが、「自己学習」なのです。無意味や平凡を体験することが自己学習と言う、自分への教育なのです。 借金で首が廻らなくなり、貧困で喘(あえ)いでいても、ここにがちゃんとした自己学習の大きな意味があります。奈落(ならく)の底に落ちるような体験であろうと、必死に崖淵(ぜっぺき)を攀(よ)じ登る、登攀(とうはん)体験であろうと、その動作や行動の中に必ず意味を見出せます。ところが、「第八魔界」と言うのは、そうした苦しみや、悲しみや、動きさえも無くなってしまう世界なのです。 一切に於いて、内的変化が全く顕(あら)われてこないのです。 変化さえ顕われれば、もう既に「第八魔界」ではないのですが、こうした辺が、全くと言っていい程、顕われてこないのです。 それはどういう事かと言うと、今まで中産階級として地道に暮らしていた人が、突然、数億円と言う宝くじに当選し、有頂天に舞い上がってしまった時に、第八魔界が顕われて来ます。これまで中産階級として一生懸命に、地道に働いてきたのですが、こうした時に思わぬ「驚き」としての疑似(ぎじ)幸運が転がり込み、この擬似的な幸運を真当(ほんとう)の幸運と思い込み、有頂天に舞い上がってしまうことなのです。 多くの人は、こうした天にも昇る夢のような場面を期待して、宝くじを買い需(もと)めようとするのですが、端(はな)から誰も、確信を持って買っている分けでではありません。「もしかしたら」という、細やかな、夢を買うような期待はあるかも知れませんが、多くの99.99%の人達は、決して自分が、数億円に上る宝くじに当選するとは思ってもいません。一枚百円の宝くじに、「もしかしたら」という、当選するはずがないという気持ちで、夢を買い続けるのです。 ところが、こうした夢の買い需(もと)めで、数億円に上る宝くじが当選したとします。これによって、今までコツコツと働き、中産階級として地道に遣(や)っていた生活が、此処に来て崩壊してしまいます。つまり成長のプロセスが此処に来て駄目になり、有頂天の世界に舞い上がってしまうのです。此処に舞い上がってしまうと、もう、元の生活には戻れなくなります。こうした危険な現実に、誰もが気付いていません。 あるいは社会的な地位を獲得した場合にも起こります。普段は、ある企業の一社員であり、組合活動をしている組合員でもある、ある人が、いきなり引き抜かれて管理者に抜擢(ばってき)されたとします。 これまでは平凡な社員で、組合員でもあったこの人は、普段は組合員として同じ職場の仲間と、一種の連帯感をもって平凡な活動を行なっていました。 ところが管理者に抜擢され、重役の地位が与えられと、今まで仲間だと思っていた組合員との距離が生じて来ます。そして組合員に対する反感と、不安が生じて来るのです。こうして最終的には、庶民階級と貴族階級、被支配階級と支配階級にまで発展し、組合運動への弾圧を自らが手掛けてしまうことになるのです。 これこそが、「第八魔界」の現実であり、その距離が、これまでの仲間を軽蔑的な色眼鏡で見るような事をしてしまうのです。そしてこうした地位に上り詰めると、もう、この人は再び元の組合員の生活には戻れなくなってしまうのです。 これはマルチ商法で、一山当てた人にも言えることです。 最初は、地道な暮らしをして中産階級の位置に止まっていたのですが、ひょんなことから、あるマルチ商法に誘われて、これに手を染め、自分の下に面白いほど下部組織が出来て、ついに組織が完成し、そのグループの経営権を獲得したとします。こんな場合、この人は思わぬ大金を自分の手にする事が出来ますが、同時に「地道に働く」という生活に戻れなくなってしまいます。これこそが「第八魔界」の怕(こわ)いところなのです。 |
▲第八魔界の構造図。七年一サイクルで新たな物質が入れ代わる循環周期。しかし新たに循環せずに、直線方向へと進んでしまうと、第八魔界に迷い込んでしまう。
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実例を挙げて「第八魔界」の恐ろしさを紹介しますと、大阪で地道に地域に貢献する、ある歯科医師がいました。この歯医者さんは、患者の一人から、あるマルチ商法についての情報を聞かされます。これに興味を抱き、そしてお決まりのコースで説明会場へと出向くことになります。 この会場で説明を聞かされ、自分でもできるのではないかという気持ちになり、ある商品を自分で販売することになりました。そして歯科医院に、治療に遣って来る患者相手にマルチを説明し、商品を売り始めます。 この歯医者さんは、地域でも歯科医師としての信頼があり、ここで治療に来る患者の多くは、この歯科医師に尊敬を寄せていましたので、商品は飛ぶように売れました。そして一気に組織を完成させ、販売権を手に入れてしまったのです。 最早(もはや)こうなると、治療どころではありません。歯科医師で喰っていくよりは、マルチの商品を売り捲った方が、大きな収入になっていたからです。この歯医者さんはマルチ商法での会社を組織し、歯科医院を閉鎖して、とことんマルチ商法にのめり込んでいきます。 普段であれば、休診の日に、たまに行くゴルフも、高級外車を乗り回して毎日のように出かけて行き、本業はそっちのけで、大金の転がり込む面白さにのめり込んでいきます。今迄は歯科医師として、地道に地域医療に貢献していたのですが、そんなことはどうでもよくなり、大金を儲ける事ばかり考えて、自分の組織を強化させ、数万人規模の組織を作り上げたのでした。 毎日の遣(や)ることと言えば、ゴルフ三昧(ざんまい)に明け暮れ、夜な夜な、大阪ミナミの高級クラブで飲み明かすと言うことが日課になってしまいます。ところが、こうした順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のように思えたこの商法も、トラブルが発生して、幾つもの裁判を抱えるようになりました。こうした時点で、会員の数は激減します。 やがて敗訴して弁済等を求められ、組織は壊滅状態になり、今まで儲けた大金も、ここに来て、一気に吐き出してしまいます。そして、このマルチ商法は破綻してしまいます。 ところがこの歯医者さんは、元の歯科医院を復活させれば良いのですが、それをやらずに、再び他のマルチへと手を染めていくことになります。かつての組織をベースに、再び同じようなマルチに手を出し、とことんマルチにのめり込んでいったのです。 そして、かつては地域医療に貢献していた歯科医師は見る影もなく、過去の大金の夢を追いかけて、次から次へと、こうしたマルチ商法に手を出し、最後は裁判沙汰と、儲けの狭間(はざま)の板挟みになって、身を滅ぼしていったのです。 ここに「第八魔界」の恐ろしさが潜んでいるのです。 これは人間と言うものが、自分の今まで立っていたところから、いきなり他の場所へと移動して、環境が好転した場合、その対処の仕方の難しさを「第八魔界」は教訓として挙げているのです。 |