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●お金と言う生き物 お金の性質は、「追えば逃げ、追わねば蹤(つ)いてくる」と言う不思議な生き物です。また世間一般でも、そのように思われています。 世の中で「運・不運」を決するのは、第一次的なものがお金であり、この所有の大小で、幸・不幸が齎(もたら)されるようです。 しかし、お金だけでも、運・不運や幸・不幸は解決しません。 では、解決しない理由を説明しましょう。 人生の生き方のパターンを決める、もう一つの感情に「欲望」というものがあります。人はこの感情に対し、「強欲(ごうよく)」という言葉を用いて、欲のあることを見下した言い方をします。 欲望とは、欲しいと思う心と同時に、不足を感じて、これを満たそうと望む心です。お金を欲しがるのも、実はここから派生します。 特に、これが金銭ともなると、「強突(ごうつ)く張り」等と言って、酷(ひど)く欲張りで、金銭に固執して、頑固な人をこういう言葉で卑(いや)しめます。 ところが一方、人は金銭の為に働きます。つまり欲望を満たす為に働くのです。 この根底には、お金で何でも買えると思っている、喜びを手に入れる為に、まず、働いて、お金が欲しいと思います。しかし、お金が齎(もたら)してくれる喜びは、そんなに長続きしません。 高額な衣服を買ったとしても、あるいは豪華なレストランで高級フランス料理を食べたとしても、満足感を得るのは最初のうちだけで、気付くと、お金を大量に消費したのに、精神的に残ったものは数える程しかありません。そして、毎日こうした浪費を繰り返しますと、お金は幾らあっても足らなくなります。 そこで、こうした生活を、より良くする為に、更に大金が欲しいと思うようになります。大金があれば、もっともっと楽しい事が出来るのではないかと思うようになります。こうして、働き続けることに専念します。 しかしこれは、恐怖と欲望に歪(ゆが)められた魂(たましい)が、お金によって癒(いや)され、黄金の奴隸に成り下がることによって、豊かで、快適で、便利な、安定した生活が出来るのではないかと錯覚したことから起ります。そして、お金を多く得ることの妄想が膨らみ始めます。 もつと豊かに、もっと豪華に、もっと贅沢(ぜいたく)にと。そしてここまでくると、完全にお金の妄想に取り憑(つ)かれ、お金があれば、何でも飼う事が出来、総(すべ)て、お金で解決出来ると言う錯覚が生まれます。 しかし、お金にはそうした効果はありません。 お金さえあれば、愛情すら手に入れる事が出来ると思っている人がいます。この世では、お金で買えないものは、何一つないと思ってしまいます。 しかしここが、多くの人が誤解する、一番大きな間違いです。 人は、金銭と言う妄想に取り憑かれて、人生の金儲けと考え、奔走します。誰もが苦労して働けば、やがては運気が廻って来て、大金運のツキが巡り、金持ちになれると安易に考え始めます。しかし、お金と言う生き物には、こういう働きはありません。 あくせく働いて、お金を貯める。こうした考えは決して悪い事ではありませんが、これは欲望の為に働くと言うより、老後を心配しての労働、あるいは金銭に蓄財だと思われます。 つまり根底には、「恐怖」というものが働いており、歳を取った晩年期、お金を唯一の頼みの綱(つな)として、不安材料を少しでも取り払おうとする、涙ぐましい努力が、将来、楽をする為に、今は一生懸命に働くと言う原動力になっているのです。 「楽をしたい」から働く。将来、働かないでいいように、今は一生懸命に働く。つまり、人は働かない為に、働いていると言う事になります。これは良く考えると、大きな矛盾です。 またこれは、丁度、金持ちの恐怖心理に酷似(こくじ)しています。金持ちが、お金を持つのは、まさに恐怖の為であり、「お金を持たないと、貧乏になるのではないか」と言う恐怖です。だから、あらゆる手段を使って、お金を儲(もう)けようとします。できるだけ自分の手許(てもと)に、お金を引き寄せたいと奔走します。しかし、儲け、奔走する行動原理は、やはり「恐怖」です。 そしてその恐怖は、金持ちであるが故の恐怖であり、これはお金の所有する量と比例して大きくなって行きます。 お金に囚(とら)われ、お金を失う事に、この上もない「恐怖」と「苦痛」を感じるのです。 しかし貧乏な人でも、これを同じ恐怖を持っています。金銭を所有すること、お金儲けをすることを「穢(きたな)い」を思っている人が少なくありません。したがって、金持ちに対峙(たいじ)した、「お金がなくてもいい」あるいは「お金になんか興味がない」と安易に考えてしまうのです。 これはお金に囚(とら)われているのと同じくらいに、危険で異常な考え方なのです。 お金は無くてもいい。お金なんかには興味がない。一端はこう断言しながら、この階層の人は、パチンコや競輪競馬などの小ギャンブルに手を出すのでしょうか。こうした博打場は、こういう考え方を持った人で、溢れ還っています。 パチンコなどは、開店時間前から長蛇の列が出来、少しでも稼げるパチンコ台を狙って、小ギャンブラー同士が、お互いに鎬(しのぎ)を削ります。 しかし、こうした小ギャンブルの博打場に、金持ちの姿は殆どありません。何故でしょうか。彼等は、パチンコをする側ではなく、庶民にパチンコをさせる側なのです。 ここで一つの結論が出て来ます。パチンコにのぼせ、予定終了台に、とことん入れ上げても、結局、儲ける事は出来ないと。 パチンコ屋は慈善事業ではありません。営利を追求する、企業の、それなのです。 これが分かっていて、なぜ人は小ギャンブルに手を出すのでしょうか。この、「手を出す」という行動こそ、錯覚の最たるものです。 結局、それと同じくらい、「お金が無くてもいい」あるいは「お金になんか興味がない」と言いながら、裏腹にパチンコで、「五万儲けた」とか、「十万儲けた」といいながら、更に錯覚の上塗りをしているのです。これは、働くことに置き換えても同様です。 では人は何故、働くのでしょうか。 多くの人は、老後に働かなくても済む身分になる為に、今は一生懸命働きます。これは非常に矛盾したことなのです。 この矛盾は、金持ちの持つ金銭感覚以上に矛盾した考えであり、金持ちの蓄財努力の為に、金儲けを企てる考え方よりも、悪質かつ、偏見な行動原理と言えます。 そしてこうした面で、貧乏人は、お金に対し、大きな偏見が浮き彫りになり、この矛盾が、実は、お金に対する考え方を誤らせているのです。 |
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お金と言うこれは、確かな生き物です。 感情的に反応し、この感情の激しい人には、近寄らない特性を持っています。だから、困窮(こんきゅう)生活から、いつ迄も抜け出せないのです。 感情に対して、露骨に反応する人は、自分の生活を見失います。こうした見失っている、困窮する人を、じっくりと観察する必要があります。 今、もし、金銭的に恵まれてないと思い当たる節があるのなら、この点を見逃してはなりません。困窮する人と、そうでない人との格差は、実は、困窮する人の形相、態度、行動、思考、言動、食べ物等から、総(すべ)て見て取る事が出来ます。困窮の当事者として、自分がその中に嵌(は)まっている時は、事象を客観的に検(み)る事が出来ませんが、そこから一歩出て、困窮に苦しんでいる人を検ると、何故か自分と生き写しであることに気付きます。 困窮する人程、人間は行動や思考が感情で支配されると言う、人生の大きな落とし穴を見逃しているのです。そして見逃すばかりか、実はその落とし穴に自分が嵌(はま)り込んで、身動きとれない状態にあるのです。お金が循環しない、今の自分自身の「自己現実」を感得できないのです。自己現実は、意識的にも、無意識的にも、自分の裡側(うちがわ)にあるものが、その表出として顕われます。したがって、心に描いた事は、無意識層の存在であっても、表出されるのです。これを「心像化現象」と言います。 お金と言う生き物は、自分に正直な人に集まります。一方どうして、お金を穢(きたな)らしいと考えている人の処には、避けて通ります。これこそが、心の表出であり、心像化現象が無意識のうちに働いているからです。 また人生には、《類は類を呼ぶ法則》と《異は異にする法則》があります。 お金を素直に欲しいと考え、それについて、労働の対価としてお金を得る場合、これは自分の身に付きますが、「お金がなくてもいい」あるいは「お金になんか興味がない」と思えば、その深層部には、口で言うのとは逆の、やはり、強突(ごぷうつ)く張りの気持ちが作用しますから、幾ら働いても、身に付く事はなく、直ぐに浪費して、逃げて行ってしまうのです。 金銭に窮して居る人は、その人の周りの物質を見ると、半来はなくてもよい、無駄なものばかりが転がっています。ちょうど、100円ショップで買い漁ったようなものばかりが、ゴロゴロしているのです。本来は、なくても済むのですが、「安いから衝動買いしてしまった」という安易な考えから、何でもかんでも買い込んでしまいます。これでは幾らお金が有っても足らず、自分の働いた給料内での生活が出来なくなります。 こうなると、次に手を出すのが、免許証や健康保険証で、手軽に借りれるサラ金へと趨(はし)り、借金で生活しようと企てる事になります。そして、高利に手を出した場合、100万円借金(サラ金一社の最高貸出額50万円×二社分。二社分を超えると、横の情報システムが働いている為、「件数2」がマークされ、三社目では貸し渋る。したがって今日では、二社分100万円が最低返済額とされている)をすれば、もう、雪達磨式に膨らみ始め、幾ら働いて返済しても、利息だけを払っている状態になり、元本は殆ど減りません。 お金が逃げていき、金銭的に困窮して居る人は、今の時点で「これくらいのお金だったら返済できる」と安易に考えて居る人です。しかし、時間と共に返済は困難になっていきます。逆の意味で、借金した場合、時間は「お金をマイナスの形」で、雪達磨式に膨らませていくと言う現実があります。 お金を得ようとすれば、まず心に正直で、お金を素直に理解しなければならないのです。そして、お金に対する理解度を深めることが、金銭哲学の根底には流れているのです。 ●お金は再び循環して、もとある場所に戻って来る お金と言う生き物は、「追えば逃げ」、「追わねば蹤(つ)いて来る」という不思議な生き物であることは確かです。 しかしこの生き物の背景には、「循環」するという特性があり、ひと廻りして、また元の場所あるいは状態に帰り、それを繰り返します。その事に、多くの人は全く気付いていないのです。あるいは、入って来るお金ばかりに囚われて、出て行くお金に気を止めません。 事物や事象が、絶え間なく循環しているように、お金も循環している事を忘れてはならないのです。 多くの人は、自分の手元にお金が転がり込んでくる時、何となく元気になり嬉しくなって、強気にすらなります。しかし、これが支払いとなると、これを出し惜(お)しみして、非常に消極的になり、これを支払わずに済ます方法はないものかと策を弄(ろう)します。 また、貯金の金額が増えていくのは実に愉(たの)しいものですが、借金ともなると、途端に悲しみに変わります。貯金が嬉しくて、借金が悲しいのです。この感情が、既に間違いを起こしているのです。入金がある時が「喜び」で、出て行くお金には「悲しみ」が付き纏(まと)っているのです。 しかし、お金が入る時が「喜び」であれば、また出て行く時も「喜び」ではならないのです。この喜びを知らないでいると、お金は、自分の方へは、再び循環して来ることはありません。循環する事物や事象の現象の中で、一方的に素通りしていく事実は、本来はあり得ず、循環するから出て行ったものが、再び戻って来るのです。これが「メグリの法則」です。 その際、その「戻り」というのは、喜びによって、送り出したお金は、あなたが喜んで支払った分だけのお金が戻って来ます。大きく支払えば、大きく戻って来るし、小さく支払えば、小さく払った分だけが戻って来る仕組みになっています。 あなたに、再び「循環するお金」は、あなたが喜びで送り出した分だけが、あなたの手許(てもと)に戻って来るのです。 これは朝起きる時が、その日の希望に満ちて、喜びと共に起きるのと同様に、また、夜寝る時は朝起きる時と同様に嬉しいはずです。 これと同じように、お金は入って来る時、元気であるように、また、お金が出ていく時も、愉快で上機嫌でなければなりません。貯金で、お金が溜まる事が嬉しいのであれば、借金する時も嬉しくなければならないのです。こうした考え方には、無意識のうちに「心像化現象」が働いているからです。心像化現象が、「メグリの法則」の循環を促し、あなただ送り出したお金は、あなたのことを忘れずに、必ず戻って来ます。 これはちょうど、生まれて来る時が喜びであるように、また死ぬ時も喜びであるように、生き物は循環すると言う、非実在界の仕組みを把握しておかねばならないのです。 経済的に困窮している多くの人を見てみますと、お金が入って来る時は上機嫌になり、その入って来たお金は、出来るだけ支払いたくないと言う気持ちになってしまいます。催促されて支払う時は、何か非常に損をしたような気持ちになって、嫌々払っている姿を見ますが、これこそが「貧乏の正体」であり、「損をする」という意識が貧乏を招いているのです。 お金と言う生き物は、「しぶしぶ払う」を繰り返せば、どんどん出て行くばかりです。そして「しぶしぶ払ったお金」は、再び戻って来る事はありません。ここにも、無意識に心像化現象が働いているからです。 一方だけが良く、一方だけが悪いとするのは、自他離別の意識であり、こうした意識は、やはり何処かで行き詰まってしまいます。 世の中には、何か新しい物事を始めるにあたって、よく「お金がないので」等と、泣き言をいう人がいます。お金がないから、あるいは貧困状態にあるから、それが出来ないと、困難に挑む行動を否定し、「お金がなければ無理だ」と安易に口にしてしまう人がいます。 このような考えを持っている人は、お金がないので、「何か新しいこと」を始められないのではなく、お金を出すのが厭(いや)だから、これが出来ないでいるのです。要するに、失敗し、損をする事が恐いのです。 こうした考え方で、世渡りをしますと、何処かで、必ず行き詰まってしまいます。「お金がないので」という、こうした考え方は、本当にお金の有り難さを知らない人が、安易に口にする言葉です。この安易な言葉が、実は自分の持っている言霊(ことだま)を汚し、穢(けが)しているのです。汚れ、穢れたところに、お金と言う生き物は、再び巡って来ることはありません。このメグリが止まった状態が、じつは「貧乏の正体」なのです。これが心像化現象の「マイナス」に働いた結果です。 多くの人が、中産階級のレベルであっても、こうした「しぶしぶ払う」姿をみますと、やはり中産階級の壁を、中々越えられないものです。中産階級が働き詰めで、「やっと中流」を維持しているという状態は、心の深層心理に心像化現象が働いているからです。 こうした壁を突破できない理由は、こうした「入る時が喜び」で、「出る時が悲しみ」と言う色分けをしている事が、つまり「それ止まり」の現実をつくり出していると言えます。この壁を超えるか否かは、「入る時」と「出る時」の格差を出来るだけ、意識の上で「小さく出来るか」あるいは「完全に垣根を取り払うか」の、二つに一つしかないようです。 働いて、働き詰めで、「やっと中流」では、富者になる道は開けません。 ここにも自他同一の意識が働き、自他離別では高い塀(へい)を作る事になって、近寄るお金も入って来れない状態になっている事に気付かねばなりません。 入って来る時が良ければ、やはり出ていく時も良くなければならないのです。こうした意識を感得して、はじめて自他同一意識が生まれるのです。 さて、「出し惜しみ」の現象に、「ケチ」というものがありますが、ケチでは結局、最後は貧乏クジを引いてしまいます。 ケチとは、金品を必要以上に惜しむ事あるいは、「しみったれ」な事を言い、「吝嗇(りんしよく)」等とも言います。一般には、金持ほどケチだと思われています。でも、果たしてそうでしょうか。 ケチで溜め込んだから理財をなしたのでしょうか。更には、実際にケチで、理財が溜まるものなのでしょうか。この辺を深く追求してみる研究が必要のようです。 「理財の才」のある人は、毎日少しずつ節約しながら、ダムのように水を溜め、必要な時にはいつでも豪快に、関(せき)を切って、途方もないことをやってのけます。これこそ、しみったれにはできる芸当ではありません。 乾涸(ひから)びた箇所に、水を送り届けられるような智慧(ちえ)を使っている人は、決してケチではありません。本当のケチは、出し惜しみをする人がケチで、お金を出し惜しめば、これは浪費と同じ結末を迎えます。 ケチは心の狭い人の特徴です。したがって、心が固いという事を顕(あら)わします。人間の掌(てのひら)は、心臓を顕(あら)わす場所であり、心臓は生命力を顕わします。掌(てのひら)が固い人は心臓が悪く、また性格的には心も固い人です。こうした人は、殆どがケチです。やがて「出し惜しむ」ケチで墓穴を掘ります。 利息制限法の上限一杯一杯に、金銭を貸し付ける高利貸しが、晩年を悲惨な結末を迎えるのは、こうしたケチが祟(たた)っての事からです。人に恨みを買われる事からして、死に態(ざま)もよくありません。 人間の掌(てのひら)は、固さと、色と、熱を発しますから、掌の固い人は、ケチで心が固い人。掌が赤い人は、肝臓を病んでいて、普段から荒淫(こういん)の性癖があり、過度のセックスに溺れる人。掌の異常に熱い人は、心臓の弱っている人です。 次に浪費家と言われる、必要なもの以外の無駄遣いをする人は、「死に金」を遣う人です。死に金を遣う人は、ケチと同根であり、溜めたお金も遣わなければ死に金となります。 世の中でケチと言われる人種が、尊敬を受けた試しはありません。ケチで財をなした人は居ますが、そうした人は感謝されたり、尊敬の対象になっていないのです。 多くは、人を苦しめて溜め込んだお金であり、こうした歓喜を齎(もたら)さないお金を集めると、晩年時の死んでいく時は、実に惨めなものとなります。 お金は必要なものに、有効に遣ってこそ、生きるのであって、溜め込むだけのお金では、やがて腐ってしまうのです。腐れば、お金は循環を失います。腐れたお金は「死に金」です。 「生き金」は循環し、「死に金」は腐ります。 こうした事から、お金を一種の生き物として認識する必要があります。 |