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●病気と人生 日本人は、古来より農耕民族として農耕に従事してきました。何処から日本列島にやって来たかは別にしても、日本列島に住み着いた時から、日本人は農耕民族として存在していました。農耕民族の常は、朝、太陽が出ると田畑に働きに出かけます。そして夕方になり、陽が沈むと、それと同時に就寝に入りました。 ところが文明は火を齎(もたら)し、夜を明るくしました。人間は陽が沈んでも寝らなくなったのです。 火という照明は、人間にある種の利益を齎(もたら)しましたが、同時に人間は、その利益と引き替えに、夜の一時を生贄(いけにえ)にしました。 その生贄は、人間の生活のリズムを狂わせることでした。照明の登場によって、人間は昼を延長する文明を手に入れました。しかしそれは、本当は夜を長くする道具ではありませんでした。 生物としての人間は、火という照明が現われたことにより、自らの自由とリズムを生贄にして、健康までもを人身御供(ひとみごくう)に差し出したのでした。 これによって睡眠という健康が奪われました。また、生活が不規則になったのでした。 さて、睡眠には二つあります。 一つはレム睡眠と言われるもので、急速眼球運動(rapid eye movement, REM)の見られる睡眠です。この時、脳波は覚醒時に似るので、逆説睡眠とも言われ、パラ睡眠とも言われます。つまり躰(からだ)は眠っていますが、脳は眠っていないという状態です。 それに対して、ノンレム睡眠(non-REM sleep)と言うのがあり、脳も躰も眠っている状態です。別名、「徐波睡眠」とも言われます。 この時、緩やか振動数の脳波が現れる睡眠です。つまりレム睡眠以外の睡眠であり、成人では一夜の睡眠の約80%を占める睡眠であると言われています。 しかしこうした睡眠は、昼の延長により、眠る時間が短縮されてしまい、睡眠の領域も自由が奪われてしまったのです。 病気の根源の側面には、こうした自由が奪われているという現実があります。人間は自由を需(もと)める生物です。生物としての自由は、自然の中に存在します。 フランスの啓蒙思想家ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の言によれば、彼はその著書『エミール』(教育小説で、副題「教育について」という書き出しで有名)の中で、自由主義教育を説き、「自然に帰れ」と力説しました。 この小説の主人公エミールは、人為的な努力を排斥(はいせき)する生き方を選択します。内容は出生から青年期までを叙述したものです。その教育法は自然に従い、児童の本性を尊重し、汎愛的(差別の無い平等博愛主義)です。以降、ペスタロッチらの近代教育思想家に深い影響を与えました。 また、ルソーは『社会契約論』等の著書を著わし、民主主義理論を唱えて、フランス革命(ブルボン王朝打倒のブルジョア革命。これにより銀行家や高利貸しが時代に擡頭(たいとう)して来る)の先駆をなしました。そして解放を謳(うた)ってロマン主義の父と称せられたのです。以降、世界の近代史は自由・平等・博愛に傾いた、民主主義自由経済を選択することになります。 しかしそれは、資本主義社会の自由競争においてでした。この自由競争下で、近代資本主義は文明をますます発展させました。 ルソーは「自然に帰れ」と言いました。しかし発達した文明は「自然の帰る」ことを拒み続けているのです。自然に帰れば、この文明は片時(かたとき)も生きていけないのです。経済は即座に破綻(はたん)してしまうのです。動き出した以上、止まらないのです。この止められないと言う、この中にこそ、実は資本主義の隠された、もう一つの側面があり、その正体は「ねずみ講」だったのです。資本主義こそ、何を隠そう、紛(まぎ)れもない国家間で行なう巨大な連鎖無限「ねずみ講」だったのです。 永久に発展し続けねばならず、自然に帰ることは出来ないのです。 「ねずみ講」は、永久に連鎖を続けている間だけが、機能する要因であり、これが無限連鎖講である限り、一度止まってしまえば、経済は大破綻をしてしまうのです。「ねずみ講」こそ、経済上の利益を与える一種の金融組織であり、近代はこの「金融」を極度に発達させる為に、奔走した時代と言えましょう。 株式会社の実態は、連鎖配当組織の形を変えた利潤追求組織ですし、自由経済圏では、国家の浮沈は自国の仕掛けた無限連鎖講が外国の経済に影響を与えて、「無限」に廻り続けて行かなければならないからです。止まれば、そこで金融の流れは止まり、即座に経済は致命的な動脈硬化に襲われるのです。 資本主義(capitalism)とは、実は宣伝媒体を遣って、物品製造業者(企業)とその商品を再販売する者(ディーラー/売買差益を得ることを目的とした小売業者)とが連係して、次々に商品を宣伝し、第三者(消費者)に、再販売組織に加入させ、繰り返し「買い替え」の消費を促す事で、成り立っているシステムなのです。そのシステム下に、これに従事する労働を提供する労働者が居り、彼等は自己の労働力以外に売るものを持たない労働力を、躰(からだ)ごと商品として資本家に差し出し、資本階級がこれを買って、その価値とそれを使用して、商品を生産させ、生産した商品の価値との差額(剰余価値)を利潤として手に入れる経済体制なのです。 その企業体組織下では、組織内での地位昇進から得られる利益(上司の権限)を餌(えさ)に、下部組織を叱咤激励し、無限連鎖講を展開しているのです。 しかしこの無限連鎖講も、無限に動いている時だけが利潤の恩恵を受けられるのであって、これが止まりますと、この産業システムは全く機能しなくなり、この経済制度は破綻してしまうのです。したがって永久に回転し続けると言うのが必須条件になっているのです。 どこまでも回転し、輪廻の輪の如く、経済的新陳代謝を繰り返し、連鎖配当を、次から次へと新しく組織づくって行かなければならないのです。昨日の流行した商品は、今日は古くなって使えなくなり、また、明日は新たなものを開発しなければならないのです。日進月歩の格闘を繰り返します。これが資本主義の実態であり、「休む」事が出来ないのです。 これは、何という皮肉でしょうか。 ネコ目クマ科の哺乳類である熊は冬眠します。トカゲ目ヘビ亜目の爬虫類の蛇も冬眠します。冬眠する動物は他にも幾らでもいます。恐らく生物としての、自然のリズムがそうさせるのでしょう。 彼等は自然と共にあります。しかし生物としての人間は、そのリズムすら安定させる事が出来ないのです。不規則で不摂生を、永久連鎖講の如き繰り返すのです。したがって休むと、人間のリズムは崩れるのです。人間だけが崩れるのです。リズムが崩れれば、やがては病気になります。 病気の原因は、こうした事に併せて、他にもあります。 動物性蛋白質の摂り過ぎです。それに併せた暴飲暴食。そして睡眠不足と続きます。 睡眠不足は人間を病気へと追い込みます。自然のリズムが狂った人間は、既に精神も狂い始め、実のところ病気です。神経が冒され、精神が冒されます。 こうして人間は自然への道を閉ざし、自由への道を閉ざしたところに、不運や不幸現象の禍根が存在しているのです。そして人間は、生物として自然のリズムを取り戻さない限り、永遠に人間から不幸現象を取り除くことはでないのです。本当の幸せなど、手に入れることもできないのです。 ●金銭と人生 次に金銭いついて述べてみましょう。 金銭こそが人生における、幸福と大きく関与しています。「世の中は、金が総てではない」等と見栄を切っていると、とんでもないしっぺ返しを受けます。 確かに一面においては、お金が総てではありません。しかし多くは、お金の欠乏によって、不幸が発生することは紛(まぎ)れもない事実ですし、これを甘く考えたり、無視すると飛んでもない結末に陥ります。 まず、お金で困らない「環境造り」をすることが大切です。 お金は直ぐに溜まらず、また、お金で困った場合、それを直ぐに解決する手段はありません。普段からこうしたことを予測して、常にお金に困らない環境造りをしておかなければなりません。 さて、お金で困らぬ環境造りとは、一体どういうことなのでしょうか。 お金を普段から節約し、出来るだけ無駄な消費を繰り返さぬことです。無駄な消費は、やがて浪費癖を誘導します。 資本主義市場経済は既に述べたように、消費の為の消費を繰り返す、一種の「ねずみ講構造」です。お金に困らぬ環境造りをする上で、これは重要な認識事項です。 消費者は、最初は消費の為の消費を繰り返すだけに止まっています。しかし今日のように、日本国民が「一億総中流」の意識を持ち、契約社会において、ローンや信用取引ができる今日、やがて消費の為の消費が、借金の為の借金と姿を返ることは明白であり、この中流の意識が、今や「借金漬け」という現実を作り出しています。これを見てみれば、資本主義市場経済が、国家間で行なわれる完全な「ねずみ講」であるということが分かります。 「ねずみ講」は、会員を鼠算(ねずみざん)式に拡大させることを条件として、加入者に対して、加入金額以上の金銭や、その他の経済上の利益を与える一種の金融組織です。国家においては、「ねずみ講会員」が国民ということになります。 かつては「天下一家の会」が社会問題になり、投機性が強いので法律では禁止されましが、これはあくまで個人の限ってのことであり、国家がこれをやっても、何の咎(とが)める法律もありません。国際法ですら、国家間の「ねずみ講」は野放しであり、どんなに大きな経済的損害を与えても、これを規制する国際法規はないのです。 既に述べましたが「ねずみ講」は、連鎖配当組織あるいは無限連鎖講と称され、「無限連鎖」の繰り返しがその組織のメカニズムであり、まさにこれは輪廻の輪と酷似します。資本主義市場経済は、この無限連鎖を常に発生させ、回転し続けることで、次々に新商品が開発され、それを消費者に、購入・消費させていくという構造をもっているのです。 これは、今では生活必需品になってしまった自家用車を考えてもらえば、この事が一層よく理解できるでしょう。 新車は約三年周期で造られています。年式は毎年新しい物のモデルで市場に送り出されますが、内部のメカ部分やボディーのチェンジは、三年周期で新しいものになっていきます。 したがって、消費者に車を買い換えさせる周期は、三年周期で、車のセールスマンがやってきます。そして盛んに買い替えを勧めます。 しかし車は、三、四年で乗れなくなってしまうほど、チャチな構造になっていません。大事に使えば、10年はおろか、20年でも30年でも充分に使えるのです。クラシックカーが健在で、今も現役で動いているのを見れば一目瞭然でしょう。 それなのに買い替えを勧めます。これこそが消費の為の消費であり、無限連鎖消費を起こさせる資本主義の「ねずみ講」たる所以(ゆえん)なのです。 また「ねずみ講」に酷似した社会システムに「マルチ商法」なるものがあります。これこそ市場経済では資本主義にメカニズムに酷似した商法システムと言えましょう。 マルチ商法(multilevel marketing plan)は 商品販売方法の一つであり、物品販売業者とその商品を再販売する者(会員)とが、次々に他の者を再販売組織に加盟させて、組織内での地位(階級)昇進から得られる利益を餌に商品の購入や、取引料の支払いの負担を約束させる形で開始する商品の販売取引です。 これは、別名「ねずみ講式販売法」とも呼ばれ、投機性が強く、弊害が大きいので法律では厳しく規制されていますが、「ねずみ講」同様、再販売する会員が、国民と思ってもらえば納得できるはずです。 この商法は、詰まるところ、連鎖販売取引であり、会員(国民)はテレビや新聞広告や雑誌広告の宣伝媒体を通して商品内容を知る事が出来、この内容に魅(み)せられて、消費の為の消費を繰り返すというのが消費者(国民)の心理です。 したがって、更めて新車に買い替えるという場合、今、買い替えるにあたり、家計のことを考えないで買い替えるという愚行は避けたいものです。 前の分の完済が終わる前に、大ローンを組んで、再び払い続けるということは、多重債務の追加であり、こうした現実を把握すれば、「我が家は破産するのではないか?」と、直ぐに裏のことを考える癖をつけることが大切です。 しかし実のところ、消費癖旺盛の現代人は、この辺がルーズであり、また見栄や世間体もあって、セールスマンの口車にまんまと載せられ、新しいこと、快適なこと、便利なことに転んでしまいます。 更に、隣近所に見栄を張ることにも心を奪われて、家計圧迫を度外視して、後先無しに買ってしまうというところに、不幸の始まりがあります。したがって、慎重を期すことが不可欠であり、事あるごとに、裏返しの思考で物事を考えることが大切です。 また、車を買った時点で、不運・不幸の第一期症状運命症候群であるということを胆に命じて欲しいと思います。更に、車を所有するということは、交通事故と因果関係を持つことになり、車に乗り、シートベルトを絞めた時点で、交通戦士であるということを覚悟しなければなりません。 この意識が希薄であると、ついには交通事故の被害者もしくは加害者となるのです。車を所持した時点で、この事は片時(かたとき)も念頭から外してはなりません。不幸は、ある日、突然に襲うものということを忘れてはなりません。 |