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●生まれ出た現世をどう観るか

 昨今は悪しき個人主義が猛威を奮っています。この猛威は悪想念を齎(もたら)します。
 これは民主主義の基本的人権に由来すものです。
 民主主義とは何かということを、あなたは明確に答えられるでしょうか。これを明確に、即答できる人は一部の学者を除いて、そうざらにはいないのではないでしょうか。

 民主主義とは、政治システムの制度ですが、人間の生きる生活スタイルの根幹的な暮らしと関連を持ちます。
 では、どう持つのでしょうか。

 「基本的人権」を第一定義とする社会システムであるからです。
 そして、基本的人権を更に絞り込んで行くと、「個人の生命と財産の不可侵」ということになります。したがって、国家が犯してはならない主体は、個人の生命と財産なのです。

 しかし、この事を逆に言うと、他の諸個人は、個人の生命と財産を犯さない限り「何をしてもよい」という原則が成り立ちます。

 一口に「民主主義」と言い「デモクラシー」と言います。自由・平等・博愛(この三者は各々に実行上矛盾する)と言います。
 しかしこの背後には、エゴイズムを行動原理とした社会システムでの個人の我が儘(まま)が隠されていて、この構成は中々巧妙です。

 私たちが普段遣(つか)っている「自由」という言葉一つにしても、個人の自由が存在する代わりに、国家権力の自由も存在し、個人の自由は国家権力の自由に、到底太刀打ちできないと言うことです。個人の自由から出発した行動であっても、権力側の意図から外れていれば、即座に制約を受け、個人の自由は封じられてしまいます。

 しかしこのシステムは、万人が正義と自称するほど、正しく機能していません。現在、頻出(ひんしゅつ)する高級官僚の不詳事、学校教育の荒廃、社会の混乱や巷(ちまた)で起る凶悪事件は、総てこのデモクラシーに禍根(かこん)を発します。
 今日の民主主義を「戦後民主主義」と、世に言いますが、そんなものは民主主義であるはずもなく、アメリカによって強制されたこと事態に、最大の矛盾に突き当たるのです。

 特に日本国民は、自由・平等・博愛(人権)という民主主義の付随物(ふずいぶつ)に随分と酔い痴(し)れました。誰もが、この謳(うた)い文句に、集団催眠術をかけられました。謳い文句に魅了され、安易に催眠術にかけられてしまったのです。
 そして民主主義は、資本主義と根強く結び付き、民主主義は競争原理において、資本の衝動力を自由に発動させ、最も一致した個人主義を原理とするエゴイズムの変形体を成しました。

 しかし一方において、飽食のシステム、無駄の垂れ流しのシステムという消費の為の消費が存在し、一方で環境と資源を破壊し、搾取(さくしゅ)し、人類滅亡に向かって突き進む社会システムであることは疑う余地もありません。
 無制限な利潤追求は、既に臨界点を超え、高度消費社会が構築されました。しかし、これは臨界点を超えたメルトダウン(炉心熔融)である以上、時代は益々混迷(こんめい)を深め、何時(いつ)爆発しても不思議ではない状態にあります。昨今の株価の不安定は、これに起因します。

 また悪の多数決は、甚(はなは)だ不透明を極め、国会では国民不在の政治が依然として行われています。
 利潤第一主義、拝金主義の代名詞が資本主義であり、その裏側には、民主主義という悪しき個人主義がこれを掩護(えんご)しています。

 かつては富の集まるところに人が集まり、文化が高まり、思考も豊かになると信じられました。しかし、この鉄則を貫いたアメリカはどうだったでしょうか。
 アメリカの思考的豊かさは、果たして人類に貢献できるもの完成したでしょうか。
 アメリカは世界の縮図であると言います。
 アメリカの思考の中枢は、その多様性にあると言います。異質な存在をも懐深い許容量で取り込んで、共存するというのが多様性の思考でした。しかし残念ながら、この思考の富に与する国は、ただ一国、日本だけであって、そのアメリカの翳(かげ)りは、日本では明確になり始めました。

 哲学と思想原理を持たぬアメリカ形の思考が、金銭至上主義と、現実との辻褄(つじつま)合せを何処まで嘯(うそぶ)けるでしょうか。
 そして人々は、不完全な民主主義に惑わされて、一方で嫉妬を論(あげつら)い、一方で平等を論じています。
 もともと嫉妬(しっと)は、平等を意識した概念の変形ではなかっのでしょうか。また、平等を謳いながら、実際にはそれぞれに経済格差のあるのはどうしてでしょうか。

 デモクラシーは、最終的には誰が英雄になるか、明確にできない社会システムです。私たちはこうした社会システムの中に、「個」としての存在を曝(さら)し、我が身一心の幸せを願って奔走しているではありませんか。
 人生の真の生き甲斐は、こうした我が身一心の領域から踏み出して、いささかでもよいから、人民に貢献することが、自分自身に与えられた喜びではなかったのでしょうか。これこそが「愛する想念」の真髄ではなかったのでしょうか。

 現代人はこうした、己(おのれ)を空(むな)しゅう(無)して生きる、太古の「縄文人の心」を既に忘れてしまっているのではないでしょうか。
 かつて縄文の世に、「苦しみ」が存在したでしょうか。また「悩み」が存在したでしょうか。
 こうした苦しみや悩みが存在したのは、縄文時代、約一万年の、弥生以降の事ではなかったのでしょうか。

 縄文人は己を空しゅうして、迷う種も持ち合わせなかったのです。彼等は、人生の目標を訊ねればならないほど、日々の生活は空虚ではありませんでした。
 ひたすら、生を知らず、死を知らず、迷いとは無縁であり、苦しみもないから憂いも無く、憂いが無いから悩みも存在しませんでした。

 生死に迷い、道を求めて思想的な偏歴をするという、今日の都会の閑人(ひまじん)がするような愚行すら及びもつかなかったのです。無知で、無学で平凡な生活に日々を終始する……、それでよいと思っていたのです。

 哲学をする為の哲学をする暇(ひま)はなく、その必要も彼等にはありませんでした。しかし、縄文人に哲学が無かった分けではありません。
 むしろ彼等は、大変な大哲学者でした。それは「哲学無用の哲学」でした。哲学無用の哲人社会。それが縄文人の社会であったのです。

 もともと東洋の極東の島に発生した東洋哲学は、「無の哲学」、作為の無い「無意の哲学」でした。
 彼等は太陽と共に起き、陽の沈むと同時に大地に平伏して寝ました。彼等の食べる食物は、太陽の光の恵みと大地の恵みにより、慈雨(じう)に育てられた五穀(玄米、玄麦、粟、豆・栗、黍)を食していました。彼等は、それによって生きることを知っていました。そして「足る」を知っていました。
 したがって明日の事まで思い悩み、食糧等を「保存する」と言う概念がありませんでした。今日一日の、今日の糧で満足していたのです。

 しかし時代が下がって近代に至ると、こうした考え方は一変し、足るを忘れ、進展して、何処までも止まるところの知らない欲望を露(あらわ)にし、生産の拡大、剰余価値を利潤として、増強を計る生活を目論んだのでした。ここに不幸現象は由来します。

 期待した巨大都市の発達。文化的で経済活動を優先する人間の齎した欲望。こうしたものは、蓋(ふた)を開けてみれば、人間疎外の空しい喜びでありました。一方で、大自然の乱開発のよる生活環境の破壊でしかありませんでした。
 こうして、自然から孤立した人間は、宇宙の孤児と成り下がったのです。

 生命と魂の進化の源泉は涸(か)れ果て、空しい空虚(くうきょ)を引きずりつつ、人間は、ただ寸秒刻みの時間と空間に格闘するだけになりました。そして徒労の挙句、奇怪な文明病に蝕まれはじめました。
 人知の所産である被創造物は、何処まで行っても人知の領域を超えることができず、大自然から見れば、総て徒労で終わる運命を免れません。然(しか)も、人間の作り出した人知は、人知によって滅ぶ知の様相を呈しはじめました。

 現代文明の齎した豊かさと、便利さと、快適さは、自然を制御し、管理するつもりで自然を破壊し、自らを玩具(おもちゃ)にして自然環境を損ない、地球を潰滅の淵(ふち)に追いやり、独断的妄想を主体に密閉されたコンクリートの中で、人間達は、釈迦の掌中(しょうちゅう)で乱舞する孫悟空でしかなかったのです。

 個が在(あ)る、とは何でしょうか。
 それは人間と自然が一体になって、縄文人のように神と歩む世界ではなかったのでしょうか。
 ところが神と人間は、いつの頃からか、擦(す)れ違い、交わらぬ偶像となってしまいました。不幸の原点は、ここに辿り着くのではないでしょうか。
 つまり大自然への畏敬(いけい)の念と、感謝を忘れた、この姿にこそ、不幸現象の原点があると言えます。