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●個の存在は何を意味するか

 個の存在は、先天的には親からの気を受け継ぎ、後天的には自身の力で運命を切り開いて行くことを意味しています。
 そして、その切り開く格闘においてのみ、人生の真の生き甲斐(がい)を見い出す事が出来ます。したがって、個の存在は、ここに由来するのです。

 では、真の生き甲斐とは何でしょうか。
 それは個人主義の中に、こじんまりと納まり、自分一人の安住と幸福を貪ることではないのです。人間は修行の場を求めて、暗いトンネルを通ってこの世に出て来るのですから、これには相当な覚悟がいります。それは人間に生まれて来ると言う、苦悩に満ちた現実を経験しなければならないからです。

 特に、仏教では人間の苦しみを様々な角度で研究し、それに鋭い分析を加えました。人間には根本的な苦しみが三つあります。
 その一つ目は「変化の苦しみ」です。万物は流転します。刻々と変化します。若いと思われた時代は夢のように過ぎ去り、かつて美貌を讃えていた恋女房は見る見る年を取り、歯が抜け、貌(かお)は皺(しわ)だらけになり、腰は曲がり、発汗し、老婆特有の腐れた体臭を放ちます。

 また、ハンサムだった彼は、いつの間にか事業に失敗して貧乏になり、結婚した当初の面影は失われて、似ても似つかない姿に変貌(へんぼう)します。あるいは事故に遭(あ)って手足がなくなり、貌(かお)が潰(つぶ)れ、見るも無惨な姿になるかも知れず、あるいは心身に異常が現われ、長い闘病生活に身を窶(やつ)すかも知れません。
 あるいは泥棒に金品を奪われて一文無しになったり、火事や病気で一瞬にして台無しになるかも知れません。こうした苦しみは無常であるから、人間はこの苦しみの変化から一生逃れる事が出来ません。

 その二つ目は、苦しみに、更に苦しみが追い討ちをかけると言う事です。苦しみは一回限りで絶える事なく、二度も三度も襲って来ます。父親が病気で斃(たお)れたかと思うと、次に母親が斃れ、その上、自分の勤めていた会社が倒産するかも知れません。
 あるいは商売上の資金繰りで、銀行が貸し付けを約束した直後、急に資金を引き上げて、全額支払いを命じて来るかも知れません。このように、苦しみに苦しみが重なり、回転し続けるのです。

 その三つ目は、私たちの行いの一つ一つは、総てが連動していると言う条件における「苦」です。今、自分が幸せと言う事は、一方で飢餓(きが)に苦しむ人が居り、美味しい料理を食べようとすれば、動物や鳥類、魚や植物の命を犧牲にしなければなりません。一方を立てれば、もう一方が立たないのです。自分が生きる為には、他のものの命を貰(もら)わなければならないのです。



●幸・不幸を解消するキーワード

 さて、この解消するキーワードと題したこの一節の題材を述べる前に、解消と解決の違いを述べなければなりません。両者は似たような言葉でありながら、哲学的に言うと大きく異なります。

 「解消」とは、従来あった関係を消滅させることであり、「解決」とは問題や、もつれた事件などを、うまく処理すること、あるいは事件が片付くことを言います。しかし、この両者は混同されて用いられ、日常生活の中では、安易に「解決」という言葉に、某かの希望を抱くような現実が生まれました。

 もっと深く追求すると、解決とは問題のもつれや事件等を、法的職業専門家によって専門的にそれを処理し、これが一時的に決着をみることを指すのです。
 したがって、不幸現象を招く根源を完全に断ち切るものではありません。一時的に「一件落着」を見ても、根源が改まらなければ次の「宿業の根」を残し、再び新たな問題や事件が起こる連続性を、脳裡にイメージさせるもので、一時的な措置に過ぎません。

 それは丁度、事件捕物帳や刑事ドラマ、サスペンスドラマの如きです。
 私たちは時代劇で、「遠山の金さん」「銭形平次」「半七捕物帳」「右門捕物帳」等を知っています。
 テレビで放映される、こうした江戸時代の事件を背景にした時代活劇では、毎週次から次へと新たな事件が起こります。名奉行、名親分、名同心らの凄腕の技を以てしても、犯罪を抑止し、次の事件を抑える事はできません。

 これは大衆娯楽を対象にしてシナリオが書かれている為、番組制作上、毎週事件が連続するようになっているのでしょうが、刑事ドラマ同様に、事件や捜査を対象にしたサスペンス物のこうした事件が、毎日のように、何処かのテレビ局で放映されています。

 次から次へと起こる様々な複雑な怪事件。これは娯楽の範囲で見て行けば、お茶の間娯楽の庶民的な、活劇の面白さに一時的に憩を与えるものかも知れませんが、現実にこうした事が起これば、私たちの日常生活は、即座に破壊されます。そして、比喩的(ひゆてき)に仕組んだ激しい格闘や立回りは、痛快活劇の面白さといえますが、もしこうした事件が現実に一週間周期に繰り返され、怪事件が次々に起こり、自分の身の周りに、降り懸(か)かったとしたら、その苦痛は想像を絶するものになるはずです。

 こうした事を運命学的に見れば、宿業が根源で断ち切られていない為に、次の「宿業の根」を残し、再び新たな問題や事件が起こる連続性を、脳裡(のうり)にイメージすることになります。

 つまり解決とは、一件落着に次ぐ落着を、連続性の中で暗示し、悪循環の堂々巡りを繰り返しているだけのことなのです。

 一方、解消とは、過去から現在に至る悪循環を断ち切ることで、「今回限り」で以降の問題や事件を終結させ、宿業を克服することを意味します。これを「昇華(しようか)」といいます。

 つまり物事が、更に高次の状態へ一段と高められたということを意味するのです。
 これは精神分析学の世界でも見ることができます。
 精神分析学からすると、「昇華」の意味は、社会的に認められない欲求や無意識的な性的エネルギーが、芸術的活動や宗教的活動など社会的に価値あるものに置換されることを指し、悪が善に変わる精神分析用語にも遣(つ)われます。これを「転身」(我が身の進路を転ずること)と言い、向上の段階を指すのです。

 さて、過去から現在に至る宿業は、解りやすい病気に喩(たと)えるならば「宿便」のようなものであり、便秘状態が長期化し、あるいは生まれてから今日までの腐敗物が腸壁内に残留し、これが全く排泄されていない状態を言うのです。一種の、禍根の重荷です。
 この重荷を降ろさない限り、不運・不幸を解消することはできません。

 では、どのようにして降ろすのでしょうか。
 それは至って簡単です。
 自分自身に欠乏状態を作れば良いのです。要するに「みそぎ」です。心と躰の内部を洗う、洗心浄体にすれば良いことで、清浄無垢(せいじょうむく)に戻せば、肉体に取り憑(つ)いた大部分の災いは姿を消し、消滅するのです。これを解消といい、また昇華と言います。

 具体的には精神的断食であり、「災いは口より入る」を避ける為に、その口より入る災いを、入らなくすればよいのです。
 病気にしても、病気という災いは、食べ物によって、口から入ります。したがって、災いを齎(もたら)す食べ物を悉々(ことごと)く避け、幸福を齎す食べ物だけを口にすればよいのです。

 順に説明していきますが、まず「災いは口より入る」ということを重視して、これを認識して下さい。
 何故ならば、病気の根源は食べ物の誤りからくる「食の乱れ」が原因であり、食への慎みを忘れたことが原因であるからです。したがってこれを改めれば、病気・不運・事故・事件・争い等の不幸現象は姿を消すのです。

 人間は胎生によって生まれて来ます。中有(ちゅうう)に入った心の意識は、女性の胎内で結合した血液と経血によって、それが入り込む事により、その出発点となります。そして中有が、その心の意識を所有して生まれて来るかどうか、その意識の過去の行動と行為によって決定されます。

 人間に再生するはずの中の意識は、自分の父母となるべき性交中の男女の床へと一目散に辿り着きます。その途中、傍(そば)で犬が交尾して居たとしても、それを素通りするか、あるいは雄犬が射精する精虫の一匹に成り済ますか、否かは、中有の意識の差によるものです。
 もし、犬の後尾に気を取られ、雄犬の射精した刹那に、一匹の精虫に成り済ませば、もうこれで人間に生まれ変わるチャンスは永久に失われます。

 ところがこれを素通りすれば、性交中の男女の許(もと)に辿り着く事が出来ます。過去の行動や行為から起こる風(ふう)は、中有の意識を、将来母親となるべき女性の胎内で結合した精液と経血の中心に吹き込むのです。
 この時の吹いた風は、母親の経血の方に惹(ひ)かれれば、男として生まれるであろうし、父親に惹かれるようであれば女として生まれて来ます。

 胎児は母胎の中に納まっている間中、狹い子宮の中で堪(た)え難い苦しみに堪えなければならないでしょうし、暑さの襲う夏は、その夏の暑さにも苦しまなければなりません。母体は動けばそれに合わせて胎児自らも動き、揺れ動く衝撃にも堪(た)えなければなりません。
 そして九ヵ月頃になると、再び胎内に風が起こり、胎児は誕生に備えて逆さまになります。
 この狹い牢獄のような子宮の中で、そこから押し出される時が、また一苦労なのです。窮屈(きゅうくつ)な鉄の壁のようなトンネルを通って、狹い鉄の穴から出て来る苦しみを味合わなければならないのです。

 これは人間が死ぬる時と、全く反対のコースを辿って、外に出て来るのです。躰(からだ)が赤く腫(は)れ上がり、真っ赤に肌が焼けて生まれ出て来るのです。
 これは死ぬ時の逆なのです。人間は臨終を迎えた時、風が起こり、躰全体が爛(ただ)れるように痛く感じます。少し触られただけでも非常に痛く感じるのです。

 『正法念経』には「命終(みゅうじゅう)のとき風(ふう)みな動ず、千の鋭き刀、その身を刺すが如し。故はいかん。断末魔の風が身中に出来(しゅったい)するとき、骨と肉と離るるなり」とあり、死ぬ時も、生まれる時も断末魔の苦しみを味合うというのです。

 したがって臨終を迎える時、人は体内にモルヒネ物質であるエンドルフィンendorphin/哺乳類の脳や下垂体に存在するモルヒネ様作用を持つペプチド)が合成され、その麻酔作用によって穩やかな臨終が迎えられるとしています。
 しかし酒豪やアル中状態では、エンドルフィンの合成が妨げられて、その効き目が殆ど無いと言うのです。それは丁度、大酒呑みの人が手術を受けるのに、麻酔が効かないと言うのと同じ事です。
 だから多くの宗教では、繰り返し酒を飲んではならないと啓示しているのです。禁酒の真意は、実はここにあったのです。

 西洋では臨終を迎えた病人に対し、神父は家に呼ばれ、神父は今息を退(ひ)きとらんとす人の躰に、香油(香りの良い、信者の臨終に際して行われる塗油)を塗って、臨終の苦痛を和らげようとします。
 特にカトリックでは、「終油礼(extreme unction/しゅうゆれい)」として、信者の臨終に際して行われる儀式です。これはカトリック教会の秘跡の一つになっています。

 つまり臨終とは、かくも躰が「骨と肉と離るるなり」とあるように、非常に痛いのです。
 そして死ぬとは、生まれるのと逆のコースを辿って、霊魂と肉体が分離して、霊界に加入し、やがて統合する事を意味するのです。

 さて、臨終と同じように痛いのが「生まれて来る時」なのです。生まれて来る赤ん坊は、その無理矢理押し出される鉄の穴と通り抜けて来るのですから、自分の出来る事といったら、ただ大声を張り上げて泣く事しか出来ないのです。

 母親は母親で、お産するには命賭けであり、お産は母子双方が「死出の旅」を覚悟して、死に向かって歩み始める事なのです。
 同時に生まれて来た赤ん坊は、その不快と苦しみの意識を認識するのです。そして再び、生・老・病・死のコースを辿り、人生を経験して行く事になります。