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●生存競争の中での時代の流れ

 私達は常に「今」という現在の真っ只中に存在し、過ぎ去った「過去」と、来るべき「未来」の中間点に立っています。
 そして、過去と未来を中継する「時間」というものが存在します。

過去・現在・未来という時間の構造。時間は時の流れの2点間の長さで、空間と共に人間の認識の基礎を成す概念である。
 一般に出来事の継起する秩序で、不可逆的方向をもち、前後に無限に続き、一切がその裡側に在
(あ)ると考えられている。これをプラトンは「永遠の動く影」、アリストテレスは「運動の帯びる性質」とし、アウグスティヌスは「時間の三様態」を示し、過去・現在・未来を、「意識の三様態」である、記憶・知覚・期待に還元した。
 近代になって時間は、客観的規定と見られたが、カントは時間を空間と共に、非実在界で様々な現象を構成する主観の直観形式と考えた。
 これに対し、弁証法的唯物論では、物質の根本的な存在形式であるとする考え方が生まれた。ベルクソンは、意識の直接的な流れとしての純粋持続をなすものとし、ハイデッガーは「現存在」の存在構造としての「時間性」を、時間の根源と見る考え方が生まれた。
 また物理学では、現象の経過を記述する為の導入される量を「時間」と定義し、物理法則は、時間の原点のとり方によらないという性質を上げ、この性質から、エネルギー保存の法則が導かれとして、更には光速不変の原理が、物理的な時間の尺度となるとしている。
 しかしこの概念は、人により、その単位時間が各々異なったものになり、感じる概念は意識が決定するものである。更に、空間と共に、人間の認識の基礎概念は、時間と共に物質界を成立させる基礎形式であり、相対性理論では、空間は時間と不可分であり、物質の存在の仕方により、変化するものであることが示された。

 しかし時間の存在は、物理的に言うと、実に捕え処の無い存在であり、厳密に言えば宇宙構造そのものに起因する裏面的な物象と言えます。そして、物理的意味合いを持って言えば、時間とは究極物質と同じ「究極単位の時間量?」として言い表わしていますが、では、「現在」とは一体何処から何処までを指して現在というのか、この辺が曖昧(あいまい)です。
 したがって、「現在」という時間単位は、存在するのか?しないのか?ということになります。
 果たして「究極単位の時間量?」は存在するのでしょうか。

 強(し)いて言えば、一秒の中には無限量数的な時間量が詰まっているとするならば、現在・過去・未来という境界線も存在しなくなり、「常に現在」という妙な結論が導き出されて、「今の集合体」が「究極単位の時間量?」とならないでしょうか。

 しかし時計を見る限り、時間は確実に刻まれており、刻々と進行していまする。これから辿(たど)れば、やはり「時間」というものが物理的に存在していることになります。

 さて、時間についてマクロ的に言えることは、自然界の総てには「何か」に対して働きかけている、あるいは「何か」が自然界に対して働いているということになります。その「何か」が「時間の正体」といえるのではないでしょうか。

 「何か」が自然界に対して「何か」へ働いています。これから考えると、時間とは宇宙全体を占めるそのものが、万物に対して集中透過する裏面的な物象ということになります。
 つまり宇宙そのものが、物象の内部存在に対し、物理現象を与えているのが時間であると考えられます。

 アインシュタインの言によれば、「時間とは、宇宙空間に付随するもので、その宇宙である時空間という容れ物の中にエネルギーを含めた物質が入っている。それこそが宇宙である」と言っています。
 これはニュートンの絶対時(宇宙には一つの時間しかないという仮説)に対して、固有時(個々の現象には固有の時間があるとする仮説)の考え方でした。しかし今日では、ニュートンの物理学は、既に古典のものになってしまい、古い時代の物理学であったというい事が分かります。

 時間の源泉は、宇宙の虚質の低圧エネルギーであると考えられています。したがって時間の速度は、そのエネルギーの消滅する速度だというのです。
 つまり私たちは、万物の裡側(うらがわ)を透過するスピードを、人間の有する感覚機能でこれを物理的に感知し、こうしたものを「時間」と呼んでいるのです。

 時間は自然界の仕組を考える上で、人間の持つ生存競争にも大きく関わっています。感知しうる時の流れ、それが時間の正体なのです。
 その正体の中に生存競争が存在します。

 自分が「今、居る」という非実在界の現象は、まず、身近な過去を見た場合、両親が存在したということです。そしてその両親には更に両親がいて、過去に遡(さかの)ると両親の数は倍々ゲームのように殖えていきます。私たちの過去には無数の先祖が存在することになります。

 そして自分が「今、居る」というこの存在は、また、未来においても自分を中心にして、ラッパ状に倍々ゲームの構図で殖えていく自然界の基本構造が存在しています。
 まさに『旧約聖書』に出てくる人類の先祖・アダム(とイブ?)の如く無限に展開します。

過去と未来を結ぶ、現在の「今の自分」という、この現実。この「今」にこそ、人生の重要な意味が含まれている。

 人間界では生死を伴います。人間は無限の闇の彼方から、この世に生を表わし、個として生き、老い、病み、そして死ぬという、取り止めもない広大な闇の宇宙空間へと還って行きます。まさにこの構造は、個を基点としてラッパ状に開いていのです。

 時間もこれと同じであり、個を「今」の基点において、過去と未来はまさにラッパ状に開いているのです。
 人間は茫漠(もうばく)たる闇の中で、個々人各々中には無限量数的な先祖が存在し、また個であり自身も未来に向けて無、限量数的な子孫を齎すことになります。

時間と共に、開きつつあるラッパ状の過去と未来の構造図。やがて、過去と未来の開きつつある最先端同士は、結合され、再び元に戻って循環を繰り替えす。

 そして現在の個の存在は、無限量数的な先祖一人一人が、運命的に優秀でなければ子孫を後世に残すことはできず、その個としての存在は、また子孫を残しえる、運命的に優秀な存在でなければなりません。

 予定説から言うと、個の存在した結果は、優秀なる無量数的な先祖が、最初から予(あらかじ)め選別されその原因を有したということに他ならず、結果は既に予定されていたということになります。予定されるが故に、今の個は存在したのです。過酷な生存競争に打ち勝ちながら。

 歴史を見れば、その中には人間の欲望や野望は見隠れし、常に歴史は戦乱の中で明け暮れました。人類の歴史は戦争や爭いの歴史であり、それを動かした原動力は人間の持つ欲望でした。民族、王朝、国家、企業などは総べて「欲望の原理」のよって、目紛(めまぐる)しく動き、変化して来ました。そして、歴史の根底のあるものは支配階級と被支配階級がしのぎを削る、壮絶な鬩(せめ)ぎ合いでした。

 支配者は、自分の地位と権力を保持する為にその欲望を誰よりも熱く滾(たぎ)らせ、また一方、被支配者はその立場の逆転を狙って、支配者以上に執念を燃やしました。

 かくして、両者の間には、しのぎを削るような壮絶な死闘が繰り返されました。
 国家間、民族間の闘争は、それも人間の持つ欲望です。過去から近代における富の形成は、その欲望の為に支配領域の奪い合いとなり、富の形成は資源、食糧、貴金属、工業資源、エネルギー資源、労働力、領土等でした。

 支配者が潜在的欲望によって、既存の富で満足出来るうちは、それでも構いませんでしたが、満足できなくなると近隣の国家や民族を襲い、征服し、富を強奪する方法とし軍事力を駆使しました。これこそが政治折衝に寄らず、唯一つの安上がりの方法でした。

 古代から現代に至る為の数々の歴史は、全てが間接的直接的な戦争の歴史であり、こうした事は総(すべ)ての歴史書が雄弁に物語っています。
 特に、ユーラシア大陸における広大な支配競争は、想像を絶するものがありました。マケドニア、ペルシャ帝国、サラセン帝国、モンゴル帝国など、想像に絶する広大な領域が支配され、栄枯盛衰の自然の摂理を遡(さかのぼ)り、領土と富の強奪は繰り返されました。

 そうした中で、個としての生存競争は、極めて微少なもので、それでもこうして、非実在世界の中で「生存」していると言う現実は、よほど私たちの先祖の血統ならびに霊統が優秀でなければ生き残れなかったはずです。

 日本でも、十六世紀、戦国時代と言う国土が戦争一辺倒の時代がありました。下剋上という不幸現象が日常茶飯事に繰り返され、被支配者は支配者のその地位を逆転させる為に、画策し、奔走し、あるいは走狗となって闘争を繰り返しました。

 しかしこうした大戦乱の中にも、私たちの先祖の血とその運は、相当に優秀でなければ生き残れなかったはずです。ここに生存競争に打ち勝った先祖の運の強さを受け継いだ、「私たち」が、今ここに居るのです。