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●神と破壊指令を出す命令者とは同一人物か

 神もまた、あるいは破壊者でしょうか。
 予定説を研究していく限り、それは同一者であると裏付けられます。

 事実、ある者は金持の家に生まれ、ある者は貧乏人の家に生まれます。また、ある者は美人に生まれ、またある者は、醜女醜婦に生まれます。各々に、人間は能力も異なり、その身体的精神的特徴や許容量すら、人各々に区々(まちまち)です。これこそが《予定説》にある原点なのです。

 再び、神の言葉を繰り返せば、「ツボ造りは同じ土くれをもって、尊い事に用いる器と、卑しい事に用いる器を造る権利を持っている。その権利はお前らにあるのではなく、神である私にある」(「ローマ人への手紙」第九章20、21)である。

 これは決定されてしまっている以上、覆(くつが)えすことができません。先天的な宿命を、後天的な意志や行いにおいて絶対的に覆えすことができないものが予定説なのです。

 キリスト者信者の多くは「神が欲するところが正であり、神が欲せざることが不正である」と説きます。そして善悪一次元二元論でこれを解釈します。日本人の考えて来た日本教とは大いに違います。

 したがって多神教・八百万(やおよろず)の神など何処にも存在しないのです。ここが正月三箇日を書入れ時(帳簿の記入に忙しい時の意から、営業で最も利益のあがる時をいう)と考える神社仏閣の所業とは異なるところなのです。神の存在など迷信であるという暴言で片付けます。

 ところが、神を迷信としながらも、多くの宗教行事に参加します。年末近くのクリスマスイブ、年が明け手の神社仏閣への初詣。その他、墓参り、彼岸、命日、追善供養、おまけに高校や大学入試の合格祈願、合格すればお礼参り、結婚すれば家内安全、妊娠すれば安産祈願、子供が生まれれば出産祝、幼稚園に上がれば入園祝、小学校に入れば入学祝、人が死ねば葬儀に参加し、結婚ともなれば神前・仏前・教会結婚と様々、家を立てる予定地では地鎮祭、家が出来上がれば新築祝、親戚に誰かが高校や大学に合格すれば合格祝、会社に入れば入社祝、満期を勤め上げて退社知れば満期祝、悪人でも刑務所を出所すれば出所祝、死刑判決が決まれば教誨師(きょうかいし)に泣きついて仏教やその他の宗教に帰依して、せめて死して後は、ホトケになろうとして土壇場(どたんば)での最後の悪足掻きを露(あらわ)にします。

 この識別基準は、聖人以外の常人・凡夫から確立された理論であり、日本人が如何に神という存在を信用していないか、このことでよく分かります。そして日本人の無意識層には、無神論者を代表する「日本教」の痕跡(こんせき)が見て取れます。こうした日本人の国民性を分析するならば、ズバリ、中途半端な無神論者と言う事になります。

 つまり日本人にとって、如何なる宗教が存在しようとも、これは日本教を母体にして信仰する媒体であり、キリスト者といえども正確には「日本教キリスト者」であり、仏教徒に於いても「日本教仏教派」と称すべきが正しい見方であり、新興宗教を含めた多くが、その根本には「日本教」が取り入れられ、この意識を以て、日本人の宗教観が構築されているのです。

 この意味に於いて、内村はキリスト教に帰依(きえ)しようとしながら、結局は西洋で言うキリスト者にはなれず、正直なところ、キリスト教要素から大きく逸脱した思考の持ち主であったことが分かります。彼の根底に流れたものは日本教の無意識の教義であり、神が予定された「救われる者として、予め神に選別された者」には、多いに戸惑ったと言うのが正直な本音ではないでしょうか。

 聖書に記された大部分は、「預言」(よげん)の言葉で満ちています。預言とは神の言葉であり、一般に言う「予言」とは異なります。預言は人間の口から出る審神者(さにわ)的な言葉ではありません。神の言葉、そのものなのです。

 『旧約聖書物語』を著わした犬養道子は、その著書の中に、「エレミア(古代イスラエルの大預言者。ユダヤ王国末期の紀元前626〜586年頃)は、神の予定された万国の預言者となった」と記し、イスラエルの民にヤハウェの神への回心を説き、新しい契約を預言したと書いています。
 そして、旧約聖書エレミヤ書は、その生涯と預言の集成したものを紹介し、その中で特に印象的なのが「まことにヤハウェは押しつけがましい神であった」と繰り返しています。

 これによると、神はエレミアに命令を下したとあります。
 「妻を娶(めと)るな、息子も娘ももっては為(な)らぬ」(エレミアの書」第十六章1)

 「弔(とむらい)の宴に加わるな」(同書第十六章5)

 「ともに食べ飲もうとして宴会の家に入って腰掛けることもするな」(同書第十六章8)

 神はエレミアに生涯を通じて独身であることを命令します。また人の葬式にも出てはならぬことを命じます。村八分を余儀なくされ、エレミアは、ついに人との交わりを絶たれたのでした。

 一説によると、エレミアは元々温厚な人柄であり、柔和な性格の持ち主であったとも言われます。しかしこの後、人格が変わり、苦悩を湛えた悲劇の人となります。

 ところがエレミアは奮闘して、神の預言に従い、神の選ばれし使徒として、予定に従い「滅びと災いの預言」を民衆に触れて廻らなければなりませんでした。何という矛盾、何という悲劇でしょうか。
 預言者エレミアは、イスラエルのユダヤの王と民に、「今のような事(飽食と贅沢と色情の限りを繰り返す飽くなき生活)をしていると、神は災害と滅びを下したもう」と告げるのです。
 この縮図は、何処か今日の日本と酷似していないでしょうか。

 しかし、この事で彼はその反動と反作用で、当然の如く仕返しを受け、生命の危険すら感じるような状態に追い詰められていきます。それでも挫(くじ)けず、神の言葉を、預言を、人々に伝道して廻らなければならなかったのです。

 『エペソ書』に出てくる「エペソ人への手紙」並びに「エフェゾ人への手紙」の予定説は、宗教社会学者ウェーバー(Max Weber/ドイツの社会学者・経済学者)によれば、「神は公平であること事態を取り上げることこそ、神をこれほど冒涜(ぼうとく)し、涜神(とくしん)することはない」と言っています。
 神の為(な)す仕業に、公平も不公平もあるはずはなく、これを論(あげつら)うこと自体ナンセンスであると言っているのです。こうしたことは人間の範疇での規範に過ぎないのです。

 世界の宗教観から見て、神は絶対的に高い位置、高い次元の超存在であり、人間はその下に分布する低き存在であるということは、全人類が衆目の一致するところです。
 神の不公平を人間社会にの規範に合わせて、その法的解釈で追求したところで、善悪を決定するのは神自身であり、人間の口出す幕ではありません。神は天地と共に是非善悪ならびに正・不正をも創造しました。これは全く自由な創造であり、神の気紛(きまぐ)れ意識から生まれたとするのがキリスト教やユダヤ教、あるいは二元論宗教の一貫した哲理です。

 これ等の宗教的教義によると、是非善悪、また、正・不正は総(すべ)て神の思(おぼ)し召しであり、神が人間に与えた律法によって最初から決定されていると説いています。

 逆に言えば、この律法が無ければ是非善悪や正・不正は存在しなかったとも言えます。だが、これ等については「十戒」として『モーセ五書』に記され、人間界で起こる律法の原形をなしました。
 「淫姦をしてはならぬ」も、その代表的な一つであり、離婚者と交わっても淫姦と看做(みな)されました。

 神の下した決定は絶大なものです。これを覆えすことはできません。したがって生まれ落ちた以降の、人間に与えられたものは、単に努力や頑張りによって切り開かれるという単純な人生行路を渡り来るようなものではありませんでした。
 問題は、幾ら自力で漕(こ)ぎ出した船出でも、その方向と風向き次第では、転覆する恐れがあると言うものなのです。そこに「運」というものが働いています。



●運・不運も予定された心像化現象の裡側にある

 「運が八割」と言い切った著名な大企業家は、繰り返し、自分がラッキーだったことを回想しています。運という一文字が、人の前途を決定し、その人の人生に大きく関与しているということがこれによって窺(うかが)えます。
 そして破壊も建設も、神のみの知ることなのです。
 こうした絶対力を以て、人間に下す命令を、人間が後天的に覆えすことは最早困難であり、予定説を以て人間の生涯とするという結論に達するのです。

 これは「一切の出来事は予め決定されていて、なるようにしかならず、人間の努力もこれを変更し得ない」と見る、一般に囁(ささや)かれている運命説とは真っ向から対立します。

 哲学的に言うと、自然的諸現象および歴史的出来事、特に人間の意志は、自然法則・神・運命等によって必然的に規定されており、したがって意志の自由や歴史の形成を主張するのは、決定的原因を十分に知らない為とする立場とる決定論なのです。これこそが予定説の中心課題です。

 したがってこれを下したもう、決定者がいるとするならば、創造主のみであり、神ということになります。あるいは大自然と置き換えてもよいでしょう。
 この大自然は「無分別」であることによって万物を生成してきました。これは何人も覆すことができない事実です。この無分別によって大地震が起こり、あるいは天変地異が起こり、多くに人命を犠牲にして、大自然は生贄(いけにえ)を求めます。
 そしてその一方では、あらゆる恩恵を人類の頭上に授けます。

 天地創造の以前から大自然はその創造主として、無分別は決定され、無分別によってのみ、一方では淘汰を、そして、一方では進化を齎(もたら)したのです。これこそが人類の進化の過程で見る「目的論」(teleology)です。
 こうしたことを探究すると、目的論によって歴史の時代が下り、その範疇(はんちゅう)に《予定説》が鎮座(ちんざ)している実態が分かります。

 では非実在界における《予定説》の根拠は何でしょうか。またのそ非実在界における《予定説》を支えている事物や事象は何なのでしょうか。
 現世を非実在界と呼ぶのですから、これは「幻の世」であり「夢の世」であるはずです。こうした非実在界に起こる現象の実態は何でしょうか。

 現象世界の事物や事象は、想念によって起こります。つまり心像化現象です。
 心像化現象とは、心に描いたものは必ず現実化すると言う、非実在世界の掟(おきて)です。したがって現世で起こっている事の総ては、想念作り出したものと言えます。

 悪しき想念を抱けば悪しき世の中が。愛の想念で満たされれば、平和で穩やかで愛に満ちた世の中が。
 しかし、現代社会は悪しき想念で満たされている為、様々な不幸現象が起こっています。そしてこの想念すら、人類総合の想念によって導かれた非実在世界の現実なのです。

 不況、倒産、一家心中、破綻、交通事故、大型台風、天変地異、家庭不和、離婚、不倫、争うごと、戦争や内戦、様々な暴力等の総べては、人類の持つ悪しき想念が作り出したものです。これは単に、心像化現象の具現されたものに過ぎず、こうした様々な不幸現象は、人類自身が改めない限り、いつまでも人類に頭上に降り注ぎ続けるのです。