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●予定説とは何か

 神は、人間の規範(きはん)や倫理や道徳に左右されないという意志決定を下します。また、これに左右されるということであれば、神を冒涜(ぼうとく)したことになります。これが《予定説》の総てです。

 更に、神は「選別」し、「予めそれを定めておいた」とする、この定義こそが《予定説》です。
 したがって、当人の現世での悪行や善行は問題にされず、修行の度合、悟りの高低、能力の有無、才能の有無、人格や人柄、正直の有無、地位や名誉など……、一切選別の対象とされません。端(はな)から問題にされないのです。

 結論から言うと、例えば、戦争が起こり、その戦時下において善人が生き残り、悪人が死に絶えるということはあり得ないということです。つまり、因果応報の因果律によって、ある肉体だけが生き残り、ある肉体が死に絶えるということは、絶対にあり得ないというようなものです。

 更には、飛行機事故において旅客機が墜落した場合、その中に奇(く)しくも一命を取り止めた人が、何人か居たとしましょう。その生き残った何人かは、果たして善行を積んだ善人だけなのでしょうか。否、そういう選別区分によって、生き残る人間が選ばれている分けではありません。
 ここには人知の範囲では理解できない、神の力が働いているのです。あるいはこの力を、創造主のご意志と置き換えてもいいでしょう。

 神は人間の規範(Norm/判断や評価または行為等の拠るべき基準)では計れない存在であると、キリスト教やユダヤ教はこれを繰り返し明言しています。
 かかるパウロの「ローマ人への手紙」は、人間に向かって問い糺(ただ)します。

 「人間よ。神に向かって口答えするお前は何者か。造られた者が、造った者に対して何事か」と。
 人間はこれに向かって、更に応えるます。

 「どうしてあなたは、このような人間をお造りになったのですか」と。
 これに応えて神は曰(いわ)く、
 「ツボ造りは同じ土くれ(陶芸品の素材)をもって、尊い事に用いる器と、卑しい事に用いる器を造る権利を持っている。その権利はお前らにあるのではなく、神である私にある」(「ローマ人への手紙」第九章20、21)

 救済される人と、されない人の生存する明暗の選別の権利は、神の手のみに委(ゆだ)ねられ、全ては予定説の宣言の中に組み込まれていると言うのです。
 では、この予定説の宣言は何時行われたのでしょうか?
 それは「天地創造」の前です。

 天地開闢(てんちかいびゃく)の期に当たり、天地創造をするとき、既に、この時に予定され、その後の「定め」としているのです。
 キリスト教的教義の言葉を使って、これを換言すれば、この「定め」は、神の無条件かつ無差別の意志から起こる、自由な恩恵と、無作為から選別された慈悲的愛によって、予め選別が為(な)され、それは既に決定されていたという事を言っているのです。

 こうした事実を運命学者達は「宿命」と題するのです。
 悪行を働くから、神が篩(ふるい)に掛けて選別しないのではありません。神が予定しない人であるから、悪行を働くのであると、キリスト教やユダヤ教は、予定説の定義をこのように説いているのです。
 したがって、如何に善行を働こうとも、それは神の眼から見れば「取って付けたような行い」にしか映らず、また、如何に悪行の限りを尽くそうとも、これ等の因果関係は、その選別において、全く関知されないということなのです。

 この予定説の選別過程は、結果と原因が逆になっており、注意深く解釈して行かなければなりません。
 一般の宗教で言う因果関係は、予定説では「逆因果関係」になっており、結果から原因が導き出されていることに注目しなければなりません。
 したがって、欧米人流の思考から、キリスト者の予定された逆因果関係を辿れば、この予定説は潜在脳の中に眠っていて、「予定は、必ず実行される」という構造で、今は封印されているのです。

 そしてこれを解明するのは、あるいは予定説の実行されるのに歯止めを掛けることは、人知では不可能であり、如何ともし難い、と同宗教では結論づけています。

 かの有名な宗教社会学者ウェーバー(Max Weber/ドイツの社会学者・経済学者。1864〜1920)よれば、「宗教的な救いの感情は、総てが一つの客観的な力に働くものであって、いささかも自己の価値ではない、という確固とした感情に直結されて現われる」と、その著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には記されています。

 ウェーバーは、リッケルトらの影響を受け、経済行為や宗教現象の社会学的理論の分野を開拓し、「理念型論」を提唱して、社会学においては大きな影響を与えた第一人者です。
 また、政治については、心情倫理と区別された責任倫理を説き、これ等を説いた著書『経済と社会』『職業としての学問』『職業としての政治』等は後世の社会学者の重要な参考書となりまた。

 さて、「救いの観念」から論ずると、「救われている」という感情は、「当人の努力や善行とは何ら関係無く、突如として現われてくるもの」とするのが神学者の一致した考え方です。
 これこそがキリスト教で述べられている、恐るべき選民を選別する予定説なのです。

 多くの日本人は、イエス・キリストが十字架上の死によって、全人類を神に対する罪の状態から購(あがな)ったと信じ込まされています。これこそが根本的教義であると宣伝され、これを心底(しんそこ)鵜呑みにしている人は少なくありません。

 しかしキリスト教思想を研究し、これ等の事柄を丹念に一つ一つ解きほぐして行くと、実はそうではないことが分かります。
 イエス・キリストの真意は、「全人類を神に対する罪の状態から購った」という、こうしたところには存在してないのです。

 神が人類に向けてイエスを地上に遣(つか)わしめた、唯一つの理由は、「予め選ばれた、そして天地創造の前に予定された者のみの罪を購う」ことだったのです。

 予め予定された、選ばれし者を救済するという個人選別思想は、これまで述べたパウロの「ローマ人への手紙」の中で明白になっています。
 「ローマ人への手紙」の書き出しは、「使徒として召され、神の福音を告げるために選び分けられた、イエス・キリストの奴隷より」と記され、パウロが自らの意志決定によって使徒になったのではないと明言しているのです。パウロは志願して、神の許可を頂きたもうたものでもなかったのです。ここがモーセのヤハウェ(Yahweh/イスラエル人が崇拝した神で、万物の創造主で、宇宙の統治者。エホバとも)の神の奴隷になった点と酷似します。神の強引な押し付けによって、パウロは仕方なくその僕(しもべ)となります。

 こうした選別は、一方的に行われ、予定された預言者は、これを拒むことができなかったのです。キリスト教においては、その教徒になるのは、神がキリスト教徒として選んだからであり、自らの意志と信念で、その信仰に入ったのではないとしているのです。これが日本人が、ある宗教に入信する時の、心境と全く違っているのです。

 日本人が宗教に帰依(きえ)する時は、神・仏(かみほとけ)等の卓(す)ぐれた指導者に服従し、縋(すが)る事を意味し、帰投依伏(きとういふく)という言葉で現される「破邪」(はじゃ/誤った見解を打ち破ること)によるものです。
 しかしキリスト教やユダヤ教は、強引に聖徒(神の僕)になることを押し付けてくるのです。それは神が予め、定めたと言う理由からです。

 明治の偉大なクリスチャンであった内村鑑三(教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。1861〜1930)は予定説を素直に認め、「私は神の摂理に余儀なくされて、無理やりにキリスト教信者となさしめらてた者であります」と告白しています。
 そして内村は、人の救われるのは「業績にあらず、神のご意志にあり」と言い退けたのです。

 人が選ばれ、選ばれるべくして選ばれる予定説は、根本的には「神のご意志」であり、生かすも殺すも神次第なのです。
 裏を返せば「救い」というのは、その人の道徳観念や倫理性とは一切無関係ないといっているのです。これこそが予定説の特徴なのです。そして予定説は、結果が先で原因が後に来ます。
 この点は、日本人の宗教観からは到底理解できない次元にあると言えましょう。

 日本人の宗教観は、因果応報による因果律(一切のものは原因があって生起し、原因がなくては何ものも生じないという法則)であり、このカルマ(karman/業と言い、行為が未来の苦楽の結果を導く働き)の理によってのみ、理解できる範疇(はんちゅう)にあり、日本教の宗教観は、その部分にのみ凝固した集積を見ることができます。

 つまり、日本人の持つ独特の因果応報は、仏教の輪廻転生に由来し、善い行いをしたら極楽へ、悪い行いをしたら地獄へという構図から作り出されたものであるからです。
 特に、こうした想念を植え付けたのは法然(ほうねん/浄土宗の開祖。1133〜1212)や、法然の弟子・真鸞(しんらん/鎌倉初期の僧で、浄土真宗の開祖。1173〜1262)が説いた念仏浄土教であり、念仏宗にはこの想念を以て、死後は極楽浄土に到達できるという「俗諦」(ぞくてい/方便)を作り出したのです。しかし問題点はここにあります。

 定めらし「宿命」(予定)を念仏宗は否定しているからです。
 念仏宗は一心に「南無阿弥陀仏」を唱えれば、宿命等に関係なく、誰でも極楽浄土に辿り着く事が出来るとしているのです。しかしこれは「真諦」(しんてい/本当の教え)でない為、結局、法然も真鸞も、極楽浄土に行き着く事は出来ず、地獄でのたうち回っているというのが、実情ではないでしょうか。



●予定の否定が地獄を齎す

 現世は「可視現象」に魅入られている為、表皮の部分のみしか眼が行き届きません。手に触れられ、匂いがあり、味があり、耳に聞こえ、眼で見えるものだけを真理とする、形にこだわる表皮現象が存在しています。そして死を以て生の終とするから、人生一切に迷いが生じ、苦しみが生じ、悩みが生じるのです。
 しかし死は、実は生の終焉(しゅうえん)ではありません。

 人間並びにその他の生物が生きているという事は、形を「形作る」ということであり、成長し、変化し、老化し、病に冒され、死すという現世特有の、現象世界に時空を制約された肉体を「形作っている」からです。

 ところが、こうした顕在(げんざい)意識の現われに対して、隠れた「幽(ゆう)なる世界」があり、これは無形であり、常住であり、不変なる実在界があって、そこには永遠なる生が存在すると言う事を多くの人が知りません。

 したがって、この存在に気付く人は稀(まれ)です。大半は、形にのみに囚(とら)われ、色を見、臭いを嗅ぐ可視現象のみを、この宇宙の本質と誤解しています。
 だから生の本質が分かりません。したがって死の本質が見えないのです。

 また、死の本質が見えないから、形あるもののみを本物と捉え、それに魅せられ、その匂いを嗅いで、その味覚を味合い、その触覚でその形に満喫する思考に趨(はし)ります。だからその表裏一体となった、生の背後に存在する「無」に立脚した「有」を知らず、「空」に即した「色」を知らないのです。

 ために、「知らない恐ろしさ」から、時として傍若無人になり、あるいは短見になって、近視眼的に物事を捉え、浅はかな思慮から迷い、焦り、悩み、苦しんで、その果てに現実逃避を企て、死生観を解決しないまま、生に執着し、死の克服をせず、何処かの病院の固いベットの上で息を引き取り、無慙(むざん)に死んで行きます。
 また一方で、生きている時はどんなに苦しんでも、一度死ねば「極楽浄土」という、妄想を抱いた人がいます。

 特に、これは浄土教・念仏宗を信仰する人達に多く見られ、平安末期、西方浄土往生の思想が盛んになると、「南無阿弥陀仏」を唱えて、安上がりの念仏に入れ揚げるようになります。そして念仏だけで阿弥陀の西方、極楽浄土に行けると錯覚が起こるのです。

 しかしです。生きて居る間に楽を得ずして、果たして死して、楽を得る事が出来るでしょうか。
 概ね、自殺者の描く妄想はこうしたところにあり、錯覚状態の描写こそ、浄土教・念仏宗に見て取ることができるのです。
 努力せず、怠慢(たいまん)の限りを尽くして、これを不運と言い、あるいは不幸と言い、未だ生を得ぬ者が、果たして死して真当(ほんとう)の死を得る事が出来るでしょうか。

 更には、「死ぬ時にせめて大往生を」と願う人がいます。
 これは年中貧乏しながら、せめて大晦日(おおみそか)と正月三が日だけは贅沢(ぜいたく)して、俄(にわか)金持ちになりたいと願うようなものであり、また、一年中病床に臥(ふ)せている人が、せめて元旦だけは清々しい健康体であるというふうに願うものであり、肝心な「日々精進」の心を忘れた姿です。

 毎日の日々を蔑(ないがし)ろにして、その日一日だけという「先延ばしの考え方」で、どうして「最期の死の場面」が、荘厳(そうごん)になるでしょうか。

 浄土教・念仏宗が当時の人々に「潤いを与え、救った」とされる言い伝えは、あくまで「俗諦」の域を出ないものです。それをやった結果、「真諦」という、仏教で最も大切な秘宝を民衆に伝えることが出来なかったのです。

 俗諦とは輪廻の輪であり、六道輪廻(りくどうりんね)ですから、何処まで行っても地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道をグルグル廻り、ここから一歩も出られないのです。この六道から一歩も出られなければ、これこそが無間(むげん)地獄なのです。

 実に、日蓮(鎌倉時代の僧で、日蓮宗の開祖。仏法の真髄を法華経に見出す。著に『立正安国論』が有名。1222〜1282)の念仏宗に対するスッパ抜きは、ここにあったのです。
 そう言う意味で、念仏を説いた法然も真鸞も無間地獄に行ったことになります。