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●心像化現象を増幅させる霊的法則

 悪に対して、憎む心を人々が増幅させて行ったら、世の中は一体どうなるのでしょうか。
 同類項は共通性を持つばかりでなく、この特殊な文字からなる二つ以上の共通項目は、喩(たと)えば数学的に例えるならば、代数式の如き、数式に於ては係数の異なる同士でも、他の因数が各々に等しい指数を持ちますから、それが同じ仲間として計算できる為、同類意識が生じます。
 つまり「同じ」と言う、悪想念の同類意識であり、数学的には「共通性を持つ」と言うことです。

 これは社会構造の中にも当て嵌(は)めて、応用する事が出来ます。
 社会には、他の人々が自己と同類であると、グループごとに認める意識であり、社会全体がこれに染まる可能性が現れて来ます。
 こうした社会現象を、アメリカの社会学者ギディングズ(Franklin Henry Giddings/著書に『社会学原理』『人間社会の科学的研究』等がある。1855〜1931)は、これを社会の「本質的要素」としたのです。これは、性質や様子が、そのものに本来備わっている事を意味し、社会結合の基礎を、同類意識およびそれに伴う行動に求めた場合、世の中は悪想念で覆(おお)われるという事を意味しています。

 ところが、悪のはびこる中で、善を以て対処すれば、それ以上の悪化は避けられる上に、相反作用によって悪は孤立する結果となり、次第に沈静化に向かいます。

 これは、善悪が同根であると言う事を現しています。同根である以上、可視世界の非実在界は眼の前に見える相手の悪い姿は、本来はこれが実像ではなく、あくまで虚像に過ぎないのです。したがって虚想である以上、その実像は善であり、善に覆われた、もう一人の相手を設定する事で、二つの人物を二重写しにして考えると、果たして虚像の非実像が果たして真物(ほんもの)であるかどうか、疑わしくなって来ます。

 今日の刑法は、その実力として、悪い姿の人物のみに加えているのであれば文句ないのですが、実は良い姿の方の人物にも実力行使し、無慙(むざん)に葬り去っているところがあります。恐らく憎悪がこうした実力行使に趨(はし)らせ、「目には目を、歯には歯を」で、同害報復の刑罰で事件や事故に適応しているのです。しかし、これでは悪の増幅作用を掻き立てるばかりで、鎮静化の方向には向かいません。

 善は悪と一心同体である為、その意識体は、もともと同じものなのです。万物は意識の現れであり、万物は一体であると言う事が分かってくるはずです。
 意識体が同一であると言う事は、次の図からも窺(うかが)うことが出来ます。  

三次元世界から見る万物の意識体は、総べて同一である。

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 二次元平面に現れている二点のA・B各々は、二次元平面で見ている以上、別々のものであるという錯覚を抱きます。

 ところが、二次元平面を三次元立体で見ると、これは一体である事が分かります。二次元平面において、A点とB点は各々異なったものと見えていたものが、三次元立体で見ると、この両者は、実は同一体であったのです。
 この同一体は、「意識体のドーナツ」で一体化されており、二次元平面の上下を一つの意識体で繋がっているものだったのです。このようにして次元を高くする事で、今まで実像と想っていたものが、実は実像などではなく、幻覚の虚像であった事が分かります。

 こうして次々に次元を高めますと、可視世界で見えていたものが、実は霊的な不可視世界から見ると、私たちが三次元顕界(げんかい)で認識できるものは、非実在世界のものであると言う事が、お解り頂けると思います。

 私たちが存在する現世と言う世界は、可視世界の三次元顕界(げんかい)を言うのですが、三次元限界の現時点の認識では、あくまで三次元可視世界の非実在界を見ている事になります。そこで見て、聞いて、味わって、臭って、触れるものはあくまで五官を中心とする五つの意識に止まりますが、五つの意識で観(かん)じるものは、人間は個別に存在していて、各々の保有する意識は別々のものであり、お互いが関係のないように映ります。
 しかし、これが三次元顕界だけで見るからそうであって、四次元以降の高次元世界では、全ての物は一つになって見えるのです。



●淘汰の時代到来

 幸せと不幸との選別は、「淘汰」によって起こります。
 二十一世紀の開幕は、まさに淘汰によって開幕を迎えました。
 平成初期に起こったバブル経済崩壊は、多くの日本人を未曾有(みぞう)の不況に巻き込み、今日に至っても回復の兆(きざ)しは見当たりません。

 そして、時代は「淘汰」の名を以て、神の予定した救われる人とそうでない人を選別し、それが明かされようとしています。
 その裏付けを示すものがこれです。
 「また予定された人々を召し出し、召し出した人々を義人とし、義とした人々に栄光を与えられた」(ローマ人の手紙」第八章30)

 神が預言(よげん)した経典の言葉は絶対です。宗教とは、この預言の言葉であり、預言の言葉から経典は出発しています。
 この事実は、キリスト教独特の、恐るべき結論に達した現実から起こったものでしょう。
 これに比較すると、ユダヤ教もイスラム教も、律法を守ることは、人間の力を以てしても不可能ではないとしています。それ故に、後世においても「律法」(神の定めし命令。あるいはモーセの「十戒」)という法律学が発達したともいえます。

 しかし、人間界における法律学は、人間界独自の範疇(はんちゅう)に収まるもので、人間界を超越した異次元の高次元世界では、こうした法律学は一切適用されません。
 何故ならば、キリスト教の教義は法律学ではないからです。

 聖書に詳しい読者なら直ぐに『新約聖書』を挙げる人がいるかも知れません。
 確かに『新約聖書』は「契約」を更改したものですが、これに記された新契約はゼロに等しい白紙の証文でした。
 それは『新約聖書』が『旧約聖書』と違って、一つの命令も書かれていないからです。神の預言すらもないのです。宗教とは、命令と預言によってその教義が書かれているものなのです。

 日本人キリスト者の中には、この事すら知らない、自称「敬虔なクリスチャン」という、クリスマスの為の輩(やから)がいます。日本人のキリスト者は、こうした教会儀式の情緒に浸って、洗礼を受けるという人も少なくないようです。この情緒感覚から起こる愚行の一つとして、教会での結婚式があります。

 日本人の多くは教会で結婚するという、この「契約の儀式」の実態を知らないのです。だからこそ無知な、若い新郎新婦は、丘の上の白い教会の憧(あこが)れを、欧米風の田園風景の結婚式で象徴しようとします。全く愚かなことです。

 キリスト教における結婚は、離婚をしない事を夫婦間が契約を結ぶのではなく、神を介在して、新郎が神と、新婦が神と、各々に契約を結ぶのであって、ここを誤解している無知な若者は多いようです。情緒から教会での結婚式を選択する若者は依然と後を絶たず、教会へと教会へと結婚式に詰めかけます。こうした無知の蔓延(まんえん)からも、日本の破局は昏(くら)い暗示を投げかけています。

 さて、性悪説を主体とするキリスト教を追って行くと、イエス・キリストが死に絶えた以降の、キリスト教思想の中には人間の罪も、不義も、不正も、姦淫も、それ等を総称した全てを、何一つ指摘していないことになります。

 これは現在の法律学に当て填(は)めて考えると、罪刑法定主義下で、白紙の経典が犯罪を犯した何人も罰する事ができないという実情に酷似します。まさにキリスト教は『新約聖書』において、こうした形体が生まれたのです。

 キリスト教において、教会は神聖な場所であると定義されています。政治的には、治外法権が存在する場所であるからです。故に、この神聖な場所は、何人といえども侵すことは出来ないとされています。一般にはそう信じられています。

 だからこそ、如何なる犯罪者であっても、あるいは重ね重ね幾重に罪を犯した極悪人でも、一度ここに逃げ込めば、そこに居る聖職者は命を張って悪人を保護し、隔離する立場に回ります。
 これは今日のキリスト教自体が、現世には「正善」もなければ「不正」もない、ということを率直に認めた論理なのです。
 したがってキリスト教は、再び予定説に回帰されるのです。