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●「人間は災いなり」の事実を謙虚に受け止めよう 冒頭で示したように、人間という生き物は「災い」を包含して生まれてきました。 繰り返すが、パウロの黙示録には、 人間は災いなり、 罪人は災いなり、 なぜ、彼等は生まれてきたのか。 とあります。 この言葉を謙虚に受け止め、何度繰り返して心に留め置くべきです。 さてそこで、この言葉の出処(でどころ)の究明をする為に、災いの根源である「人間である」という事と、人間は同時に「罪人である」という二面性を追求しなければなりません。これを明確に追求せずに、幸せに向けての第一歩は踏み出せないのです。 パウロは、「ローマ人への手紙」(ローマ人で、キリスト教徒総ての人に宛てた手紙)の中で、自分の見てきた事実を繰り返します。善人(義人)が一人もいない事を繰り返します。 人間は罪人である。これは総ての人間に当て嵌(はま)り、一人も例外のないことを……、目(ま)のあたりにするのです。 パウロは、キリスト教の代表的な使徒でした。その隷属度は、ユダヤ教における「モーセの如し」でした。 これを日本流に表現するならば、寺院の開基(かいき)住職であり、元祖開山であり、それ故、キリスト者にとっては、キリスト教の根本教義である「ローマ人への手紙」は重要な鍵を握ることになります。 キリスト教の定めた、東洋思想に対峙(たいじ)する西洋思想あるいは西南アジア思想は、人間の性(さが)を「性悪説」に求めます。これは東洋思想の「性善説」と対象的です。 キリスト教では、人間は生まれながらにして「悪」であり、悪であるからこそ、それを教育して、善に導かなければならないとしています。キリスト教には、こうした教育的な思想が根底に流れ、かかるキリスト教の人間観は、「人間を災いの種」と見ていることです。 これについては、如何に敬虔(けいけん)なクリスチャンと雖(いえど)も、その存在事態に異論を挟む余地はないのです。 パウロは言います。 「義人は居(い)ない、一人も居ない。悟る者が居ない、神の求める者が居ない。みな道に迷って、みな腐れ果てた。善を行う者は居ない、一人も居ない」(「ローマ人への手紙」第三章10〜12) この件(くだり)は「善人なし、一人だになし、善をなす者なし、一人だになし」という書き出しで有名です。 ではパウロに、何故、ここまで激しい口調で言わしめたのでしょうか。 パウロは、ファリサイ人が淫姦(いんかん)の現行犯として逮捕された女の罪を、イエスが如何にして裁いたかを知っていたからです。 ユダヤ教のラビ律法学者とファリサイ人達は、姦淫を犯した女をイエスの前に引き立ててこう言いました。 「師よ、この女は姦通(かんつう)の最中に捕まった罪人ですよ。モーセはこういう女を石投げの刑で殺せと律法で命じていますが、あなたはどう思いますか」(「ヨハネによる福音書」第八章4、5) これはイエスをジレンマに陥れる為の、ファリサイ人達の策略が含まれていました。 イエスは身を屈(かが)めて、指先で地面に字を書き続けています。ファリサイ人達は再びイエスに問います。これに応えてイエスは曰く、「あなた達の中で罪の無い人が、まず、この女に石を投げよ」(「ヨハネによる福音書」第八章7) イエスはそう言い残すと、再び地面に字を書き始めました。これを聞いた人々は、一体どうしたのでしょうか。 良心に責めを受けた人は、我に自問し、躊躇(ちゅうちょ)を始めます。 「老人をはじめ、若者までが一人去り、また一人と去って行き、イエスと中に立てる女だけが残った」(「ヨハネによる福音書」第八章9)
ユダヤ教において、当時の死刑執行は、石打ちによって行われていました。当時は役人が刑を執行するのではなく、民衆が自主的に執行するのです。この時代の裁判は、民衆参加の陪審制で、死刑執行においても民衆が参加するのです。 ユダヤ教やイスラム教において、民衆は死刑執行に際し、喜んで参加します。これは死刑執行が一種の民衆の娯楽になっていたからです。 この時も姦通罪で、一人の女が石打ちの刑で死刑判決が下ったところだったのです。 イエスはファリサイ人に、この女に石を投げる資格があるかどうか問うたのです。そしてイエスの審判措置は「罪無き者に限って、刑の執行ができる」としたのです。これは今までにない新判決でした。 この新判決は、人間の持つ内在的な裡側(うらがわ)にある罪悪感を指摘し、それを内在するか、否かを鋭く迫ったのでした。 人間は表皮の生き物です。表皮の部分の「行い」だけを問題にして、その裡側の行いを秘密にします。そこに人間の災いたる、災いの所以(ゆえん)があるとイエスは指摘するのです。問題は、不幸現象の総ては、ここに由来すると言っているのです。イエスの新判決は、『旧約聖書』を律法と解した場合、一切の法的条令一切変える事なく、判決の判例として、これを見事に手玉にとったと言えるほどの画期的なものであり、以後、キリスト教が世界宗教となっていく足掛りを築いていくことになります。 この判例は、「己が心を省みて、為さざりし者」という意味であり、律法によって裁く外側の罪よりも、神によって裁かれる内在的な罪の方が重要かつ重大であるとイエスは指摘したのです。 「総て色情を懐きて女を見る者は、既に心の裡に姦淫したるなり」(「マタイ伝」第五章) これは強烈な言葉です。 そして、パウロの命題はここに証明され、この世の中には、誰一人罪を犯さぬ者は居ないと言うことが明白になったのでした。 これは主イエス・キリストが奴隷聖人パウロに与え給うた指針であったのです。 パウロの「ローマ人への手紙」は、この大命題を見事に解き了(お)え、「善人なし、一人だになし、善をなす者なし、一人だになし」という結論を向かえて、「人間は災いなり」という一節が完結するのです。 ●では、義人は一人も居ないのか 人間は総て罪人であるとする、性悪説で始まるキリスト教思想は、もし、生きて居る間の行為によって、その罪深さを改心し、救われるとするならば、救われる人間は、一人も居ないという結論に辿り着く分けですが、では、義人は本当に一人も居ないのかということになります。 果たして、一人も居ないのでしょうか。 否、居る。ではそれは誰か?! それは神が予(あらかじ)め予定した人です。 キリスト教の教義の結論は、神が予め予定した人だけを救済し、「善き事をさなしめたもう」としているのです。 「ローマ人への手紙」の大詰めは、ここが最大の山場であり、予定説(predestination)のよって予め選ばれし者となり、ここにはそうでないものと選別されるとはっきり明記されているのです。これは「予定調和説」とも言われます。 そして、選別される手段は「淘汰」です。 淘汰の定義は、選ばれた者だけが生き残り、そうでない者は死に絶えるとあります。 キリスト教の定義するところ、生き残ったものが善人となるのです。 したがって、悪人は死に絶えるとあります。 但しこれは、人間の範疇(はんちゅう)で善人と悪人を決めるのではなく、神が決めるのです。したがって神から見ると、生き残った者だけが善人であり、死に絶えた者は悪人となる訳です。この選ばれし者は、人知を超えた高次元の掟であり、人間が判断し、人間が下(くだ)すことではないからです。 |